ロバート・エガース監督、アニャ・テイラー=ジョイ、ラルフ・アイネソン、ケイト・ディッキー、ハーヴェイ・スクリムショウ、エリー・グレインジャー、ルーカス・ドーソン出演の『ウィッチ』。2015年作品。

 

1630年、ニューイングランド。ウィリアムは信仰上の見解の相違から教会と袂を分かち、森の近くの荒地に一家で住むことになったが、長女のトマシンが一瞬目を離した隙に赤ん坊のサムの姿が見えなくなる。母親のキャサリンは悲しみに暮れ、トマシンにつらく当たる。やがて長男のケイレブに異変が起こる。

 

TwitterのTLで褒めてるツイートがいっぱいあったので、公開前から気になっていました。

 

主演は今年公開されたM・ナイト・シャマラン監督の『スプリット』に出演していたアニャ・テイラー=ジョイで、シャマラン監督は2015年のこの『ウィッチ』を観て自作のヒロイン役に彼女を抜擢したんだとか。

 

 

『スプリット』での彼女の演技は確かにとても印象的だったから、さすがシャマランって感じですね。こういう低予算の小さな規模の映画もチェックしてるのね。根っからのホラー映画好きってことかな?

 

僕はめったにホラー映画は観ないんですが、「魔女」についての映画で史実や伝承などを基に歴史考証的にもかなり忠実に作っている、ということだったのでそのあたりに大いに興味をそそられて。

 

 

 

以前NHKの「幻解!超常ファイル」でセイラムの魔女裁判について特集していたのを観たのを思い出して、僕は“魔女”そのものよりもデマとか狂信、集団ヒステリーなどの心理的な観点からそういう題材に興味があるので、この『ウィッチ』の考証の正確さ、というのにちょっとピンときたもんですから。

 

それで、とても小さな単館系の映画館で一日に夜1回のみの上映だったので、万事時間を繰り合わせて鑑賞。

 

以下、ネタバレがありますから未見のかたはご注意を。

 

 

…う~ん、と。

 

困ったな。どう感想を述べればいいのかわからない^_^;

 

まるでサングラスをかけて映画を観ているように画面は日中の場面でも常に薄暗くて、とにかく観づらい。

 

眼鏡かけてるのに目を凝らさないといけなかった。

 

おそらく照明なども極力少なくして当時のように電灯のない生活を再現した、ということなんだろうけど、晴れて太陽も出ているのにもうほんとに空がドンヨリしてすべてが灰色がかっていて、その状態が全篇にわたって続くので93分の映画なのに気が滅入ってきてしまった。

 

 

 

 

予算があまりかけられていないだろうことは、舞台となるのが森や荒地の一軒家とその周辺のみということからも見て取れるし、派手なVFXとか血しぶきシーンがあるわけでもない。

 

正直なところ、この映画がなぜこんなに評判がいいのか僕にはわからなかった。

 

いや、17世紀のアメリカの田舎の人々の暮らしがリアルに描かれていてそのあたりは興味深かったんだけど、要するにどういう話かというと、キリスト教徒の一家が一人、また一人と姿を消していって、やがて家族が崩壊するという救いも何もない、そして特にヒネリもない内容でした。

 

赤ちゃんが行方不明になる冒頭に続き、その後、長男が森で魔女に会っておかしくなって帰還、床に臥して神を讃えながら絶命する。双子の姉弟の様子もおかしい。

 

 

 

 

これは長女が魔女だからではないか、と疑心暗鬼になった両親も、父親は黒ヤギに角で突かれて死亡、それを見て半狂乱になった母親は長女に襲いかかりその首を絞めるが刃物で刺されて死ぬ。

 

これはすべて妄想による集団ヒステリーだったのだろうか、と思ったら、最後に長女は森の中で全裸になって踊る魔女たちを見つけ、自分もその中に加わって宙に浮いていく。

 

おしまい。

 

…だからなんだよっ!!!と俺が監督の首を思いっきり絞めてやりたいのだが。

 

残されていた当時の記録を基にして描いたんだそうで。

 

僕は劇場パンフレットを買ってないので詳しいことは知りませんが、でも「いないいない、ばぁ」とほんの1、2秒顔を隠した瞬間に赤ちゃんがいなくなるなんてことは現実にはありえないし、じゃあ、最後に長女のトマシンが魔女になる場面ってのは誰が見ていたの?本人が書き残したのか?

 

いずれにしても、記録に残ってるからってそれが正しいとは限らないでしょ。

 

たとえば、先ほどの「セイラムの魔女裁判」のように、それは魔女と疑われた者の供述を書き留めたものなのかもしれないんだし。そしたらムリヤリ拷問されて捏造された可能性の方が高いじゃないか。

 

だから、この映画で描かれたことがいかに記録に忠実だろうと、だからといってそれが現実に起こったことだという証拠にはならない。

 

それよりも、父親から魔女扱いされて問い詰められたトマシンがその父親の無能さを指摘する場面のように、これは男性性、あるいは父権というものについて描いた映画じゃないだろうか。

 

 

 

この映画での父であり夫であるウィリアムは、トマシンの言うとおり役立たずの無能者だ。

 

後先考えずに啖呵を切って村を出てきたにもかかわらず、ろくに作物を育てられず、銃で獲物を仕留めることもできない。妻の持ってきた銀食器を売ってそれで飢えをしのいでいたが、その金も尽きて一家は路頭に迷う。

 

そのくせ妻や子どもたちには偉そうに家長ヅラしている。

 

これはそんな愚かな男、夫や父親になる能力も資格もない男が家族を全滅に追い込む話だ。

 

そしてあろうことか、彼はそれを娘のせいにした。娘が悪魔と契約した魔女だから、我々家族が災難に遭うのだ、と。

 

昔から「子取り」、つまり子どもが行方不明になった理由が実は親が自らの手で我が子を殺める「間引き」のことであったように、昔話とか伝説の中での不可思議な出来事というのは、現実の世界では人間が起こした仕業を神や魔物のせいにしてやり過ごす手段でもあった。

 

だから赤ちゃんが行方不明になった、というのも、本当は口減らしのために殺すか飢餓によって死なせてしまったのかもしれない。

 

それを魔女のせいにしたのだ。

 

この「一家の大黒柱」になり損ねた男の話には、ちょっと前にインターネットで炎上した牛乳石鹸のWEB動画のことを思い出しました。

 

背中で語る昭和の男、みたいな昔の父親像と今の自分とを比べて、幼い息子の誕生日に家に連絡も入れずに部下と呑みに行って妻に叱られた男が風呂に入って「さ、洗い流そ。」とテロップが入るという、いろいろ勘違いしたCMで、僕はこれが批判されたのは当然だと思うんですが、「これのどこに問題があるのかわからない」と言ってる芸能人がいて呆れてしまった。

 

この牛乳石鹸のCMの最大の問題点は、この夫がまるで彼一人で家族を養い支えて頑張っているかのように描かれていることだ。妻や子どもの視点が完全に抜け落ちていて、本人は自分だけが悩んでいると思っている。そのことに対してCMは何一つ反省をうながしていない。だから大勢の人々に「気持ち悪いCM」だと叩かれたのだ。

 

それはともかく、「男らしさ」とか「夫らしさ」「父親らしさ」というものに囚われた男の姿が描かれていたということでは、このCMと『ウィッチ』には共通するものがある。

 

『ウィッチ』のウィリアムが自分の不甲斐なさを自覚して教会とうまく付き合い村で居場所を確保していたら、あのような惨劇は起こらなかった。

 

赤ん坊がいなくなった時点で村に戻っていたら、ケイレブは死なずに済んだ。

 

彼が一家に降り注いだ危機を、ありもしない長女の悪魔との契約のせいにしなかったら、一家は生き残れたかもしれない。

 

無能な父親のせいで一家が全滅する話といえば、三池崇史監督、市川海老蔵主演の『一命』を思い出しますが。

 

ウィリアムはすべての選択を間違えたのだ。彼には家族を養う力がなかった。結婚して子どもを作り、自分こそは神を誰よりも信じている敬虔なキリスト教徒だと信じていたが、彼がやったのは山のように薪を割ったことと自分の責任を魔女のせいにしたことだけだ。

 

 

 

 

子どもさんのいらっしゃるご家族は、身につまされる話かもしれないですね。

 

特に、ウィリアムがトマシンに罵られて逆上する場面は、現代の日本の家庭でいくらでもある光景だろう。

 

この映画が高く評価されているというのは、そういう部分に注目してなのかもしれない。

 

だけどまぁ、僕はウンザリしましたねぇ。

 

映画の出来が悪いというんじゃなくて、僕には観る必要がない映画だった。気分がどよ~んとしてしまったもの。こんな映画、独り者の男が観るもんじゃないよ。

 

出演者たちの演技はよかったですよ。

 

アニャ・テイラー=ジョイは『スプリット』の時には濃い色の髪だったけど、今回は金髪で、ほんとにあの時代に生きていた人みたいな顔つきをしている。

 

シャマランが彼女のあの“目”に惹かれたのもよくわかる。

 

テイラー=ジョイが演じるトマシンの父親ウィリアム役のラルフ・アイネソンは声が腹から響いてるような低音で、それが一見威厳があるように見えるところがまた曲者。

 

アイネソンの垂れてうつろな目はどこか不気味で、彼の顔を見ていると「まともではない」何かが感じられて怖い。

 

この人の異様な存在感が、映画の不穏さをさらに強調していた。

 

妻のキャサリンを演じるケイト・ディッキーも、英国からアメリカに渡ってきたことを後悔して故郷に帰りたがる様子とか、自分の娘を魔女だと決めつける鬼母の姿など、これまた「我が子を信じられない」現代の問題を抱えた母親の狂気を迫真の演技で見せている。急にトマシンに優しくする場面があるのも余計たちが悪い。

 

 

 

 

双子を演じる子役たちも、ほんとに子役なのかな?もしかしたら白木みのる的な小さい身体の大人の役者さんじゃないのかと思うほど巧かった。

 

長男のケイレブを演じるハーヴェイ・スクリムショウなんて、子役にこんな演技させていいのかな、と心配になったほど。

 

 

 

彼がいつも姉のトマシンの胸をチラ見してるのがまたなんとも小学生男子っぽいw

 

これは、女の人のおっぱいに取り憑かれた少年の話でもある。

 

ケイレブは森の中でおっぱいの谷間を強調させた魔女に出会って、裸で家に帰ってくる。

 

魔女に何かされたということなんだろうけど、これだって先ほど述べたように虐待を魔女のせいにしたとも考えられる。

 

子どもたちこそ真っ先に犠牲になる、か弱い存在だったのだから。

 

キリスト教は、信者たちに「罪」の意識を持たせる宗教だ。

 

人間には生まれ持った「原罪」があって、生きていることそのものが罪だという考え。

 

だから、どうしたって安心しない。常に罪の意識に苛まれることになる。だから神にすがる。

 

ケイレブが自分を「罪びと」だと言うのも、生まれた時からそういう意識を植え付けられたからだ。

 

それは精神的な虐待ではないだろうか。

 

神はケイレブを救うのではなく、彼の命を奪った。ケイレブ本人は死ぬまでそれを神の救いだと信じていたのだが。

 

あの一家は魔女に呪われたのではなく、“信仰”という狂気によって呪われたのだ。

 

 

 

自分以外のすべての家族を失って森の中で魔女たちの宴に興じるトマシンの恍惚とした表情には、やはり彼女もまた暗黒の時代の犠牲者だったのだろうと思わせられる。

 

彼女は口減らしのために家族から引き離されて奉公に出されそうになっていた。

 

「魔女」となることは、自分を圧し込め搾取する者たちへの反逆だった。

 

果たしてあの暗黒の時代は過ぎ去ったのだろうか。

 

 

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