ラナ・ウォシャウスキー監督、キアヌ・リーヴス、キャリー=アン・モス、ジェシカ・ヘンウィック、ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世、ジョナサン・グロフ、ジェイダ・ピンケット・スミス、プリヤンカー・チョープラー、エレンディラ・イバラ、ブライアン・J・スミス、トビー・オンウメール、アンドリュー・コールドウェル、マックス・リーメルト、ニール・パトリック・ハリスほか出演の『マトリックス レザレクションズ』。

 

ゲーム・デザイナーのトーマス・アンダーソン(キアヌ・リーヴス)はかつて「マトリックス」シリーズで一世を風靡したが、あれから20年経ち、精神科医(ニール・パトリック・ハリス)にかかりながら変化のない日常の中にいた。その彼の前に現われたバッグス(ジェシカ・ヘンウィック)、そしてモーフィアス(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)は、「マトリックス」はただのゲームではなく現実であることを告げ、トーマスこそが世界を救った伝説の救世主“ネオ”だと伝える。やがて、彼の愛する“トリニティ”(キャリー=アン・モス)もいまだ囚われの身であることがわかる。

 

1999年公開の『マトリックス』と2003年の『同 リローデッド』『同 レボリューションズ』に続く「マトリックス」シリーズ最新作。

 

 

確か最初は2022年公開予定だったはずでつい最近まで追加撮影をやってたような気がするんだけど、コロナ禍で公開が延期される作品が多い中、思ってた以上に早くお目見えすることに。

 

しかも、ここんとこあちらの大作映画は日本公開が後回しにされっぱなしだったところを、久しぶりに先行公開(日本は17日でアメリカは22日)。

 

公開初日に鑑賞。IMAXではなかったけれど、その劇場で一番大きなスクリーンで観られました。

 

1作目から22年後、3作目から18年後に作られた本作品は前3作と繋がっていて、だからもちろんこれまでのシリーズ作を観ていることが前提でお話が進む。事前の過去作の予習は必須です(すでにこれまでの3作を観ていてその内容をある程度覚えている人は、復習の必要は特にないと思いますが)。

 

なお、これ以降は本作品を含むシリーズ4作のネタバレがありますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

 

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「マトリックス」は、20世紀の終わりから21世紀をまたぐ時代の“神話”になった。

 

それを2020年代となった今、どう語り継ぐか。

 

Resurrection(復活)”というタイトル通り、前作『レボリューションズ』で死んだはずのネオとトリニティが再び登場する。

 

前3作で描かれたのは「ゲーム」だったことが判明して、それを創ったのがキアヌ演じるトーマス・アンダーソン。

 

トーマスは後進たちから尊敬されているが、彼は長らく精神的な病いに苦しみ、時には現実と虚構の区別がつかなくなったことも。

 

ちょっと「はてしない物語(映画タイトル『ネバーエンディング・ストーリー』)」みたい。

 

デッドプール」シリーズや『キャビン』など、ジャンル映画について、その作品自体が自己言及する“メタフィクション”というのは僕はけっして嫌いではないし、過去作の焼き直しではなくてそれらを破壊する行為は、観客に「目を覚ませ」と言い続けてきたこのシリーズでは当然行き着くべき帰結だったとは言えるかもしれない。

 

トーマス自身は死んでおらず、トリニティと同じ顔をした女性ティファニーは結婚していて子どももいる。命を懸けて世界を救ったはずだったのに、何も変わっていないような「ループ」する毎日。

 

 

 

ベンチで一人ぼっちでサンドイッチを手にする「サッド・キアヌ」ならぬ、ビルの屋上で酒を飲みながら「飛べるかな」とか考えちゃう日常。

 

“Resurrection”というのはキリストの復活の意味でも使われる言葉だそうだから、長髪で髭ヅラのネオはキリストに重ねられているし、だからか彼は若き日のモーフィアスに両頬を殴られても投げ飛ばされてもなかなか闘おうとしない。

 

自分が元・救世主だったことを忘れて日常に埋没している男がモーフィアスが差し出した赤いピルを飲むまでに結構な尺が割かれている。

 

冒頭からバッグスやモーフィアスたちがエージェントと闘う様子が描かれはするんだけど、ちょっと地味だし、アクションはそれぞれそんなに長くない。

 

同じことを繰り返したくない、という気持ちからでしょうか、まるでこれまでの「マトリックス」シリーズのお決まりのパターンやアクションの連続を自ら抑制しているような感じすらある。

 

その一方で、過去作の各場面が頻繁にインサートされる。まるでアルバムをめくっているかのように、途中でその場面を実際にネオたちが見ていたりも。

 

主人公が観客とともに過去作を振り返る。奇妙な試みではあるし、この種のアクション物としてはユニークな作品ではあるかもしれない。

 

…けれど、酷い言い方ですが、この最新作は「マトリックス」三部作の残骸を集めてでっち上げた代物、というふうに僕の目には映りました。予告篇がすべて、みたいな。

 

今回、ラナ・ウォシャウスキー監督は『クラウド アトラス』で組んだ脚本家と再び共同でシナリオを書いているけれど、『クラウド アトラス』を観た時に感じた「この監督はもう終わってるんじゃないか」という思いがまた沸々と湧いてきたのだった。

 

もっとも、僕はまだこの映画を1度しか観ていないし、たった1回しか観ていない映画の自分の評価がまったくあてにならないこともわかっていますから、あくまでも今この時点での感想です。

 

これから何度も観返せば違う感情が湧いてくるかもしれない。

 

ただ、『クラウド アトラス』の時に強く感じたことなんだけど、どうもこの監督さんにはものの見方にずいぶんと偏りがあるんじゃないだろうか。

 

独りよがりな部分が目立つというか、でもそれを「真理」のように断言調に語るので、腑に落ちないまま映画を観続けることになる。屁理屈を延々聴かされてる気分。

 

いや、屁理屈は僕もいつもコネまくってますけど。

 

この映画ではもうなんでもかんでも言葉で説明する。だけど全然頭に入ってこないんですね。まるでヲタクが喋り続けているしょーもない薀蓄を聴かされ続けてるみたいな徒労感(さっきから自分の放言が全部ブーメランになって返ってきてますが)。

 

世界の仕組みがどうたら、というのは、それはただ言葉だけじゃなくて「アクション」として見せてくれないと。

 

『リローデッド』あたりまでは、登場人物たちの存在と彼らのアクションが現実社会の「たとえ話」としてしっかり機能していた。貴族のような生活をしている裏社会の人物や、人間が幽霊やモンスターと見做している者たちの正体を古いプログラム、放浪者〈エグザイル〉として描いたり。

 

1作目の感想でも述べたように、このシリーズでの「機械軍」、あるいは「センティネルズ」というのは現実の世界の“システム”=理不尽なルール、の比喩なんですよね。

 

システムを作るのは人間であって、人を支配するのも同じ人間。機械はただの道具に過ぎない。人間を監視する役割を担うエージェントたちはそれを擬人化して表現したもの。人間にとっての脅威は人間。

 

今ならウイルスや自然災害も、人間がその原因を作っているのではないかと言われている。

 

1作目でヒューゴ・ウィーヴィング演じるエージェント・スミスは人類をウイルスに喩えていたけれど、彼の言葉は1999年当時よりも現在の方がより説得力を増しているんじゃなかろうか。

 

地球のことを考えれば考えるほど、実は人類こそが滅びるべきなのではないか、と絶望に陥ってしまいそうになるが、それでも守るに値するものであること、私たち人間は生き続けなければならないし、生き続けてほしいと願える存在として今一度自らを振り返る──「マトリックス」に続篇が必要ならば、求められている物語はそういうものではないだろうか。

 

マトリックスに住む人々(つまりこの映画を観ている私たちや現実世界の多くの人々)をシステムに支配された“ボット”と呼び、ゾンビのように自分の意思がない操り人形のように見做してモブ扱いしている限り、ラナ・ウォシャウスキー監督のループ(堂々巡り)は永遠に終わらないだろう。彼女が望むような世界はけっしてやってはこない。

 

世界や人々を見つめる目を変えなければ。目を覚ますべきなのは監督自身じゃないのか。

 

『レザレクションズ』の劇中で、トーマス=ネオが勤めるゲーム会社の社員がゲーム「マトリックス」シリーズの魅力を語っていて、一方で哲学や小難しいことに対しては無理解な態度を取る。ウォシャウスキー監督としては、そうやって作品の本質的な部分を理解せずにうわべの派手なアクションだけに目を奪われて持て囃している多くの「観客」(とクリエイター)たちを揶揄したつもりなんだろうけど、僕がここで断言するまでもなく、かつて映画『マトリックス』が大ヒットしたのは間違いなく迫力あるクンフーバトルとガンアクションのおかげだ。

 

本物そっくりのマトリックスが生み出す世界で、見た目は等身大の登場人物たちが敵味方に分かれて超人的な技で闘う──それこそがこのシリーズの醍醐味だった。

 

それらがなくなれば、あとにはよくわからない哲学だとか小難しい屁理屈や専門用語、これまた退屈極まりないメカゲソの大群とみすぼらしい身なりの船員たちの戦いだけしか残らない。

 

僕が最新作に求めていたのは『リローデッド』の「百人スミス」やメロヴィンジアンの城の中での闘いフリーウェイでのカーチェイスのような大迫力のアクションを2020年代のVFX技術で描いたものだったんだがなぁ。

 

『マトリックス』の面白さは、アクションシーンそのものの中にあった。アクションが理屈を超えて観る者の心を震わせる。創造主であるラナ・ウォシャウスキーはそのことをすっかり忘れて、映画の中で登場人物たちの口を借りて熱弁を振るう。

 

あれほど「目を覚ませ」と訴えたのに、人々はいまだにマトリックスの中でシステムに従順なままだ。『レザレクションズ』のエンドクレジットでも、あらためて「Wake up」が鳴り響く。

 

だけど、悪いけど彼女の声はほとんどの観客には届いていないと思う。観客は映画監督のつまらない説教を聴きたくて映画館に来ているのではないから。

 

『レザレクションズ』にワンショットでも『マトリックス』の1作目のアクションを超えるものがあっただろうか。僕はなかったと思う。

 

VFXの精度は上がり、クライマックスで高層ビルから飛翔するネオとトリニティはまるで本当に空にダイヴしているようだ(※あの場面は合成ではなくて、ワイヤーを使って実際に高所で撮影しているらしいですが)。

 

 

 

しかし、プログラム内でのモーフィアスとネオの闘いも、それからネオたちとスミス(ジョナサン・グロフ)や放浪者〈エグザイル〉らとの闘いも、これまでの3本の映画にあったケレン味を排して引きの画で一連のアクションを見せることもやめてしまった結果、あまたの他のアクション映画と区別がつかない凡庸で退屈なものになってしまった。

 

 

 

 

やたらと逆光になってたり、バイクのチェイスシーンも夜のため暗くてよく見えない。

 

もしかして、これまではアクションシーンは妹のリリーさんが担当していたのだろうか。

 

何よりも、この18年の間にハリウッドでは数多くのアクション映画やアメコミスーパーヒーロー映画が作られて(3作目が公開された2003年には、いまだマーヴェル・シネマティック・ユニヴァースは始まってもいなくて、ようやくサム・ライミ版「スパイダーマン」の1作目が公開されたぐらいだったし、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』も存在していなかった)、それらを観慣れた現在では、せいぜい弾丸を止めることぐらいしかできないネオにはもはや凄さを感じられないし、「救世主」がどうとかいうような話もこれまで散々観てきているので今さら感がハンパない。

 

20年前には凄かったヒーローの力が今では衰えた、という話をやってるのはわかるんですが、映画のアクションが以前のものよりもスケールダウンしてしまったのでは、観客にとっては肩すかし以外の何物でもないだろう。ネオが闘えないんだったら、他の新しいヒーローたちがもっと頑張ってくれないと。

 

これだったら、ゲーム・デザイナーが登場してゲーム内の世界が描かれるライアン・レイノルズ主演の『フリー・ガイ』の方が僕はよっぽど面白かったし、かつての『マトリックス』の精神も受け継いでいたんじゃないかと思う。

 

それに、その後のアクション映画やアメコミ映画に多大な影響を与えた本家本元の「マトリックス」でせっかくメタフィクションをやるんだったら、もっともっとトーマス/ネオや特にティファニー/トリニティのキャラクターを掘り下げられただろう。

 

婆さんになったナイオビ(ジェイダ・ピンケット・スミス)とのいざこざとか、どーでもいいから。あの中盤のくだりがほんとに長くて苦痛だった。船員たちを一人ずついちいち紹介するのも余計だし、なんかビミョーなデザインのメカ製のエイか鳥みたいな“クジャク”とのよくわかんない関係もすべてが消化不良で、あの辺は映像的な見応えもなかった。イチゴの栽培云々も、SDGsかなんかと絡めてるのかもしれないけど、まったく興味が湧かなかった。

 

将軍がどうとか船長がどうとか反乱がどーしたとか、あれから「現実」では60年経っている設定なのに、前作『レボリューションズ』からほとんど代わり映えのしない、ボロ服をまとった船員たちが神妙な顔して整列してて、CGで描かれたメカメカしい風景とメカゲソたちが漂うク○つまんない未来描写。

 

納得いかない命令には異議を唱えて常に自分の信念に忠実だったモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン。残念ながらヒューゴ・ウィーヴィング同様本作品には不参加で、バンク映像のみでの登場)とともに戦ってきたはずのナイオビの変化は、女性のリーダーが以前の男性のリーダーと同じように権威主義的になってしまったことを描いていたのかもしれないけど、何も響いてこなかった。だって、これまでのこのシリーズで描かれてきた評議会の老人たちと描き方がまったく変わってないから。老人は害悪だってことだろうか。でも誰だって年は取るのだ。

 

このシリーズの致命的な欠点は、作られた幻、偽りの世界である「マトリックス」の方が魅力的に見えて、「現実」だとされている世界に1ミクロンも魅力を感じられないこと。

 

1作目のサイファーじゃないけど、これじゃマトリックスにいた方がいいと思っても当然だし、繭の中で眠ったままマトリックス内で生活し続けてなんの不都合があるんだ?と感じてしまう。

 

ネオたちが戦う根拠が回を重ねるごとに薄れていってしまっている。あんな薄暗くて不便でババアが偉そうに威張ってるような世界なんて守る価値あるか?

 

映画「マトリックス」って、権威や権力から自由になるための戦いを描いた物語だったんじゃなかったっけ?“将軍”が仕切ってるような社会こそ、まさしくその権力の温床じゃないか。

 

むしろこの最新作では、人類はいかにマトリックスと共存していくべきか、を描いた方がよかったんじゃないでしょうか。

 

僕たちがIT機器だとかSNSなしではもはや暮らしていけないように、人々にはマトリックスでの生活が必要なんだ、という発想の転換があったらよかったのに。

 

いや、最後の精神科医(アナリスト)との再会の場面なんかを観てると、作り手はそういうことを描こうとしていたようにも感じるんだけど(あるいは、さらなる続篇への引きのつもりだったのかな)、20年前の物語を新たに描き直したようには思えなかったんですよね。劇中で言ってる「ループ」そのものじゃん、と。しかも作品としては著しく劣化している。

 

それに、これまでの3作に僕はそんなに長さを感じたことはなかったけれど、この映画は長過ぎる。この内容に148分もいらない。

 

奇しくも先週観た『ラストナイト・イン・ソーホー』も、かつて描かれた物語を現代的な目で語り直したものでした。同じようなストーリーが時代の変化とともにアップデートされていく。あの映画ではそれが効果を上げていた。

 

『レザレクションズ』ではマトリックスは前作の頃からヴァージョンアップされて、預言者〈オラクル〉は消去され、システムを作る設計者〈アーキテクト〉はニール・パトリック・ハリス演じる“アナリスト”に代わっている。

 

 

 

アナリストはトリニティに対して「メス犬」「ちゃんと躾(しつ)けておけ」などと女性蔑視的な暴言を吐く(そしてそのたびにトリニティに殴られる)。そういうところをもっと描き込んでおけば、『ラストナイト~』のように「ヒロインの視点」から描く「マトリックス」の新たな誕生がもっと際立ったと思うんだがな。

 

これまで全体が緑色がかっていたマトリックス内は、よりクリアになって見た目が現実の僕たちが住む世界に近くなっている。

 

最古のプログラムと言われていた『リローデッド』と『レボリューションズ』の敵メロヴィンジアン(ランベール・ウィルソン)は落ちぶれてボロボロの服装に薄汚れた顔で再登場してネオに悪態をつく。

 

メロヴィンジアンがアクション映画(ゲーム)のシリーズ物のお約束へのツッコミみたいなことを呟くところは面白かったけど、そういうフィクションと現実の世界を混線させる手法も、もっともっと巧くやれたと思うんだよな。

 

ナイオビ婆さんのいる未来世界の部分は全部カットして、トリニティの救出をもっと早くに描き、彼女の“覚醒”のあとにアナリストとの対決、ってことでよかったのに。

 

鑑賞後に二人連れの女性のお客さん(映画館で感想を述べ合う二人連れの女性客に出会う確率の多さよ)が「ずっと台詞で説明してたね」と話していたけど、それって映画のシナリオ的には一番ヘタクソなやり方でしょう。そんなところまで押○守監督を見習わなくてもいいって。

 

バルフィ!』の主演女優プリヤンカー・チョープラーが『レボリューションズ』でネオが出会うインド人の少女サティーが成長した役を演じていたけど、残念なことに彼女はアクションを見せてはくれず、長々と説明台詞を喋るだけ。もったいないなぁ。

 

 

 

映画の冒頭近くでゲーム会社の関係者役でクリスティーナ・リッチが出てたけど、彼女もワンシーンだけの出演で、なんでここでクリスティーナ・リッチ?と不思議だった。

 

トム・ハーディもカメオ出演してたそうだけど、どこに出てたのかわからず。

 

唯一、青い髪をしたバッグスの活躍でジェシカ・ヘンウィックという女優さんの存在を知れたことが収穫だったかな。アクション面での実質的なヒロインは彼女だった。

 

 

 

 

…まぁ、ぐちゃぐちゃと文句を垂れてきましたが、顔や手に皺やたるみが出てきたリアルに20年経った姿を見せてくれたネオ/キアヌとトリニティ/キャリー=アン・モスのふたりのおかげで、この映画はフィクションと現実のあわいを行き来する不思議な余韻を残す作品になったし、「『マトリックス』とはなんだったのか」を作り手自身がメタ的な視点で描いてみせた、ということでは、「スター・ウォーズ」のエピソード7~9を思わせもする。

 

M・ナイト・シャマランの『アンブレイカブル』(2000年) の続篇2本も。

 

どちらも僕は酷評しちゃったんですが、この『レザレクションズ』もあれらの続篇たちと似たような評価だと思ってもらえれば。

 

まだ公開が始まったばかりなのでこれから観るかたに先入観を与えたくはないんですが、正直なところを語らせていただきました。世間での評判がどのようなものになるのかはわからないけれど、さらなる続篇は難しいんじゃないかなぁ(この続きが作られたら懲りずに観ますけどね)。

 

こうなったら、来週公開のキングスマン」の新作に期待しましょうかね。

 

 

※追記:

 

その後、IMAXレーザーで再鑑賞。

 

 

 

一週間前に1作目をIMAXで観たばかりですが、やっぱりイイなぁ、IMAXは(^o^)

 

アクション面への不満とナイオビのいる「現実」の未来世界の映像が退屈、というのは前回観た時と変わりませんが、2回目で物語の流れをすでに知っているために登場人物たち一人ひとりにより注目できました。

 

老ナイオビがバッグスたちの前で語っていることと彼女の本心とが違うのがわかったし、あれは集団を統率してコミュニティを守っていかなければならない立場の者の苦労についての描写で、“映画監督”ラナ・ウォシャウスキーのこの20年以上の間の変化を重ねてもいるのでしょう。

 

本作品でトリニティが「目覚めた」ことで、ネオとトリニティ、ふたりでひとりになった彼らは、真の「救世主」となったのかもしれない。

 

「交渉しにきたのではなく、作り直しにきた」と語った彼らは、最後にアナリストを“消去”したのだろうか?

 

ネオと一緒に戦うと仲間がみんな死ぬ、というこれまでのジンクスに反して、今回はともに戦った仲間たちの中で誰かが死んだ様子はない。

 

トリニティに憧れていたレクシー(エレンディラ・イバラ)や「ネオ主義者」のバーグ(ブライアン・J・スミス)、やはり「伝説の救世主」に思わず見惚れてしまうシェパード(マックス・リーメルト)たちは、「マトリックス」を愛し、ラナ・ウォシャウスキーを慕う、これからの世界を担う者たちということでしょう。

 

「キャトリックス」とか言って喜んでる若者たちにウォシャウスキー監督は苦笑しながらも、アクションの方はこれからは君たちに任せたよ、って感じですかね。

 

『マトリックス レザレクションズ』は僕が期待していたような映画ではありませんでしたが、これはラナ・ウォシャウスキー監督の「私は好きにした、君らも好きにしろ」という後進たちへのエールであると同時に彼女からの世界へ向けた「愛」の形だったのかも。

 

『クラウド アトラス』よりは、はるかに面白かったですよ(憎まれ口)。「もう終わってる」は言い過ぎでしたね。ごめんなさい。

 

やはり僕の評価は信用できないね(;^_^A

 

 

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