ジョー・ライト監督、ゲイリー・オールドマン、ベン・メンデルソーン、クリスティン・スコット・トーマス、リリー・ジェームズ、ロナルド・ピックアップ、スティーヴン・ディレイン出演の『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』。2017年作品。

 

第90回アカデミー賞主演男優賞(ゲイリー・オールドマン)、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。

 

1940年5月イギリス。アドルフ・ヒトラーの率いるナチス・ドイツやイタリアに対する宥和政策が功を奏さず、ドイツ軍はベルギーとオランダに侵攻する。同日、ネヴィル・チェンバレン首相(ロナルド・ピックアップ)は辞任し、主戦派のウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)が首相に就任するが、ドイツとの和平交渉を主張するハリファックス卿(スティーヴン・ディレイン)と意見が対立することになる。

 

日本人メイクアップアーティストの辻一弘さんがオスカーを獲って話題になっていましたね。主演のゲイリー・オールドマンもオスカーを初受賞。特殊メイクでまったく外見が変わったオールドマンの姿も、その出来の良さが紹介されていました。

 

 

 

オスカーにノミネートされていることと、去年公開されたクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』で描かれた「ダンケルクの撤退」と同時期にイギリス本国ではどんな経緯があったのか、ということで興味を持っていました。

 

実際に観てみると、体型以前にウィンストン・チャーチルとゲイリー・オールドマンはそもそも顔の作りがまったく異なるので(目と目の間隔など)、特殊メイクを施したオールドマンがチャーチルに似てるかどうかということよりも、どうしても太って年取ったゲイリー・オールドマンにしか見えなくて(演じてるご本人の面影を敢えて残しているのかもしれないけど)^_^;慣れるまでちょっと時間がかかってしまったんですが。

 

 

ゲイリー・オールドマンが演じたチャーチル(上)と本人(下)

 

この映画を観ていてまず思い浮かぶのは、2010年のトム・フーパー監督の『英国王のスピーチ』(日本公開は2011年)。

 

あの映画でコリン・ファースが演じた英国王ジョージ6世を『ウィンストン・チャーチル』ではベン・メンデルソーンが演じている。『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』でベイダー卿に念力で首絞められてた人が、ここでは国王を演じて「陛下」と呼ばれているのがちょっと面白かったり。

 

 

 

 

ちなみに『英国王のスピーチ』で海軍大臣時代のチャーチルを演じていたのは、ティモシー・スポール。ゲイリー・オールドマンとは「ハリー・ポッター」繋がりですね。

 

『英国王のスピーチ』ではクライマックスでジョージ6世がドイツへの宣戦布告を国民に告げる演説をするが、『ウィンストン・チャーチル』ではその1年後が描かれる。

 

この2本の映画を続けて観ると、『英国王のスピーチ』では描かれなかったジョージ6世の姿、その政治的姿勢がうかがえて実に興味深い。

 

ジョージ6世はドイツとの和平交渉を望むハリファックス卿と親友であり、『ウィンストン・チャーチル』でもはじめのうちはチャーチルに対してどちらかといえば否定的な態度を取っているのだが、やがて反ヒトラーという共通点から彼を支持することになる。

 

『英国王のスピーチ』では亡き父王ジョージ5世や奔放な兄デイヴィッド(エドワード8世)たちによって幼少期から抑えつけられてきたジョージ6世の心の傷や怖れにフォーカスが当てられていたが、『ウィンストン・チャーチル』では英国王室の存続について悩み、祖国から離れることさえも考える(何度もカナダへの亡命についての言及がある)“君主”としての姿が見られる。

 

国王が後ろ盾となったことは、味方の少なかったチャーチルに力を与える。

 

それにしても少々疑問なのは、なぜ今「ダンケルクの戦い」なのか、ということ。

 

去年は2016年の英国映画『人生はシネマティック!』が日本で公開されて、あれもイギリス軍の兵士たちを救出するためにダンケルクに向かった民間船にまつわる物語でした。

 

『ダンケルク』にも、そして『人生はシネマティック!』にも声高ではなくともハッキリと「英国愛」がうかがえたけれど、この『ウィンストン・チャーチル』は想像以上に英国人の愛国心を鼓舞するような作りになっていました。

 

特にクライマックスのチャーチルの庶民院での演説は、高鳴る音楽とともに「ウィー・シャル・ネヴァー・サレンダー!」と叫ぶチャーチルが非常にヒロイックに描かれている。

 

 

 

あそこで僕はさすがに大いに鼻白んでしまったんですよね。映画はそのまま終わってしまうし。

 

結局はイギリスの“偉大な”政治家チャーチルを褒め称えておしまい、というのはちょっとあまりにヒネリがなさ過ぎるんではないか。露骨にプロパガンダの臭いがする。

 

「チャーチル偉い」「イギリス凄い」って、どっかの極東の島国の「自分偉い病」と変わんないじゃないかと。

 

そもそもウィンストン・チャーチルはこれまでにもすでに高く評価されている人物でもあるので、なんで今この時代に彼を映画で取り上げる必要があるのか、僕にはよくわからない。

 

この映画ではチャーチルの妻クレメンティーン(クリスティン・スコット・トーマス)が夫とのこれまでの生活の苦労を語ったり、子どもたちが父親を労うシーンがあるが、具体的に家族の間にどのような困難があったのかは描かれないので、等身大のチャーチルの姿がそんなにたくさん見られるわけでもない。

 

 

 

新しく秘書になったエリザベス(リリー・ジェームズ)とのエピソードも中途半端だし。多分、彼女のキャラクターを通して映画の観客に状況を解説するためだったんだろうけど。

 

 

 

 

劇中では、チャーチルが思い立って一人で地下鉄に乗ってそこでたまたま乗り合わせた人々と語らう場面があるけれど、ほんとにそういう事実があったのかどうか僕は知りませんが、貴族の家系の生まれでそれまでに電車に乗ったり店の前に並んだ経験すらなかったチャーチルがほんのちょっと庶民たちの何人かと会話したからって、それを「国民の声を聴いた」などと言うのはどうなんだろうか。

 

 

 

彼らが「ヒトラーと戦うべきだ」と言ったから国民の声に従った、などというのはいくらなんでも雑過ぎるでしょう。ずいぶんと人を馬鹿にしたような発言じゃないか?

 

庶民院でのチャーチルの演説のあと、映画は5年後にドイツが降伏したことを字幕で伝えて終わるが、その5年の間に戦争によってどれだけ多くの人々が犠牲になったのか考えると、無邪気に「勝利」の栄光に酔ってていいのか、という疑問が湧いてくる。

 

むしろ、この映画の中でドイツとの徹底抗戦を主張するチャーチルに「若者たちを無駄死にさせたくない」と言って激しく反対するハリファックス卿の言葉にこそ僕たちは今耳を傾けるべきなんじゃないだろうか(もちろん、現実には貴族出身の彼にはまた別の思惑があったのだろうけれど)。

 

 

 

「最初から負け犬になるぐらいなら戦って散った方がいい」「勝利するまでどんなに犠牲が出ようと戦い続ける」と勇ましくまくし立てるチャーチルの様子は、彼が心底嫌っていたというヒトラーが演説する姿にどこか似ている。

 

でも同じようなことを言って戦争の道を突き進んだ僕が住むこの国は、やがて焼け野原になって何百万という人々が犠牲になった。それはあまりに多い無残な死だった。

 

僕が『英国王のスピーチ』に心動かされるのは、主人公のジョージ6世が「弱さ」を持っていて、それゆえに他者の痛みもわかるからこそ「強い者こそ正義」という狂った論理で世界を席巻するヒトラーに対して「否」を突きつけるラストに共感するからです。

 

でもチャーチルに果たしてそのような弱者への共感があったのかどうか。

 

僕たちは、チャーチルとヒトラーはどこが違っていたのか注目すると同時に、彼らは互いにどこが似ていたのかということにも注意を払わなければならない。

 

自分の弱さを受け入れられずに世界に牙を剥いたヒトラーに対して、逆にチャーチルはもともと多くを持っていた「強者」の側だったからこそ、彼を「醜いモンスター」「あの伍長(ヒトラーの軍隊での最終的な階級)」と蔑んで徹底的に叩き潰そうとしたんだろう。

 

ヒトラーに戦いを挑んだチャーチルの判断が間違っていたとは言いません。ヒトラーが1から10まですべて間違っていたことは微塵も疑いようがない。

 

ドイツをつけ上がらせたのは、そのまま帝国主義のイギリスが抱える矛盾のせいでもあったのだし、イギリスの政治家たちはある時期までナチス・ドイツよりもむしろソヴィエト連邦の方を強く警戒していた。

 

ヨーロッパやアメリカは共産主義よりもファシズムを選んだのだ。

 

ヒトラーを増長させてドイツの再軍備や他国への侵略を許した政策が正しくなかったのは確かだ。もはや後戻りできないほど敵は強大になってしまった。

 

ドイツと単独で戦うにはイギリスはあまりに不利なためにチャーチルはアメリカのルーズヴェルト大統領にじかに電話してアメリカの参戦や軍事的な協力を求めるが、ルーズヴェルト(声を演じているのはデヴィッド・ストラザーン)からすげなく断わられる。

 

このやりとりがどこか間が抜けていて可笑しいが、翌年の日米開戦によってアメリカは第二次世界大戦に参戦し、イギリスはチャーチルが望んでいた強い味方を得た。僕たちにとっても他人事じゃない。彼らは当時の日本人が「鬼畜米英」と呼んで竹槍訓練していた相手なのだから。

 

その後の歴史を知ったうえで語るのとリアルタイムであの時代に生きているのとではもちろん違うわけだけど、それでも話し合いによる解決を模索するハリファックス卿の姿勢を「愚かな行為」「失敗」と退けるのは間違っている。1940年と現在とでは世界の状況も常識も異なるから、あの当時の「正しさ」は今では通用しない。

 

ダンケルクからの一方的な撤退作戦だった「ダイナモ作戦」がどこか美しく勇壮に描かれるのも、その後イギリスが連合国側の戦勝国になったことがわかっているからだ。すべては正義の名の下に美談化される。

 

そして最初の僕の疑問に戻る。なぜ今、チャーチルなのか。なぜ「ダンケルクの戦い」なのか。

 

第二次世界大戦を連合国側の勝利に導いた英雄としてチャーチルを描くことで、現在の英国人たちはそこから何を感じ取っているのだろうか。

 

少なくとも敗戦国である日本に生きる僕には、この映画のクライマックスの高揚感に酔うことはできないし、イギリスがそれまで行なってきた汚い植民地政策の数々について触れずに、チャーチル1人を勇敢にファシズムに戦いを挑んだ英雄のように描くのは違うんじゃないかと思う。

 

「ヒトラーから世界を救った男」という邦題が胡散臭さをさらに増幅させている。

 

ゲイリー・オールドマンはチャーチルのユーモラスだったり妻に頭が上がらない彼の人間っぽいところなどを表現していて、劇中では親しみを感じさせる人物としても描かれている。

 

ただ、何度もしつこいけど彼が下した決断には多くの人々の命がかかわっていたんだよね。

 

フランスのカレーで防衛を命じられた4000人の兵士たちは、ダンケルクの34万人の兵士たちを救うために助からないことがわかっていながら犠牲にされた。そういう選択を続けてきたチャーチル自身はもちろん、身内の者たちが戦争で殺されることはなかった。

 

戦争でまず死んでいくのは弱い立場にいる人々である、ということ。その事実は重く受け止めなければならないでしょう。

 

彼の偉業を称えることも大切かもしれないが、それよりも戦争というものは常に犠牲を生むもので、だからそこに至る前にどうすべきなのか、チャーチルの生きたあとの時代を生きる僕たちは考え続けなければならない。

 

この映画がつまらなかったのかと問われれば、いろいろ考えさせられるという意味では面白かったし、観てよかったですよ。

 

でも、ここで描かれていることにはほんとに留保が必要で、疑問や批判的な意見も含めて自分の頭で一つ一つよく考えて歴史を見つめる必要がある。

 

Victory(勝利)を意味するVサインは、裏返して人に向けると正反対の意味を持つ相手への最大級の侮辱のポーズになってしまう。僕たちは歴史をさまざまな面から読み取らなければならない。

 

「この選択が正しかったのだ」「我々は正義だ」という結論で止まってしまっていてはいけないんじゃないか。常に疑問を持ち続けて「本当にこれでよかったのだろうか。別の選択肢はなかったのか」と問い続けていくこと。戦争を二度と繰り返さないために、それは僕たちがやるべき義務だ。

 

この映画はそのきっかけを作ってくれるものだと思います。

 

 

インドからの視点

映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は10億人の人の歴史を踏みにじる

 

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