監督:細田守、声の出演:染谷将太役所広司宮崎あおい広瀬すずリリー・フランキー大泉洋黒木華大野百花宮野真守山口勝平山路和弘津川雅彦ほかのアニメーション映画『バケモノの子』。



両親が離婚し一緒に暮らしていた母を事故で亡くした9歳の蓮(宮崎あおい)は、彼を引き取ろうとする母方の親戚たちから逃げて渋谷の街を彷徨う。そんな蓮にケモノの姿をした男・熊徹(役所広司)が話しかけ、彼を追って蓮は不思議な街に紛れ込む。そこはバケモノたちが棲む“渋天街”だった。格闘の達人である熊徹に弟子入りして強くなろうとする蓮。バケモノたちの中で唯一の人間として苛められることもあるが、蓮は熊徹の仲間である多々良(大泉洋)や百秋坊(リリー・フランキー)らに見守られながら、バケモノの弟子として修行を始める。


原恵一監督『百日紅(さるすべり)~Miss HOKUSAI~』に続いて今年観る2本目の日本製アニメ。

『百日紅』は結構好きだったので、この『バケモノの子』も予告観て気になっていました。

僕は細田監督の映画は『時をかける少女』と『サマーウォーズ』を劇場公開時に映画館で観ています。

その時点までは新作を楽しみにしている監督さんでした。

なので前作『おおかみこどもの雨と雪』ももちろん観るつもりだったんですが、同じ日にピクサーの『メリダとおそろしの森』と2本ハシゴしようとしたら、1本目の『メリダ』が思いのほか僕は受けつけなくて、続けてアニメを観る気力を失ってしまったため急遽取りやめ。

結局そのまま『おおかみこども』を観るタイミングを逸して、気づけば公開は終了、翌年にTV放映で観ました。

『時かけ』と『サマウォ』はわりと好きだったんだけど、『おおかみこども』に関しては正直自分がアニメに求めるものではなかったので、こういう系統の作品なら自分は観なくていいかな、と思ったのでした。

で、今回の最新作は予告篇からも少年の冒険を描いたファンタジー映画っぽかったので、久しぶりに細田監督の最新作に足を運んだのです。

結論からいいますと、いろいろと残念でした。もったいないな、と思った。

凄く気になった点を挙げると、全篇に渡って説明不要なところに説明台詞を被せ、逆にちゃんと描くべきところを描かないこと。

蓮が渋谷のビルからやってきた道を振り返ると、そこはふさがっている。すると彼は「来た道がふさがってる!」とか言うんだけど、

見りゃわかるから!^_^;

17歳になった蓮が幼い頃の自分の真っ黒い残像を見て「俺の心の闇…」みたいなこと呟くんだけど、

見りゃわかるから!!(>_<)

なんだよ、観客をバカだと思ってるの?ラジオドラマか、これは。

すべての場面ではないが、こういう不必要な説明台詞が随所にある。

アニメに限らず日本映画全体に蔓延している病いだと思いますが、これだけで作品の質を著しく落としていることに、いい加減作り手たちは気づいたらどうだろうか。

そりゃ世の中にはいちいち言葉で説明しないと意味や内容が理解できないアンポンちゃんが居るのも確かだけど(俺も人のこと言えませんが)、そういう人を作ったのはあなたがた作り手たちでもあるんだぞ。

TVドラマで登場人物の気持ちや状況をすべて言葉で説明してしまう処理とか(最近じゃドラマでもテロップがバンバン入るし)、ほんとに酷い。そういうことを映画でもやってるのね。それが当たり前だと思ってる人には「違うから」と言いたい。

「映画」はまず映像から情報を読み取るものです。「画」の中でちゃんと描写されているものは重ねて言葉や文字で説明する必要はない。

そんな感じで…スミマセン、結構ぐちゃぐちゃ言いますので、この映画が好きなかた、細田守監督作品のファンのかた、信者さんはお読みにならない方がいいかもしれません。あらかじめご了承ください。

以下、ネタバレがありますのでご注意を。



大ヒットしているようですし褒めてる人も多いからあくまでも個人的な意見の一つだと思っていただきたいんですが、何か期待していたものと違うものを見せられたガッカリ感があった。

いや、僕は今では日本のアニメは絵柄や声優の台詞廻しなど、映画の内容以前に拒絶反応を起こしてしまうことが多いので、その点ではこの『バケモノの子』はすんなりと入れたんです。キャラクターデザインやカット割などの演出面などでいきなりつまずくということはなかった。

だから、やっぱりストーリー展開かな、問題は。

今回、細田監督はこれまで組まれてきた脚本家のかたとではなく単独で脚本を書かれたようですが、ハッキリいってうまくいっていないと思います。

それは僕以外の多くの人々も指摘していることなので、単なる好き嫌いではなくてシナリオに構造的な欠陥があるとしか考えられない。

まずこの映画に対してよく言われるのが、スタジオジブリ作品を彷彿とさせる、ということ。

熊徹の顔は(オオカミ顔ということもあって)ちょっと「名探偵ホームズ」(ジブリじゃないですが、宮崎駿繋がりで)を連想する時もあった。

 


それ自体は別にいいんだけど、だからこそ観客が期待したものと違うものを見せられて困惑、というのがある。

また、ジブリでいえば『千と千尋の神隠し』のように異界に「往きて還りし」物語と思うでしょう、誰だってあの予告篇を観れば。

その通りなんだけど、主人公の蓮は最後にじゃなくて、映画の中盤以降にわりとあっさり人間の世界に帰ってきちゃうんだよね。

バケモノの世界での冒険が描かれるんだとばかり思っていたから、意表を突かれる。あれ?蓮はあっちの世界で戦わねぇんだ、と。

戦いって、バケモノの世界を統べる「宗師」の後継者の座を巡る熊徹と猪王山(いおうぜん 声:山路和弘)の試合だけだもんな。




せっかく競技場があるんだから、『グラディエーター』みたいにもっと戦いのシーンがあってもよかったのに。

これも、だからダメだというんじゃないんだけど、こうやって微妙にはぐらかされていくわけです、こちらの期待が。

なぜもっとシンプルに、映画のほとんどをバケモノたちの世界を舞台に主人公の波乱万丈な冒険を描かないのか。

西遊記を思わせるサルやブタも出てくるんだし(さすがにカッパは出てこなかったな)、どうして彼らが熊徹といつもツルんでるのか、旅の途中で描けるじゃないですか。そういうバケモノたちが活躍する場をわざわざ用意したのに、なぜ早々と主人公を人間の世界に戻してしまうのか。

 


熊徹は蓮に「九太」と名前をつけてそう呼ぶが、蓮はずっと自分の名前を「蓮」だと思っているからせっかくもらった名前にもなんのありがたみも感じていないし、劇中でも「九太」という名前が特別なものとして機能していない。

17歳の蓮の「九太で結構だ」という台詞は、その名前を受け入れたのではなくて「十七太」にされそうになって言っただけだし。

これは「九太」だった少年が最後に自分のほんとの名前「蓮」を取り戻すような話になるはずですよね?普通は。『千と千尋』みたいに。

あるいは、「蓮でもあるし、またの名を九太」と名乗ることで人間の世界とも、熊徹に代表される第2の故郷であるバケモノの世界の両方を受け入れる、とかね。

でもそのどちらでもないので、いちいち引っかかる。

あと、蓮の実の父親のあまりの存在感のなさ、リアリティのなさ(外見も父親というより兄みたいだし。この人は善人っぽいが、ならなぜムリヤリ離婚させられたのか)に、この監督さんには「父性」とか父と息子の関係というものが実感としてないのではないかと思った(早くにご両親を亡くされているそうですが)。

だから実の父とも育ての親みたいな熊徹とも蓮はどこかぎこちなく、どこにも彼の居場所がないように見える。

それは意図的なものなのかもしれないが、観ているこちらには非常に居心地が悪くてちっとも楽しくないのだ。

結局、監督さんが描きたかったのは渋谷とか学校近辺が舞台の高校生の男女の話なのか、と。大検とかさ。

あぁ、興味ねぇわ、って思ってしまった。

若い男女が抱き合ってフェンスに頭ガシャ~ン、とか、イイ年コイてああいうのをカッコイイとか切ないとか思ってるのなら、イタ過ぎると思う。

高校は『時かけ』だし、大学云々は『おおかみこども』ですよね。

なんか凄く狭い範囲で映画作る人なんだな、って。

ただなんとなくバケモノがいてなんとなく人間と繋がっていたりいなかったり、というんじゃ、観客にはそれで物語の奥で「何が」描かれているのかわからない。

たとえばさ、熊徹と多々良は映画の冒頭でなんで人間の町をウロチョロしてたの?人間から弟子を取ることは認められていないんだから、彼らは人間になんの用があったんだろう。

そもそも人間の世界とバケモノたちの世界の関係がよくわからないよね。

別に人間の高校生とバケモノがカラんだっていいけど、だったらやっぱり人間とバケモノの関係はちゃんと描かないとダメだ。

二つの世界は何か特殊な条件によって繋がるのかと思ってたら、クライマックスのあたりではなんか物理的に薄い壁を隔てたお隣同士みたいに描写されてるし。

なぜバケモノたちが人間を忌み嫌うのかもよくわからない。とにかくなんだかわからないけど人間は差別されている。

「なぜ人間の世界のトラブルに我々が巻き込まれなければならないのか」みたいなこと言ってて、バケモノというよりも人間よりか弱い生き物たちのようだし。

だから蓮も最初のうちは苛められるが(ってゆーか、しょちゅう“うり坊小僧”の二郎丸(大野百花)に鉢合わせしてたけど、なんでいつも同じ場所に行ってるの?蓮は学校通ってるわけじゃないでしょ?)、格闘の腕が上がってその強さがまわりに認められると彼が人間であることは不問にされる。




そして賢者たちの教えを請いに旅に出るのだが、なんとその旅がガンガンに端折られてて、あっという間に旅のエピソードは終わってしまう。

無駄足だった、みたいな感じで。

普通ならこういうところこそ丹念に描くよね?

そして、その旅で得たものこそがのちに主人公の戦いに役立つ、というのが「物語」のセオリーなわけで。

でもそうならないんですよね。

賢者たちにいろいろと意味ありげなことを語らせるんだけど、言葉だけでそこに至る旅の過程が描かれていないから、まったく頭に入ってこない。

何度も言うけど、普通はこういう場面こそ時間とってしっかり描くはずでしょう。

こうやって「普通」を連呼してると「“普通”の映画なんてつまんないだろ」と言う人がいるけど、フツーをバカにすんなよ。

今は普通の映画を撮れる人が少ないから、普通は重要なんだよ。

たとえば『天空の城ラピュタ』で途中のラピュタ探索の描写をカットしたら映画が壊れてしまうではないか。

だから監督は賢者たちの言葉にも興味なさげな表情の熊徹と同様、こんな旅の場面には端から興味がないのだ。

エッ、じゃあ、なんでバケモノの世界なんか出したの?

高校生の話を描きたいんなら、現実の世界を舞台にしてそこで男女の出会いやキレる若者の話をやってればいいじゃん。そんなの俺は観ないけど。

今回、監督がどういうつもりで「バケモノの世界」というのを映画の中に登場させたのか知らないけれど、このファンタスティックな世界と渋谷とかヒロインの楓がいる人間の世界がまったく噛み合っていないように見える。

なんていうか、それぞれリアリティのレヴェルがまったく違う世界観を強引に接ぎ木したみたいな不自然さ。

その「現実」と「虚構」の境目みたいなものがあまりに雑に繋がれているので、映画が非常にイビツになっている。

そして、翻って考えてみると、細田作品はすべてどこかイビツだったんじゃないかと気づかされる。

オーソドックスな王道の娯楽映画ではないのだ。

他の作品について述べる余裕はないのでこの作品だけに絞るけど、僕はこの『バケモノの子』を観ていて以前観たアニメ『ブレイブ ストーリー』を思いだしました。

『ブレイブ ストーリー』(2006) 監督:千明孝一 声の出演:松たか子 常盤貴子 ウエンツ瑛士



あれも家庭でいろいろある少年がファンタジーの世界に飛ぶ話だったけど、僕はあの映画が大嫌いで、劇場で途中で映画に集中するのを諦めてよそ事考えていたぐらい。

もう内容とか忘れちゃったけど、あの映画のつまんなさを凄く思いだしました。

それでもこの『バケモノの子』は最後まで一応集中して観ていたんで、『ブレイブ~』よりはマシだと思うけど。

熊徹と猪王山の格闘戦の場面では力が入っていたり、でも旅のシーンは省略とか、監督が興味ある場面とそうでない場面が物凄くハッキリしてる。

ほんと、バケモノのシーンは格闘技が描きたかっただけなんだよね?きっと。

他の場面があまりにもおざなりだから、そうとしか考えられない。

モロッコのマラケシュがモデルというバケモノの街なんかも、もっともっと丁寧に描くことだってできたでしょうに。

アニメの何が楽しいって、そういうエキゾティックでファンタスティックな世界そのものの描写でしょ。

でもそれがちっとも物語に絡んでこないんだよね。ただの背景に留まってて。

熊徹の家や階段がいつもほとんど同じキャメラポジションから映しだされているのもビックリした。




アニメーションなら、そういう場所をどういうふうにいろんな方向や角度から捉えるのかを考えるんじゃないの?

せっかくの舞台装置を使いこなせていないのではないか。

細田監督作品は定点観測のような同ポジでの繰り返しが特徴らしいけど、『時かけ』のように何度も同じことが繰り返されるというのが物語上で必然性があるのならともかく、異世界での活劇を描くのには不向きな方法だと思います。

それでも9歳の蓮が熊徹の動きのマネをするコミカルなシーンは可笑しかったし(ここがほとんど唯一笑える場面だったのだが)、試合の場面は観ていてカッコ良かったけどね。

でも「漫画映画」成分が足りないんだよなぁ。もっと笑いを!もっとドタバタを!




声優については、どうも結構厳しい評価もされているらしい主演の染谷将太の声の演技は、僕はそんなに抵抗はありませんでした。

青年になった蓮のキャラは好きじゃないけど、役柄には合った声のトーンだったんじゃないかな。

逆にプロの声優が演じているイケメン風の一郎彦の「はーっはっはっ、やりましたよ父上!」みたいな高笑いする若造のキレ演技がクソだと思った。

ああいう演技をよしとする演出を僕は信用しない。

そしてヒロイン、楓役の広瀬すずに関しては、実写映画『海街diary』ではその瑞々しい演技が本当によかっただけに、今回はうまくいってるとは言い難いのが残念。

監督が絶賛しているような魅力をこの声の演技からは見出せなかった。

時々舌が回ってなくて単語をちゃんと言えてない時があったし。あれは録り直ししなきゃダメだろ。

サル役の大泉さんも役所さん同様声を聴いたらすぐに本人の顔が思い浮かんじゃうんだけど、先ほど大嫌いと言った『ブレイブ ストーリー』の時と比べると(大泉洋は同映画にも声の出演をしている)べらんめぇ調の台詞廻しは耳に心地良い。

ただ、この多々良がただの解説役に留まってしまっているのがほんとにもったいない。

それは百秋坊も同じ。

このガリガリに痩せたブタはずっと熊徹のことを見下したような物言いをしているんだけど、蓮を甘やかしてたのはコイツの方なんじゃないだろうか。

「私がいつまでも甘い顔をしていると思ったら大間違いだぞ」と蓮を叱る場面も唐突過ぎて、え、今怒る?と。

この映画の中で大人がハッキリと蓮を叱る場面はここだけなので、ちょっと新鮮ではあったんだけど、叱るタイミングがおかしいだろ。

本来ならばサルもブタももっと蓮に厳しくすることで、彼らが世の中の理不尽さや酷薄さを体現する役割になるはずなのに、まったくその機能を果たしていないから、単なる気のいい同居人のおっちゃんたちになってしまっている。

二人の声をアテてる大泉洋とリリー・フランキーにキャラの顔を似せてるのはいいんだけど、それならやっぱり彼らをもっと動かしてくんないと。アニメなんだから。


ところで、細田監督は前々作『サマーウォーズ』や前作『おおかみこども』あたりから“ケモノ人間”にこだわってますが、どういう趣味なんだろう。ケモナー?w

熊徹は名前に「クマ」とあるし解説などにも「熊のバケモノ」と書かれてたりするけど、どう見ても熊じゃなくてオオカミとか山犬だよね。

僕は映画を観始めてからどうもこの熊徹の雰囲気、身体の動きや表情などが誰かに似てるなぁ、と思っていたんだけど、熊徹のモデルは三船敏郎なんじゃないだろうか。


『七人の侍』の三船敏郎


蓮と言い争ったりする時の顔、あの自分の力を持て余しているような動物っぽい動きなんか、ひょうきんな役の時の三船さんに凄くよく似ている。大きな背中なんかも。

旅の途中で熊徹がフンドシ姿で魚を獲る場面があるんだけど、これは『七人の侍』で三船演じる菊千代が川で魚を獲る姿にソックリ。

それと僕は気づかなかったけど、劇中で熊徹は『用心棒』で三船演じる桑畑三十郎と同じ台詞を言ってるんだそうな(名前をつけるくだりのことらしい。あー、なるほどね…)。

鑑賞後にTwitterで感想をやりとりさせていただいたかたのご指摘では、熊徹は東映「緋牡丹博徒」シリーズや『シルクハットの大親分』などで若山富三郎が演じていた熊虎親分から名前や性格を取ってきたのではないか、とのこと(ちなみに細田監督は東映動画出身)。

要するに、粗野で乱暴者だけどどこかヌケてて憎めない“おっさんキャラ”。

僕はこの熊徹は好きだったんですよね。

声を担当している役所広司は、アニメの中でも役所広司以外の何者でもないんだけど^_^;

ハッキリ言ってしまうと彼を主人公にしてほしかったぐらい。

自意識過剰な高校生の心の悩みとか、観たくもないんで。

仮に俺が現役高校生だったとしても、別にアニメで卑近な悩みとかについて描いてほしくもないし。

主役を熊徹にして、ひ弱な少年が彼に感化されてちょっとたくましくなる、って話でいいじゃん。なんでわざわざ悩んだりキレる若者とか描こうとするの?みんな観たいの?そんなショボくれた話。

そういうションベン臭い話は三船さんが演じるキャラクターだったら一番嫌うんじゃないですかね。「俺はそういうウジウジした話がでぇ嫌ぇなんだ!」って。

僕はせっかく登場した魅力的なキャラクターである熊徹が、一見腕が立つ若者に成長したけど実は精神的に非常に不安定な蓮に振り回されて戸惑ってるように見えたんですよ。

朝にフライパンを叩いて起こしただけで蓮が機嫌を損ねるとことか、おかしくね?

そんなのアニメの世界じゃ普通でしょうに。水ぶっかけたとかいうならともかく。

このへんの熊徹と蓮の掛け合いも僕には物凄くチグハグな印象で違和感があった。

名前を尋ねられて「個人情報だから教えない」とか、笑いどころなのかもしれないけど、蓮は「生意気」なんじゃなくてコミュニケーション不全なんだと思う。

生卵が食べられない、というのも、そんなことではバケモノの世界では生きていけないでしょう。

なんか蓮が苦労して修行した、というよりも、バケモノたちの方がマイペースな蓮に振り回されてる感じ。

ここだけちょっとピクサーの『トイ・ストーリー』や『モンスターズ・インク』入ってる。

でも熊徹と蓮は言葉が足りなかったり人間的に不器用なところはちょっと似ているけれど、決定的な違いはユーモアの有無なんだよね。

少年の頃にはそれでもまだ多少はあった明るくて快活な部分が青年になるにつれてどんどん失われて、心に余裕のない面白味のないキャラになってしまっている。

そんな主人公は見ていてつまんないんだよ。一体何を修行していたんだろう、8年間も。

会って間もない女の子に急に自分の苛立ちをぶつけたり、観てるこっちがイライラした。

これはしばしば細田作品に見られる傾向だけど、ここでも人と人との関係性、距離感が狂ってて見てて非常に不快な気分になる。


熊徹は見た目は粗野でも、けっして暴力的ではない。他者である蓮を想う優しさもある。彼のダメっぽさは幾分演技かもしれない。

自分のことだけで精一杯な蓮にはそれがないし、映画を観ていると最後まで彼は熊徹のような優しさや思いやりを身につけたように感じられない。

主人公の悩みだとか挫折というのは、たとえば敵との戦いとか修行とかフィクショナルな世界での具体的な試練として描いてくださいよ。

それが現実の世界での苦しみの比喩になるんであってさ。

現実の苦しみをそのままヒネリもなくダイレクトに描かれたら観てる方はしんどいんだよ。娯楽映画だろ?

細田監督はもしかしたらかつて独りぼっちだった自分を蓮に重ねてるのかもしれないけど、でも映画の中で蓮は独りぼっちじゃないからね。

母親の化身ということらしいマスコットキャラの毛玉をはじめ、父親代わりの熊徹やサルにブタ、楓に実の父親と大勢の人々に守られている。

このへんも主人公本人の自己認識と実際がズレてて、ではそんな自分に彼は気づくのかといったらそういう描写はなくて、ただ言葉で「みんなのおかげで勝てた…」みたいなこと言うだけなんだよな。

伝わってきませんよ。たとえ回想シーンを入れたって、肝腎の蓮の「気づき」が描かれてないから。

登場人物の関係が全部図式的で、頭で考えてコマみたいに配置したようにしか見えない。


それに、僕はこの映画にこれまでの細田作品以上の生理的な嫌悪感をもよおしたんですよね。

一郎彦が後半になっていきなりキレだして暴走するという展開には、「あーあ…」というため息しか出なかった。

なんだろう、「心の闇」とかクソみたいな安っぽい表現を言葉にしちゃう?

ちょっと信じられないんですよね。「心の闇」??…マジかと。

町なかでいきなりキレて暴れだす若者はみんなこの「心の闇」に囚われてる、ってことッスか。

やべぇ、虫唾が走ってきた。

なんなのよ、「心の闇」って。

蓮と一郎彦は同じく人間でありながらバケモノたちの世界で「自分は他の者たちとは違う」ということを意識しながら生きてきた、という共通点がある。

そして蓮には、人間の世界で親を亡くして他の者たちのように普通に生活することができなかった、という劣等感がある。

そこから生じた孤独感や苛立ちなどをまとめて「心の闇」と言っているのかもしれないが、悪いけどそんなものは理由こそそれぞれ違えど誰もが多かれ少なかれ心に抱えているものだ。

だけど、それでキレて暴れ回っていいはずなどない。ほとんどの人々はそういう感情を自分の中で制御して怒りを収め、日々を過ごしている。

もうとにかく青過ぎるのだ、描かれていることが。そして若者が異常に甘やかされている。


ファンタジーや冒険活劇の世界って、主人公は現実の僕たちよりも過酷な生き方をしていて、だからこそ僕たちはそんな姿に憧れるんじゃないか。

ファンタジー映画の8年間っていったら、それは実際には現実の何倍もの長さのはずなんだよね。

冒険映画の主人公を、現実の僕たちから見てもつまんない奴に描いてどうすんだ、と。

そんなにキレそうなの?細田監督は。

優秀でイイ子として育ってきて、そういう自分を続けることに我慢できなくなって爆発しちゃいそうなんですかね。

それとも大人として未熟な若者に寄り添ってやりたいとでも思っているのだろうか。

だとしたら、若者を甘やかし過ぎでしょう。

熊徹を刀で背後から刺して瀕死の重傷を負わせ渋谷の町を破壊した一郎彦は、猪王山と家族たちによって引き取られていく。なんのお咎めもなく。




いいんですか、そんなんで。かなりの犠牲者が出てるはずですが(ニュースで「いずれも軽傷」とか言ってたけど、ウソつけって。大量の車が爆発に巻き込まれてたじゃねぇか)。

映画とかフィクションというものは暴走や破壊、時には殺戮を描いて普段できない欲求を発散させる役割もあるけれど、その代わり一線を越えたらどれだけ高い代償を払うことになるのかも描くものだ。

己の破壊衝動に身を任せて一線を越えた一郎彦は罰せられなければならない。フィクションの中だからこそより厳しく。

そうでなければ、ムシャクシャしたら暴れればいい、ってことになる。暴れても家族が心配して連れ戻しにきてくれれば一件落着、と。いやいや、そうじゃないだろ。

細田監督は『時かけ』でもクラスメイトに苛められててキレて暴れる高校生を描いていたけど、僕は細田監督に限らず日本のある世代の映画監督たちが「キレる若者」に示す独りよがりな“共感”が気持ち悪くて仕方がない。

何か「共感」というものを履き違えてやしないか。

というか、他者に対して共感する部分が僕などとは何か決定的に異なっているような気さえする。

『時かけ』の妙に醜悪に描かれていたイジメられっ子はもしかしたらかつての監督自身が投影された姿なのかもしれないけど、『おおかみこども』で雪をストーキングしていた少年のエピソードにしても、暴力的なものを介して他者と接触しようとする者に対して、この監督は何か常識的な感覚から外れた異様な執着があって気持ちが悪い。

その気持ち悪さ、異様さが最後まで解消されないまま映画は終わってしまう。


完成した映画では一郎彦の中にある「心の闇」ってのがほんとによくわかんないのだ。

彼は人間の捨て子だったけど、バケモノである猪王山に育てられて守られてきたわけじゃないですか。

血の繋がらない弟・二郎丸からも「兄上」と慕われて何不自由なく生きてきたはずで、彼がキレる理由がまったくわからない。

一郎彦はどう見たって他のバケモノたちとは外見が違ってて蓮と同じ“人間”なんだから(バケモノっぽい服がコスプレ野郎にしか見えないし。最初ギャグなのかと思った)、彼の素性は後半になってようやく明かされるんじゃなくて最初の方で言及すればよかったんだよ。

 


そして終盤にいきなり蓮に憎しみをあらわにするんじゃなくて、同じハンデを負った者として最初は親友にだってなれたはずではないか。

そんな仲のよかった一郎彦がバケモノとしての自分の力を過信して暴走して、蓮がそれに異を唱えたために「この人間が!!」って暴れる、みたいな展開だったら観ていて自然に受け入れられたと思う。


熊徹が言っていた「胸の中の剣」とはなんなのか。

「意味なんかテメェで見つけるんだよ」という熊徹の台詞があるけれど、そして云わんとしてることはわからなくはないのだが、別に言葉で説明はしなくていいから描写はしてくれよ、って思う。

描いてもいないものを「わかれ」と言うのは、何もない空間を指差して「これが作品だからその良さを感じろ」と言われているようなものだ。

そんな禅問答みたいなやりとりをするために映画を観にきてるんじゃねぇよ俺は。

登場人物たちの行動、映画の中での描写によって言葉の説明なんかなくても言外に伝わる、そういう感動を求めて映画館にきているのだ。

だから熊徹や“九太”の活躍でワクワクしたりハラハラしたり、泣いたりしたいんですよ。

でもそのどれも感じられないから不満を述べているのです。


「胸の中の剣」とは、蓮や一郎彦の胸に空いた穴=「心の闇」と対になる、「真の強さ」のことだろう。

弱い者を蔑み「俺は強い奴が好きなんだ」と言ってケンカが強い者にホイホイとついていく二郎丸(二郎丸のモデルはやはり黒澤明の『用心棒』で加東大介が演じた、強さにこだわるちょっとおつむの足りない亥之吉)の姿に感じる疑問のように、これは「真の強さとは何か」を問うた物語なんでしょう。

そして、自分のためではなく蓮のために身を捧げた熊徹の精神こそ少年が持つべき真の強さなのだ、と言っているんだと思う。

だから作り手がやりたいこと、伝えたかったことはわかりました。

でも理屈でわかったからって映画が面白かったことにはならない。


物語のクライマックス、蓮と一郎彦の戦いで、熊徹が「剣」になって蓮の「心の闇」に入ることで蓮は危機から逃れられた。

それは我が身を捨てた自己犠牲ということなのかもしれないが、では蓮は一郎彦に対して何を犠牲にしたのか。

楓はどうやって一郎彦の怒りを鎮めたのか。

映画を観ていても、僕にはクライマックスで何が起こったんだかわかりませんでした。

一郎彦が生み出した鯨の幻を剣で斬る、という表現は具体的にどういうことを意味しているのかさっぱりわからない。

「強くなる」ってどういうことなの?具体的に。

映画というのは具体的に描かなければ伝わりませんよ。目に見える映像そのものを抽象的に描いたら実験映画になってしまう。

なんかつべこべ説教して光ってビャー!とかビュー!とか鳴れば問題が解決する、というのは、スーパーヒーローが最後に毎度お馴染みの必殺技で敵を倒すのと同じで、そこには物語としてのロジックがない。

だからカタルシスもない。それでは感動は生まれない。

こうこう、こういうことだから、敵を倒せました。問題が解決しました、という「意味」や「理由」がなければ。

クライマックスで蓮は、かつて熊徹と猪王山が繰り広げたような格闘技による戦いで一郎彦と決着をつけるべきだったのではないか。

そうすれば育ての親たちと息子たちはここでついに重なり、蓮は熊徹と真に一体となれたことが表現できて「真の強さ」と武術が結びついたんじゃないか。彼の修行の成果を示すことにもなるし、映像的にも説得力を持っただろうに。何より観ていて燃えたでしょう。

念力だか超能力だかで町を破壊とか、そういうのいらないから。

この映画は本当に大切なものを完全に取りこぼしている。

それから、楓は人間じゃなくてバケモノの街に住んでいるキャラクターにすればよかったんじゃないでしょうか。




ウサギ顔の宗師(津川雅彦)の孫娘とかいう設定にすれば、登場キャラの整理にもなるでしょう。

優等生として生きていかなければならず、一郎彦と重なる部分もある楓のキャラクターだってそれで活かせるじゃないか。

何よりも“ケモナー”なんだったら、なぜヒロインをケモノの顔にしない?^_^;

それに、蓮と楓の恋も人間とバケモノのそれだったら獣姦…種を超えた絆や愛として描けるのに。

「ヒロインが余分」などと言われなくても済んだだろうし。

すべてをバケモノの世界で描くことは可能だったはずなんだよね。

バケモノの世界というのは、人間の世界の喩え、メタファーなんだから。

ファンタジーってそういうものでしょう。


なんか似たようなもったいない映画を最近観たなぁ、と思ってたら、ブラッド・バード監督の実写映画『トゥモローランド』だった。

奇しくもブラッド・バードもアニメ映画出身。

だから娯楽作品を作る技術、センスはあるはずなんだけど、両者ともにせっかくの食材の味を引き出せないまま「なんか違う…」と思わざるを得ない代物を見せられてしまったという残念な共通点がある。

この『バケモノの子』はよく『千と千尋』と比較されるけど、僕はむしろ宮崎Jr.が作った厨二病映画『ゲド戦記』に似ていると思う。

いや、技術的な部分ですでにダメダメだった『ゲド戦記』に比べれば『バケモノの子』はよっぽどマシだし楽しめる要素もあるけど、同じ傾向の映画であることは確かだと思う。

そういう映画を僕は求めていない。

だったらさっきも書いたように、ファンタジーっぽい装いなんかせずに高校生の男女の話をやればいい。

大ヒットは難しいでしょうが(追記:その後、2016年に深海誠監督がそういうアニメを作って大ヒットしました^_^; 僕は予告篇の時点で苦手な映画なのがわかったんで観ていない。だからそれについては言及しません)。

細田監督には観客を楽しませる技術は十分にあるはずなんだけど、ご本人に興味があるのがこちらが観たいものではないことが今回よくわかったので、今後は無駄な期待はしないことにします。


…かなりの酷評になってしまいましたが、熊徹のバックに広がる夏らしい青空と入道雲(『ラピュタ』を思いだすなぁ)には、これが「夏休み映画」だということを実感したし、僕のようなオヤジが何をホザこうとこの映画に感動したり映画館での鑑賞がかけがえのない思い出になった人たちはいるだろうから、それはそれで意義のある作品じゃないのかな。とってつけたようでなんですが。




何よりも細田監督は一部の限られたアニメファンやマニアではなくて、なるべく広い範囲の人々を対象に作品を作ろうとしているということだから、その姿勢自体は支持したいのです。

そして、いつか偉そうにこの作品をクサした僕が降参するような娯楽映画の傑作を作ってください。

楽しみにしています。



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