M・ナイト・シャマラン監督、デイヴ・バウティスタ、ジョナサン・グロフ、ベン・オルドリッジ、クリステン・ツイ、ニキ・アムカ=バード、アビー・クイン、ルパート・グリントほか出演の『ノック 終末の訪問者』。

 

原作はポール・G・トレンブレイの「終末の訪問者」。

 

ゲイのカップルであるエリック(ジョナサン・グロフ)とアンドリュー(ベン・オルドリッジ)、そして養女のウェン(クリステン・ツイ)の家族が山小屋で穏やかな休日を過ごしていると、突如として武装した見知らぬ謎の男女4人が訪れ、家族は訳も分からぬまま囚われの身となってしまう。(映画.comより転載)

 

2021年の『オールド』に続く、M・ナイト・シャマラン監督監督の最新作。

 

僕はシャマラン監督の映画は1999年の『シックス・センス』から観始めて、途中で何本か抜けてるものの2015年の『ヴィジット』以降はすべて観ています。ですが僕はけっして彼のファン=シャマラニアンとかシャマラニストではなくて、2017年の『スプリット』以降の監督作品は酷評しまくってるし「ジョーダン・ピールの映画の方がいい」みたいな暴言まで吐いちゃってます^_^;

 

文句ばっか言ってるなら観るなよ、と思われてるだろうし、自分でもいい加減「シャマランの映画は俺には合わないのではないか」と思い始めてもいるのに、なんでまた最新作に足を運んでしまうのか我ながら不思議でしかたないんですが。

 

ただ、「どうせまた期待ハズレだろう」と思って観るのやめて、もしもそれがめっちゃ面白かったら悔しいので^_^; わずかな望みに懸けて劇場に足を運んだのでした。

 

毎度言い訳しますが、僕は2004年の『ヴィレッジ』までは彼の映画を楽しんできたし、その時点までは「ハズレなし」の監督だったんです。

 

だけど、それまで「この題材をこういうふうに料理する」意外性や最後のオチだったり、驚きみたいなものを感じさせてくれていたのが『スプリット』とその続篇『ミスター・ガラス』ではそれが感じられなくて非常に消化不良感があって、続く『オールド』でもコロナ禍での不自由さを象徴的に描いたような内容に大いに興味をそそられたものの、やはり以前の作品のような切れ味というか「映画」としての面白さを感じ取ることができなかった。

 

いつも出演者たちの演技はいいし演出だって的確だったと思うんだけど、ハッキリ言って肝腎のシナリオに不満があった。

 

ここ何作かのシャマラン作品って、「意外なオチ」を放棄して「まんま」なことが多いし、観客にその展開を納得させるために必要最低限の説明もせずに「そーゆーことだから」と無理くり話を進めていくパターンがほとんどで、それを「作風の変化」として肯定的に捉えている映画評論家の解説なども読んだけど、そのことが僕には「面白さ」に繋がるようには思えなくて。

 

なので、今回もそのあたりにはあまり期待せず、主演が「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズの筋肉男・ドラックス役でおなじみのデイヴ・バウティスタということと、共演が「ハリー・ポッター」シリーズのロン・ウィーズリー役でおなじみルパート・グリントということなので、シャマランが彼らにどんな役柄を振るのか、どう演出するのかを楽しもうと思った。

 

 

 

シャマランのファンの人たちもわかったうえで観てるから楽しまれたでしょうが、公開後の世間の評価は厳しめなものも結構あるし、個人的にも「スゲェ面白かった!」みたいなことはなくて不満を述べられている人たちの気持ちもよくわかる。まぁ、相変わらず強引というか、飛躍が激しく独りよがりな展開が続く内容だったし。

 

上映館も少ないですよね。以前だったらシャマランの映画は多くのシネコンでやってたと思うけど、僕が住んでるところでは1館だけでの上映でした。

 

それでも意外と僕はこの映画を楽しんだし、前作や前々作の時のような苛立ちを覚えることもありませんでした。

 

というのも、その日は保険をかけていて、この映画の前に「午前十時の映画祭13」で上映されてるスティーヴン・スピルバーグ監督の『ジュラシック・パーク』を観てそれで充分満足感を得ていたため、そのあとのこの『ノック』にとても寛容な気持ちで臨めた、というのがあったから(^o^)

 

M・ナイト・シャマランはスピルバーグに憧れて映画の世界に入ったそうだし、僕も一時期はスピルバーグの才能を受け継ぐような監督だと思ったりもしていたのだけれど、思ってたほどジャンルに広がりがない人だということがわかってきたし、“師匠”とはずいぶんと隔たりができたなぁ、などと思いながら観ていました。

 

いや、今後めちゃくちゃ感動的な人間ドラマを撮り上げるかもしれないし、まだわかりませんが。それとも、ヒッチコックの路線を目指しているのだろうか。

 

それでは、これ以降はネタバレを含みますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

 

同性愛者のカップルと、その養子でアジア系の少女、というと、今年のオスカー受賞作品『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と重なるところがあるけど、実際『エブエブ』で描かれた「家族愛」と通じるものがこの『ノック』にはあって、だから『エブエブ』に感動した、という人は、もしかしたらこの映画もお好きかもしれないですね。

 

『エブエブ』については僕個人としてはかなり辛口の感想を書いてしまったけれど、でも時々目にする「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)対策がー」云々言ってるような難癖と一緒にしてもらいたくはないんですよね。僕が気にしてんのは、自分にとって「映画が面白いかどうか」(物語や出演者の演技などが優れていると感じられるかどうか)であって、ポリコレがどうちゃら、なんていう理由で文句を言ってるわけじゃないので。

 

そういえば、この映画の上映前に今度公開されるディズニーのリトル・マーメイド』の実写化映画の予告篇が流れていたけど、またぞろ観る前から文句垂れてる人間たちがいますよね。アリエルは白人だろ、とか。あの映画だって、僕が気になってるのは同様に「映画として面白いかどうか」だ。出演者の肌の色で映画の良し悪しを判断するわけではない。

 

以前は僕も、いくつかの映画の感想の中で「アメリカ映画の中で別に中国人や日本人を見たくない」というようなことを書いていたんだけど(ポリコレなんちゃらという言葉がやたらと使われだす以前)、実際にあちらに住んでいて普通に生活している人々を映し出すことにはなんの抵抗もないし、逆に今、白人しか出てこないアメリカ映画を観たら異様に感じるだろうと思う。僕の意識だって変化している。

 

この『ノック』もまたゲイのカップルやアジア系の子ども、という登場人物たちに対して、同じようなことを言ってる人々がいそうだけど、この映画の「同性愛者のカップル」や「アジア系の女の子」にはそれぞれちゃんと意味が込められているから、「ポリコレ対策」とかじゃなくて、むしろそれをこそ描こうとしているんでしょう。

 

エリック役のジョナサン・グロフは『マトリックス レザレクションズ』で“スミス”を演じていた人。また「アナと雪の女王」シリーズで“クリストフ”の声を担当してもいる。

 

彼とアンドリュー役のベン・オルドリッジは二人とも実際にゲイであることをカミングアウトしている。

 

ウェンは生まれつき口唇裂で、唇の上に手術跡がある。映画の冒頭でそれをレナード(デイヴ・バウティスタ)に指摘される。彼女のその特徴は設定上たまたまそうなだけであって、その後、特に物語にかかわってくることはない。

 

 

ウェン役のクリステン・ツイちゃん。鹿のパーカーが可愛い(^o^)

 

まぁ、僕は、最近はシャマランのマイノリティの描き方をあまり信用していないので、彼がどこまで真剣にこういう題材を考えているのかはわかりませんが、でも出演者のキャスティングなどからも意識的なのがわかる。誰かに媚びたいのではなくて、あえて彼らを描きたいんでしょう。

 

終末論者の四人組が突然やってきて、エリックとアンドリュー、ウェンのうち、誰か一人が“犠牲”になれば世界の破滅を防ぐことができるから協力してほしい、と言ってくる。

 

当然、そんな無茶苦茶な話があるかと抵抗するが、信じようとしない彼らに四人は証拠を見せる。一人ずつ死んでいくのだ。そのたびにTVのニュースでは大惨事が報じられる。

 

エリックとアンドリューはこれまでに同性愛者であることで街でいわれのない暴力を振るわれたり、両親からも二人の結婚を理解されず、人里離れたログハウスに移って幼いウェンと三人で住むことにした。

 

だからか、はじめは四人の訪問者たちをゲイを理由に自分たちを襲撃にやってきたのだと疑うが、次第にそうではないことがわかってくる…というお話。

 

しばらくの間は、デイヴ・バウティスタ演じる教師のレナードが語る世界の終わりの話が果たして事実なのか、それとも彼らは世迷言を信じ込んでいるだけのカルト集団なのか、ということでサスペンスを持続させるんだけど、結構早い段階で、これは「実はこういうオチでした!」みたいな明快な種明かしのない物語なのだろうな、というのは察しがつく。

 

『オールド』にしてもそうだったように、最近のシャマランは「謎」に「意外なオチ」などつけずに、そのまんまでした!で終わらせるようになってきているので。

 

そして、散りばめられた「謎」や「ヒントらしきもの」の断片がそのまま放置される。あとは観客の皆さんが感じて、考えてくださいね、と。

 

直接描かれていないものから観る側が自分たちで物語や背景を作っていくことが求められる。

 

ゲームっぽいですよね。

 

僕はそういうの一切やらないんでよく知りませんが、「テーブルトークRPG」とかいうの?違ってたらごめんなさい。

 

どうも、最近そういうタイプの映画が増えてるような気がしていて。

 

キャラクターとかその背景やら設定だとかにいろんなヒントっぽいものを撒いておいて全部は描かず、観客はそれを拾いながらまるでゲームのプレイヤーのように各自で「物語作り」に参加する。そういう感覚で映画を楽しんでいる人たちが増えてるような。

 

僕が『エブエブ』を楽しめなかったのは、あの映画がそういうタイプの作品に感じられたから、というのもある。描かれていないものを観客が想像して積極的に作品に「入り込んで」いかないと、面白さが味わえないんですよね。現在BSで再放送中の朝ドラ「あまちゃん」も僕にとってはそう。

 

『ノック』は『エブエブ』のように世間で絶賛はされていないようだし、酷評も目にするけれど、この映画をしっかり楽しめた人というのは、おそらく登場人物たちの境遇に自分を重ねられたり、想像力を駆使して彼らの背景についてもいろいろと脳内で補完できた人たちなのだろうと思う。

 

最初にジョーダン・ピール監督の名前を出したけど、彼が去年撮った『NOPE/ノープ』も、どうやら「映画」についての映画らしい、ということぐらいはわかっても、あの映画で描かれているものが何を意味しているのかは一度観ただけでははっきりとはわからなかったし、僕なんかは解説してもらわないとわからない、あるいは解説されてもよくわかんない部分も多くて、そういうところは最近のシャマランの映画とよく似ていた。

 

ただ、『NOPE/ノープ』は映像そのものに見応えがあったから、なんなのかよくわかんなくても圧倒されたんですよね。カタルシスはあったので。

 

一方で、この『ノック』は『ノープ』ほど大予算の作品ではないこともあって(舞台となるのはほとんどが山小屋近辺だけで、それ以外は回想シーンぐらい)、正直なところ観始めてしばらく経ったら「いつまでこの堂々巡りみたいなやりとりが続くんだ」と少々疲れてきたのだった。

 

あれって、ドリフの「もしもこんな訪問者がいたら」というコントをめっちゃシリアスにやってみた、みたいな感じじゃないですか^_^;

 

スゲェまどろっこしいの。一人ずつ自己紹介とかしだすし。

 

話が全然先に進まないし。

 

もう、そう考えたら可笑しくなってきたけどw

 

だから、あの登場人物たちの“キャラ”を楽しんだり、シチュエーションの奇妙さに心の中でツッコミ入れつつ観ていたら、わりと面白いかもしれないですね。

 

ロン、あっちゅー間に死んじゃうし。

 

四人が持ってるやたら禍々しい「道具」も、なんに使うのかと思ってたら、そういう使い方?って。だったらあんなにゴテゴテと物々しくしなくてもよくない?と。

 

あの四人組がなんでいちいち一人ずつ自ら死ななきゃいけないのか意味がわかんなかったし(聖書的な解釈があるのかもしれませんが、無知なので知らない)、この映画は観客がちゃんと納得できるように丁寧に説明してはくれないので、シャマランがもう「俺が決めた映画内ルール」を押し通して最後まで突っ走る。

 

あのマイノリティの三人家族がどうして選ばれたのか。なぜ彼らのうちの一人が死ななければならなかったのか、最後まで僕にはわからなかった。

 

コロナ禍での鬱屈や不安、それと世の中の大惨事やさまざまな差別と不寛容などがここに込められているのだろうことは僕にも理解できますが、そして、この映画の中で死んでいった人たちがその犠牲者の“メタファー”であろうことも想像できはするんですが、でも、亡くなった人たちは別に自ら進んで“犠牲”になったわけじゃないじゃないですか。

 

ほとんど終末論者のカルト集団にしか見えない者たちを予言者のように描き、弱者たちの中から“犠牲”を選んで、それで世界が救われる、みたいな話を作られても、僕にはやはり釈然としないんですよね。

 

ウェンも、不安げな表情と楽しそうに唄ってる時の様子の違いなんか、演じてるクリステン・ツイちゃんがとてもよかったから、最後に金切り声をあげてピンチを乗り切るだけじゃなくてもうちょっと活躍させてあげられなかっただろうか。「物語」ってそういうものじゃないですか。たとえ現実では非力に見える少女であっても、物語の中では何かができる。

 

それとも、ウェンは「ただそこにいるだけ」で祝福されるべき存在として監督は描いたのかな。

 

最初に書いたように、意外と僕はこの映画を楽しめちゃったんですが、それは主演と言っていいデイヴ・バウティスタが実は演技派であることに気づかされたから、というのもある。

 

だって、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では大笑いして暴れたり大事な場面でお菓子食ってたりする巨漢の役だったのを、今回はほんとに顔の表情だけの絶妙な演技をたくさん見せてくれているもの。

 

シャマラン監督は『ブレードランナー 2049』で初めて彼のことを知ったのだそうで、あの映画での演技にピンときたってのがスゴいな。

 

さて、次回作もきっとあるのでしょうが、またまた何かに誘われるように足を運んでしまうのだろうか。私もシャマラニストへの道を歩みつつあるのかw

 

 

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