ロネ・シェルフィグ監督、ジェマ・アータートン、サム・クラフリン、ビル・ナイ、レイチェル・スターリング、ジャック・ヒューストン、ヘンリー・グッドマン、ジェイク・レイシー、ヘレン・マックロリー、クローディア・ジェシー、ステファニー・ハイアム、リリー・ナイト、フランチェスカ・ナイト、エディ・マーサン、ポール・リッター、リチャード・E・グラント、ジェレミー・アイアンズ出演の『人生はシネマティック!』。PG12。

 

原作はリサ・エヴァンスによる小説「Their Finest Hour and a Half」。

 

1940年、第二次世界大戦中のロンドン。国民の戦意高揚を目的とした映画の脚本家として情報省映画局に雇われたカトリン(ジェマ・アータートン)は、ドイツ軍の空襲が続く中、彼女をスカウトしたトム・バックリー(サム・クラフリン)らとともにフランスのダンケルクの撤退作戦で兵士たちの救助に向かったローズとリリーの双子の姉妹の実話を基に脚本の執筆に取り掛かる。しかし、さまざまな思惑から史実に脚色が加えられ、映画は独自の物語を描き始める。

 

物語のネタバレがあります。

 

 

映画サイトでタイトルを目にして、観た人たちの評価も高いようなので興味を持ちました。

 

イギリスが舞台ということも、「ダンケルクの戦い」を題材にした映画を撮る話だということもよく知らずに鑑賞。

 

ダンケルクといえばクリストファー・ノーランの映画が思い浮かぶけど、この『人生はシネマティック!』はまさにあの映画と併せて観ることでさらに興味深いものになると思います。

 

 

『ダンケルク』は見応えのあるスペクタクル戦争映画で僕はとても好きなんですが、あの映画で描かれたように兵士たちの救助に多くの民間船が参加したことは事実ではあるものの、それが多分に戦意高揚を目的にしたプロパガンダ的な美談としてイギリスの国民に流布されたのだということがこの映画を観ているとわかる。

 

『人生はシネマティック!』は別にそれを告発することが目的の映画ではないが、細かい「事実」がいかに都合よく変えられて人々を感動させる「物語」になっていくのか、その過程がつぶさに描かれている。実際それは感動的でもあるから、映画というものの奥深さを感じずにいられない。

 

観る前は、映画を作る人々についての話ということで、僕はちょうどフランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』みたいな映画製作の裏側を描いたバックステージ物だと思っていたんですが(実際、裏側が描かれはしますが)、舞台が1940年のイギリスということもあって戦時下の生活が描かれ、そこにメロドラマ的な要素も加わる。

 

この映画で描かれる物語自体はフィクションだけど、主人公のカトリンのような女性脚本家は当時存在していて、彼女たちは「女性の視点」から物語を紡ぎ、それが英雄ではなく普通の人々の話を観たがった観客たちの支持を得ていたという。

 

随所にあからさまに男性優位だった当時のイギリス社会の様子が描かれている。

 

劇中では、既婚女性の給料が男性よりも低いことがさらっと語られているし、カトリンの事実婚の相手である画家志望のエリス(ジャック・ヒューストン)は彼女が脚本家の仕事を続けることを快く思っていない。

 

自分の個展の開催に合わせてカトリンが当然仕事を辞めるだろうと勝手に思い込んだりもする。

 

また、戦争中で若い男が少ないためにさまざまな分野で女性が活躍しているにもかかわらず、男性たちの口からはしばしば女性を見下すような発言が洩れる。

 

アメコミヒロイン映画『ワンダーウーマン』の舞台は第一次世界大戦時中の1918年で、主人公ワンダーウーマンことダイアナは当時のロンドンを訪れてそこでの女性の社会的地位の低さを目の当たりにするのだけれど、1940年でも女性はけっして男性と平等に扱われてはいない。

 

この映画では女性の権利や男女平等について声高に唱えることはないが、女性監督ロネ・シェルフィグによって描かれた戦時下でのヒロインの物語には当然それは意識されていて、カトリンの「ローズがスクリューを直すのよ」という台詞には多くの女性たちの想いが込められている。

 

皮肉にも女性の社会進出をうながしたのは戦争だった。

 

 

 

 

僕は、この映画で史実が次第にフィクション化されていって、架空の登場人物たちが加えられていく様子がちょっと三谷幸喜監督の『ラヂオの時間』を思わせて(同じく三谷幸喜原作で戦時中が舞台の『笑の大学』も)面白かったんですよね。

 

『ラヂオの時間』は素人の主婦が書いた脚本が懸賞に当選してラジオドラマ化されるが、現場の都合によってどんどんその内容が変えられていってしまう、というコメディだったけど、『人生はシネマティック!』ではしょっぱなからヒロイン自身が「史実」を脚色する。

 

飲んだくれの父親の目を盗んで愛国心から兵士たちを救うために家の小型漁船でフランスに向かったローズとリリーの姉妹は、しかしエンジンのトラブルのためにダンケルクにはたどり着けなかった。

 

 

 

その事実を知ったカトリンは、映画局には姉妹が語った細かいディテール(フランス兵にキスされそうになったことなど)だけを伝えて『ナンシー号の奇跡』映画化のゴーサインをもらう。

 

“事実”ではなく“真実”を描く。

 

…まぁ、ちょっと都合の良すぎる言い回しではあるけれど、カトリンにとってはローズとリリーはなんとしてでもダンケルクに行かなければならなかった。

 

その後、さらに父親の代わりに叔父のキャラクターが加わったり、アメリカの参戦をうながすために演技はド素人の本物のアメリカ兵を出演させるように命令されたりして、映画はもはや原形をとどめないほどに。

 

「事実を基にした物語」と字幕が入る映画はよくあるけれど、あれってただ何も知らずに観てるとどこまでが史実でどの辺がフィクションなのかわかんないですよね。

 

映画で描かれている内容すべてが事実であることはほぼないので。

 

映画の作り手は「この方が効果的だし、映画として面白い」と思えば、誰かからの横やりなどなくても場合によっては実在しない人物を登場させもするし、生きてる人間を劇中で死なせたりもする。

 

出来事の順番を入れ替えることも。

 

ストーリーの山や必ず入れるべきトピックを黒板に貼り出してその間を埋めていくなど、創作の手順が興味深いし、カトリンとバックリーが互いにアイディアを出し合いながら脚本を磨き上げていく様子には作品が生み出されていく高揚感がある。

 

 

 

 

目的は戦意高揚のプロパガンダ。

 

でも、それだけではない、ここには作り手たちを動かす熱気がある。

 

たとえ出演者が出征のために途中で出られなくなっても、街が爆撃で破壊されても、映画は完成させなければならない。それが彼らの仕事だから。プロたちの意地と矜持。

 

バックリーがカトリンに言うように、確かに「映画は人生とは違う」。

 

すべてが構成されて、悲劇さえも効果を考えてそこに組み込まれている。

 

でも、そう言っていたバックリーがその後こうむる悲劇はまさしく「映画」のようだ。

 

この『人生はシネマティック!』という映画自体が、戦時下に強く生きる女性を主人公にしてメロドラマ的な要素の入った物語。

 

そして、そんな「映画」を観て僕たち観客は涙ぐみ、満足感を得てまた日常へ戻っていく。

 

私たちのそんな日常から、また映画が生まれていく。人生があって映画がある。

 

完成した映画『ナンシー号の奇跡』を映画館のカトリンの隣の席で観ていた女性客が、「これは私たちの映画ね」と言うように、創られた物語に本物が宿ることはある。

 

だから「人生はシネマティック」というタイトル(ちなみに原題は“Their Finest”)は逆説的に真実を言っているのかもしれない。

 

上映時間は117分。その時間の中に描くべきことが見事に収まっている。

 

この映画の脚本は実に巧みだと思います。

 

主演のジェマ・アータートンやバックリー役のサム・クラフリンは僕はこれまで彼らの出演作を観た記憶がないんですが、知らないからこそ先入観もないのでまるでほんとにあの時代の人のように感じられてとてもよかったですね。

 

 

 

アータートンが演じる明るくてユーモアもあり前向きな、でも日々空襲に見舞われる生活に疲れ夫との関係で悩む等身大の女性像には、この映画がまるで史実を基にした話であるかのような説得力がありました。

 

また、サム・クラフリン演じるバックリーはどこか屈折していて、それが英国人の気質によるものなのか、それとも彼個人の性格なのかわからないけれど、カトリンにも最初はどこか上から目線で皮肉っぽい物言いをするところなど、嫌な奴っぽいんだけどでも憎めない、すごく微妙なところを突く演技で、だからこそ終盤になって彼が唐突にカトリンに「結婚しよう」と言うのが効いている。

 

カトリンの出身地のウェールズ訛りでふざけたり。あの喋り方、モンティ・パイソンのコントを思い出した。

 

実は、僕は最初バックリーの顔を見て、ヘンリー・カヴィルかと思ったんですよね。似てるから。

 

だけど、あとで確認したら別人だった。

 

もしもスーパーマンを演じているヘンリー・カヴィル(彼もイギリス人だが、“アメリカン・ウェイ”のために戦うスーパーヒーローをどんな思いで演じているのだろう)がバックリー役だったのなら、それはそれでまた何か皮肉みたいな配役ですが。

 

この映画にはジェレミー・アイアンズやビル・ナイ、リチャード・E・グラントやエディ・マーサンなどハリウッド映画でもお馴染みのイギリス人俳優たちが何人も出演しているけれど、観ていて可笑しかったのが劇中で彼らイギリス人が何かにつけてアメリカをコケにしてること。

 

アメリカ人は派手な物語が好き(大雑把でがさつ)なので地味めで余韻を残すようなエンディングがウケないとか、イギリスはアメリカ人たちからは「上流階級が支配する国」と思われている、という自覚があるところなど、ちょっと京都人の東京に対する揶揄にも似ていてw

 

陰口を叩きながら大国アメリカに頼るイギリス、というステレオタイプそのまんま。

 

途中で撮影に参加するアメリカ空軍大尉のランドベック(ジェイク・レイシー)なんて完全にカッペ扱いだし。

 

でも、映画にたずさわる人々はこの映画では皆仲間として描かれている。悪者が出てこないんですよね。

 

情報省映画局の局員で、バックリーから「赤毛のスパイ女」呼ばわりされていたムーア(レイチェル・スターリング)はちょっと同性愛者っぽく描かれていて、カトリンにも「男のどこがいいの?」と聞いてくる。

 

 

 

 

最初は権力側の人間かと思わせられるけど、カトリンのことを見守り続けていて、最後も笑顔でみんなとお祝いしている。

 

かつては人気俳優だったヴェテランだが今では脇役に甘んじていることに不満を持っていて、隙あらば自分の台詞を増やそうとするヒリアード役のビル・ナイの素敵なおじいちゃんぶり。

 

 

 

戦争で物資が不足してレストランでもまともな食事が取れないことにキレたり、カトリンとの出会いも最悪だったが、やがてランドベックに演技をつけたり、映画の完成のために尽力する。

 

劇中で歌声も聴かせてくれます。ちょっと恋の予感もあったりして。

※ソフィー役のヘレン・マックロリーさんのご冥福をお祈りいたします。21.4.16

 

ヒリアードが劇中映画『ナンシー号の奇跡』で演じるローズとリリーの叔父フランクは第一次世界大戦で息子を、第二次大戦で孫を失っているという設定だし、戦争から帰還して家族に暴力を振るって威張るようになったというバックリーの父親は『ハクソー・リッジ』でヒューゴ・ウィーヴィングが演じた戦争でトラウマを負った父親を思わせもする。

 

カトリンが口にした「無意味な死」という表現に対して、バックリーは「死に意味はない」と答える。

 

彼が言いたかったのは「映画は人の死に“意味”を与える」ということだと思うんだけど、バックリーのその言葉は終盤で彼自身が撮影中の事故であっけなく亡くなってしまうことと繋がっていて、この『人生はシネマティック!』という映画自体がメタ的な構造になっている。

 

バックリーを失い映画の仕事を辞めたカトリンをヒリアードは訪ねて、「あの映画を観るべきだ」と勧める。そして「チャンスを自ら捨てるのは、“生”を“死”に服従させることだ」とも。

 

カトリンは映画を作り続けることで、そこに生と、死の意味を見出す。

 

完成した映画の中に挿入されていたカトリンと在りし日のバックリーの姿。監督がドキュメンタリー出身だという設定もうまく伏線になってましたね。

 

人生はシネマティック。

 

戦争の恐ろしさや別れの悲しみが描かれ、そしてここには映画と映画を作る人々への愛が詰まっている。

 

何よりもこれは、映画館の客席でスクリーンを見つめている僕たち“普通の人々”に届けられた贈り物でした。

 

お薦めです♪

 

 

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