アシュリング・ウォルシュ監督、サリー・ホーキンス、イーサン・ホーク、カリ・マチェット、ザカリー・ベケット、ビリー・マクレラン、ガブリエル・ローズ出演の『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』。2016年作品。

 

両親が亡くなり叔母の家に引き取られたモード(サリー・ホーキンス)は、店の張り紙で家政婦を募集していたエヴェレット・ルイス(イーサン・ホーク)の家で住み込みで働くことにする。無口で粗野なエヴェレットとしばしばぶつかりながらもモードは家事をこなし、好きな絵を描き続ける。

 

今年のオスカー受賞作品『シェイプ・オブ・ウォーター』が公開中のサリー・ホーキンス主演映画。公開前から観たいなぁ、と思ってチェックしていました。

 

カナダの画家モード・ルイスの後半生を描いた2016年の作品ということで、日本での公開のタイミングを『シェイプ~』に合わせたのがわかりますが、その効果も大きかったのか劇場は平日の日中にもかかわらずかなり混んでいました。年配のお客さんが多かったですね。

 

サリー・ホーキンスってわりと若々しく見える時もあればシワシワで結構おばちゃんに見えたりもする人で(年齢を確認すると意外と若いんだけど)、美人かというとそれも綺麗に見えたりそうでもなかったりと作品ごとに微妙に印象が異なる不思議な女優さんですが、そういう人を敢えて主役に起用した『シェイプ~』のギレルモ・デル・トロ監督の目は信頼できるなぁ、と思いました。

 

今回の『しあわせの絵の具』は『シェイプ~』の1年前の映画ですが、監督はTVドラマ「荊の城」の人なのだそうで、僕はそちらは未見ですが韓国映画『お嬢さん』の原作のドラマ化作品だから、わりとエロティックな作品なんですかね。そこですでにサリー・ホーキンスをキャスティングしていたんですね。嗅覚のいい監督さんは目をつけてる人だったりしたんだろうか。

 

今回もモード・ルイスの生涯を描くことになった時に、すぐに彼女のことを思い浮かべたそうで。

 

左側はアシュリング・ウォルシュ監督

 

それでも『シェイプ~』のアカデミー賞作品賞受賞は決定的だったでしょうね。これからも出演作がさらに増えそう。

 

ただ、『シェイプ~』がVFXを大量に使用した「モンスター映画」でありながらその内容は非常に狭い範囲が舞台のささやかな物語だったように、この女優さんはいわゆるアクション大作とかよりも比較的小規模なアート系の作品の方が似合ってる気はする(逆に大作映画だった『GODZILLA ゴジラ』では「なんで敢えてこの人をキャスティングした?」ってぐらい目立たないキャラだった)。

 

『しあわせの絵の具』はまさに小規模なアート系の映画で、ストーリーにも大きな波はないし、舞台もカナダの田舎町のごく限られた範囲。

 

イーサン・ホーク演じるエヴェレットとホーキンスが演じるモードが住む小さな家はまわりに何もない町のはずれなのでほんとに空が広くて、そこで営まれる生活を淡々と、時にユーモアを交えながら描く。

 

ネタバレというほどのこともないけど、一応ラストについても書くので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

僕は、この映画の存在を知るまでモード・ルイスという画家のことを知らなかったんですが(日本ではほとんどまともに紹介されていないようだし)、その絵は牧歌的で人の心を温かくさせる作風。

 

 

 

 

 

 

ご本人はジブリアニメに出てきそうなおばあちゃんですが。

 

 

 

正規の美術の教育を受けていないということでは、彼女は「アウトサイダー・アーティスト」になるのだろうか(美術関連のサイトでは“素朴派”と解説されていたが)。美術家からもなかなか高い評価は得にくいということで。

 

だから美術史的にどうかはわからないけれど、彼女の絵は普通の人々によって見出され、愛されてきたんですね。

 

若年性関節リウマチで手足に障害があったので子ども時代は一人で過ごすことが多かったらしいけど、すでにその頃から絵を描いていたということで、彼女にとって絵を描く行為は生活の一部だったんだな。

 

エヴェレットの家に移ってから当たり前のように彼の家の壁に絵の具で絵を描き始めるのも、「絵がある生活」が彼女には自然なものだったからでしょう。あるいは、つらい時に絵が慰めになってくれたのかもしれない。

 

エヴェレットはモードの様子を見て最初は露骨に邪険にする。アイダ叔母さん(ガブリエル・ローズ)の家も引き払ってあとがないモードはそれでも「私が必要なはず」と半ば強引にエヴェレットの家に居着く。

 

くすんで色褪せていたエヴェレットの小屋がモードの絵によって明るくなっていく。

 

映画はこのモードとエヴェレットの関係の変化を描きながら、男女や夫婦の愛情というものについて考えさせてもくれる。

 

モードとエヴェレットを見ていると、愛の形というのはほんとに人それぞれだなぁと思う。恋愛とか結婚に「正解」はないんだ、ということ。だから面白いし、めんどくさいともいえる。結局は本人たちが満足ならそれが一番なんですが。

 

確かに暴力を振るうのはダメだけど、このふたりの組み合わせだからこそ成り立つ関係というのがあって、モードは率先してそれをエヴェレットとともに作り上げていった。

 

モードのマイペースぶりが可笑しい。最初は非力な存在のように見えていたのが、やがて自分の居場所をしっかり確保して、しかもそれを徐々に広げていくしたたかさを持っている。それは障害があって子どもの頃に差別された経験から得た強さだったのだろうか。人のたくましさは見た目じゃないんだとつくづく気づかされる。

 

エヴェレットに知らせずに彼の鶏を絞めて料理するのが可笑しいんだけど、モードはその鶏が生きていた頃の姿を絵に描く。大切な命について彼女は常に意識している。

 

そしてあの鶏のエピソードは、モードがかつてエヴェレットと出会う前に産んだ娘のことに繋がっていく。

 

叔母からは生まれた子どもには障害があって死産だった、と知らされていたが、実際には娘は生きていて障害もなかった。

 

しかしモードには育てられないと判断した兄のチャールズ(ザカリー・ベケット)によって、彼女の娘は金持ちの夫婦に売られていた。死期の迫った叔母からその事実を知らされたモードはショックを受けるが、エヴェレットはモードの娘が住む家を見つけ出して彼女を連れていく。

 

残酷な話だが、その家で幸せそうにしている実の娘の姿を遠巻きに見て、モードは涙を流しながらも安堵する。ここにもそれぞれの愛の形、幸せの形がある。

 

映画を観ていると次第に家の中やまわりにモードの絵が増えていくんだけど、それ以外には周辺の風景はほとんど変わらないので時間の経過がよくわからないんですが、モードがエヴェレットと結婚したのは1938年で亡くなったのが1970年なので、彼らの出会いからラストまでには30年以上経っているんですね。

 

エンドクレジットで実際のモードとエヴェレットたち本人の姿が映し出されるんだけど、エヴェレットは痩せてヒョロッとしていて、劇中でのガッチリした体型のイーサン・ホークとはかなり印象が異なる。さすがにイケメン過ぎないかw

 

 

 

サリー・ホーキンスは晩年のモードを見事におばあちゃんっぽく演じているけれど、イーサン・ホークはおじいちゃんには見えない。劇中では無愛想だったのが、記録映像でのご本人はカメラに向かって満面の笑顔を見せているし。

 

だから映画で描かれたエヴェレット像がどれほど本人のそれに忠実なのかはわかりませんが、アシュリング・ウォルシュ監督はモードたちについては詳しく調べたのだろうから、映画で描かれていたような人だったのかなぁ。

 

このエヴェレットという人が非常に興味深くて、この人はこれまでどんな人生を歩んできたのだろう、と思わせるんですね。

 

イーサン・ホークが演じるエヴェレットはモードに距離を詰められたり、予想していない行動を取られると固まったまま視線を泳がせる。その様子が可愛いというか、すごく可笑しい。

 

 

 

 

しばしば、自分は孤児院にいて苦労した、ということを語るんだけど、ずっと貧しくて人から見下される生活をしてきたからか、人と親密なコミュニケーションを取ることが苦手だったり、飼ってる犬や鶏よりもモードを下だと言ってあからさまに見下す態度を取ったりする。

 

なんか子どもがそのまま大きくなったような男で。

 

最初のうちは「障害のある女なんか雇えるか」とか「言われなきゃ動けないのか?」などと暴言を吐いたり暴力を振るったりするが、やがてモードが自分の意思を言葉や態度で示し出すと戸惑ったような表情を見せる。…こいつはもしかして俺よりも賢いんじゃないか?と不安になるんですね。そしてモードの絵が売れ出すと今度は彼女に劣等感を抱くようになる。

 

普段、人に対して粗暴な振る舞いをする人間の心性がどのように作られるのか、その一端を見るような思いがする。

 

ただ彼が憎めないのは、時が経つにつれて不器用ながらも彼なりの方法でモードへの愛情や労わりを示していくところ。

 

壁に絵を描くことを黙認したり、何度も網戸が欲しいと言われても「網戸は買わない」と言いながら、自らそれを入り口に取り付けたりする。モードから「ふたりで暮らしているのだから結婚を」と言われて「金がかかる」などと渋っているけど、ささやかながらもちゃんと式を挙げる。

 

 

 

モードの代わりにホウキで玄関を掃こうとしたら「埃が絵に付くから」と締め出されて呆然と外から中を覗いていたり、絵を売りにいった店屋で店主から「こんな絵はうちのガキでも描ける」と言われてモードよりも先に悪態をついたり、大真面目な顔をしながらのユーモラスな場面に劇場の客席で笑い声が起きてました。

 

愛の形は人それぞれ、と思ったというのはそういうことで、エヴェレットはけっして模範的な夫ではないけれど、モードはそんな彼を愛するんですよね。彼女自身の意志で。

 

働き始めて二ヵ月ほど経った頃に人前でエヴェレットに頬をぶたれて、「私が必要ないならそう言って。出ていくから!」と言いながらも留まるし、彼女の絵が評判になってTVの取材や客が大勢訪ねてくるようになり、エヴェレットが苛立ちをぶつけた時にもいっとき離れて過ごすものの、やはりふたりはともに生きていくことを選ぶ。

 

半魚人がヒロインに片想いして最後には退治されてしまう『大アマゾンの半魚人』に不満を覚えていたギレルモ・デル・トロは、自分の作品ではヒロインと半魚人を相思相愛に描くことで彼自身の理想の愛の形を描いたが、『しあわせの絵の具』のモードは最初はまったく相容れない存在のようだったエヴェレットと彼女自身の力で心を通わせていく。

 

また、モードは彼女に厳しかった叔母が年老いて危なくなると彼女のもとを訪れて和解するし、有名になってもそれまでの生活を変えることはなかった。

 

一方で、かつて金儲けを狙っては失敗してモードが生まれ育った実家までも売り払い、彼女を騙して娘を他人に売り渡した挙げ句、そのモードを叔母に押しつけて去っていった兄のチャールズが妹の金目当てにやってくると、5ドルの絵を6ドルで彼に売って「さよなら」とそっけなく別れる。その小気味よさ。

 

彼女は家の窓枠から外を眺め、そして小さな窓枠の中に描かれたような絵を生み出していった。

 

 

 

そこにはいくつもの季節が一緒になって描かれていた。

 

まるで“フレーム”の中に彼女の人生があったようだ。モードは生まれ育ったところから離れることなく、限られた範囲の中で生活していた。

 

そして、そんな彼女はエヴェレットを置いて先に逝ってしまう。幸せのあとには別れがある。それが現実だから。

 

涙を流すこともなく愛する人を見送ったエヴェレットはその9年後に亡くなるが、その間どのような想いを胸に生きていたのだろう。

 

モードが遺した数々の絵のフレームの中に描き込まれていたのは、とある一組の夫婦が共同で紡いだ「幸せの形」でした。

 

 

関連記事

『ロスト・キング -500年越しの運命-』

『ブルージャスミン』

『パディントン2』

『6才のボクが、大人になるまで。』

『真実』

 

 

 

荊の城 [DVD] 荊の城 [DVD]
4,935円
Amazon

 

 

 

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ