パティ・ジェンキンス監督、ガル・ガドット、クリス・パイン、コニー・ニールセン、ロビン・ライト、ダニー・ヒューストン、エレナ・アナヤ、デヴィッド・シューリス出演の『ワンダーウーマン』。

 

 

Sia - To Be Human feat. Labrinth 町山智浩さんによる日本語訳

神話の島セミッシラに住むアマゾン族の女王ヒッポリタの娘ダイアナは、叔母のアンティオペに鍛えられて戦士として成長する。ある日、アメリカ軍のスティーヴ・トレヴァー大尉が乗る飛行機が墜落、彼は第一次世界大戦で連合国側のスパイとしてドイツに潜り込み、毒ガス兵器についての機密が書かれたノートを奪取して追っ手から逃れてきたのだった。ダイアナは世界を救うために島を出てスティーヴとともにロンドンに向かう。

 

『ワンダーウーマン』と『スパイダーマン:ホームカミング』についてのネタバレがありますので、ご注意ください。

 

 

去年の『スーサイド・スクワッド』に続く、DCコミックスの実写化シリーズ“DCエクステンデッド・ユニヴァース”の第4弾。お話としてはやはり去年公開された『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の前日譚的なエピソード。やがて正義の超人チーム「ジャスティス・リーグ」の一員となるワンダーウーマンが人間と出会い、故郷を離れて世界を守るようになるまでを描く。

 

えーっと、『バットマン vs スーパーマン』については結構クソミソに言って、今後このシリーズを観続けようとは思わない、みたいなこと書いたんですが、結局『スーサイド・スクワッド』も観たし、さらにこうやって“史上最強の戦士”の映画まで観てるわけですが。

 

 

 

去年だったか今年の初めに公開された予告篇を観て、敵のドイツ軍と戦うワンダーウーマンの姿に「あぁ、またなんかキャプテン・アメリカ的な感じの奴ね」と思って、その時点では観るつもりはなかったのです。

 

でも、公開が近づき映画評論家の町山智浩さんの解説を聴いて、原作者のエピソードが面白すぎたのと、しかもフェミニズムの匂いを濃厚に漂わせている作品ということで、急に興味が湧いてきたのでした。

 

オトコマエすぎるオンナ!ワンダーウーマンってなにもの?

 

女性ヒーロー像の立役者、「ワンダーウーマン」原作者のもうひとつの遺産は「嘘発見器」

 

 

僕は男性ですが、ジェンダーについて意識的に描いているヒロイン映画に関心があるので。

 

町山さんも紹介の中で触れられているワンダーウーマンの原作者ウィリアム・モールトン・マーストンを主人公にした『Professor Marston & The Wonder Women』は今のところ日本での公開は未定のようですが、『ワンダーウーマン』がヒットすればいずれ観られるようになるかもしれませんね。

 

さて、映画の感想を書く前に、興味深い批評や主演のガル・ガドットの背景について書かれた文章を紹介しておきます。

 

小島秀夫が観た『ワンダーウーマン』

 

“正義のヒロイン”似合わぬ『ワンダーウーマン』主演女優のコワモテ素顔、日本の映画ライター達の平和ボケ

 

『ワンダーウーマン』、日本の映画ライターが書かない暗黒面―イスラエル最強のソフトパワー

 

 

以下に書く僕の感想は直接的にはこれらの文章に影響されていませんが、映画を観てから上記のリンクを張った文章を読むといろいろ考えさせられるものがあるのでご参考までに。

 

ちなみに、ゲームデザイナーの小島秀夫さんが上の批評の文中で触れられている『エイリアン2』『ターミネーター2』の監督ジェームズ・キャメロンが、今回この『ワンダーウーマン』について「女性主人公にとって一歩後退」と発言してパティ・ジェンキンス監督が反論するという一幕もありました。

 

ジェームズ・キャメロンが『ワンダーウーマン』を批判…も鋭い切り返し

 

 

正直『T2』のサラ・コナーとワンダーウーマン=ダイアナを比べるのはちょうどシルヴェスター・スタローンのランボーとマーヴェルヒーローのカミナリ様マイティ・ソーを比べるようなものでちょっとチグハグさを感じなくもないんだけど、フェミニズム云々を僕に語る資格があるのかどうかはわかりませんが、個人的にはキャメロンによる批判は的を射ていると思う。

 

それに対するジェンキンス監督の「女じゃないお前にはわからない」という反論は、僕にはちっとも“鋭い切り返し”には思えないんですが。

 

というよりも、「フェミニズム」というものをどう捉えるかによってこの作品の評価も変わってくるのではないかと。

 

パティ・ジェンキンスが考える「フェミニズム」とか「女性の権利」というのがどういうものなのか僕にはわかりませんが、男女平等を謳う時に「女じゃない奴にはわからない」というのは、フェミニズムというものの矮小化じゃないだろうか。フェミニズムって女性だけのものなんですか?少なくとも“男女平等”というのは、相手の「男性」がいて初めて成り立つものでしょう。

 

それとも、ジェンキンス監督は女性は男性よりも偉くなるべきだ、と思っているのかな。

 

『エイリアン2』や『T2』ではヒロインを等身大の人間として、あるいは男性と対等の力を持った存在として描いています。直近の映画では『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でシャーリーズ・セロンが演じたヒロインがやはりその系譜(パティ・ジェンキンスはかつてシャーリーズ・セロン主演で実録物の『モンスター』を撮っている)。

 

一方で、この『ワンダーウーマン』のヒロイン、ダイアナはそもそも人間ではなくて神話の世界の住人で、だからこの映画での彼女は女神のような存在。女性はもともと“女神”として描かれている。戦いの女神が地上に降りて人間たちのために戦う、という物語なのです。

 

 

 

だから、逆に人間(≒男性)たちはヒロインを仰ぎ見るんですね。

 

神の視点から人間たちを眺めると、強くてたくましいヒロインと比べた時にいかに人間(≒男性)というものが弱くて愚かな存在なのか、ということが見えてくる。

 

でも、そんな人間たちに愛おしさを感じてそのかけがえのない命を見つめ直すという話。

 

1918年という、まだ女性の権利が大幅に制限されていた時代をあえて舞台に選んでいるのも、そういう人間の世界のルールに囚われない女神様を主人公にすることであらためて男女平等という理念について考えさせようとしているんでしょう。

 

人間の男たちなど足許にも及ばないスーパーパワーを持つヒロインの活躍を見せることで、かえって脆くて弱い人間の姿が浮き彫りになってくる。あるいは女性たちの可能性を彼女の姿に投影しているともいえる。

 

この映画の前半では女性だけの島が舞台で、町山さんも仰っていたように、こんなに大勢の女性たちがいっぺんに戦っているような場面はこれまでちょっとお目にかかったことがない。

 

勇ましいおねえさまたちにぶちのめされたいドM男子にはご褒美みたいな場面w

 

 

 

 

そういう女たちの園から、後半ではダイアナは男ばかりの世界へ向かうことになる。

 

そこで登場する女性たちはクリス・パイン演じるスティーヴの秘書エッタ(ルーシー・デイヴィス)や、戦場で助けを求める赤ん坊を抱いた女性ぐらいしかいない(敵のドイツ軍に毒ガスの開発者である女性研究者がいるが後述)。

 

男の中で一人だけのヒロインが強調される。

 

そのスーパーヒロインを演じるのがイスラエル出身でかつてイスラエル軍で2年間の兵役にも就いていたガル・ガドットであることも、“ワンダーウーマン”というキャラクターのそもそもの成り立ちを考えても映画の作り手が「女性の権利」についていかに意識的であったかがうかがえる。

 

男性たちに奪われた女性の権利を取り戻そう、と言っているように見える。

 

ガル・ガドットの政治的主張については僕にも言いたいことがあるんですが、ここでは映画の感想を書きたいのでひとまずは措いておきます。

 

またどうせゴチャゴチャと要領を得ない感想になるでしょうから結論から最初に言いますと、これまでザック・スナイダーが撮ってきた『マン・オブ・スティール』や『バットマン vs スーパーマン』よりは楽しめました。

 

盛り上がる場面もあったし、スクリーンの中を所狭しと駆け抜けるダイアナにちょっと胸が熱くなるような時も。

 

だから観てよかったし、きっとダイアナ=ワンダーウーマンの雄姿に感動したり彼女を好きになる人はいるでしょうね。Twitterでも盛り上がってる人たちが結構いたので僕も期待していました。

 

ただ、実際に観てみると、残念ながら僕にとってはそのように心を揺さぶられて感動に震えるスーパーヒロイン映画ではなかった。

 

特に後半に向かうにしたがって確実に盛り下がっている自分を意識したのです。

 

あぁ、DCエクステンデッド・ユニヴァースのいつもの悪い癖が出てるなぁ、と。

 

ハッキリ比べてしまうと、同じく現在公開中のマーヴェル・コミックスのスーパーヒーロー映画『スパイダーマン:ホームカミング』の方が1本の映画としては面白かった。

 

どちらもシリーズ物の1本でありながらも独立した作品として楽しめるという点では(厳密に言えばどちらも過去作を観ていなければ意味がわからない部分はあるが)共通しているんですが、単純にアメコミヒーロー物としてカタルシスや物語的な満足度でスパイディの方が勝っていた。

 

『スパイダーマン:ホームカミング』が学校やお隣ご近所が舞台の少年の青春学園モノであるのに対して、『ワンダーウーマン』は神話的な世界や戦場を描いていて互いに何から何まで対照的な映画なので、両者を観比べてみるとその違いが逆に面白いんですが。

 

この映画についてはディズニーアニメ『モアナと伝説の海』との類似についても言われてますが、確かにダイアナが故郷の島から外の世界へ旅立っていくところあたりまではよく似ています。

 

僕は『モアナ』の感想には、モアナが立ち向かうのが自然の脅威だったのが不満、みたいなことを書いたんですが、『ワンダーウーマン』のヒロインの敵は人間が起こす戦争。

 

その戦争にダイアナは「愛」の力で立ち向かう。

 

だからある意味僕が観たかったものを見せてくれている映画でもあったわけですが、そこで最後にダイアナが手にする勝利に、いまいちピンとこなくて。

 

あのクライマックスって、何がどうなって敵のラスボスを倒せたのかどなたかわかりやすく説明してもらえます?

 

ダイアナはしきりに「愛」という言葉を口にして、愛こそが戦争を食い止めるんだ、みたいに言うんだけど、具体的にそれがどのような方法なのか映画を観ていてもよくわからなかった。

 

なんか叫びながら“かめはめ波”みたいなの撃ったら大爆発が起きて敵が死んだ、みたいな^_^;

 

 

 

僕は『ホームカミング』で敵を殺さずに命を救ったスパイダーマンの方がよっぽどダイアナの言う「愛」に溢れていたと思うんですが。

 

いや、敵の毒ガス博士を救ってましたけどね、ダイアナさんも。それが「愛」なの?

 

この映画ではダイアナの言う「愛」というのがどうも形として見えないんですよね。

 

女性や子どもたちの命を救うことがそうなんだ、という説明はあって、ロンドンに来たダイアナが赤ちゃんをあやそうとしたり、戦場で毒ガスによって全滅させられてしまった村を見て彼女が「助けられたのに」と悲しみに暮れたりはする。

 

だけど、それとノーマンズランドで鐘楼を破壊するためにドイツ軍相手に大暴れする彼女の姿がうまく結びつかないのだ。

 

 

 

 

小島さんも指摘されていたように、出会ったのがたまたまアメリカ人の兵士だったから彼女は連合国側につくけど、じゃあドイツ軍の兵士と出会っていたらドイツ側についたのか?と。ドイツにだって女性や子どもはいるわけだが。

 

何をもって「正義」とするのかその基準が非常に曖昧。

 

先ほどリンクを張った志葉玲さんの記事にあるように、ガル・ガドットはパレスチナの多くの一般市民が犠牲になった2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻の支持を表明しているんだけど、そういう主張はそのまま好戦的なダイアナというヒロインに当てはめることができる。皮肉にも、この映画で描かれたダイアナ=ワンダーウーマンにもっとも相応しい女優は紛れもなくガル・ガドットだったということだ。

 

そして彼女が人間の兵士たちを相手にどんなに超人的な戦いを見せても「神様だったらそりゃ強いよね」としか感じられなくて微妙な気持ちに。

 

もちろん、あそこでは敵のドイツ軍というのは「戦争」そのものの象徴なんだろうけどね。でも戦争というのは片方が“善”でその敵は“悪”といったようなわかりやすいものではなくて、だからこそ簡単に解決できない多くの問題を抱えているんでしょう。

 

連合国側を勝利に導けば味方の女性や子どもが助かるからそれこそが「愛」なんだ、と言われても、ちょっと納得しかねる。ムリヤリ戦争を続けようとするのがドイツ軍の頭のおかしい軍人、というのもあまりにことを単純化しすぎてやしないだろうか。戦争ってそういうものか?

 

この映画のダイアナの真の敵は軍神アレスで、彼に操られた人間たちが「戦争」を引き起こすのだ、とされている。だから彼女はアレスを殺せば戦争もなくなると思っている。ダイアナは戦闘種族であるアマゾン族のお姫様なので、発想がまず「闘い」なんですよね。

 

なので、ドイツ軍の戦争継続を目論む総監を殺しても戦争が終わらないことを知って、またスティーヴに「それが人間なんだ」と語らせることで、敵の親玉を殺せばすべて丸く収まるような神話の単純な世界観と人間の複雑なそれとを対比している。

 

映画の中盤でダイアナが見せる人間相手の大暴れは、人間たちが行なっている戦争を一人のスーパーヒロインの姿を借りて描いた、ということもできるでしょう。

 

ならば、ダイアナは彼女という存在の根幹を成す「闘い」というものを一度完全に否定して、「愛」とは何かを学び直さなければならないのではないか。

 

具体的にいえば、戦争を食い止めるには本当は何をすべきか、ということ。

 

それは狂った軍人や裏切り者の英国人の政治家によって計画された毒ガス兵器による世界滅亡を食い止めること……などではなくて、もっと基本的なことじゃないのか。

 

つまりそれは、互いに憎しみを捨てることでしょう。それが「愛」なんじゃないの?

 

僕は原作のことは知らないから映画についてのみ述べますが、たとえばダイアナが出会い、愛し合うことになったスティーヴが最後に毒ガス兵器とともに死ぬ必要はなかったんじゃないかと思うんですよ。世界を救う、というのはそういう『アルマゲドン』的な英雄的行為ではないんじゃないか。

 

クライマックスでのダイアナとアレスの戦いは、スティーヴやその仲間たちの戦いと重ね合わされることで感動を呼ぶはずなんだけど、残念ながら映画を観ていても神様たちのハリポタみたいな超能力合戦とスティーヴら生身の人間たちの戦いがどうも乖離していて、まったく燃えないんですね。

 

そうじゃなくて、スティーヴたちがドイツ軍の兵士たちとともに戦いの無意味さに気づいて自ら殺し合いを放棄するような展開ならば、それがまさしくダイアナのアレスへの勝利に繋がったと思う。

 

すべてが終わったあとに防毒マスクを外して我に返り呆然として次々と地面にへたり込んでいたあの若いドイツ軍兵士たちの姿は、敵だった彼らもまたスティーヴと同様に感情を持った生身の人間であることを表わしていたのでしょう。

 

スティーヴが敵のドイツ軍の兵士の命を助けるとか(まぁ、毒ガス兵器は世界を滅亡させる力があったんだから、結果的にはスティーヴは彼らも救ったんだが、それはいまいち観客には伝わっていないと思う)、要するに敵を殺すんじゃなくて手をとりあい互いを許す道を人間たち自身が選択することで、ダイアナの人類への「愛」は成就されると思うのです。

 

『バットマン vs スーパーマン』で映っていた古い写真の中のスティーヴの姿を見た時に、僕は時を越えたヒロインの哀しみを感じたんですよね。

 

 

 

きっと彼らは愛し合っていたんだろうけれど、人間ならばスティーヴはたとえ戦争で死んでいなくてももはや21世紀の現在には生きてはいないはずだから。

 

愛した人が年をとって死んでしまってからも、人間よりも長寿であるダイアナは若い頃の姿のままで人間の世界で生きていく。そこに人間たちの姿を愛おしく見つめる神話の世界のヒロインのなんともいえないロマンも感じるんです。

 

だからあそこでスティーヴには死んでほしくなかった。

 

 

スティーヴを演じるクリス・パインは今では「スター・トレック」シリーズのキャプテン・カーク役で顔が知れてるけど、今回もキャプテン(大尉)って呼ばれてましたね。

 

 

 

 

カークの時よりも愛嬌があって可愛いキャラでした。アソコは標準以上だそうですがw

 

毒ガスの研究者で顔の一部が崩れて仮面をつけているドクター・ポイズンことマル博士(エレナ・アナヤ)も、もうちょっと活躍させられなかったのだろうか。この女性はダニー・ヒューストン演じるルーデンドルフ総監の命令で残虐な毒ガスの研究に没頭していたのだけれど、なぜかいつも涙目で、どこか哀れそうな存在として描かれている。

 

 

 

 

彼女のキャラクターがどっちつかずというか、完全悪でもなく、かといって彼女自身の描写もけっして多くはないので実に中途半端でモヤモヤが残った。終盤でダイアナに命を救われたけど、続篇にも登場するんでしょうか。

 

悪役だけでなく、スティーヴとともに戦う仲間たちが後半それぞれのキャラクターが活かされないままお話が終わってしまうのも、なんだかなぁって。全体的に登場人物たちが立ってないというか。

 

悪役といえば、デヴィッド・シューリス演じるモーガン卿が実は黒幕だった、というオチもあまりに投げやりじゃないだろうか。

 

あそこは人間の世界が味方と敵、善と悪といった単純なものではなくて、すべての人間にはさまざまな要素があり、自らの意思で正しい選択をしていかなければならない、ということを伝えるべきところでしょう。

 

「正義」の側であったはずの人間がたやすく悪の道に踏み込んでしまう、そういう危うさを感じさせなければならなかったはず。

 

モーガン卿やルーデンドルフが愚かな人類を滅亡させようとする、という展開にまったくなんの現実味も説得力もないので、ここで描かれている戦争がすべて茶番劇に見えてしまうんですよ。

 

戦争ってそんな暗黒大将軍みたいな奴がいきなり世界を滅ぼそうとするとか、そういうもんじゃないでしょ。領土や資源の奪い合いみたいな、もっと醜くてちまちましたしょーもない、でも人間の欲望に忠実な理由で行なわれるものじゃないですか。憎しみだってそうでしょう。

 

マーヴェルのスーパーヒーロー映画が、キャプテン・アメリカの一連のシリーズのように現実の世界の戦争の仕組みについてきわめて冷静に分析したうえでそれをアメコミヒーローの世界に置き換えているのに比べると、DCの戦争観はあまりにも素朴で幼稚だ。まるで小学生が考えたファンタジーの世界の「戦争」のようで。

 

よくDCの映画はマーヴェルよりも“ダーク”だと評されるけど、それはただ単に画面が暗いだけだからで、リアリズムに基づいて映画を作っているのは紛れもなくマーヴェルの方だ(ワンダーウーマンというキャラは、やはり神話の世界を舞台に神様たちが闘うマイティ・ソーに近い)。

 

神話の世界の価値観や「正義」や「愛」をそのまま、よりによって現実の世界の戦争に持ち込めば齟齬をきたすのは当たり前なのだが、この映画はそのことにあまりに無自覚だと思う。

 

戦争というのは悪いおじさんを倒せばなくなるのか、といったら、そうかもしれないけど^_^;それだけじゃない。

 

せっかく女性の力が世界を救う話をやってるのに、なんでこういうどーでもいい展開にしちゃうんだろう。観ていて一体なんの話なのかわかんなくなってきちゃったよ、あまりに中二病すぎて。

 

「愛」がどうとか「光と闇」がどうのと観念的な言葉を飛ばし合って最後に光線発射して解決とか、まるで『バケモノの子』みたい。ダイアナとアレスの問答は「風の谷のナウシカ」の原作漫画の終盤のゴタク合戦のようだった。頭でっかちだ。

 

映像的にも、以前から言ってるように銀残しみたいなくすんでザラついた色合いが僕は好みではなくて、まぁ、戦争を描いているからスピルバーグとかの戦争映画の雰囲気が出ていなくもないけれど、でも後半にワンダーウーマンが活躍する場面なんかは『MOS』や『B v S』の時と同様に僕はあまりアガれませんでした。

 

敵がドイツのおっさんと、ひ弱そうなハリポタの先生じゃなぁ。ちっとも盛り上がらんよ(;^_^A

 

 

 

 

一番の見せ場でもあるはずのダイアナとアレスの戦いの場面は『B v S』のクライマックスのドゥームズデイとの戦いみたいで、「あぁ、監督が替わってもこういうのは変わんないのか」と。

 

 

 

 

今回でも確信したけど、やっぱり肝腎のアクション場面もVFXの精度もDCはマーヴェルの映画にかなわないと思う。

 

 

前半の、ダイアナがスティーヴと一緒にロンドンに行くあたりまでは僕もかなりお気に入りだったんです。

 

毒ガスの脅威を訴えるスティーヴの言葉に耳を貸そうとしない英国軍の上層部の男たちにダイアナが「恥を知りなさい」と詰め寄ったり、初めて食べたアイスクリームに感激して売店の店員に「誇りに思うべきよ」と言ったりする場面では、彼女のけっして誰にも物怖じしない態度に勇気づけられたり、その無垢な性格に萌えたりする人はいるでしょう。

 

美形な顔とハスキーな声のギャップも萌えポイントかも。

 

アメリカ出身ではないガドットは英語に訛りがあるので、アマゾン族を演じる女優たちは全員彼女の喋り方に合わせて訛りのある英語を使っている、という逸話も微笑ましい。

 

変装のために眼鏡をかけるけど、すぐに壊れてしまって結局素顔のままでいることになるのも、まるでスーパーマンをパロってるみたいで。

 

 

 

あれは、ワンダーウーマンはスーパーマンと違って素顔を隠したりはしない、という意思表示のようにも感じられました。

 

路地裏でドイツのスパイが撃ったピストルの弾をダイアナが腕輪ではじき返してスティーヴを守る場面は、クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』(1978)でクラーク・ケントが暴漢の放った拳銃の弾を受け止めてロイス・レインを守る場面を思い出した。

 

ちょうど男女の立場が逆になってるんですよね。

 

原作にも同様の場面があるのかどうか知りませんが、僕ともほぼ同世代のジェンキンス監督はリーヴのスーパーマンが好きだったそうだから、オマージュが入ってるのかも。

 

 

ダイアナの母親でアマゾン族の長ヒッポリタを演じるコニー・ニールセンは、2001年の『グラディエーター』で若き皇帝の姉ルッシラを演じていたのが印象に残っています。

 

 

 

時代モノが似合う女優さんだなぁ、と。

 

彼女の妹アンティオペを演じるロビン・ライトは『フォレスト・ガンプ』のヒロイン・ジェニーなど、幸薄そうな役が多い人だけど、まさか彼女がこんな勇ましい将軍役だとは。

 

空中でのキメポーズが美しかったですね

 

ロビン・ライトは現実にもコニー・ニールセンの1歳年下だけど、彼女の方が年上に見える。

 

90~2000年代にヒロインを演じていた人たちが、今は新たなるスーパーヒロインの母や叔母を演じている。そこに何かグッとくるものもあって。

 

この『ワンダーウーマン』は世界中で大ヒットしていて、DCの危機を救ったまさしく最強の戦士。バットマンもスーパーマンでも成し得なかったことをやり遂げた世紀のスーパーヒロイン。

 

多くの観客、女性たちに絶賛、熱烈支持されています。同じくパティ・ジェンキンス監督でさらなる続篇も作られることが決定している。

 

そのこと自体にイチャモンつける気はないし、ダイアナが魅力的なキャラクターであることは否定しない。

 

ただまぁ、僕は以上のような理由でわりと微妙な評価となりました。

 

この映画に限らないけど、スーパーヒーロー、スーパーヒロイン物って、派手に戦って敵をぶちのめして倒すのを楽しむジャンルだから、そこに「愛」をどう絡めればいいのか、という問題はある。

 

戦うのを否定したらスーパーヒロインじゃなくなっちゃうし。そのジレンマに揺れている映画のように感じました。

 

 

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