M・ナイト・シャマラン監督、ジェームズ・マカヴォイ、アニャ・テイラー=ジョイ、ジェシカ・スーラ、ヘイリー・ルー・リチャードソン、イジー・コッフィ、ベティ・バックリー出演の『スプリット』。
女子高生のケイシーはクレアとマーシャとともに見知らぬ男に拉致され、監禁される。その男ケヴィンは多重人格らしく、かつて患者として彼を診ていたフレッチャー医師のもとをしばしば訪れる。ケイシーたちは監禁部屋から脱出を試みるが、そのたびにいくつもの人格を持つケヴィンに阻まれる。一方で、フレッチャーはケヴィンの言動に不審なものを感じていた。
以降は、早速『スプリット』とシャマラン監督のいくつかの過去作、そして似たジャンルの映画のネタバレがあります。
ネタバレの映画の一部は一応タイトルを見えなくしてありますが、読んでいけばわかってしまうものもあるので、オチを知りたくないかたはどうぞ鑑賞後にお読みくださいますように。
前作『ヴィジット』は作品としてはとてもよく出来ていて怖い映画だったんですが、感想にも書きましたが“ある理由”から僕は観ていてツラかったのであまり好きではありません。
でもあの映画によって「シャマラン復活」と謳われたことには同感で、評判がいいのもうなずけました。
ただ、今回の最新作の予告篇を観てもあまりピンとこないというか、「今さら“多重人格”モノ?」とちょっと拍子抜けな感じがしたんですよね。
だから予告だけ観た時点では題材そのものにあまり興味をそそられなかった。
ところが、どこかの映画サイトだったかでこの作品についての記事を読んだところ、シャマラン監督の『アンブレイカブル』とリンクしている、と書かれていて、しかも今後あの映画の続篇も撮られる予定だということを知って、俄然興味が湧いてきたのでした。
なぜなら、僕はあの映画はシャマラン作品の中では『シックス・センス』に次いで好きだから。
『アンブレイカブル(以後、タイトルを出すので注意)』は多数の死者が出た電車の脱線事故でただ一人生き残った男の物語だったんだけど、大どんでん返しに驚かされる大ヒット作『シックス・センス』の次に撮られて主演も同じブルース・ウィリスだったために「また“実は主人公は死んでる”んじゃないか」と言われたりしていました。
でも実際に観てみると、“驚愕のオチ”というよりも「えっ、これってそういう映画だったの?」という視点の変化による面白さで意外とファンも多いんですよね。
つまり、主人公が「なぜ自分一人だけが生き残れたのか」と悩み、その謎を追っていくサスペンス・ドラマだと思って観ていると、次第に違うジャンルの作品に変貌していく映画だったわけです。
ハッキリ言ってツッコミどころ満載のかなりムチャなオチで、だから『シックス・センス』のように巧みな伏線が張られていて最後に「アッ」と驚き何度も観返したくなるような上質なストーリーを期待していた人たちの中には失望したかたも結構いらっしゃるようで。
あの映画以降、M・ナイト・シャマランという映画監督はB級ジャンルを変化球で描く人、という印象が強くなる。
でも、僕はああいう「ある特定のジャンル」を別の角度から通常とは異なる描き方をしてみせる作劇に新鮮味を感じたし、クライマックスには思わず涙ぐんでしまうほどの感動もおぼえたんです。
だから、その作品と今回の新作が繋がる、ということで急に観たくなってきたのでした。
映画では女子高生たちが車で拉致られる冒頭から、監禁された彼女たちの描写とヒロインであるケイシーの回想、犯人の男が精神科の彼の担当医であったらしい年配の女性医師の家を訪れる場面などが交互に映し出される。
タイトルの“SPLIT”というのは「分割する」という意味だから、それはジェームズ・マカヴォイが演じる男の人格の分裂を意味するとともに、映画でいくつもの場面が並行して描かれることにもかけているんでしょう。
また、そもそも“俳優”というのはいろんな作品でさまざまな役を演じ分ける存在だから、そういうことだってこのテーマの中に盛り込めるだろうし。
これまで「ある特定のジャンル」を変則的な手法で描いてきたシャマランのことだから、今回もまたこのありふれた題材をユニークな形で料理してくれるだろう、と期待が高まる。
シャマラン以外の監督による多重人格を描いた映画では『“アイデンティティー”』などが思い浮かぶし、螺旋階段や白髪の女性、女装と刃物などはヒッチコックの『サイコ』を思わせもした。
ケヴィンは23人の人格に分かれていて、さらに24人目の人格についての言及がされるところなどは「24人のビリー・ミリガン」を連想させるし。
このような“ミスディレクション”によって、映画やサイコサスペンス物に詳しい人ほど惑わされるのかもしれないですね。
映画は、映像の連なり、いくつものショットによって構成されていることから、それを利用して人称や時間を観客に勘違いさせることが可能なために、映画にしかできないトリック、もしくは映画だからこそ効果的なトリックがある。
シャマランはいくつかの映画で「映画のお約束」、ルールをあえて破ることで「僕たちが今観ているのは作り物の世界なんだ」と“フィクション”というものを観客に意識させる、映画自体が自己言及するようなメタ的な視点を導入していて、僕はそこにこそ魅力を感じていました。
だから、シャマランが再びそういう映画を撮ってくれたんだ、という期待があったんです。
ところが、僕の期待や予想に反して、この映画はかなり「普通」のサイコサスペンス物として展開していく。
いや、結末が気になるから興味は持続するし、けっして退屈はしませんでしたが、本気で期待してしまっただけにあの結末には心底ガッカリした。
…え、それだけ?と。
あのオチのせいでそれまでの期待は“ガラス”のごとく脆くも砕け散って、あとには溜息しか残らなかった。物凄い肩透かし。
だからこの作品が「面白かった」「大好き」というかたは以降は読まれない方がいいかもしれません。あまり褒めませんので。
あ、前作同様にこの『スプリット』も観た人たちの評価は高いようだから、あくまでも僕個人の意見ですが。
だって、あれじゃ『アンブレイカブル』を観ていない人には意味がわからないし(同じ回を観ていた他のお客さんの中には明らかに困惑している様子の人もいた)、意味はわかってもこの映画の中でちゃんとした結末が描かれないので、1本の単独作品として成立していない。
ほんと、そういう映画多すぎじゃないですか最近。シャマラン、お前もか、と。
要するに、この『スプリット』は今後作られるシャマランのさらなる新作の序章でしかなかったのだ。ちょうどマーヴェルやDCのアメコミ実写映画が、1本の映画として完結していなかったりシリーズを通して観ていないと意味がわからなかったりするように。
このあと続けて観たアメコミヒーロー映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』の冒頭には「エンドクレジットのあとにも続きがありますので、最後までご覧ください」という注意書きが出たけど、この『スプリット』でもせめて「大事な説明があるので最後まで観てね」とお断わりを入れるべきだったんじゃないだろうか。
『アンブレイカブル』はまさしくアメコミに登場するような“スーパーヒーロー”の誕生譚だったんだけど、その主人公デヴィッド・ダンが最後に登場することで『スプリット』は同じく超人=スーパーヒーローについての映画だったことが判明する。
多重人格者を描いたサイコサスペンス物だと思ってたら、本物のモンスターが出てくるホラーで、しかもさらにそいつと戦う正義の味方が現われたことで完全に“スーパーヒーロー物”に移行する。
24人目の人格“ビースト”に変身するのが最近は「X-MEN」シリーズで若きプロフェッサーXを演じているジェームズ・マカヴォイというのも、もちろん意味が込められてるんでしょう。彼が坊主頭なのは、去年公開された『X-MEN:アポカリプス』のあとに撮ったからなのかもしれないし。
それはいいんだけど、続篇『ミスター・ガラス(原題:GLASS)』が2019年公開予定って…2年待てとかナメてんのか、と。
せめて『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』や『マトリックス リローデッド』の時みたいに続きを半年後ぐらいにやってくれよ。
2000年公開の『アンブレイカブル』はアメコミヒーロー物を大いに意識した作品ではあったものの、当時はいまだサム・ライミ監督による『スパイダーマン』も作られてなかったし、あの時点でシャマランがその後のハリウッドにおけるアメコミヒーロー物の盛況ぶりを予測していたとは思えないんだけど、そういう現在の一大ブームに巧いこと、というかかなり強引に乗っかってきたのは面白いと思いますよ。
シャマラン自身、かなりのアメコミ・ファンらしいし。
だけど、そういうアメコミヒーロー物の「興味ある奴ら、知識のある奴らだけが楽しめればいい。意味がわかんない奴、楽しめない奴はどーでもいい」っていうオタクっぽい内輪ウケ万歳な姿勢って僕は大嫌いだし、そんな映画にシャマランまでもが便乗してきたのかと思うと腹も立ってくる。
これまでにも何度も繰り返してますが、「映画」はとりあえずはその1本でちゃんと物語を描ききってよ。「続きは次回作で」とか、最低だと思う。そういうのはTVの連ドラでやってくれ。
そりゃ僕だってスター・ウォーズとかシリーズ物で好きなのもあるけどさ、世の中そういう映画ばっかになったらほんとつまんないじゃないか。
この『スプリット』では、多重人格者だったケヴィンは女性医師から「存在するはずがない」と言われていた24人目の人格“ビースト”と化して姿をくらます。
ダイナーで事件についてのニュースを観ていた客たちは「まるであの事件の犯人みたいね」と話している。
「あの事件の犯人」とは、『アンブレイカブル』でサミュエル・L・ジャクソンが演じていた、生まれつき全身の骨が折れやすい病気を患うイライジャのこと。
アメコミ・マニアで孤独だったイライジャは自分をアメコミのヴィラン(悪役)に見立てて、子どもの頃に付けられたあだ名「ミスター・ガラス」を名乗る。
悪役には彼と敵対する存在が必要だ。その「正義の味方」を覚醒させるために、彼は列車事故をわざと起こす。
デヴィッド・ダンはその事件のたった一人の生還者で、彼は映画の終盤で自分の正体とその存在の意味を知ることになる。
『スプリット』で筋骨隆々で壁に張り付いて這い登り、鉄格子を曲げたり人間を食う“ビースト”となったケヴィンは、“アンブレイカブル(壊れざる者)”デヴィッド・ダンが倒すべきヴィランになった。
『スプリット』とはそういう映画です。
『アンブレイカブル』がスーパーヒーロー誕生譚だったのに対して、『スプリット』はヴィランの誕生を描いた作品だということ。
“ビースト”は子どもの人格“ヘドウィグ”が描いた絵のように毛むくじゃらではなくハゲのままでしたが
ほぼミュータント
次回作『ミスター・ガラス』では、きっと精神病院に入っているイライジャ=ミスター・ガラスが脱走するなり退院するなりして、ケヴィンと手を組んでデヴィッドと戦うんでしょう。
次回作も観ますよ、観ますけどね。
いいのかなぁ、こんなんで。
せっかく劇場に映画観にきたのに意味わからなくて首傾げる人が続出する映画なんてこのまま作り続けてたら、愛想尽かす人たちも出てくるんじゃないか。
なんかわかる奴らだけ楽しんでてそうじゃない人は放置、みたいなのって僕はスゴく抵抗がある。
シリーズ物なら最初からそうお断わりを入れるべきだし、そうじゃないんならクドいけど1本の映画としてちゃんと完結させてくださいよ。
映画の形が多様化して、ただ劇場で上映するだけではない、いろんなメディアとコラボってさまざまな楽しみ方ができる、たくさんある娯楽の一形態とみなされるのは時代の趨勢なのかもしれませんが、素朴に映画館で映画を楽しみたい人間だっているんですよ。
そういう人がポカ~ンとしてしまうような映画を垂れ流すのはやめてもらえないだろうか。
そういうのはそれこそNetflixででもやってればいいじゃん。
実際、映画を撮るのやめてTVの方でドラマを撮るようになった監督さんたちもいるようだし(デヴィッド・リンチも、映画撮るのやめてこれからはTVドラマ撮る、とか言ってたしなぁ)。
主演のジェームズ・マカヴォイは顔がよく知られてることもあるけれど、演技力のある彼がどんなに多重人格者を演じて女物の衣服を身につけて女性になってみせたりガキんちょになりきってみせたところでそこに本気で恐怖を感じることはなかったし、物語自体は精神異常者がほんまもんのモンスターだった、という特にヒネリも何もないもので、観る前に期待したような意外性も発想の面白さも感じることはできなかった。
マカヴォイが眼鏡をかけて眉間にしわを寄せると思わず見入ってしまうし、あえて声色を変えたりカツラをかぶらずにどこか中途半端なままいくつもの人格を演じ分ける様子は、妙なリアリティがあったけれど。
ヒロインであるケイシーを演じるアニャ・テイラー=ジョイの、微妙にデッサンが狂ったような顔立ちや彼女の泣き叫ぶのではなく声を押し殺したまま目に涙を溜めるような演技もよかったんですが。
だからあの結末以外は面白く観られたんですよ。
面白く、というか、『アンブレイカブル』と繋がることは事前に知ってたから、これをどういうふうにまとめるんだろう、という興味だけで観続けていたんだけど。
どうせ繋げるんなら、そこはちゃんとデヴィッド・ダンとケヴィンが戦って決着がつくまで描いてほしかった。
そうしたら、僕は『アンブレイカブル』でレインコートに身を包んだデヴィッドが凶悪犯罪者の大男に組みついてガンガン壁に叩きつけられながらもまったくひるまずついに相手の息の根を止めるあのクライマックスシーンのように、笑いながらグッときたかもしれないから。
『スプリット』のラストで『アンブレイカブル』のテーマ曲がかかって「ををっ」とアガったし。
でもデヴィッドの登場とともに映画は終わってしまう。
拉致監禁の被害者で唯一の生存者のケイシーは幼い頃より叔父から性的虐待を受けていて、父親が亡くなってからはずっとその叔父とともに住んでいる。学校で問題を起こして居残りを繰り返していたのも、家に帰りたくなかったからだ。
そのような彼女のトラウマや今現在の悲惨な家庭環境も、『スプリット』の中では解決されない。
結末は続篇でどうぞ、なんてそれはあんまりじゃないだろうか(続篇でちゃんと描かれる保証もないが)。
『アンブレイカブル』でも黒人女性が白人に「アフリカに帰れ!」と車から瓶で殴りつけられたり、M・ナイト・シャマランは映画の中でしばしば世の中に溢れる理不尽な暴力について描いていて、そこに僕は深い共感をおぼえてもいたのです。
でもケイシーの苦難が放置されることで、そういう現実の世界の苦しみがまるでただ物語を推進するための小道具みたいに扱われているように思えてきて、裏切られた気持ちになったんですよね。
ケヴィンが厳しすぎる母親の支配によって人格が分裂したり、ケイシーが性的トラウマを負ったことは、ただ映画の中で登場人物を動かすために作られた設定にすぎなかったのか?と。
ケイシーの回想シーンで幼い頃の彼女の前で裸になって四つんばいで“獣”の真似をしていたあの叔父にはケヴィンの24人目の人格“ビースト”が重なるし、またケヴィンが見せたあの獣性というのはケイシーの中に秘められた「怒り」の象徴なのかもしれない(だからこそ、最後にケヴィンはケイシーを自分の“同志”だと認めて命を奪わなかったんだろう)。
映画のラストでパトカーの中のケイシーが「保護者が迎えにきた」と告げる女性警官に見せたあのまなざしには、現実の厳しさから逃げずに戦うことにした彼女の決意が宿っていたのかもしれない。
解釈によっては、ケイシー=ケヴィンの24人目の人格だったというオチ、というふうに捉えられなくもない。まぁそれだと、じゃあ、あの2人のクラスメイトの女の子たちや女性医師を殺したのもケイシーなのか?みたいなことになって、話がややこしくなっちゃいますが。
映画のラストの段階ではケヴィンのことを直接知る人間はケイシー以外殺されてしまっているので(フレッチャー先生がスカイプを使った講義で大勢の人々に、また他の医師にもケヴィンのことを話していましたが)そういうオチも充分考えられるけど、真相はどうなんでしょうね。
少なくとも確かなのは、ケイシーの前から立ち去って行方のわからなくなった“ケヴィン”という存在は人の心に巣食うモンスターそのものだった、ということ。
…理屈としてはわかるんです。わかるんだけどスッキリしないんだよなぁ。
そこはやはり、最後にケイシーが叔父を性的虐待で訴えるなりして現実に落とし前をつけるところまでちゃんと描くべきだったんではないか。
そうやって物語をひとまず終えてから、続篇への引きとしてエンドクレジットのあとにでもブルース・ウィリスの登場シーンを加えればよかったのでは。
続篇では「そういうことだったのか!!」と驚き、心から納得できる展開を期待しますよ。そうでなきゃ、この映画はあまりに中途半端だ。
僕のこの憤りすらも監督の計算で、すべてが伏線だったことがわかる、どうかそんな続篇でありますように。
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