ビル・コンドン監督、エマ・ワトソン、ダン・スティーヴンス、ルーク・エヴァンス、ケヴィン・クライン、ジョシュ・ギャッド、ユアン・マクレガー、イアン・マッケラン、エマ・トンプソン、ネイサン・マック、オードラ・マクドナルド、スタンリー・トゥッチ、ググ・バサ=ロー他出演の『美女と野獣』。

 

 

昔々フランスで、森の奥にあるお城に住む王子(ダン・スティーヴンス)が老婆に化けた魔女を嘲笑ったために呪いをかけられて、毛むくじゃらの野獣になってしまう。また召使いたちは燭台や置時計、ティーポットなどに変えられてしまった。ヴィルヌーヴ村の娘ベル(エマ・ワトソン)は、行方がわからなくなった父親モーリス(ケヴィン・クライン)を探して愛馬フィリップとともに城にやってくるが、そこで父親は野獣に捕まり檻に入れられていた。

 

1991年に公開されたディズニーの同名アニメーション映画の実写化作品。

 

2D字幕版を鑑賞。

 

『美女と野獣』はこれまでにも何度か実写になっているけど、ディズニーが実写で映像化するのはこれが初めてなんだそうで、今回はほぼかつてのアニメ版のリメイクと言っていい内容。アニメ版ではセリーヌ・ディオンとピーボ・ブライソンが唄っていた主題歌の「Beauty and the Beast」をアリアナ・グランデとジョン・レジェンドがカヴァーしている。

 

音楽はアニメ版と同様にアラン・メンケン。

 

『美女と野獣』(1991) 監督:ゲイリー・トゥルースデイル カーク・ワイズ

 

 

実は僕は91年のアニメ版は20何年か前にヴィデオで一度観たきり(それも友だちの家で流し観程度)なので内容をほとんど覚えていなかったんですが、あの主題歌は有名だからこれまでにもよく耳にしてきたし、この実写映画のことを知ってからずっと楽しみにしていました。

 

ヒロインを演じるのは「ハリー・ポッター」シリーズの主人公ハリーの友人の女の子ハーマイオニー役でお馴染みエマ・ワトソン。

 

 

 

 

 

エマ・ワトソンが出演する映画を観るのは僕はハリポタの最終作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 2』以来で、もちろんあれ以降も何作もの作品に出ていたのは知ってたけどたまたま縁がなかった。

 

でも、彼女が女性の権利についての活動をしていて多くの人々の共感を得ていると同時に心ない者たちから誹謗中傷されてもいることは知っていたので(大学でもずいぶんと嫌がらせを受けたりしていたようだし)、ずっと気にかけてはいたのです。

 

日本でいうと、ちょうど「はるかぜちゃん」みたいな存在なのかな。しっかりと自己主張するからファンも大勢いるけど叩かれてもいるっていう。

 

そういう人がディズニー映画のヒロインを務めることには当然意味が込められているのだろうし、彼女が演じるヒロインの描かれ方には大いに興味があった。

 

もっとも結論から言えば、エマ・ワトソンが演じたベルは何か特別急進的なキャラクターだったわけではなくて、ファンタジー映画のある意味非常にオーソドックスなヒロインとして描かれていたんですが。

 

よく覚えてはいないけど、アニメ版のベルとそんなに違ってはいなかったと思う。

 

僕は、エマ・ワトソンっていわゆるファンタジー映画映えする派手な感じの女優さん(アン・ハサウェイとかヘレナ・ボナム=カーター的な、という意味で)じゃなくて、どちらかというとわりと地味めというか、美人ではあるんだけどもうちょっと現実寄りな女優さんに思えるんですよね。

 

いや、子役時代の彼女は確かにこまっしゃくれた演技が天使のようだったけど、年を重ねるごとにそういう愛嬌のある芝居をあまりしなくなっていって、生真面目で落ち着いた、言い方は悪いけどちょっと堅苦しい雰囲気を漂わせるようになっていった。

 

女性の権利を主張したり男女間の格差について公の場で指摘することは時に反発も招くから、差別主義者たちだけでなく、おっぱいがちょっと見えてる写真を撮っただけで同じ女性のフェミニストたちから「似非フェミニスト」呼ばわりされていちいち文句つけられたり、エマ・ワトソンがそうやって果敢に戦い続けているところに僕はむしろ尊敬の念や何か言い様のない魅力を感じてもいるのだけれど。

 

媚びない。いわれのない個人攻撃にもけっして潰れない。彼女こそまさしくハーマイオニーだ、と。

 

出演映画を全然観てないくせに、まったく説得力がないこと言ってますけど。

 

今回、実写版を観る前にアニメ版のおさらいをしておきたかったんだけど、僕と同じことを考えている人は大勢いるようでレンタル店ではいつも貸出中でいまだに観られず。

 

だからアニメ版(※追記:その後、2020年4月に地上波の「金曜ロードSHOW!」で吹替版を視聴。内容は登場キャラの一部変更以外は今回の実写版とほとんど変わらなかった。アニメ版にかなり忠実な実写化だったんですね)との比較はできませんが、代わりに借りて観た『アラジン』などを参照しつつ、ディズニーのヒロイン映画について考えていきたいと思います。

 

現在も公開中のディズニーアニメ『モアナと伝説の海』でヒロインのモアナは自分のことを「私はお姫様じゃない」と言っていたけど、この『美女と野獣』にも同様の台詞がある。

 

アニメ版『美女と野獣』の前の『リトル・マーメイド』のアリエルも、そのあとの『アラジン』のジャスミンも“お姫様”だったけど、ベルは村の娘。読書好きで発明家の父親のように樽で自作の「洗濯機」をこしらえたりして村では変わり者扱いされている。

 

では、これはやはりお姫様ではないヒロインが最後に王子様(プリンス・チャーミング)に見初められてめでたしめでたし、の『シンデレラ』の変奏ということになるのだろうか。

 

そう考えると、『シンデレラ』からヒロイン像がいかに進化したかがわかると同時に、それでも最後は美しい王子と結婚して終わるところは変わらないわけで、その限界も見えてくる。

 

この映画では、人を見かけで判断して老婆を冷たくあしらったために呪いをかけられる傲慢なイケメン王子の姿から始まって、しかし王子の中にあった優しさに気づいたベルの愛によって彼は変わり、元の姿を取り戻す。

 

「人は見かけによらないのだ」ということを訴えているのだろうけれど、その作劇については結構ツッコミも入っている。

 

そもそも、人が見かけによらないのであれば、最後も王子は野獣の姿のままでいるべきではないのか?と。

 

死んだ人が都合よく魔女の魔法で甦ったり、野獣が美しい人間の王子に戻って一件落着、では「人は見た目ではない」とか「“美”の基準や判断は人それぞれ」といったテーマがぼやけてしまう。

 

そういうツッコミどころにディズニーへの返歌というかパロディの形で辛らつに批判を加えたのが、ドリームワークスが2001年に作った『シュレック』だった。

 

『シュレック』 監督:アンドリュー・アダムソン ヴィッキー・ジェンソン

声の出演:マイク・マイヤーズ エディ・マーフィ キャメロン・ディアス

 

 

あの映画では、緑色の怪物であるシュレックは最後にありのままを肯定されて、ヒロインのフィオナ姫はそんな彼を愛し、自らも同じく緑色の怪物の姿でいることを選ぶ。彼女にとってはその方が自然だったから。

 

その逆転の発想こそが新しく、そして時代にも合っていた。もう答えは出ていたのだ。

 

2013年の『シュガー・ラッシュ』で、ヒーローになりたがっていた主人公のラルフは最後に“悪役”である自分を受け入れて、その道で生きていくことにする。

 

ディズニーの主人公たちも進化している。

 

一方で、2015年の実写版『シンデレラ』は古典的な(文字通りの)シンデレラ・ストーリーをほぼそのまま映像化していた。

 

去年の『ズートピア』といい、アニメの方の主人公たちは時代に合わせてどんどん変化していっているのに、なぜか実写映画の方ではその逆というのが奇妙ですが(原典の『眠れる森の美女』を大胆にアレンジしてぶっ叩かれた『マレフィセント』も、結局最後にオーロラ姫は王子様といい仲になりそうな雰囲気で終わる)、そこにはやはり王子様に見初められて玉の輿に乗りたい「お姫様願望」があるんですよね。

 

王子様じゃなくてもいいけど、ただしイケメンに限る、みたいな。

 

中世のような時代を舞台にして王様や王子様、お姫様を登場させて彼らを肯定的に描こうとしたら、身分の差や男女間の不平等にどこかで目をつぶることになってしまう。

 

塔の上のラプンツェル』でラプンツェルが元・盗賊のユージーンと結ばれるには国を治める両親の後ろ盾が必要だったし、『アナと雪の女王』でエルサとアナの姉妹が幸せに暮らす王国は彼女たちが両親から受け継いだものだ。

 

彼女たちがどんなに「自由」を求めても、それは王の庇護の下の自由で、どうしたってそこに矛盾が生じてくる。本当に「自由」を得たいのなら、王族としての権力も手放さなければ。

 

『アラジン』ではジャスミン姫はサルタン(王)である父親から他国の王子との結婚を強いられて、まるで宮殿に閉じ込められた囚人のような気持ちでいるが、最後にアラジンと彼女が結婚できるのは父親の保護があるからだ。貧しいアラジンとともに平民として生きていくわけではない。

 

ピクサーの『メリダとおそろしの森』では、王国を継ぐことを拒んでいたメリダは、結局最後にそれを自らの義務として受け入れることになる。もし本当に王の後継者の座を完全に拒否するつもりなら彼女は王女の地位を捨てて普通の人にならなければならないが、そしてそのことはお姫様が主人公である世界の否定を意味するのだけれど、あの作品でもヒロインにそこまでの決断をさせることはできなかった。

 

そしてこれらの作品群の決定的な弱さが、『ラプンツェル』や『アナ雪』もそうだったように、最後に「愛」によって奇跡が起こって死人が甦るところ。

 

肝腎なところで魔法に頼らなければならないヒロインたち。

 

知恵によって問題を自らの手で解決した『ズートピア』のジュディの活躍(『アラジン』では魔法を利用して一応知恵で敵をやっつけてたけど)を見たあとだと、どうしてもそのヒロイン像や物語自体に腑に落ちなさ、釈然としないモヤッとしたものが残ってしまう。

 

だから、この映画にあまりピンとこなかったり、どちらかといえば否定的な感想を持った人がいても、それはしょうがないかな、とも思うのです。

 

「おとぎ話」ってのはこの映画でも唄われていたように「昔からある物語」だから、時代の流れによって古びていくし、そこで描かれているものをそのままなんの疑問も持たずに受け入れるのは徐々に難しくなっていく。

 

 

 

ベルはあのまま王子と結婚してあのお城に住み続けるのだろうか。

 

でも、そうではない生き方だってあったのではないか。

 

教師になって子どもたちにものを教えることだってできたでしょう。父のあとを継いで発明家にだってなれたかもしれない。

 

そういう彼女の“可能性”を、あの一見ハッピーエンドな結末は閉ざしてしまいかねない。

 

だから、観る側はいろいろと想像を働かせて頭の中で物語を補完する必要がある。

 

“野獣”こと王子はベルと同様に本が好きだったから、そこから得た知識で新しい生き方についても理解があるかもしれない。

 

王子とお姫様というのは「比喩」であって、これはほんとは普通の男女の出会いを描いているのかもしれない。

 

本当は優しさと思慮深さも持ち合わせていた男は、ある日出会った女性によってそれを見出され、そんな彼女を愛するようになる。

 

『アラジン』でも貧しい青年であるアラジンが自らを王子と偽ってジャスミンに「ええかっこ」してみせる展開があるが、この『美女と野獣』でもやはり本当の自分に自信のない野獣がベルとのダンスの前にうろたえまくる場面がある。

 

そしてアラジンも野獣も、まわりの助力(アラジンの場合はジーニー、野獣の場合は召使いたち)によって意中の相手とイイ雰囲気になる。

 

燭台のルミエールの声をユアン・マクレガーが、置時計のコグスワースをイアン・マッケランが担当

 

すごくわかりやすいですよねw

 

アラジンや野獣(=王子)が結構ダメな奴らにもかかわらずどこか憎めないのは、女の子の前でドギマギしたり精一杯虚勢を張ろうとする姿が滑稽で可愛くもあるからでしょう。

 

最近のディズニーの「おとぎ話」路線のアニメはどちらかといえばヒロインの描写に比重が置かれているからそのお相手の男性キャラクターはわりと添え物的な存在にもなっているんだけど(『ズートピア』のニックは例外でしたが)、『アラジン』や『美女と野獣』はヒロインたちよりもむしろ男性キャラの方に思い入れを込めやすくなっている。

 

それ以前の『シンデレラ』や『眠れる森の美女』の王子たちがほんとに記号的な美男子だったのと比べると格段の進歩ですね。

 

…って、その後、僕は2011年の『ラプンツェル』までディズニーアニメをほとんど観ていないので(『ターザン』は劇場で観ましたが)、男性キャラの変遷についてはよくわからないのですが。

 

この実写版『美女と野獣』ではゲイであることを公言している俳優が何人か出演しているのと(監督もゲイ)、登場人物にゲイと思われるキャラクターがいることなど、『アナ雪』ではエルサが同性愛者であることをあくまでも「わかる人にだけわかるように」ほのめかしていたのに対して、こちらではかなりハッキリ描写しているんですよね。

 

城に押し寄せた群衆の中のこわもての三人の剣士たちが、ドレスを着たヒゲガール姿に変えられて衣裳ダンスおばさんに「自由に生きていいのよ」と言われて嬉しそうに去っていく場面とか。

 

 

 

ベルに結婚を申し込んで断わられ、ベルの父親や野獣を殺してベルを我が物にしようとする悪役のガストンといつも一緒のぽっちゃり男子のル・フウ(ジョシュ・ギャッド)も、最後のダンスで同性のパートナーと踊っている。

 

そもそも男性性の象徴みたいなガストンを演じているルーク・エヴァンスその人がゲイなのだから、これはもう大いなる皮肉といっていいでしょう。

 

強さとか男らしさって一体なんなのさ、というね。

 

物語自体は古典的で古臭い価値観を越えないものなのだけれど、そこかしこに散りばめられている「多様性」への訴え。

 

これを「ポリコレへの配慮でがんじがらめになってて窮屈」な映画、と取るか、それとも限られた材料を使っていろいろ工夫してみた意欲作と取るか、まさしく人によって評価はさまざまでしょうが、僕は後者を取りたいですね。

 

あれだけ城で大暴れしてベルたち親子にも酷い仕打ちをした村人たちが一切お咎めもなく、結果的にガストン一人を人身御供にして最後は優雅に踊ってたり、先ほども述べたように死んだ野獣が生き返ってイケメン王子に戻ってハッピーエンドとか、文句つけたくなるところはいくつもあります。

 

 

 

でもこれもさっき述べたように、これは「おとぎ話」であり「たとえ話」なのだから、そこから僕ら観客はいろんな教訓やメッセージを各自受け取ればいいんじゃないでしょうか。

 

ガストンは損な役回りだし、中には彼に肩入れしたくなる人もいるかもしれませんが、ガストンというキャラクターは野獣=王子の裏面と捉えることだってできるでしょう。

 

 

 

 

塔の上での二人の戦いは、かつて傲慢で優しさを忘れていた王子と、愛を知って変わった彼の一人の人間の中での戦いともいえる。

 

そしてガストンは高い塔から墜落して、王子が生き残る。

 

彼は自らの弱さや醜さに勝ったのだ。人間のイケメンマッチョに毛むくじゃらの野獣が勝利する逆転劇(まぁ、この映画の野獣は醜いどころか充分イケメンなので、正直あまりそのへんの説得力がないですが)。

 

それは、彼のことを案じ優しくしてくれたベルのおかげだった。

 

人間同士、本当のふれあいが「愛」を生む。

 

 

 

この映画を「オタク・カップルの映画」と表現していた人もいらっしゃいますが、そうやって共通の趣味(この映画では“本好き”)があれば人はより互いに興味を持ちあえてその関係も保ちやすくなる。

 

皿にじかに口を付けてスープをガブガブ飲む野獣や、その横で読書しながら食事しているベル。

 

なんかそういうカップルいそうだもんねw

 

 

 

ところで、口を皿に直接付けてスープを飲む野獣の真似をしてベルが皿を手で持ってスープを音を立てて飲む場面があるけど、僕ら日本人は普段から茶碗や皿を持って音立てて汁物を飲むから、「あぁ、西洋人にとってはあれはお行儀が悪いということなんだな」と思ったりして苦笑い。

 

世界にはそういう文化もある、ってことですね^_^; 多様性ですw

 

アニメ版をほとんどそのまんま実写に移し替えたように見える2015年の『シンデレラ』と同様に、この『美女と野獣』も一見すると昔ながらの「おとぎ話」をなんのヒネリもなく実写で再現しただけみたいにも感じられるんだけど、高畑勲監督のジブリアニメ『かぐや姫の物語』がやはり単に「まんが日本昔ばなし」の長篇でしかないように見えてそこには「今、そういう物語を映像化する意味」に満ちていたように、この実写版『美女と野獣』にもよく眼を凝らせばいろいろと見えてくるものもあるかもしれないですね。

 

魔女が王子に残したあの赤いバラは、彼や人々を目覚めさせ気づきを与えるきっかけだった。

 

今この時代にこういう映画が作られて多くの人々に観られることには、大きな意味があると思います。

 

私たちは、よりよい方向に「変われる」のだということ。

 

憎しみや差別を越えて、誰もが笑顔で唄い踊れる世界。

 

その理想にむけて、この映画は大切な一歩を踏みだしているのです。

 

 

 

 

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