ギレルモ・デル・トロ監督、サリー・ホーキンス、ダグ・ジョーンズ、マイケル・シャノン、リチャード・ジェンキンス、オクタヴィア・スペンサー、マイケル・スタールバーグ、デヴィッド・ヒューレット、ニック・サーシー出演の『シェイプ・オブ・ウォーター』。2017年作品。R15+。

 

第90回アカデミー賞作品賞、監督賞、作曲賞(アレクサンドル・デスプラ)、美術賞受賞。

 

第74回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。

 

冷戦下の1962年、アメリカのボルティモア。政府が管轄する航空宇宙センターで清掃員として働くイライザ(サリー・ホーキンス)は、そこに収容された“人魚”(ダグ・ジョーンズ)に魅了される。しかしその人魚は新しく就任した警備担当のストリックランド(マイケル・シャノン)によって拷問を受け、やがて宇宙開発研究のために解剖されることになる。

 

先日アカデミー賞でオスカーを獲得したばかりですが、モンスターと障害を持つ女性の恋愛を描いたジャンル映画が作品賞を受賞した、ということで話題になってますね。

 

デル・トロ監督本人が言及しているように、この映画は1954年の『大アマゾンの半魚人』からインスピレーションを得ています。というか、最初はリメイクしようとしていたんですね(あと、後半で囚われた“人魚”を逃がそうとするあたりの展開は1984年のロン・ハワード監督作品『スプラッシュ』と類似)。

 

ギルマン(エラ男)という呼び名のモンスターを“半魚人”と訳した人はエラい!

 

『シェイプ・オブ・ウォーター』の“不思議な生き物”は『大アマゾンの半魚人』の半魚人の造形にかなり忠実で、デル・トロ監督のオリジナル版への強いリスペクトを感じるとともに、元々のデザインがいかに優れていたのかがわかりますね。

 

ちなみに『大アマゾンの半魚人』は1954年の作品で、それは初代ゴジラが公開されたのと同じ年。

 

今年のアカデミー賞の授賞式では昨年惜しくも亡くなられた初代ゴジラのスーツアクター、中島春雄さんが追悼されていましたが、怪獣映画の先達として中島さんのことを敬愛しているギレルモ・デル・トロ監督の半魚人映画が同じ授賞式で見事にオスカーを獲ったというのも何か運命的なものを感じさせます。

 

映画評論家の町山智浩さんが熱く語られていたように、半魚人が主要キャラクターとして出てくるモンスター映画がアカデミー賞の“作品賞”を獲るというのは画期的なことで(クリーチャーが登場するファンタジー系の映画の受賞は、過去にピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』があるが)、それはぬいぐるみ(スーツ)製のモンスターに込められたメタファーがしっかりと観客に伝わり認められたということでもある。

 

ゴジラが核や自然災害の恐怖のメタファーであったように、また『ジョーズ』の巨大ザメや『エイリアン』などにも公開当時からさまざまな解釈がされてきたように、「モンスター映画」にはしばしば何がしかの意味合いが込められることがあった。『シェイプ・オブ・ウォーター』にも、もちろんそういう要素が満ちている。

 

この映画でダグ・ジョーンズが演じる半魚人はエンドクレジットでは“Amphibian Man”と表記されているけど、1961年のソヴィエトのSF映画に同タイトルの作品(邦題『両棲人間』)がある。

 

『両棲人間』 監督:ゲンナージー・カザンスキー 原作:アレクサンドル・ベリャーエフ

 

 

僕は未見ですが、内容は水陸両棲の人造人間の青年と若い女性の恋を描いたもので、そこには米ソ冷戦下の時代背景が反映されてもいるそうだし、アメリカで公開されたのは『シェイプ・オブ・ウォーター』の舞台となる1962年なので、デル・トロ監督はこの作品を意識していたのかもしれませんね。

 

そして、これはまたディズニーの『美女と野獣』への反証でもある。

 

「人は見かけではない」というテーマのはずなのに、最後に野獣が美しい王子に戻るのはおかしいだろう、と。

 

半魚人とヒロインが踊るちょっとどうかしてるミュージカル場面(笑)も、『美女と野獣』のダンスシーンのパロディに見える。

 

だからこの映画は、ありのままを愛する、ということについて描いている。

 

この映画を『美女と野獣』への返歌として意識して観るとより楽しめるでしょう。

 

それでは、以降はストーリーの中身について書きますので、これからご覧になるかたはご注意ください。また、この映画には猫好きの人には非常にショッキングな場面があります。あらかじめ覚悟のうえご鑑賞ください。

 

 

僕は2013年に公開されたギレルモ・デル・トロの『パシフィック・リム』が好きで、4DXでも観て大興奮したんですが、彼のフィルモグラフィの中ではビッグバジェットの超エンタメ大作“パシリム”はむしろ例外的な作品であって、この『シェイプ・オブ・ウォーター』はヒーロー映画の『ヘルボーイ』とダーク・ファンタジーの『パンズ・ラビリンス』の中間ぐらいか、ちょっと『パンズ~』寄りのような映画。

 

だから誰もが楽しめるとは保証できません(それ言ったら、どんな映画だってそうなんだが)。ちょっと受けつけなかったり、どこがそんなにいいのかわかんない、という人もいるかもしれない。

 

正直なところ、僕も楽しみはしたんだけど巷での大絶賛ほどに夢中になったかというとそこまでではなくて、一部の熱烈なファンのように悲恋の物語に泣いてもいないし、どちらかといえばこの映画とオスカーの作品賞を競い合って敗れた『スリー・ビルボード』の方が好きだったりする。

 

それでもどこかジャン=ピエール・ジュネの映画とも共通するレトロで水のイメージに溢れたギレルモ・デル・トロが描く妖しい世界は魅惑的だし、やはりあの半魚人の造形にはリアリズムとファンタスティックな部分が合わさっていて見惚れましたね。

 

 

 

 

ダグ・ジョーンズはこれまでにもデル・トロ監督の作品でクリーチャーを演じていて、「ヘルボーイ」シリーズの水棲人エイブや『パンズ・ラビリンス』の手のひらに目玉が付いた魔物など、その長身で手足の長い痩せた体躯を活かしてスクリーンにこの世ならざる者を現出させてきた。

 

 

 

 

実際にスーツを着用したり特殊メイクを施して演じているところも(CGも使用しているが)、昔ながらの「特撮映画」の味があっていい。

 

 

 

パシリムのKaiju(怪獣)は完全なCG製だったけど、被り物のモンスターには実在感があってより愛着を感じる。

 

もともと半魚人のデザインってそうだったけど、この映画の人魚の姿は人間の裸体に似ていてエロティックな要素があるんですよね。だからイライザとのラヴシーンは滑稽さよりもダイレクトにエロスを感じさせる。

 

 

 

 

バスルームを水で満たして行なう二人のラヴシーンは一見バカバカしいんだけど、あの場面はラストの水中でのキスと重なるので、観終わるとなんとも切ないんですよね。

 

映画を表面的に観ているとイライザはただのエロエロおばさんにも見えかねないし(映画が始まってしばらくしていきなり一人エッチおっぱじめるし。そして毎日それを続ける^_^;)、要するにこれって怪物との「獣姦」じゃないか、って話だけど、彼女だけでなく何人もの人々が協力し合ってこの“人魚”を逃がそうとするのは、彼の存在にいろんな意味が込められているから。

 

アマゾンから連れてこられたというこの人魚は“移民”のことでもあって、メキシコからの移民であるデル・トロ監督が自らや同胞たちを投影していることは言うまでもない。また人間と外見や言葉が異なる存在なのは、“他者”を意味してもいる。

 

そういう点から、この映画を多様性と反差別を訴える映画として見ることはできる。

 

ただ、映画を観ていて腑に落ちないところがいくつかあって、たとえばマイケル・シャノン演じるストリックランドが人魚に食いちぎられた2本の指や、その人魚がイライザの協力者のジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)が飼っていた猫を頭から食い殺してしまった時にジャイルズの反応があまりにあっさりしていたことなど、それらにどのような意味があったのか僕にはわからなかった。

 

それが、あるかたが「ふせったー」で書かれていた文章でこの映画の描写に込められたさまざまな意味について見事に解説されていて、なるほど、そういうことか、と膝を打ちました。

 

ストリックランドは指をなくしたことでイライザと同じような“障害者”の立場になったということ。最後に彼が人魚に喉を切られるのも、やはりイライザと同じように声を失ったということ。

 

また、人魚に食われるあの猫はクジラやイルカのようなものだということ。世の中には犬を食う文化もある。その喩えだったんだな。

 

人種差別者として描かれているパイ屋の店長が「訛りを直された」というのも、このかたの説明でようやく理解できました。

 

イライザを演じるサリー・ホーキンスはちょっと前に最新作が公開された「パディントン」シリーズにも出演しているし、やはり主演映画である『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』(2016)も現在公開中で、まさに旬の人ですが、劇中でもストリックランドが言うように特別美人じゃないのに彼女にどこか惹かれるのは、そのありのままを肯定していく女性として説得力のある存在だからでしょう。もちろんその説得力は外見だけによるものじゃなくて、彼女の演技力に裏打ちされているわけですが。

 

『スリー・ビルボード』のフランシス・マクドーマンドほど強烈ではなくても、サリー・ホーキンスはその小柄な身体から常に意志の強さを感じさせる。

 

ストリックランドに手話で「ク・ソ・野・郎」とやるとこもw

 

『シェイプ・オブ・ウォーター』の彼女は口が利けない女性を演じているけど、たとえ障害があってもなくてもその状態を否定することなく変わらず自分を貫いていく。

 

イライザは最後に声を出せるようになるわけではないし、人魚は人魚のままでけっして人間に変身したりはしない。わたしは、あなたは、ありのままでいいのだから。

 

ミュージカルが好きでキモチイイことも好き。それで構わない。

 

明らかにあの人魚は生きる意欲、あるいは精気の象徴のように描かれていて、だから彼に腕を引っかかれたジャイルズはほんの少し若返ってハゲていた頭部にも毛が生えてくる。そのことでジャイルズは失っていた自信を取り戻す。

 

人魚の傷には回復や生まれ変わりなどの意味も込められているのでしょう。人魚が最後にストリックランドの首につけた傷も、ただ愛する人の仇を討ったというよりも、彼の指を食いちぎった時と同様にそれは“変化”ということを表わしてもいる。

 

イライザと同じアパートに住むジャイルズは画家だが写真に押されて仕事を失い、現実の厳しさに立ち向かうことを避けてTVでも明るいミュージカル映画を観ていた。彼はパイ屋の男性店長に好意を持っているが直接気持ちを伝えることができず、その店の食べると舌が緑色に染まってしまうようなクソ不味いパイを毎日買い続けている。

 

 

 

そしてイライザから人魚の救出の協力を求められるが、自分の中に閉じこもりたい彼は拒否する。

 

しかしパイ屋で店長の手に触れることで好意を示そうとして拒絶され、またその店長が黒人の男女の客を無下に追い返したことに憤慨して、イライザに手を貸すことにする。

 

また、イライザが働く施設のホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)はソ連のスパイで、人魚の秘密を祖国にもたらすために暗躍するが、人魚の美しさに魅せられて“彼”(ItではなくHe)が解剖されるのを防ごうとイライザの計画に乗る。

 

 

 

ホフステトラー博士は『ゴジラ』(1954)で志村喬が演じた、ゴジラを殺すことに反対する山根博士を思わせる。

 

彼はまさしくデル・トロ監督をはじめとする、すべての「怪獣ファン」のことに他ならないだろう。

 

ストリックランドに痛めつけられたホフステトラーは、人魚を盗んだ犯人としてイライザの仕事仲間のゼルダの名前を吐いてしまう。

 

ホフステトラー博士役のマイケル・スタールバーグは、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』で主人公のトランボを密告して赤狩りに協力する俳優を演じていた。なんだか裏切り者づいてる人だけど^_^;

 

イライザと同じ職場で働くゼルダ役のオクタヴィア・スペンサーは今や油断してるとあらゆる映画に出てるけどw 去年公開された『ドリーム』でもやはり宇宙センターに勤めてる女性の役でした(立場は全然違いますが)。舞台となる時代も1961年だったから、この『シェイプ・オブ・ウォーター』とほぼ同じ。

 

偶然にしてはでき過ぎてるけどw

 

彼女が演じているゼルダはアフリカ系や有色人種を象徴しているし、妻になんでもやらせて自分では何一つやらない夫にも世の中の女性と男性の関係が重ねられている。

 

ゼルダの夫は役に立つことをまったくしないばかりか、やってきたストリックランドにイライザのことを密告する。

 

この映画の男たちはジャイルズ(そして人魚)を除くと、ろくでもないのばかりだったりする。

 

男尊女卑と家父長制の権化のようなストリックランドも、実際は将軍の命令一つでクビが飛ぶ権力者の犬に過ぎない。

 

 

 

彼は50年代に朝鮮戦争に従軍していたという設定だが、アメリカに帰ってきてからも「男らしさ」を証明することに囚われたままあがいている。

 

彼に痛めつけられて人魚があげる悲鳴をストリックランドが「不快な声だ」と言うのは、あれは外国人の喋る言葉に対する人種差別的な発言なんだよね。

 

ストリックランドの家庭の様子は、ちょうどマイケル・シャノンが出演していた『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』で描かれていた50年代のアメリカの郊外の生活そのものだが、その一見平和で仲睦まじい家族の風景にストリックランドが何か居心地の悪さを感じているように描かれている。

 

マイケル・シャノンという俳優さんは『ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気』の時みたいな頼りがいのある人物を演じても巧いんだけど、ストリックランドのような高圧的な差別主義者を演じさせるとやたらとリアルなんで、ご本人もほんとにそういう人なんじゃないかと思ってしまうほど。

 

なかなか変わった人のようで、『シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー賞を獲った授賞式にも参加せずにバーで飲みながらその模様をTVで観ていたんだそうな。メインキャストなのに!^_^;

 

イライザやゼルダの前で「小便したあとに手を洗うのは軟弱だ」と謎理論の「男らしさ」を誇示してみせたり、ホフステトラーをあっさり撃ち殺してしまうストリックランドは、しかし人魚に指を奪われ、最後にはイライザと同じ傷を負う。もはや彼は強者ではない。

 

もしかしたら、彼が失った手の指はペニスの隠喩だったのかもしれない。

 

ところで、この映画ではストリックランドが妻とベッドで“合体”してる場面で、激しく腰を振るマイケル・シャノンの股間に「これは昭和の洋ピンか?」ってぐらいに馬鹿デカいボカシが入る。

 

どうやら日本では裸の二人の全身が画面に入っている結合シーンは自動的にR18+(18歳以上鑑賞可)になってしまうので、それを避けてR15+にするための措置らしいのだが…みっともないなぁ。

 

いや、別にマイケル・シャノンのケツや裏タマがどうしても見たいわけじゃないけど^_^; 本番ヤッてるわけじゃないんだし、そういうバカバカしいルールは早いとこ廃止にしてほしい。

 

せめてR18+版を限定公開するとかしてもらえんだろうか。オスカー獲った作品にボカシが入っているなんて本当に恥だ。「日本で上映するためにはしょうがない」とか言って擁護してる人がいるけど、冗談じゃない。

 

この映画はそのような体制が押しつけてくるつまらない常識やルールに異議を唱える作品なんだから、ボカシなんていう「自主規制」などもっての他だろう。

 

 

クライマックスでイライザはストリックランドに撃ち殺されてしまうが、彼女の身体を抱いて“人魚”は海に帰っていく。

 

イライザは子どもの頃に負った喉の傷がエラになって水中で呼吸し始める。

 

傷の痛みからまた新しい人生が始まる。

 

水の形は定まっていない。世界は変化し続けている。ずっと同じところにとどまっていることはできない。

 

地面に引かれた線を消すこと。

 

ギレルモ・デル・トロ監督が語ったように、世界から互いを隔てる壁がなくなり、人々がありのままの自分を肯定できる日がくることを願います。

 

 

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