バハラット・ナルルーリ監督、ダン・スティーヴンス、クリストファー・プラマー、ジョナサン・プライス、モーフィッド・クラーク、アナ・マーフィ、ジャスティン・エドワーズ、ミリアム・マーゴリーズ、マイルス・ジャップ、サイモン・キャロウ、ドナルド・サムター出演の『Merry Christmas!~ロンドンに奇跡を起こした男~』。2017年作品。

 

原作はレス・スタンディフォードのノンフィクション「The Man Who Invented Christmas: How Charles Dickens's A Christmas Carol Rescued His Career and Revived Our Holiday Spirits」。

 

1843年のロンドン。作家のチャールズ・ディケンズ(ダン・スティーヴンス)は新作のアイディアが浮かばず頭を悩ませていたが、メイドのタラ(アナ・マーフィ)が子どもたちに聞かせていたおとぎ話からヒントを得て自分のまわりの人々をモデルにクリスマスの話を構想し始める。なかなか筆が進まないディケンズは時に家族やメイド、家を訪ねてきた両親たちにあたってしまうが、そんな彼の前に現われた物語の中の強欲な老人スクルージ(クリストファー・プラマー)がディケンズが思い出したくない少年時代の記憶を呼び覚ましていく。

 

この映画については僕はついこの前までその存在すら知らなくて、たまたま観ていたBSのチャンネルで予告篇をやっていて興味を持ったのでした。

 

ほとんど宣伝がされていないし、気づいたら公開が始まっていた感じの映画ですが、イギリスの実在の作家ディケンズと彼が書いた「クリスマス・キャロル」誕生にまつわる物語ということで、クリスマスも近づいてることだし、なんだか拾い物の予感もしたから。

 

主演は昨年ディズニーの実写映画『美女と野獣』で野獣王子を演じてたダン・スティーヴンス。素顔はちょっとヒュー・グラント(彼が出ていた『パディントン2』でもお馴染みのパディントン駅も出てくる)にも似てる美男子。今回は人間の役だから野獣には変身しませんがw

 

「クリスマス・キャロル」に登場する老人スクルージをクリストファー・プラマー、ディケンズの父親を『未来世紀ブラジル』や007映画の悪役などで有名なジョナサン・プライスが演じる。

 

 

 

 

 

キャスティングもなかなか魅力的だと思ったし、VFXを駆使したファンタジー系の映画は現在何本か新作がやってるけど、いかにもなおとぎ話というよりも史実に基づく映画の方が観たくて。ちょっとここのところ映画館で観た作品のいくつかが個人的に満足感を得られるものではなくて、観終わったあとに「いい映画だった」と気持ちよく帰路につける作品を求めていたので。

 

ノンフィクションが原作ということで、一応チャールズ・ディケンズの経歴をある程度正確に反映させてもいるということでは、ちょうどこれもイギリスが舞台で「クマのプーさん」誕生秘話を描いた『グッバイ・クリストファー・ロビン』と似たようなところもなくはない。

 

あいにく『グッバイ・クリストファー・ロビン』は日本では劇場未公開でしたが(DVDは販売・レンタルされています)僕は結構好きだったから、ファンタジーやおとぎ話が生まれてくる背景を描いた物語にわりと期待していました。

 

字幕版は自分がよく行く範囲ではわずか1館で一日に2回しかやっていないため、前もって場所や開始時間をしっかり確認して午前中の回に臨みました。公開されたばかりなのでお客さんも結構入ってた。

 

…と、“クリスマス間近の奇跡”を求めて映画館に足を運んだんですが、先に申し上げておくと、残念ながら僕はちょっとノれなくて、「あぁ、ガッカリ」といった印象が残ってしまった。

 

実はかなり暗い話でもあったし、いろいろと釈然としないものも感じたから。

 

なので、またしても…という落胆続きなこともあって、自分があまり面白いと感じられなかった作品について感想を述べるのは大変気が重いんですが、あれこれと文章を連ねているうちに何か気分も晴れてくるかもしれないし、とりあえずどこが不満だったのか書いていきます。

 

それでは、以降はストーリーについて触れますから、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

映画の冒頭で、チャールズ・ディケンズは妻とともにアメリカで講演旅行をする。

 

やがてイギリスに帰ってくるが、彼が書いたアメリカ訪問記はいまだに奴隷制が残り南北戦争中のアメリカに対して辛辣だったためにアメリカ人にウケず、またその前の小説も不評だったので経済的にそれまでの生活レヴェルを維持するのが難しくなる。

 

とはいえ、使用人を雇える身分だし、貧しい人々のことを憐れむ余裕はあるわけで、そこからは身分社会であるイギリスの姿がうかがえる。メイドになる若い娘は孤児だった者も多い。そういう世界から、現在の「クリスマスを祝う」という習慣が復活したのだ、という事実は確かに興味深い。

 

でも、そうやって世の中のリアルな「格差」というものを見せつけられると、なおさらクリスマスという行事が偽善に溢れたものに見えてきてしまう。

 

この映画はスクルージや幽霊たちなど「物語」の中の架空のキャラクターたちが主人公の目の前に出てはくるものの「ファンタジー映画」と呼べるほど空想的な要素は多くはないし、かといって史実を基にした伝記映画ともいえない、どっちつかずな感じがあって、無理やりハッピーエンドにもっていったようなラストにもカタルシスはほとんどない。

 

まぁ、ディケンズの小説を読み慣れている人にとっては、「とってつけたようなハッピーエンド」というのもお約束なのかもしれないけど、それは映画を観ているだけではわからない。

 

また「クリスマス・キャロル」の内容についても、「そんなことは知ってるのが常識」ということなのか、細かい説明がないので、三人の幽霊や劇中小説の登場人物たちについても彼らが物語の中でどのような役割を担っているのかよくわからない。スクルージとともにただ出てくるだけでキャラクターとしてイマイチ立ってないんですね。

 

 

 

そして、映画で描かれたようにチャールズ・ディケンズは実際に経済観念のない両親のもとで苦労して育ったんだそうで、少年時代に親と引き離されて靴墨工場で働かされたのも史実らしいんだけど、そういう彼が子どもの頃からずっと恨み続けていた父(父親のことをずっと恨んでいたというのが事実かどうかは知らないが)を最後になぜ急に許して受け入れる気になったのか、僕にはよくわかりませんでした。執筆中だった物語が無事書き終えられたからって、それはほんとにハッピーエンドといえるのだろうか。何か大事なことを忘れてやしないか。

 

この映画は、創作にたずさわる者の狂気(登場人物にピッタリの名前を思いついた瞬間にその姿がありありと見えてくる、という“あるあるネタ”も)や彼がまわりに撒き散らすハタ迷惑さを描いた物語としては核心を突いた部分はあるかもしれませんが、困っている他者に施しをする“クリスマス”というものを復活させた男の話としてははなはだ説得力を欠く内容で、僕は映画を観終わって何かひどく虚しさを感じてしまったのでした。

 

クリスマスの素晴らしさ、幼い頃にワクワクしたあの感覚をまた思い出させてくれるような物語を期待していたのに、僕にはディケンズに「貧しい者は怠け者だ。救貧院に行けばいい。死んだら口減らしになって何よりだ」と言い放つ、劇中でスクルージのモデルとなる成り上がりの金持ちの男の残酷な言葉が耳にこびりついて離れなかった。同様に出版社の男も「クリスマスは寄付をたかる日」と言って「クリスマス・キャロル」の物語に関心を示そうとはしない。

 

こういうことを言ってる人間たちは今現実の世の中に結構いるじゃないですか。貧乏なのは自業自得だ、国や他人に頼らずに自分でなんとかしろって。

 

でもそうじゃなんだ、っていう結末に説得力がなければ、貧しい者を助けて「善人」になる前のスクルージの考え方は正しかったことになってしまう。世の中は金が一番で人間はくだらないんだ、と。

 

当時、クリスマスは現在のように大勢の人々に盛大に祝われる催しではなくて、金持ちが貧者に金を恵んでやる日、というイメージだったのが、「クリスマス・キャロル」という本が出版されたことで人々の意識が変わったのだ、とこの映画では語られている。

 

善行を成すのは自分自身のため。「情けは人のためならず」。人に手を差し伸べるのは最終的に自分自身を変えて自らが救済されることに繋がる。キリスト教的にいえば「天に宝を積む」ということ。

 

云わんとしてるのはそういうことなんでしょう。

 

だけど、僕にはこの映画が示した希望のあるラストが、人の残酷さ、世の中の酷薄さを根底から覆すような大切なこととして胸に沁みてこなかった。

 

なんか教訓めいた説教臭い話に感じられてしまって。

 

「クリスマス・キャロル」自体が教訓っぽいお話でもあるのだから、しょうがないといえばしょうがないのかもしれませんが、どうせ「クリスマス・キャロル」執筆のエピソードとしてはほぼフィクションなんだから、だったらもうちょっとディケンズの心境の変化を丁寧に描いてもよかったのではないか。

 

ディケンズは途中まで書いた「クリスマス・キャロル」の作中で登場人物のティム少年が死んでしまったことをメイドのタラ(アナ・マーフィ)が悲しんだために、スクルージが彼を救う結末を描くが、その直前に「悪人だった彼がそんなに簡単に変われるだろうか」と悩む。

 

スクルージの変化はこの映画のディケンズの変化と重なっていて、だからいろいろと経験したのちに小さな変化が生まれる、というのは別にいいと思うんです。人には日常的にそういうことはありますから。

 

「クリスマス・キャロル」でスクルージが三人の幽霊たちに導かれて見たのは、そういう人生における彼の経験をクリスマス・イヴの一夜に凝縮したものなんでしょう。

 

小説を執筆する生みの苦しみののちにディケンズが父を許すことができた、というのも一つの例え話としてはわかるんだけど、でもやっぱり彼自身が物語の中でなにがしかの具体的な体験を経なければ、少なくとも映画の観客である僕には許しや施しの大切さを実感することは難しい。

 

人を許したり困っている人を助けることが大切なのは、言われなくたって誰でも頭ではわかっている。

 

でも、それをただ小説の登場人物に説教されるんではなくて、もっと物語の中でさまざまな事件を通して描いてほしいんですよ。

 

たとえば、先日観た『ボヘミアン・ラプソディ』(こちらも舞台がイギリスで実在の人物を描いている)で描かれていたのは、「家族」の大切さについてでした。

 

主人公のフレディは孤独感から家族同然だったバンドのメンバーたちから離れて放蕩の限りを尽くすけど、彼が付き合っていたのは本当の家族ではないことに気づいて最後に本当の「家族」のもとに帰っていく。史実とはいろいろ異なるところもあるようですが、大まかに言えばつまりそういう話でした。

 

この『Merry Christmas!』でも、創作のためにないがしろにしてきた妻や子ども、メイドたちや両親など「家族」の大切さをディケンズが思い知るエピソードは必要だったんじゃないだろうか。

 

自らの分身でもあるスクルージとともにつらい過去と向き合った彼が、自分を待っていてくれる人々の存在のありがたみをあらためて噛みしめるような出来事があれば、彼が父親を許すラストもすんなり受け入れることができただろうと思うのだけど。

 

僕はこれだったらミュージカル映画『クリスマス・キャロル』や、舞台を現代に移した『3人のゴースト』あたりを観た方がよっぽどクリスマス気分に浸れて満足感があったんじゃないかと思うんですよね。あるいは、やはり『オリヴァー・ツイスト』をミュージカル映画化した『オリバー!』などを観てからこの映画を観返したら、もうちょっと入り込めたかもしれませんが。

 

 

ちなみに余談ながら、ディケンズと同時代のデンマークの童話作家アンデルセンはディケンズの家に滞在したことがあって、なんと五ヵ月間も居座ったためにディケンズ家の全員から総スカンを食らったのだそうで。

 

アンデルセンはスウェーデンの歌姫ジェニー・リンドに片想いをしてあえなくフラれたという逸話もあるけど、ジェニー・リンドといえば今年公開されたミュージカル映画『グレイテスト・ショーマン』に登場していた。

 

つまり、『グレイテスト・ショーマン』の主人公でアメリカの興行師P・T・バーナムとイギリスの文豪チャールズ・ディケンズは同じ時代の人だったということですね(ヒュー・ジャックマン繋がりでいうと『レ・ミゼラブル』のヴィクトル・ユーゴーもやはり同じ頃の人)。ディケンズは1842年にアメリカで講演旅行をしているし、バーナムは1844~45年のヨーロッパ巡業の際にヴィクトリア女王に謁見している。

 

もう覚えていないけど、もしかしたら『グレイテスト・ショーマン』の台詞の中でディケンズの名前も出てたかもしれない。『グレイテスト・ショーマン』もまた「家族」について描いた映画でした。貧しさの中から成り上がってきた主人公が最後に自分の行ないを悔い改める、というのもこの映画でのディケンズや「クリスマス・キャロル」のスクルージと似ている、と言えなくもない。

 

ディケンズがヴィクトリア朝時代(日本は鎖国時代)に活躍していた作家だと思うと、その作品や作家としての息の長さ、現代でも彼の小説がたびたび映像化されることの凄さを感じずにはいられないですが、この映画の中では嫌な奴として描かれているディケンズのライヴァル作家のサッカレーは史実ではディケンズに作品を酷評されたことが原因で彼と仲違いしたのだそうで、実はディケンズの方こそ結構嫌な奴だったんじゃないか、とも。

 

いかにも英国人っぽい皮肉屋なところがあったのかもしれませんね。

 

だからまぁ、これは史実に忠実に描いた伝記映画じゃなくて、あくまでも実在した人物が登場するファンタジー風味の映画ということで。

 

『グレイテスト・ショーマン』がP・T・バーナムの伝記映画ではないように。

 

いっそのこと、これもミュージカル仕立てだったらよかったのに。

 

つらいことを描く場合には、気持ちが暗くなるのを歌や踊りが緩和してくれるから。

 

ドラマ部分が史実と違っていても、ミュージカルというショーの形にすることで受け入れやすくなると思うし。

 

『グレイテスト・ショーマン』のことを「史実と違う」とか「うっすい映画」などと批判する人々がいるけど、僕は一観客としてミュージカル映画で現実の酷さや人間の醜さをダイレクトに描かれることなど別に求めていないので、あれは適切な改変だったと思います。可能性を描いた物語なのだから。それを「偽善的」だというなら、「クリスマス・キャロル」のスクルージの改心だって偽善ということになるだろう。

 

この『Merry Christmas!』だって、映画の中ではディケンズは最後に妻とも再び心を通わせるけど、史実では夫婦は不仲でディケンズは若い女性と浮気して、結局妻とは離婚している。

 

それをそのまま史実通りに描いたって映画としては面白くないし、しんどいだけでしょう。

 

しんどいのは現実だけで充分。映画は「希望」や「願望」も描けるのだ。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』もまた、作り手が描きたいことのために映画の中で史実からいくつもエピソードが書き換えられている。

 

それらは「映画」として作るために必要な措置だったと僕は考えるけれど、『ウィンストン・チャーチル』(今日はイギリス繋がりかw)で史実にないチャーチルに都合の良いエピソードが盛り込まれていたのには大いに疑問を感じたし、そこは作品ごとにいろいろ議論されていいんじゃないか、とは思います。

 

映画について批判的なことを延々と書き連ねることに果たして意味があるのだろうか、といつも悩みつつ感想を書いていますが、でもたとえ1本の映画を観て不満を感じたとしても、こうやって強引にもほどがある感じで直接関係ない映画たちをくっつけて語ったりするのって楽しいので、今後も続けさせていただきます(^o^)

 

 

話がさらに逸れますが、この映画ではクリスマス・イヴを舞台にした物語(言うまでもなく“クリスマス・キャロル”とはイエス・キリストの誕生を祝う歌のこと)を書いているにもかかわらず、その肝腎のクリスマスについて語る時に「神」や「イエス・キリスト」についてはまったく触れられていないんですよね。不自然なほどに宗教色がない。

 

これは原作がそうなのかもしれないけど、そもそも現在のクリスマスというのはヨーロッパの土着の信仰や伝承などとキリスト教の行事が合体したものなので(イエス・キリストが住んでいたとされる地域には雪は滅多に降らないし、“ヒイラギ”も“ヤドリギ”もない。クリスマスツリーも関係ない。新約聖書に『キリストは12月25日に生まれた』という記述もない)、要するにキリストの誕生祝いにかこつけた西洋発祥のお祭りなんだよね。誰が祝ったって別に構わないでしょう。

 

新年に「あけましておめでとう」と挨拶して祝うのが宗教とは関係ないのと同じで。

 

最近はアメリカでは「メリークリスマス!」ではなくて「ハッピーホリデーズ♪」と挨拶することが多いそうだし。

 

ほとんどの国民がクリスチャンではない日本で祝われている“クリスマス”だって、キリスト教とはほぼ無関係な商業イヴェントだし。

 

では、だからそれは「まがい物」だから不要なものなのかといったら、一概にはそうとは言えないんじゃないか。クリスマスが特別な日だと思えることが人によっては救いになる場合だってあるだろうから(“呪い”になってる人も大勢いるだろうけど^_^;)。

 

子どもの頃に感じた「聖なる夜」のおごそかな雰囲気(残念ながらそういう感覚は今ではもうないけれど)を僕はとても懐かしく思うし、クリスマスが特別な日だった想い出があるのは幸せなことだとも思う。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』でもクライマックスのライヴコンサートと同時進行で寄付金が集まる描写があったけど、「クリスマス・キャロル」に影響されてクリスマスの寄付が増えた、というのがほんとなのかどうかは知りませんが、この映画の中で描かれたようにディケンズの「クリスマス・キャロル」の出版をきっかけにクリスマスという行事が見直されたのならそれは素敵なことだと思うし、もしも「奇跡」というものがあるのなら、それは超常現象で現実にありえないことが起こるのではなくて、ほんの少しでも人々の心が善き方に変わるということなんでしょう。そのきっかけとしてクリスマスがあってもいい。

 

 

ディケンズの小説はしばしばプロットの構成に無理がある、といわれてるようだけど、それは何冊かに分けて小説を販売していたからで、現代の連載漫画などに通じるものがありますよね。

 

読者の反応によって筋立てが変わっていったり、作品の全体的な完成度よりも人気や売れ行きが優先されるところなど(もちろん、すべての連載漫画がそうだというわけではないでしょうが)、芸術作品である前にまず商業作品であったということ。同業者たちの中にも愛読者が大勢いたというし。

 

19世紀の人だけど、とても現代的な部分を持った人だったんだなぁ、と思わせられます。自分の作品をうまく売り込むことにも長けていたようだし。それはまるで現在のクリスマスの成り立ちそのもののようだ。

 

ディケンズの作品が今もなお読み継がれているのは、時代を越えて人間の本質を見つめる視点がそこに宿っているからかもしれませんね。

 

…そろそろ映画の感想以外の話題で適当に字数を稼ぐのにも疲れてきたので^_^; このあたりで終わりにしようと思いますが。

 

 

いろいろと文句を書いてきましたが出演者たちはとてもよかったし、メイドのタラ役のアナ・マーフィはまるで19世紀のあの当時の人のような顔立ちの女優さん(タラというメイドは映画のための架空の人物なのかもしれないけど)で、出番はそんなに多いわけじゃないけれど、なんだかその表情に見入ってしまった。幽霊役の時も幻想的でよかったな。

 

 

 

 

ディケンズの妻ケイト(キャサリン)役のモーフィッド・クラークも個人的に好みの顔立ちの人だったので、彼女たちの活躍をもっと見たかったかな。ディケンズの子どもたちもひとりひとりをもう少ししっかりと描き分けてくれたら、ファミリー映画としても見どころの多い作品になったんじゃないだろうか。

 

 

 

 

もうしばらくすると今年もまたクリスマスがやってきますが、久しぶりにクリスマスに関する映画を観たくなりました。

 

この映画についてはこんな感想を読んだあとに観たいと思うかたがいらっしゃるかどうかわかりませんが、もし興味を持たれましたらどうぞご覧になってみてください。

 

 

※クリストファー・プラマーさんのご冥福をお祈りいたします。21.2.5

 

 

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