マイケル・ショウォルター監督、クメイル・ナンジアニ、ゾーイ・カザン、ホリー・ハンター、レイ・モラーノ、アディール・アクタル、ボー・バーナム、エイディー・ブライアント、カート・ブローノーラー、シェナズ・トレジュリー、レベッカ・ナオミ・ジョーンズ、リンダ・エモンド、ゼノビア・シュロフ、アヌカム・パー出演の『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』。2017年作品。
14歳の時に家族とともにパキスタンからアメリカのシカゴに移り住んだクメイル(クメイル・ナンジアニ)は駆け出しのスタンダップ・コメディアン。出演するコメディクラブに観客として来ていた白人女性のエミリー(ゾーイ・カザン)と付き合い始めるが、その一方で彼はイスラム教徒である両親の勧めで同郷の女性たちと次々見合いをしていた。パキスタン出身という自分のルーツとアメリカで育ったアイデンティティの間で揺れるクメイルは、その悩みをエミリーに伝えられずにいた。
映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いて関心を持っていたんですが、今月は他にも観たい映画が何本もあって先延ばしになってて、しかもすでに1日1回の上映なので時間が合わずなかなか観られなかったのが、先日ようやく鑑賞。お客さんは結構入ってました。
コメディアンのクメイル・ナンジアニの実体験を、彼と妻のエミリーがシナリオを書いて映画化したもの。
製作は『40歳の童貞男』のジャド・アパトウ。
コメディアンが主人公だしジャンルとしては一応「コメディ」の範疇に入るんだろうけど、実話の映画化なのでドタバタ喜劇的なぶっ飛んだ内容というわけじゃないし、俳優たちも大仰な芝居は一切せず通常のドラマのテンションで、腹を抱えてゲラゲラ笑えるようなギャグも特にないです。
しかも、主人公のクメイル・ナンジアニはパキスタン出身ではあるもののきわめてアメリカナイズされた人なので、劇中で描かれるのは「パキスタン人は同郷の者と見合い結婚する」というルールを巡る騒動ぐらいで、それ以外にはアメリカの白人女性とパキスタン人男性の間で激しいカルチャーギャップが生じるということもない。
そもそもクメイルとエミリーは意気投合して互いに愛し合っているのだから。
その愛し合っていたはずのふたりがどうなるのか…というお話。
以降はストーリーの内容について書きますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。
アメリカでのパキスタン系の人々の生活が見られる、という新鮮味はあったかな。
クメイルは、イスラム教徒のはずなのにワイン飲んだりお祈りもサボってたり、何よりも未婚で複数の女性と性的な関係を持ったりする。
イスラムの男性っていろいろと規則が厳しいんだと思ってたから、そーゆーの軽く無視していくクメイルのキャラが面白い。あ、こんなにサラッとルールを破っちゃうんだ、と。
そもそも彼は神を信じていない。
そうすると、これは出身地がどこだとか先祖が誰だとか肌の色が何色だとかいうことじゃなくて、やっぱりすべては本人が自分をどう規定するか、ということにかかっているんじゃないかと思いますね。自分はどのように生きていくのか、自分自身で決める。
クメイルの場合は、コメディアンを目指す、ということ自体が親の意に反することなのだし。
なので、そうやって決められたルールから外れて自らの意志で人生を歩もうとする姿には共感できるものがあったし、シリアスな場面でも深刻になり過ぎずに常にどこか飄々としていてトボケたような表情のクメイルのキャラクターには愛着も湧くんだけど、一方で、果たしてこれは異文化の障害を乗り越えていく話なんだろうか、という疑問も。
というのも、クメイルが一度は別れたエミリーと最終的にヨリを戻すきっかけになったのはエミリーの両親との交流であって、実は“異文化”あまり関係ないんだよね。
別に彼がパキスタン出身でなくても、こういうことは起こり得るわけで。
エミリーの両親はパキスタン系のクメイルに差別的な感情は持っていなくて、恋人の彼のことをエミリーから詳しく聞いてもいたようなので、肌の色の違いとか文化の違いによる軋轢があるわけじゃないんですね。
彼らが最初に会った時にクメイルにそっけないのは、彼がエミリーに黙って他の女性たちと見合いをしていたからで、母親のベス(ホリー・ハンター)がクメイルに対して怒っているのは、彼が娘を悲しませたからだ。
クメイルは偶然を装って見合いの相手を次々と家に呼んでくる両親に縁を切られることを怖れて家族にエミリーのことを言い出せず、何人ものパキスタン系の女性たちとお見合いをしていた。
これはもう、民族的にどうとか宗教的にどうとかいう以前に、普通に男としてクズでしょ。節操がなさ過ぎる。エミリーと別れた直後にまたしてもお見合いして、しっかり相手とベッドインしてるし。
単純に彼は自分のだらしなさや決断力のなさを出自のせいにしているだけなのだ。
だから映画を観ていてだんだんイライラしてきてしまった。
クメイルの両親は息子のことを思って見合いを勧めてるんだし、クメイルもそれは理解していて両親にも感謝している。だから無下に断われない、ということなんでしょうが、だからって結婚する気のない相手と寝たらダメだろ。
まぁ、結局はお見合いのことがエミリーにバレて、責められてフラれるし、結婚する気もないのにお見合いした相手からも、「じゃあ、どうしてお見合いしたの?」と涙ながらに問われるんだけど。
クメイルには愛嬌があるから見ていて憎めないんだけど、それでも彼がこれまで傷つけてきた女性たちのことを考えたら、ちょっと調子に乗り過ぎなんじゃないかとは思う。
ただ、このクメイルが従来のインドやパキスタン系の人たちの「真面目で堅い」というイメージから逸脱するような人物だったことは一つの“味”にはなっていて、絵に描いたような勤勉実直なパキスタン人青年が外側にある障害を乗り越えて愛する人と結ばれる、というのではないところが面白いといえば面白い。
これは、「ちゃらんぽらんだった男」が愛していた女性の突然の大病(ビッグ・シック)によって覚悟を決めるまでを描いているんですね。元恋人の病気を通して彼自身が変わる話なのだ。目覚めたのはクメイルの方なんだ、ってこと。肝腎なところでは相手はずっと寝ているだけなので。
確かにエミリーの病気には町山さんが解説で仰っていたようにアメリカが抱える排外主義などの問題を重ねることもできるだろうけど(実際、クメイル・ナンジアニさんご本人やご家族たちにとっては他人事ではないのだし)、映画の本筋はあくまでも別れたばかりの元恋人の両親との出会いによってあらためて彼女への愛を再確認する男の物語になっている。
背景にはいろんなものが含まれてはいるけれど、要するに「ダメ男の挽回の話」だと思えば非常にわかりやすい。ストーリーの面白さよりも、出演者たちの芝居、やりとりが楽しいタイプの映画ですね。
正直なところ、終盤で病いから回復したエミリーが病室でクメイルに「帰って」と言い放って、ヨリを戻すことが叶わなかったのに、お笑い芸人仲間たちとニューヨークに行ったクメイルのところへエミリーがやってくるラストには唐突な印象を覚えました。
なんでエミリーが心変わりしたのかわかんなかったから。そこを描いてくれないと。
この映画は基本的にクメイルの視点で描かれていて、エミリーはあくまでも彼から見た姿しか映し出されない。
だけど、せっかく夫婦でシナリオを書いたんなら、そこはエミリー側からの視点も入れれば恋愛や結婚というものがより深く掘り下げられたと思うんだけどなぁ。
エミリーの両親については、どちらの側の言い分も描いていたじゃないですか。
エミリーの父親のテリー(レイ・モラーノ)は、妻のベスとうまくいっていないと思っている。でもベスの方はそうじゃないことをクメイルは彼女との語らいの中で知る。この男女とか夫婦のそれぞれの気持ちの違いがなかなか興味深かったんですよね。
だから、同じようにクメイルとエミリー、双方の想いを描くことでまさしく男と女の“異文化”交流が物語れたんじゃないだろうか。
たとえば、エミリーはあくびして興味なさげな彼女にゾンビ映画をしつこく勧めてくる男のどこがいいと思ったんだろう。彼女は高校時代はゴス娘であだ名は「ビートルジュース」だったので、実はゾンビが好きだった、ってことだろうか。
趣味が合ったとか、クメイルのこういうところが彼女は好きだったんだ、ってことが最後にわかったら、彼女にもより共感できたと思うんだけど。
中盤以降、エミリーは寝たきりになってしまうので、テリーとベスの夫婦とクメイルとのやりとりで映画は進んでいく。そして実はこここそが一番面白いところなんですよね。
エミリーの友人からの電話でエミリーが倒れて病院に収容されたことを知ったクメイルは彼女のもとに駆けつけ、エミリーのスマホから彼女の両親に電話する。
エミリーは急遽手術を受けることになって昏睡状態になり、クメイルは初対面のエミリーの両親としばらくともに過ごすことになる。
クメイルが出演するコメディクラブにエミリーの両親がやってくるが、そこで白人の客がステージの上のクメイルに向かって「ISISに帰れ!」と野次を飛ばす。
それを聞いた客席のベスは激高してその男に掴みかかる。「あんた、ISISのリクルーター?」というベスの反撃が頼もしい。夫のテリーも妻の肩を持つ。いい夫婦だ。
クメイルは日々このような差別や暴言に晒されているのだろうけれど、そんな時でも彼はどこか軽く受け流すんですね。深刻にならない。兄のナヴィードがデカい声で白人を拒絶するような発言をしてまわりからの視線を感じると、「テロ反対!」とか言って茶化してるし。
リベラルで差別を憎む白人の熟年夫婦と、いつもマジにならないX-ファイルとゾンビ映画好きのパキスタン人青年。この組み合わせの妙。
テリーはめったに笑わず一見すると仏頂面のおっさんなんだけど、つまんな過ぎるジョークを飛ばしたり(キリンのキン○マは“ハイボール”とか)、クメイルにいきなり「9.11のことをどう思う?」とドキドキするような質問をしてきたりする(クメイルはクメイルで「同胞が19名亡くなった事件ですね」と笑えないジョークで返す。もっと頑張れ、コメディアン^_^;)。
ベスもまた、最初は怖いおばちゃんかと思ってたら実は正義感が強くて愛情深い女性だったことがわかる。
この両親に育てられたのだ、と思うと、クメイルはエミリーに対する想いがより深まっただろう。
愛する人本人よりもその両親との交流によってかえって彼女への愛情が増す、というのはちょっと面白いな、と思いましたね。
映画ではよく親なんか関係なく恋人同士の結びつきの強さだけを強調することが多いけど、結婚を考えてるなら親との関係だってけっして無視できない、というのは実に現実的な視点で。
いろいろ腑に落ちない部分が少なくない映画でしたが、でも男女の関係なんてそのふたりにしかわからないことってあるんだよな、というのは、『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』を観た時にも思ったことでした。
恋愛とか結婚って正論が通用しないところがあって、傍から見て「こうすればよかったのに」とか「こうすべき」という理屈よりも、そのふたりにとって良ければ他の人からどう見えたって別に関係ないんですよね。
だから、エミリーが言ってることと結果彼女が下す判断が毎度のように違うのも、『しあわせの絵の具』のヒロインのモードがやはり夫と時にぶつかり合いながらも結局は一緒にいるのも、理屈を越えた絆が彼女たちの間にあるからでしょう。
あー、ごちそうさま(;^_^A
世の中にはいろんな摩擦や障害があるけれど、何よりもまず心から愛し合う相手がいるのなら、それだけでもう幸福の半分を手にしたようなものだと僕は思いますよ。
エミリーさん(本人)とクメイルさん
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