M・ナイト・シャマラン監督、ジェームズ・マカヴォイ、ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン、サラ・ポールソン、スペンサー・トリート・クラーク、アニャ・テイラー=ジョイ、シャーレイン・ウッダード出演の『ミスター・ガラス』。

 

一つだけ前もって知っておいた方がいいのは、この映画がシャマランの過去作『アンブレイカブル』と『スプリット』の続篇だということ。事前にこの2本を観ていないと楽しめません。意味がわからないから。

 

では、これ以降はこの最新作と上に挙げた作品のネタバレがありますのでご注意ください。

 

かつて列車事故で唯一人生き残ったデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)は、成長した息子ジョセフ(スペンサー・トリート・クラーク)とともにセキュリティ機器の店を営むかたわら、自分が持つ特殊な能力で街の犯罪者たちを見つけ出して懲らしめていた。ある日、若い女性の集団拉致事件の犯人ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)とすれ違ったデヴィッドは、女性たちを助け出してケヴィンと対決するが警察に捕まり、ともに精神病棟に収容される。そこには19年前にデヴィッドの乗っていた列車を脱線させて多くの人々を死に至らしめたイライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)も入れられていた。

 

2017年公開の『スプリット』は、多重人格を描いたサスペンス映画…と思ってたら犯人がほんとにモンスターになってしまい、最後には『アンブレイカブル』と話が繋がるスーパーヒーロー物になる、というM・ナイト・シャマランお得意の「どんでん返し(笑)映画」でした。

 

僕は「次回作に続く!」という丸投げなラストの処理に散々イチャモンをつけましたが、映画自体は最後まで退屈せずに観られたし、続きが気になるからさらなる続篇も観るつもりでした。

 

そして日米同時公開という、その続篇。

 

前作に不満があるとはいえ、すでに2年経った今ではあの中途半端なラストも過去のこと。

 

1人のヒーローと2人のヴィラン(悪役)が揃って、さて彼らを使ってシャマラン監督はどのような物語を紡ぐのだろう、と楽しみにしていたので、公開初日に鑑賞。

 

なぜか僕が住んでいるところでは上映館は1館のみ。その理由は映画を観終わったらわかりましたが…。

 

興味を持たれていてこれからご覧になるつもりのかたたちにあまり先入観を与えたくないし、中には褒めてる人もいるようだから感じ方は人それぞれだと思いますが、僕はこれはなかなか「やらかした映画」だと思いましたねぇ^_^;

 

まだアメリカの方の評価もそんなに定まっていないだろうし、前作だって結構な人たちが「面白かった」と言ってたから今回も他の皆さんはどう感じられるかわかりませんが、僕は観てるうちに違和感や疑問がどんどん募ってきて、今回は途中で「…う~ん、あまり面白くないのだが…」と思ってしまった。

 

前作はまだ観てる最中は集中していられたんだけど、この続篇は話がなかなか先に進まないので飽きてしまった。病院から脱走するくだりを延々やってるだけなんだもの。舞台になっているのはほとんど病院の敷地内だし。

 

 

 

いくらなんでも病院のセキュリティがザル過ぎるし(100ヵ所に監視カメラを設置しても警備があんなに手薄だったら意味ないでしょ)。簡単に骨折してしまうイライジャが病院を脱走するのはどう考えても不可能で、それを観る者に納得させることを放棄している。だからツッコミどころ満載、というよりもツッコミどころしかない。

 

そしてあんな杜撰な管理体制にもかかわらず、そこからイライジャたちがなかなか脱走しないので観ててイライラしてくる。いつまで病院の中の描写が続くんだ、と。

 

まだ『X-MEN2』でのマグニートーの脱獄や『羊たちの沈黙』のレクター博士の脱走の方がよっぽどワクワクさせられた。

 

この映画は全体的に登場人物の行動にしても物語の展開にしても、ひどく雑で整合性に欠けている。

 

出演しているのがブルース・ウィリスやサミュエル・L・ジャクソン、ジェームズ・マカヴォイのような有名俳優たちだから一見豪華だけど、凄く小さな規模の映画。

 

そして肝腎のストーリーそのものが大したものとは思えなくて。「えっ、そうくるか」とか「なるほど、そういう切り取り方をするのね」みたいな驚きや興奮をまったく呼び起こさなかった。

 

今では数多く作られている「スーパーヒーロー映画」をシャマランがどのように料理するのかに興味があったんだけど、“アメコミヒーロー”や“コミックブック”についての何か目が覚めるような考察だとか見解といったものはこの映画から特に見出せなかったし、フィクションの中で描かれる「お約束」を現実の世の中のさまざまな事象に重ね合わせて「読み解く」ことで観る者を幻惑するような魅力にも欠けていると感じました。新鮮さが全然ない。

 

過去作の映像がところどころにインサートされるけど、『アンブレイカブル』と『スプリット』の“残りかす”みたいな映画だった。

 

鍛えまくったマカヴォイの筋肉モリモリマッチョマンの変態ぶりは堪能できるかもしれないが。

 

 

 

 

これは思い切って他のシナリオライターに頼むか、共同でとことんストーリーを煮詰めるべきだったんじゃないかなぁ。シャマランには面白い脚本はもう書けないのかもしれない。

 

日常の中に非日常的なコミックブックの世界を接続する、という『アンブレイカブル』で提示されたアイディア自体はユニークだったんだから。この世の中の出来事はすべてコミックブックに描かれたことで説明できる、という妄想がいつしか“真実”に思えてくる「電波」な展開。

 

それはUFOとかUMA(未確認生物)についての物語と同様に、人の心と密接にかかわっている題材だからこそ、荒唐無稽でありながらどこかリアルでもある。どれも人がその存在を望み求めるものだから。

 

派手なVFXが売りの映画とは違うタイプの「スーパーヒーローについての映画」として、とても共感できるものになったはずなんだよね。『アンブレイカブル』は主人公が自分の本当の“居場所”を見つける映画だった。

 

だけど、残念ながら僕はこの『ミスター・ガラス』にはそのような現実と接点のある要素をほとんど感じることができませんでした。

 

ケヴィンがやたら連呼している、自分の多重人格たちの呼び名“群れ”というのもまるでピンとこない。

 

ケヴィンとケイシーの心の通い合いも、本来ならそこが一番観客が共感する箇所なはずだけど、とってつけたようにしか感じられなかった。

 

前作『スプリット』で他の女の子たちとともにケヴィンにさらわれて唯一生き延びたケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)は、『ミスター・ガラス』では何やらX-MENのキャラみたいな力を発揮してケヴィンの暴走を食い止めようとするんだけど、彼女に関する描写が極端に少なくて説明不足なためになんで急にこんなキャラになったのかよくわからない。

 

 

 

互いに家庭で虐待を受けてきたからとはいえ、彼女がケヴィンにあんなふうに共感を覚え同情すらしている様子なのが解せないし。だって散々人を殺して食ったりしてるんだからね、ケヴィンは。

 

だったら、『デッドプール2』で暴れるミュータント少年を説得するデップーの方がまだ説得力があった。

 

LOGAN/ローガン』で、コミックブックの中に描かれた自分の姿を見て「現実はこんなもんじゃない」と言うウルヴァリンの方が、よっぽどメタ的だ。

 

コミックブックや映画が現実の世界とリンクする物語はこれまでにいくつも作られている。

 

僕はこの映画でデヴィッドやケヴィン、“ミスター・ガラス”ことイライジャがたどった末路に驚きや感動を覚えるようなことはまったくなくて、ただシャマランが自分の作ったキャラクターを自分の手で始末した手抜きのようなラストにしか思えませんでした。

 

もしもそういう、主人公たちのあまりにあっけない最期で驚かせたかったのなら、そこに彼らが犠牲にならねばならない(観客が納得できる)必然性を用意しなければ、それはほんとにただの後片付け──どう終わらせるか思い浮かばないからみんな殺しちゃっただけ、としか感じられない。

 

この映画についてTwitterで「自分が作り出したキャラクターたちへのシャマランの愛を感じた」というようなことを呟いていたかたがいたんだけど、僕にはそうは思えませんでした。

 

明らかにシナリオが破綻していたと思う。破綻してたって面白ければいいけど、僕は面白くなかった。

 

北野武監督の「アウトレイジ」シリーズの完結篇を思い出した。あれも蛇足な作品だった。

 

 

要するに、何が善で何が悪なのかは偉い医者だとかどこぞの組織が勝手に決めつけるんじゃなくて、私たち自身が各自自分の意思で判断すべきなんだ、と。

 

“真実”はそれぞれの中にある。

 

今こうやってインターネットを利用している僕たち一人ひとりが潜在的なヒーローでもあるのだ、と。

 

…あー、ハイハイ、そうですね、仰る通り、としか^_^;

 

なんだろう、この凡庸極まる結末は。

 

マトリックス』の時代に逆戻りしたような錯覚すらする。マトリックスって20年前ですよ?^_^;

 

「どうして現実の世の中では、みんな“スーパーヒーロー”になろうとしないのか」という疑問はマシュー・ヴォーンの『キック・アス』の劇中で語られているし、現実に“スーパーヒーロー”は存在し得るのか、もしも存在したらどうなるのか、というテーマは、すでにジェームズ・ガンが『スーパー!』で描いている。シャマランはもうかなりの周回遅れなんではないか。少なくとも彼からこれ以上アメコミに関して斬新なアイディアが出てくるとは思えない。

 

現実の世の中が単純な「善」や「悪」にきれいに分かれていないことは、いちいち言われなくたって僕たちは知っている。この映画では当たり前のことを大真面目な顔で述べているだけだ。

 

僕たちは世界が単純に白黒ハッキリしないことだらけなのは承知のうえで、「勧善懲悪」のスーパーヒーロー映画を楽しんでるんでしょう。悪くて強い敵はかっこいいし、その敵が倒されれば気持ちがいいから。「コミック」や「映画」の中のそういう単純明快な世界で遊んだのちに、やがて僕たちはこの複雑でままならない現実に帰ってくるのだ。

 

こんなんだったら、ちょうど「マトリックス」が2作目、3作目と続くごとにネタ切れ気味になっていったように「スーパーヒーロー映画はシリーズを重ねるごとにつまらなくなりがち」みたいなこのジャンルのお約束に言及して、この三作目が面白くない理由付けにでもすればよかったのに。

 

映画では病院の看護人がいつも間抜けに描かれがちなことや、毎度のように作り手の思い通りに物事が進んでいくご都合主義も『スクリーム』や『キャビン(白字反転)』のように“メタ”なギャグとしていろいろと遊べただろうし。

 

トラウマを抱えた者たちがヒーローになる、というこの映画の中で語られたことが切実なものとしてまったく感じられないんですよね。気が抜けたようにスカスカな単なるプロットの一部に成り下がっている。

 

『アンブレイカブル』ではロビン・ライトが演じたデヴィッドの妻オードリーはここではすでに病気で亡くなったことになっているけど、これだって無理やり息子のジョセフに“トラウマ”を植えつけるためのものとしてしか機能していない。

 

イライジャが言う「ずっと苦しんできた」その“苦しみ”は、もはや形だけのものになっている。『アンブレイカブル』では彼の“痛み”はデヴィッドの“悲しみ”と同様にまだどこか共感できるものだった。

 

映画の冒頭でデヴィッドが叩きのめす勘違いしたユーチューバーの姿など、もっと巧くお話の中に取り込めたはずなんですよね。パソコンを操る息子のジョセフだってもっと活躍させられたはず。

 

イライジャの母親(シャーレイン・ウッダード)も、一体なんのためにいるのかよくわかんなかったし。

 

 

 

それぞれ自分の物語や役割を背負った登場人物たちが集って何かが起こる、そういう興奮を覚えさせてくれるような化学反応を期待していたんだけど、それは見事に裏切られてしまった。

 

バブルの時代でもないのに名付けられた「オオサカ・タワー」というのは『ダイ・ハード』の「ナカトミ・プラザ」からだろうし(サミュエル・L・ジャクソンも3作目に出演している)、そこが最後の大舞台なのかと思わせておいて結局はぐらかすのも、「だからなんなんだよ」としか。ヲタクを喜ばせるためだけに登場した設定。

 

ブルース・ウィリスもジェームズ・マカヴォイもサミュエル・L・ジャクソンもアメコミ原作映画やヒーローが活躍するアクション映画に出演してきた俳優たちだから、それをネタにするのならもっと有効に活用できたでしょう。

 

絶対死なない“ダイ・ハード”マン=ジョン・マクレーン刑事(の中の人)をいともたやすく殺してしまう、というのも「オチ」としては賞味期限が過ぎている。

 

これだけの人材を揃えたにもかかわらず、なんかもう「もったいない」としか言いようがない。

 

最後には、そんな不甲斐ない「作者(シャマラン)」が黒幕だった、ってな話にでもした方がまだマシだったんではないか。

 

作り手自身が自己言及の袋小路に入ってしまったような残念感。

 

サラ・ポールソン演じる精神科医も、実は…というオチがまったく意外でないばかりか「だったらこれまでの展開はみんな茶番だったのかよ」という苛立ちすら感じさせて、キャラクターの無駄遣いに終わっていた。サラ・ポールソンは『それでも夜は明ける』での恐ろしい農園主夫人のように笑顔すら怖く感じられてくるような凄みのある女優さんなのに、この映画では彼女の力を活かせていない。

 

 

 

ポールソン演じるステイプル医師がデヴィッドやケヴィンの特殊な能力について説明する場面も、「なるほど~Σ(・ω・ノ)ノ!」と思わせられるような説得力が微塵もない苦しい辻褄合わせでしかないので、これで“三人の超人”および観客を納得させられると思ったのか?と。

 

デヴィッドが「自分をヒーローだと思い込んでいる病人」だと本人や観客に確信させようとするならば『12モンキーズ』並みのロジックが必要だが、そんなものはこの映画にはない。

 

でも「そうだったのかぁ~」と観客にひとまずの結末で納得させたあとにもうひと捻り、というのを『シックス・センス』ではやってたわけで、明らかにシャマランの脚本の腕は以前よりも落ちているし、これはちょっとビックリするほどお粗末なシナリオではないだろうか。

 

俳優に小型キャメラを固定して撮ったりしてるけど、安っぽく見えるだけでなんの効果も上げていない。ひたすら地味なアクション場面が続く。なんだろう、この気まずさは。

 

無名の新人監督によるパロディ自主映画とかいうならともかく、本家がこういう作品でお茶を濁してていいのだろうか。

 

もはやM・ナイト・シャマランの映画は、ツッコミを入れながら楽しむ一つのジャンルになっているのかもしれない。

 

だから僕も前作に引き続き、こうやってツッコみまくることで元を取ろうとしたんですが。

 

これからもシャマランの新作が公開されれば気が向いたら観にいくかもしれないし(気が向かなければ観にいかないが)、そしたら「シャマランがまたやらかしたよ!」とdisりながら浮き沈みの激しい彼の生み出す“シャマラン・ワールド”を楽しもうと思います。

 

次回作撮れるといいね!(^o^)

 

 

↓シャマラン映画ファンならではの鋭い指摘をされているレヴューを紹介させていただきます。

 

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