ルカ・グァダニーノ監督、ダコタ・ジョンソン、ティルダ・スウィントン、ミア・ゴス、エレナ・フォキナ、クロエ・グレース・モレッツ、シルヴィー・テステュー、レネ・ソーテンダイク、アンゲラ・ヴィンクラー、イングリット・カーフェン、ジェシカ・ハーパーほか出演の『サスペリア』。2018年作品。R15+。

 

1977年のダリオ・アルジェント監督による同名映画のリメイク的作品。

 

1977年、東西に分断されたドイツのベルリン。トップダンサーを目指してアメリカのオハイオからやってきたスージーは舞踏団「マルコス・ダンス・カンパニー」のオーディションに受かり入団することに。その少し前に同舞踏団でダンサーの一人であるパトリシアが心理療法士のクレンペラー博士の許を訪れて、その後行方知れずになっていた。舞踏団でダンサーたちを教えるマダム・ブランはスージーに可能性を感じ、やがて二人は親密になっていく。

 

僕は1977年のオリジナル版は昔深夜にTVでやってたのを観た記憶はあるんだけど、画面がやたらと赤っぽかったことと女性がロープで首を括られて天井からぶら下がる“ショックシーン”ぐらいしか覚えていません。

 

ローズマリーの赤ちゃん』や『エクソシスト』『キャリー』『オーメン』など同時代の有名な“オカルト映画”の中の1本、ぐらいの印象で、ホラー映画もほとんど観ないので思い入れもなく(他のアルジェント作品も観たことがない)、だから最初にこのリメイク版の存在を知っても作品自体にはたいして興味をそそられませんでした。

 

それなのになぜ観ようと思ったのかといったら、クロエ・グレース・モレッツが出てるから。

 

とはいえ、クロエちゃんは以前『キャリー』のリメイク版に出演してることもあって「またホラー映画のリメイク?」という感じだったし、リメイク版の『キャリー』を僕は結構酷評したから今回もその点で不安があった。

 

しかも観る前から彼女はこのリメイク版『サスペリア』の主演ではなくて、登場場面も多くはないようなことは知っていたので(だからこの映画の感想のテーマを“クロエ・グレース・モレッツ”の名前にするのは躊躇するところでもある)、余計に気が進まなくてDVD化されるまで待つかどうか迷っていた。

 

実際、クロエちゃんを目当てで観るとビックリするほど出番が少ないので、その辺は期待しない方がいいでしょう。最後はなんかゾンビみたいになってたし^_^;

 

 

 

それが、映画評論家の町山智浩さんの作品紹介・解説を聴いて、これが通常のリメイクとは違ってほぼ別物の作品になっていることや、1977年という、ちょうど『サスペリア』のオリジナル版が公開された年のドイツをあえて舞台にしていること、「魔女」について深い考察がされていることなどを知り、面白そうだな、と思えてきて。

 

凝った装丁の劇場パンフレット

 

「魔女」といえば何年か前に観た、現在公開中の『ミスター・ガラス』にも出演しているアニャ・テイラー=ジョイ主演の『ウィッチ』を思い出しますが、あの映画ではこれまで社会に害を為す「悪」として扱われてきた魔女の正体について語られていて、つまり「魔女」というのは世の中の数々の不都合のスケープゴートとして犠牲となった人々のことなのではないか、ということだったんですが、そういうアプローチには関心があるから、この『サスペリア』でも同様の切り口でホラー映画の体裁をとって「差別」や「暴力」などについて描いてくれているのかな、と。

 

また、同じく魔女といえば数年前のディズニーの実写映画『マレフィセント』がやはり従来は悪役として描かれてきたキャラクターを反転させてヒーローのように描いていたのが新鮮だったんですが、そうやって既存のイメージだとか「正しさ」というものに疑問を投げかけるような作品は今の時代を反映しているなぁ、と思うんですよね。

 

もっとも上映時間が152分もあることと、すでに観た人たちがこの映画をどのように語ればよいのか苦心されている様子からも、万人向けの娯楽作品どころかかなり観る人を選ぶタイプの難解でアート系寄りの作品であるらしいことがわかったので、それなりに覚悟をもって臨みました。

 

僕は事前に町山さんのトークショーの時の解説を聴いてから観ましたが、確かに解説がないと映画で描かれている77年当時のドイツの時代背景や魔女との関係などについての理解は難しいと思いますから、これからご覧になるかたは前もって聴いておくか鑑賞後に聴かれることをお勧めします。

 

 

 

一ついえることは、通常のいわゆる「ホラー映画」を期待するとかなり戸惑う結果になる、ということ。

 

オリジナル版同様に「魔女」を描いてはいるし、特殊メイクと最新のVFXを駆使して人の身体がグロテスクに変形したり鮮血が飛び散る場面はありますが、そういう残酷シーンで怖がらせようとしている映画ではないし、極彩色の見世物小屋的なおどろおどろしいいかがわしさによる面白さはそんなにないです。

 

町山さんの解説の中でオリジナル版のアルジェント監督が憤慨していた、とも伝えられるように「魔女」の捉え方がこのリメイク版では以前のものと正反対だし、それもわかりやすく「善悪」が描き分けられているわけではないのと、この映画の特徴として全体的に劇中で細かい説明が極力省かれているので、事前に解説を聴いたうえでも僕には理解が難しかった。

 

観る者に考えさせてさまざまな解釈を生む、ということでは開かれた映画、といえるのかもしれないけど、逆にいえば描かれていることの背景の知識がなければ限りなく意味不明な展開が続くし、理解できたところでそれが映画として「面白いかどうか」というと、そこにも大いに疑問が残る。

 

この映画を観たあとだと、シャマランの『ミスター・ガラス』が娯楽性の高い観客にとても親切な映画に思えてくるほど^_^;

 

ある程度覚悟して、なんならちょっと映画とか歴史のお勉強でもするつもりで観たこともあって腹は立ちませんが、こういう映画をこれからもしょっちゅう観たいかというとそうは思わないし(かといって、“なんとかビースト”みたいな魔法映画にもあまり興味は持てないが)、なかなか期待通りにはいかないものですが。

 

それでは、これ以降は内容について書いてきますので、まだ鑑賞されていないかたはご注意ください。

 

 

モダンダンスとかコンテンポラリー・ダンスというのはたまにBSで深夜にやってますが、ミュージカル映画などのダンスと違って僕にはそのよさがよくわからなくて(いや、クラシック・バレエとか古典的なダンスや舞踊のよさだってちゃんとわかってはいませんが)、そういうものがある、という認識しかありません。

 

確かにダンサーたちが鍛えられた肉体で踊っている姿はそれだけで理屈を越えた凄さが感じられはするのだけれど、「わからない」という感覚はどうしても拭えないし、それは現代美術に対するわからなさと通じていて、だからこの映画で描かれているダンスについてもあまり魅力を感じられない。

 

禍々しさ、気持ちの悪さは充分に感じますが。

 

かつてナチスが「退廃芸術」として近代以降の前衛的な芸術品を弾圧したことは知っていたから、それがダンスの世界にまで及んだことがこの映画を観ていてわかった。

 

ただそれも台詞の中で語られるだけなので、ナチスと魔女がどう結びつけられているのか町山さんの解説がないとよくわからないんですよね。そこが僕はどうも不満で。

 

魔女たちの組織がテロ組織と重ねられて、「誤ったリーダーを選ぶと高い代償を払うことになる」という戒めもやはり映画を観ているだけではわかりづらい。

 

あるいは、これまでの魔女たちは世の中の悪に対して無関心だったことを反省して善きことを為すために積極的に世界に介入していかなければ、みたいなことも、やっぱり説明がないと僕はわからなかっただろうと思う。

 

スージーが生まれ育ったオハイオのプロテスタント系キリスト教徒のメノナイト派についても、劇中でちゃんと説明されない不親切仕様。

 

クライマックスの阿鼻叫喚は、素っ裸で踊り狂うババアやねえちゃんたちの狂態はインパクトがあったけど、何がどうなったんだか意味不明過ぎて困った。

 

解説してもらわないと理解できないような映画は、映画としてどうなんだろう。そこは知識のない者にもそれなりに理解できるように描いてもらえないものだろうか。

 

まぁ、美術館で音声解説を聴きながら資料片手に美術鑑賞してるような気持ちで観ればよいのでしょうかね。

 

ともかく、この映画では「魔女狩り」の歴史のように現実にこれまで“魔女”とされた人たちがどのような扱いを受けてきたのかという知識をなんとなくでも持っていた方がいいし、さらにここでは第二次大戦時のナチスのユダヤ人迫害・虐殺、それからその反動のような70年代当時の極左武装組織のテロ、といった要素が混在していて、それらをわかって観ていないと一体何が描かれているのか判然としなくて混乱することになる。

 

主人公はダコタ・ジョンソン演じるスージーっぽいんだけど、本当の主人公はユダヤ系であるクレンペラー博士。

 

彼は戦時中に妻のアンケと引き離されたままで、そのことが彼の心に今もって大きな傷となって残っている。自分のせいで妻が殺された、という罪の意識。

 

このクレンペラー博士がユダヤ系であり、一方妻のアンケは「アーリア人」の証明書を持っていたが夫がユダヤ系であったために同じくユダヤ人として扱われて囚われた、というのも僕は事前の町山さんの解説がなければわからなかっただろうし(クレンペラーが河に捨てたのがアーリア人証明書であることもわかりづらい)、描写不足、説明不足なために、そういう、一度観ただけでは読み取れないことが多過ぎる。それは作品の理解を妨げていて、何度も繰り返し観れば台詞などからうかがうことはできるかもしれないけれど、歌や踊りやアクション満載のインド映画でもないのに(踊りはあるけど)152分の難解な映画を映画館でもう一度観ることはないだろうから、残念ながら僕は一部の人たちのようにこの映画を高く評価することはできない。

 

もちろん、ナチスのように自分がそのよさを認められないものは世の中から無くせばいい、などとはまったく思いませんが。自分が逆の立場だったら嫌だから。

 

この映画が語っているのは要するに“カルト”の怖さであり、ナチスもテロ組織も、そして魔女の集団も同じ危険を持っている、ってことが言いたいのでしょう。

 

でも、そんなことを仰々しく語られても、「そうですね」としか答えようがない。

 

組織とか集団というのは人間関係の場だから、どうしたってそこで派閥ができて権力争いが起こり問題も生まれてくる。特にカリスマ的な人物の下では妄信や考え方の違いから内紛や分裂が起こりやすい。

 

だけど正直そんな内ゲバ話はウンザリだし僕にとっては面白くもなんともないので、ダンサーのおねえさんたちの暗黒舞踏の異様さとか、彼女たちを操り支配する魔女のおばちゃんたちの賑やかで楽しげな雰囲気を眺めているぐらいしか楽しみようがなかった。

 

この映画は「魔女」をただ一方的に虐げられてきた本当は正しい者、と単純化して描いてはいないし、下手すりゃナチスと同様の過ちも犯しかねない(実際に犯している)危うい存在として描いているので、価値観の逆転の爽快感もない。

 

人間一人ひとりが愚かさや弱さを持っているように、魔女たちもまた罪を犯し互いに殺し合いもする。

 

でも、誤ったリーダーに代わり、スージーが新たなリーダーとなることで何かが大きく変わるかもしれない、という期待を抱かせる。

 

彼女はアメリカの故郷に馴染めなかった。だから、これもまた“居場所”を探し求める物語だったのでしょう。今そういう物語が多いのは、それだけ誰もが自己に不安を抱えているということ。

 

映画の舞台となった1977年の14年後の1991年にベルリンの壁が崩壊したことを僕たちは知っているし、エンドクレジットのあとで映し出されるベルリンの壁の方に何かをしているスージーの描写からも、魔女の力は善き方向に使われたのだ、と理解することはできる。

 

でも、僕にはこれは「魔女」という存在の矮小化にも感じられてしまったんですよね。

 

「魔女」というのは、もっともっと広い意味を持っているのではないか。

 

恐ろしい一面もあるかもしれないが、「ジェンダー」について語るには魔女は格好の題材だし、マイノリティの喩えでもあるのだから、カルト集団の怖さだけに限ってしまうとなんだかもったいない気がする。

 

映画の中でいろいろと喩えを使って物事を描くのは面白いと思うし僕も好きなんですが、『ミスター・ガラス』でも感じたんだけど、映画の作り手が観客に説教するためにそういうことをやってもなんか鼻白むんですよね。

 

これこれ、これにはこういう意味があって…みたいな思わせぶりな“メタファー”。

 

…そういうのはあくまでも「面白い映画」の中でやってもらいたい。観客への説教それ自体が目的になってしまっている作品は窮屈で退屈だ。

 

哲学的なテーマも含んでいたウォシャウスキー監督の『マトリックス』が面白かったのは、ボンクラ中学生の妄想みたいな話を最新VFXを使って迫力満点に描いていたから。

 

『マトリックス』からクンフーアクションや銃撃戦、マシンガン撮影(バレットタイム)を取り除いたら何も残らない。

 

僕は77年版のオリジナルの『サスペリア』への思い入れはないので、それと比べてどうということはないけど、娯楽性を犠牲にしたことで(芸術性は上がったかもしれないが)この映画が失ったものも多いんじゃないだろうか。

 

モダンダンスを描いているのも、わかりやすいホラー映画というものへのアンチテーゼだったのかもしれないし、誰もが楽しめるような作品をあえて避ける、ということは最初からの狙いだったのかもしれませんが。

 

主演のダコタ・ジョンソンは多分僕は初めて見る女優さんだけど、グァダニーノ監督とは以前にも組んでいるそうだし、顔がちょっとオリヴィア・ウィリアムズに似てて綺麗な人ですね。

 

新人ダンサーといわれれば納得できるような体つきや動きをしていて、ヌードも見せて健康的なエロスを感じさせる。

 

彼女がじっと相手を見つめたり物思いに耽るような表情をすると、とても大きな存在感がある。ヴェテランのティルダ・スウィントンと対峙しても威圧されていない。

 

舞踏団を運営している“魔女”たちを演じる年配の女優たちに見覚えのある人たちがいた。

クロエ・グレース・モレッツも出演した『アクトレス ~女たちの舞台~』にも出ていたアンゲラ・ヴィンクラー。フォルカー・シュレンドルフ監督の『ブリキの太鼓』で主人公オスカルの母親を演じていた人。

 

 

 

 

ダニエル・シュミット監督の映画で見たことがあるイングリット・カーフェン。

 

 

 

 

そしてもうおひとかた、どっかで見た顔だなぁ、と思ったレネ・ソーテンダイクは、91年のSFアクション映画『EVE/イヴ』で子どもを抱きながら銃を撃ちまくるアンドロイドを演じていた。懐かしいな。

 

 

 

 

クロエ・グレース・モレッツが演じるパトリシアは役柄としては重要なんだけど、最初に書いたように登場場面自体は少なくて冒頭と最後にちょっと出てくるだけなので(多分、『イコライザー』よりも少ない)、あの役が彼女でなければならない必然性はあまり感じられなかったし、もっとクロエの演技を見たかったなぁ。

 

監督とは15歳の時からの知り合いということだからそれでお声がかかったのかもしれないけど、もうちょっと彼女が活躍できる役を振ってもらいたい。

 

っていうか、アートっぽい映画もいいけど、クロエちゃんはもう少しメジャー寄りのアクション物とかに出てくれないかなぁ。エル・ファニングの路線を狙ってるんだろうか。

 

子役の頃からマーク・ウェブやマット・リーヴスなど優れた監督の作品に出演してるんだし、ぜひこれからも素晴らしい出演作にめぐりあってほしい。

 

オルガ役のエレナ・フォキナは本職のコンテンポラリー・ダンサーで今回が長篇劇映画への初出演だそうだけど、初めて出た映画でまるで“秘孔”を突かれた「あべし」の人みたいな悲惨な目に遭ってて、最終的には身体と手足が「究極超人あ~る」みたいにこんがらがって知恵の輪状態に。ダンサーなのに全然踊らせてもらえてないし(それとも、あれが彼女の“ダンス”なのだろうか)、ご本人はどんな気持ちだったんだろう。

 

 

 

 

77年のオリジナル版でヒロインを演じていたジェシカ・ハーパーがクレンペラー博士の妻アンケを演じている。オリジナル版のファンの人は感慨深いでしょうね。僕はその3年前に彼女がやはりヒロインを演じて歌声も聴かせていた『ファントム・オブ・パラダイス』がとても好きです。

 

 

 

 

ティルダ・スウィントンは、公式サイトや劇場パンフレットではマダム・ブラン役としてだけ載っているけど、クレンペラー博士役の俳優のプロフィールはフェイクで実際には彼女が特殊メイクであの老人を演じている。これはTwitterの公式アカウントでネタばらしされている。

 

 

 

さらに、クライマックスに登場する魔女のボス、マザー・マルコスもスウィントンが演じている。

 

 

 

 

ティルダ・スウィントンって最近やけに特殊メイクづいてるけど、なんかハマってるんでしょうか。一人三役とか、『オースティン・パワーズ』のマイク・マイヤーズみたいだなw

 

天使を演じたり魔女を演じたり、男性になったり老人になったり、もう年齢や性別を超越した女優さんですよね。さすがは『オルランド』の人。

 

彼女が演じるマダム・ブランの立ち位置がちょっとよくわかんないところがあって、最後も何がどうなったんだか僕にはまったくわかんなかった。首の後ろを切り裂かれて血が大量に吹き出て絶命したと思ったら、首を戻したら生き返ったり^_^;

 

パトリシアやサラ(ミア・ゴス)がスージーに「死にたい」と言ったのは、なぜだろう。彼女たちは本当に死んだのか、それともクレンペラー博士のようにスージーの力で記憶を失ったのか。

 

 

 

 

ドイツ語を喋っていたダンスの教師たちは、最後にはフランス語を喋る別の教師たちに代わっている。

 

一度観たきりなので把握できていないことがいっぱいで、感想書くのも大変ですが。

 

クライマックスは婆ちゃんたちが共同生活する『デンデラ』と異形の魔導師たちが登場する『ヘルレイザー』が合体したような場面…と言ったら興味を持つ人はいるだろうか(;^_^A

 

「なんだかよくわからんがスゴい映画」という形容がぴったりの映画といえるかも。

 

 

「魔女」というのは巫女でもあり、また“表現者”でもあるので、この映画はダンサーや、あるいは俳優など身体表現に従事している人たち、そういう活動に興味を持っている人たちには面白いかもしれない。

 

共同生活して演劇活動をしている人々を眺めているような興味深さはあった。“女の園”の賑やかさと生々しさとおっかなさも感じられて。あの時代らしく、みんないつでもどこでもバカバカ煙草吸いまくってるし。

 

そして、町山さんが解説の中で語られていたように、ルカ・グァダニーノ監督がこの映画の舞台にした「東西に分けられたドイツのベルリン」が「国境に壁を作ろうとしている大統領がいる現在のアメリカ」に重ねられているのだとすれば、これは表現者たちの態度や為すべき行動について訴えた映画といえるでしょう。魔女の力は壁を壊すために使われなければならない、と。

 

だから、刺さる人には刺さる映画かもしれません。

 

 

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