ジェームズ・ガン監督、クリス・プラット、ゾーイ・サルダナ、デイヴ・バウティスタ、ブラッドリー・クーパー (声の出演)、ヴィン・ディーゼル (声の出演)、ポム・クレメンティエフ、カレン・ギラン、エリザベス・デビッキ、マイケル・ルーカー、カート・ラッセル出演の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』。

 

トレジャーハンター“スター・ロード”ことピーター・クイルとガモーラ、ロケット、ドラックス、ベビー・グルートたち“ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー”の面々は、アイーシャ率いるソヴリン人の依頼の報酬にガモーラの妹ネビュラの身柄を引き取るが、ロケットがソヴリン人のバッテリーを盗んだために彼らに追われることになる。宇宙船を破壊されたピーターたちの前に、ピーターの父親を名乗る男エゴが現われる。ガーディアンズに逃げられたアイーシャは、ピーターの育ての親で宇宙海賊ラヴェジャーズのリーダー、ヨンドゥにピーターたちの捕獲を命じる。

 

2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の続篇。

 

 

 

前作についてはけっして酷評したわけではないですが、ちまたの盛り上がりに対して個人的にはそこまで熱狂できなかったので、今回最新作の予告篇を観ても心を動かされなかったこともあって、まぁスルーかな、と思っていました。

 

でも、事前に“あの人”が出演している、という情報を知って、「じゃあ観よう」と一瞬で心変わり。

 

でも、もう最初に結論から申し上げておきますが、好きな人には申し訳ないけれど、やはり前作同様、というよりも前作よりも僕は楽しめなくて、明らかに途中で飽きてきてしまったので、残念ながら以下の感想では褒めていません。

 

なので、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーをこよなく愛するかたがたはそっとこのページを閉じていただいて、どうぞもっと愛のあるレヴューを読まれますように。

 

熱烈なファンも多いシリーズだからこれは完全に僕の個人的な好みによる感想だし(いつだって個人的な好みで書いてますが)、前作ですでにどういう雰囲気の作品なのかはわかっているから本気でディスる気もありませんが。

 

同じマーヴェルの「アベンジャーズ」のシリーズと同じく、気に入らないなら最初から観なければいいわけで、だからこれから書く感想は他の皆さんほどに映画を楽しめなかった僕が、あーだこーだと言葉を弄して作品について語ることで自分なりにこの映画を味わい直そうという試みです。

 

観終わった直後から自分でも驚くほど急速に内容が頭から消えていってるんであまりよく覚えていないのと、前作も劇場で観て以来一度も観返していなくてもうかなり忘れているんで、ほとんどうろ覚えで書いてますからいろいろ間違っていたらゴメンナサイ。

 

僕が興味をそそられた“あの人”については予告篇では触れられていないし、映画館で純粋に驚きたい人は鑑賞後にお読みください。

 

 

前作で主人公のピーター(クリス・プラット)の父親はどうやら宇宙人だったらしいことが判明したのだけれど、その正体については描かれなかったのが、今回はその父親が登場する。

 

演じているのはカート・ラッセル。

 

 

 

木人グルートの声を担当しているヴィン・ディーゼル主演の「ワイルド・スピード」シリーズにも前作から出演してるし、最近いろんな映画にやたら出てますよね。

 

80年代以降さまざまな主演映画でヒーローを演じてもきた彼が主人公の父親役、というのもなかなか感慨深いものがありますが。

 

映画の冒頭で、このピーターの父“エゴ”の若き日が描かれるんだけど、ちょうど『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でロバート・ダウニー・Jr.の若い頃が描かれていたように、ここでも映像加工によってカート・ラッセルの顔が若返っている。

 

カート・ラッセルが出ていることは知っていたから見間違えはしなかったけど、ちょっとジェフ・ブリッジスとイメージがカブるんだよなw 二人とも年齢も近いし、似た系統の顔ですよね。

 

ジェフ・ブリッジスも以前『トロン:レガシー』でVFXによって若い頃の顔が作られていたけど、どちらの作品もよく見てると彼らの顔を映像的にイジッていることはわかるから、どこか違和感があってなんとも気持ち悪い。

 

『トロン:レガシー』の時にも人の顔を若返らせて自由に演技させるというのは技術的にかなり面倒、ということが言われていたし、だから映画の中で使われる時間も限られているんだけど、『ローグ・ワン』でもそうだったようにやっぱり違和感があって、人間の顔というものを再現するのがいかに難しいかよくわかりますね。

 

 

さて、カート・ラッセルが演じるエゴは地球人である女性と恋に落ち、やがてピーターが生まれるが、その時にはエゴは宇宙の彼方に去っていた。

 

父親を知らずに育ったピーターは、少年の時にヨンドゥ(マイケル・ルーカー)たちに捕らわれて宇宙に連れ去られる。

 

今回、それが父エゴの命令によるものだったことが彼の口から伝えられる。

 

ピーターが宇宙海賊に育てられた理由──それは父の恐るべき計画の一環だった。

 

しかも、病気で亡くなった母の死因が父エゴによって故意に彼女に植え付けられた腫瘍によるものだったこともわかる。

 

ようやく逢えた父はまさしく惑星規模の“エゴ”の塊だった。

 

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのシリーズ2作目である本作品は、前作以上に「親子」や「家族」「仲間」というものがテーマとして前面に出てきている。

 

そこにグッときて泣けた、という人たちも大勢いる。

 

前作の時には僕はピンとこなかったんだけど、今回はもう、これは完全にヤンキー漫画とか少年ジャンプ的な世界だな、と。

 

思った以上にノリがお馴染みの漫画やアニメ、特撮ヒーロー番組っぽいのだ。

 

そういうところもこのシリーズの人気の理由の一つなのかもしれませんね。

 

銀河を股にかけるヒーローチームたちの物語なんだけど、描かれているのは家族間のあれこれや友情。

 

ピーターはガモーラ(ゾーイ・サルダナ)に気があるんだけどその想いをなかなか素直に言えなかったり、ガモーラはガモーラで察しが悪くて、ちょっとイイ雰囲気になった直後には二人は言い争いになって恋路はなかなか進展しない。これぞ連続モノの宿命とばかりに。

 

まるで高橋留美子の漫画みたい^_^;

 

宇宙海賊ラヴェジャーズは完全にヤンキー漫画の珍走団(族)だしw

 

もともとヨンドゥとは仲間だった古参の幹部スタカー役で僕のお目当てのシルヴェスター・スタローンが出てたけど、別に敵と戦ったりはしない。ほんと、伝説の番長とか総長、みたいな役だった。ミシェル・ヨー姐さんまで顔出してたし。スタ公…じゃなくてスタカーはしっかりヨンドゥに説教もする。この二人(の中の人たち)はかつて『クリフハンガー』で一緒に戦ってたもんね。心憎いキャスティングですな。

 

 

↑上の画像のスタローンはアイコラですがw

 

あとどーでもいいですが、やたらと「ボブ・サップが出てて驚いた」と言ってる人たちがいるんだけど、でも残念ながらあれはサップじゃありません。タランティーノの『パルプ・フィクション』やトム・クルーズ主演の「ミッション:インポッシブル」シリーズに出ているヴィング・レイムスです。ハゲの黒人マッチョはみんなボブ・サップじゃねぇんだよ、失礼だろ。なので、これからご覧になるかたはくれぐれもお間違いなきよう。

 

前作から続くガモーラと血の繋がらない妹のネビュラ(カレン・ギラン)の確執とか、彼女たちの父親サノスのとんでもないDV親父ぶりなんかもあまりにドメスティックすぎて苦笑してしまう。

 

 

 

だってこれ、宇宙でスーパーヒーローたちが戦う“スペースオペラ”でしょ?なんだこの大映ドラマみたいな話は(;^_^A

 

悪の親玉サノス(声の出演:ジョシュ・ブローリン)は今回は一切姿を見せずにガモーラとネビュラの会話の中だけにしか出てこないので、まるでTVのお笑い芸人がヴァラエティ番組で自分の暴力親父のエピソードを得意げに喋ってるような感じだし。

 

ネビュラがガモーラの命を狙い続けるのは、父サノスに姉妹同士で競争させられていつも負けていたために罰として虐待を受けてきたからだし、ピーターは自分と母を見捨てて宇宙に去った父エゴを恨んでいる。ピーターが父親に望んでいたのは、親子でキャッチボールをすることだった。

 

また彼は生みの親エゴと育ての親ヨンドゥの間で揺れたりもする。

 

エゴが眠るために一緒にいるマンティス(ポム・クレメンティエフ)に、ドラックス(デイヴ・バウティスタ)が語る彼の妻と子どもの悲しい記憶。

 

 

 

前作で粉々に砕け散ってその破片から再び生まれたベビー・グルートは、ガーディアンズのメンバーたちからは大切な子どものように扱われ育てられている。誰も彼をないがしろにはしない。

 

 

 

とにかく全篇「家族」のお話が続くんですよね。くどいぐらいに。

 

そこがよかった、ということなんだろうけど、主人公が妻と子を捨てて「海」に去っていった「船乗り」の父親に恨み言を言ったり、父親に虐待されてきた妹が姉と和解したり、息子代わりだった主人公に対して負い目のある男が最後にその命を捧げて“父親”としての責任を果たすとか…ハッキリ言わせてもらうと「俺が観たいのはそんなしみったれた映画じゃねぇんだよ」ということ。

 

そういうのは現実の世界を舞台にした映画でやりゃいいじゃん。なんで銀河を飛び回るトレジャーハンターの映画で親子の話とかマジで描かなきゃいけないのか。俺が観たいのはヒーローの「冒険」なんだけどな。

 

前作ではまだ宇宙船同士の派手な戦いが見応えあったけど、今回はまるで『ハムナプトラ』みたいなでっかい顔が襲ってきたりするだけでアクションとしても微妙だったし。

 

家族のことで喋ったり悩んでたりするのが長すぎるんだよ。この前の『スター・トレック』もそうだったけど。

 

僕は、この映画に浴びせられる「素晴らしい」「泣けた」という絶賛の言葉になんとも言い様のない違和感と、こういう映画が妙に持て囃されている現状に少々不安を感じているんですが(無論、誰がどの映画を持て囃そうがそれは人の自由だが)。

 

だって、ちょっと多すぎないですか?登場人物たちが「家族」がどーの「友情」がこーのって連呼してる映画が。

 

ヴィン・ディーゼルの「ワイスピ」シリーズもそうだし、この前観た『レゴバットマン』では孤独なヒーローであるはずのバットマンさえもが家族や仲間との絆の大切さを強調していた。

 

トランプ政権下でのアメリカでは、身内を大事にしよう(その代わり他人はどーでもいい)、みたいな風潮にでもなってるのか。

 

家族も友情も大切ですが、判で押したようにそればっかだとなんかヘンな宗教の勧誘か自己啓発セミナーでも受けているような気分になってくる。

 

たとえばこのシリーズはしばしば「スター・ウォーズ」シリーズと比較されたりもするし、人によっては「俺がSWで観たかったのはこういう映画なんだよ」と仰ってるかたもいるんですが、確かにSWでも「親子」が描かれはするんだけど、実は両者は似ていながらかなり異なる。

 

僕はむしろ「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」はSWよりも、同じくJ・J・エイブラムスがリブートした新生『スター・トレック』とか、かつてジョージ・ルーカスが映画化を希望しながら果たせなかった『フラッシュ・ゴードン』、あるいは何年か前にディズニーが映画化した『ジョン・カーター』あたりの方に近いんじゃないかと思うんですが。

 

こういう人なんか『フラッシュ・ゴードン』っぽい

 

あるいは、「ドラゴンボール」とかね。

 

どれも同じじゃん、と言われるかもしれないけど、SWには「地球」は登場しないんですよね。おそらくSWの世界には「地球」という惑星は存在していないのだ。

 

「ロード・オブ・ザ・リング」などと同様に、SWは僕たちが生きているのとは完全に別世界の物語で、“神話”なんです。

 

一方の「ガーディアンズ~」や「スタトレ」などそれ以外のSF物やファンタジー、スペースオペラは、それぞれ作品によって舞台となる時代は違っていても僕らが住んでるこの世界と地続きであることが多い。

 

もちろん、SW同様に異世界だけで物語が進行する作品もたくさんありますが、そのほとんどは「ガーディアンズ~」同様に「なんでもあり」だったり、かなり設定がユルい世界観だったりする。

 

実はスター・ウォーズってわりと厳密なルールのもとにその世界が成り立っていて、無敵の超人とか惑星の大きさをした宇宙人なんてのは出てこないし、時間を逆行したり極端に物理法則を無視したようなアクションもない。劇画チックに誇張した映像表現も避けられている。

 

「ガーディアンズ~」でピーターが戦う時にいつも装着しているマスクは、スイッチを押すとどこからともなく彼の顔を覆うけど、ああいうこともSWではやらない。自分でじかにヘルメットをかぶらなければ、何もないところからいきなり何かが現われるということはSWの世界のテクノロジーではありえないので。

 

 

 

ここまではいいけどこれ以上はダメ、という境界がわりとハッキリしているんですね。

 

映像にも禁じ手がいくつもあって(スピンオフ作品ではあえてそれを破っていたりするが)、極力スローモーションは使わないし回想シーンすら入らない。

 

「ガーディアンズ~」で印象的なのがカラフルな宇宙で、まるで「宇宙刑事」シリーズの背景のように明るくて鮮やかな色の宇宙空間が描かれている。

 

 

 

SWの宇宙は基本真っ黒ですから。

 

スター・ウォーズは宇宙を舞台にしたファンタジー映画だけど、「スーパーヒーロー映画」ではない。宇宙の守護者ジェダイは万能ではないし、超常的な能力にも限度が設けられている。

 

それに比べて、「ガーディアンズ~」のシリーズは、もういろんなものがてんこ盛りなんだよね。

 

守るべきルールが歴然としてあるSWのような映画に窮屈さを感じる人にとっては、「ガーディアンズ~」のなんでもありな作風が痛快なんだろうと思う。

 

クライマックスで巨大なパックマンが現われたりTVドラマ「ナイトライダー」の主演俳優デヴィッド・ハッセルホフが本人役でゲスト出演したり、70年代の“ゴキゲンなナンバー”をバックに父親と息子が空を飛びながら殴りあうバカバカしさなど、シリアス一辺倒ではなくしばしばハズした笑いをぶっこんでくるところなんかもハマる人がいるのはわからなくもない。

 

バカもあるけど家族や仲間たちとの絆についても描く。ピーターたちの家族についてのエピソードは神話の世界のSWなどに比べるとはるかに身近で、だからこそ共感を覚える。そういうことなんでしょう。

 

多分、本来「スペースオペラ」というのはSWではなく「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」みたいなののことなんだろうと思う。

 

ただまぁ、僕はそういうあまりに「なんでもあり」なのにちょっと飽きてきちゃったんですよね。

 

「なんでもあり」ってことは「どーでもいい」ことに繋がるんで。

 

そもそも、ファンタジーというのはこの現実の世界から異世界に迷い込んだ主人公が最後には再び現実に戻ってくるものだけど、多くの連載漫画がそうなようにシリーズ物であるがゆえに主人公の現実への帰還は先延ばしにされて、場合によっては戻ってこないまま終わる。

 

おそらく「ガーディアンズ~」はそういうパターンではないだろうか。

 

今後、ピーターが故郷である地球に帰ることがあるのかどうかは知らないけど、少なくともシリーズが続く限り彼はガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの一員なわけで、これからもずっと「冒険は続く」のだ。

 

 

 

エンドクレジットの途中でベビー・グルートが成長してて、小さかった時みたいに可愛くなくなって(声もヴィン・ディーゼルっぽくなってる)部屋の中でずーっとゲームばっかやってるのを見て、ピーターが「親父も大変だっただろうな」と呟くところなんて可笑しかったし(ここでの“親父”とはエゴのことじゃなくてヨンドゥのことなんだろうな)、アニマル浜口みたいに「ハーッハッハ!!」と豪快に笑うドラックスや彼にブサイクブサイクとセクハラ・モラハラ発言されまくるマンティスとか、ツンデレぶりが可愛いネビュラなど登場キャラクターたちはみんな愉快だったし、今後はアベンジャーズとの共演もあるということだからこれからさらに盛り上がっていくのでしょうが、僕はそろそろこのシリーズからはおいとました方がいいかな、と思っています。

 

なんだろうな、幼い頃から好きだったものから卒業していくような寂しさがありますが、以前のようにこういう映画に心から夢中になれないことがわかってきた以上、ダブりの上級生がいつまでも部室に居座って偉そうにダメ出ししてるような迷惑な状態はやめた方がいいなぁ、と。

 

最初に書いたように、文句があるなら観なきゃいいんで。

 

ヨンドゥみたいにみんなから涙で弔われることなく、誰にも気にも留められずに胸を叩きながら立ち去りますよ。

 

う~ん…来年公開のハン・ソロが主人公のSWのスピンオフ作品では、くれぐれもハンが「俺たちはファミリーだ!」とか言いださないようにお願いします。

 

 

禿同、な論評

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は本当に“サイコー!”なのか?

 

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