ケネス・ブラナー監督・主演、ガル・ガドット、アーミー・ハマー、エマ・マッキー、トム・ベイトマン、アネット・ベニング、ソフィー・オコネドー、レティーシャ・ライト、ラッセル・ブランド、アリ・ファザル、ジェニファー・ソーンダース、ドーン・フレンチ、ローズ・レスリーほか出演の『ナイル殺人事件』。

 

原作はアガサ・クリスティの“名探偵エルキュール・ポアロ”シリーズの一篇「ナイルに死す」。

 

1937年、エジプト。イギリスの富豪リネット・リッジウェイ(ガル・ガドット)は友人のジャクリーン(エマ・マッキー)から別荘での仕事を求められるが、ジャクリーンの恋人サイモン・ドイル(アーミー・ハマー)と意気投合、彼と結婚することに。リネットを恨んだジャクリーンは二人に付きまとい、新婚旅行で彼らが乗ったナイル川をゆく観光船「カルナック号」にも乗船してくる。リネット一行と偶然同席していた探偵エルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)に、リネットは不安を打ち明ける。

 

推理小説の映画化作品で文中にネタバレがありますから、原作の内容をご存知ないかたは原作読了後か映画の鑑賞後にお読みください。

 

2017年公開の『オリエント急行殺人事件』の続篇。

 

 

前作は、まぁまぁ楽しめはしたものの、ツッコミどころもそこそこある作品だったし、そもそもアガサ・クリスティによる原作自体が推理小説の古典で(って、例のごとく僕は読んでませんが)、本作品も前作同様それを今映画にすることに如何なる意味があるのか若干疑問ではあるんですが、原作を大幅に変えることなく映像化したものとして肩の凝らない娯楽作品に仕上がっていて、気楽に楽しめました。

 

 

 

ちょっとここのところ身近な場所を舞台にした小粒な内容の邦画が続いたので、そろそろそれ以外のもうちょっと派手で豪華なハリウッド映画が観たかったからちょうどよかった。

 

重要な登場人物を“ワンダーウーマン”ことガル・ガドットが演じているのにも興味を惹かれたし。

 

 

 

 

『オリエント急行』がすでに1974年に映画化されていたように、『ナイル殺人事件』も1978年にジョン・ギラーミン監督、ピーター・ユスティノフ主演で映画化されてますが、僕は今回のケネス・ブラナーによる再映画化作品を観るまでは78年版は観たことがないと思っていました。

 

ところが、映画を観ていて、アーミー・ハマー演じるサイモンが足を撃たれる場面で急に記憶が蘇って「あれ?これ観たことあるな…」と。トリックも犯人もその時点でわかってしまったのでした。

 

 

 

最後にポアロが船の乗客たちを一人ずつ見送る場面にも見覚えがあったので78年版は過去にTVで観たんだろうけど、どうも確信が持てなくて。拳銃発射の場面とラスト以外を思い出せないから。

 

もしかしたら、映画版じゃなくてNHKで放送されていたデヴィッド・スーシェ主演のTVドラマ「名探偵ポワロ」の1エピソードの方を観たのかもしれない。

 

ただ、ブラナー版『オリエント急行殺人事件』の劇場公開時に確か先述の作品たちも含めて過去に映画化されたポアロ作品がNHKのBSプレミアムで放送されたんじゃなかったっけ。その時に78年版『ナイル』を観た可能性も高いんだよなぁ。…あ、いや、ブラナー版『ナイル殺人事件』は公開が延期されまくってきたから、旧作が放送されたのは以前この映画が公開される予定だった時期のちょっと前頃かも(どーでもいいことでくどくど悩んでスミマセン^_^;)。

 

残念ながら僕の「脳細胞」は干上がってるようーで(;^_^A ほんの少し前のことが思い出せない。

 

ちなみに、「名探偵ポワロ」の第52話「ナイルに死す」(日本では2005年初放送)でリネットを演じていたのはエミリー・ブラントだったんですね。作り手の解釈や演じ手が変わることで原作が同じでもキャラクターが全然違ってくるのが面白い。

 

エミリー・ブラントは当時『プラダを着た悪魔』(2006) など、ちょっと高飛車な女性役で顔が売れ出した頃だったから「ポワロ」でもハイソで男性を値踏みするような感じのリネット役だったけど、今回ガル・ガドットが演じるリネットは、やってるのは友人のカレシを奪って結婚しちゃうということでは同じなんだけど、あまり嫌な女性には描かれていないんですよね。

 

また、劇中でのクレオパトラの扮装がお似合いだったように、ブラナー版ではガル・ガドットのエキゾティックな容貌が強調されている。

 

僕が彼女目当てでこの映画を観たように、ガル・ガドットの存在ははっきりこの映画のセールスポイントになっていて、実際、この映画での彼女は「ワンダーウーマン」シリーズ同様魅力的だったし、だからこそ、映画の途中でそのスターが姿を消すことには驚かされたのでした。

 

前作でも似たような展開があったけど、忘れてたw 今後もスター俳優は殺される役を演じるんでしょうかね。それだと出演者を見た瞬間に犠牲者が誰なのかわかっちゃいますが。

 

さて、最新作を観てみてどうだったかというと、前作で雰囲気は掴めているからその続篇もどんな感じなのかある程度予測できてメチャクチャ期待し過ぎるようなこともなかったおかげで、日常から離れて軽く観光旅行気分に浸りたい、という僕の望みはかなえられたので、ひとまずは満足してます(^o^)

 

かつての007シリーズのような役割を果たしてくれてますよね。

 

明らかに現地で撮影したのではない、合成であることが丸バレな場面もあって興ざめだったけど(2022年の映画なんだから、そこはVFXをもうちょっと頑張ってほしかった)、そういうのも含めて「インディ・ジョーンズ」シリーズの『レイダース/失われたアーク』っぽくもあって懐かしい感じがしたし、エジプトが舞台で“ラムセス2世”や“モーセ”の話も出てくるあたりはスペクタクル映画『十戒』を思い出したりも。何年か前には、リドリー・スコットが監督した『十戒』の再映画化作品もありましたな(リドリー・スコットは『ナイル~』で製作を務めている)。

 

リメイク作品といえば、つい先日観たスピルバーグの『ウエスト・サイド・ストーリー』もそうだったようにオリジナル版や過去の同名作品との違いこそが楽しくもあるんですが、もちろん、その出来や解釈の違いによっては賛否が分かれるところでもある。

 

 

 

僕は原作を知らないし、78年版にもTVドラマ版にも特に強い思い入れがないから(内容を忘れてたぐらいだし)、それらと比べてどうこうというのはないんですが、前作でもツッコミ入れまくったようにトリックや犯人の動きが映像として映し出されると不自然で無理があり過ぎるので、この手の人工的な推理モノ自体を純粋に楽しんだりそのトリックに驚いたりするのは今となっては難しいのかもしれない。

 

サイモンがピストルで撃たれたと見せかけて、実はそれは芝居で、彼が犯罪を行なったあとに自分の足を撃って証拠の品をナイル川に捨てる78年版での一連の場面をYouTubeにあがっている動画で確認してみたんですが、医者が駆けつけるのに時間がかかり過ぎてるし、タイタニック号みたいな巨大客船でもないのにあんな大雑把な証拠隠滅の方法では誰かに見られるのは当然でしょう(事実、部屋に入るところを見られていたわけだが)。短時間で犯人がドタバタし過ぎなんだよね。

 

なるほど、そういうことだったのか!と納得して観ていられなくて。

 

やはりTVドラマ版がNHKで放送されていた「シャーロック・ホームズの冒険」を、トリックや名探偵の謎解きの見事さに酔うというよりもヴィクトリア朝時代のコスチューム物としてホラー的なおどろおどろしい雰囲気を楽しんでいたように、この「ポアロ」シリーズも1930年代のレトロな世界を最新の映像技術で見せるというのがこの作品の本質で、謎解きの部分はオマケみたいなものだと思っておいた方がいいかも。

 

前作に続いての特徴として異人種間の恋愛とそれに伴う人種差別ネタが含まれていて、それに対して「とってつけたようなポリコレ配慮」という表現で嫌味を言ってる人もいて(アメブロの記事じゃないです。YouTubeのレヴュー動画で発見)、そしてそういう文句を言いたくなる気持ちもわかんなくはないし(僕も前作の時にちょっとそういう印象を持ったので)、原作ファンの人は映画版で原作が改変されてるのが気に入らないのかもしれないけど、それ言い出したら78年版だって最近のTVドラマ版だって原作から変更されてるところはあるわけですから。90年近く前に書かれた原作を今どう映像化するか、という作り手の工夫にこそ注目してはどうでしょうか。

 

 

 

こうやって2作続けて意識的に作り手が肌の色の違いへの言及を劇中に取り入れているのには意味があるはずだから、そこは評価したいんですよね。その取り組みがうまくいってるかどうかはまた別の問題ですが。

 

このあと感想を書くミュージカル映画『シラノ』では近世のフランスが舞台の「シラノ・ド・ベルジュラック」のイケメンキャラであるクリスチャン役をアフリカ系の俳優が演じているし、他にも黒人の将校が登場しているけれどなんの説明もない。それが当たり前の世界として描いている。

 

それに対して、「ポアロ」シリーズはもっと現実寄りの世界だから、白人以外の登場人物についてちゃんと理由付けをしている。

 

原作は1930年代に書かれたものだし、以前映画化されたのも40年以上前で、その間に人々の差別に対する意識も変わっているし、登場人物のほとんどが白人だった原作を現在「多様性」の下でさまざまな肌の色、ルーツを持つ出演者が参加して映像化するためにも必要な手順だったのでしょう。律儀といえば律儀ですが。

 

原作や、それから78年版からも登場人物がさらに減らされていて、その分各キャラクターに集中できる一方で、これまた前作で感じたのと同じように人物描写は結構端折り気味で、だから謎解きの部分がダイジェストっぽく感じられるところはあった。スルスルッと謎が解かれちゃう、みたいな。そのおかげで観やすいんですけどね(78年版は上映時間が140分。ブラナー版は127分)。

 

金持ちの年配の女性が社会主義者だったか共産主義者、という設定も、もともとは別の人物だったのを合体させたようだし、彼女と彼女の看護師が実は同性愛の恋人同士だった、というのもちょっといろいろ盛り込み過ぎな気はした。その要素が物語とかかわってるようで全然かかわらないし。

 

 

 

「ポリコレ」という言い方は好きじゃないですが、ちょっと表面的過ぎやしないか、とは思う。描くんならとりあえず入れときました、というんじゃなくて、もっとちゃんと描いたら?と。

 

イスラエル出身のガル・ガドットとインド出身のアリ・ファザルを従兄妹同士、という設定にしたのも、「多様性」という名目にしては雑過ぎやしないか、とも。肌の色だけでキャスティングしてるのか?

 

 

 

どうも、これは「愛」について描いていたんだ、ってことらしくて、だから映画の冒頭でポアロの若かった頃を描いて、彼が愛した人との別れについて語らせることで登場人物たちが抱えているものに共通性を持たせようとしたようなんだけど、ずいぶんと無理があるでしょ。

 

結局のところ、リネット殺しの犯人たちの動機は「愛」がどうのこうのということよりも「金」目当てだったわけで、全然ロマンティックでも狂気の愛でもない。

 

無職の男とその恋人が金持ちの女性の財産をぶん盗ろうとしただけの話。

 

ジャクリーン役のエマ・マッキーの顔がマーゴット・ロビーに似てるなーと思った

 

前作『オリエント急行殺人事件』では鉄道会社の重役だったブーク(トム・ベイトマン)がこの続篇にも再登場して重要な役割を果たすんだけど、殺人現場を発見しながら、そこで盗みを働いたことをポアロに問い詰められた挙げ句、ジャクリーンにピストルで撃ち殺される。

 

このキャラクターも原作からは変えられて、マザコンで無職の男(無職の男多いなぁ^_^;)として描かれてるんだけど、ちょっと前まで鉄道会社の重役だった男がいくらなんでも落ちぶれ過ぎだろ、と思うし、彼の行動がサイモンのそれとカブっているので、そんなダメンズと愛し合っている相手の女性たちまで男を見る目のない愚かな存在に感じられて、「そんなものは“愛”なんかじゃないだろ」と思ってしまう。

 

美しくもなんともない話をさも美しいもののように描こうとするから無理が生じる。

 

この映画はかなり前から予告も流れていたけれど、コロナ禍のせいもあるのと、もう一つの理由としてサイモン役のアーミー・ハマーが複数の女性から性的暴行で訴えられて(本人は否定しているが…なんかこういう事案多過ぎじゃないか?)芸能界から干されて、そのせいで『ナイル~』の公開が大幅に遅れたのは間違いないでしょう。

 

もはや「愛」もへったくれもない現実。映画そのものにはなんの罪もないんですが。

 

ケネス・ブラナーはアカデミー賞作品賞にノミネートされている監督作『ベルファスト』が今月末に公開されるし、ノってますね。『ベルファスト』はなんとなくオスカー受賞の予感がするなぁ。

 

 

 

この人を見てると、いつまた「でぃえぇぇ~い!!」と気合いを入れられるかドキドキしますが。

 

『ナイル~』のラストには前作のようなさらなる続篇を匂わせるような場面はなかったから、今後もこのシリーズが続くのかどうかはわかりませんが、『オリエント急行』と『ナイル』は一応続きモノの体裁をとっていたし、これからも何年かに1本、映画スターを招いて撮ってくれたら観てもいいかなぁ、と思っています。

 

 

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『TENET テネット』

『ワンダーウーマン 1984』

『ワイルド・ローズ』

『ブラックパンサー』

『ビリーブ 未来への大逆転』

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョー・ライト監督、ピーター・ディンクレイジ、ヘイリー・ベネット、ケルヴィン・ハリソン・Jr.、ベン・メンデルソーン、モニカ・ドラン、ジョシュア・ジェームズ、バシール・サラディン、レイ・ストラカンほか出演の『シラノ』。2021年作品。PG12。

 

17世紀のフランス。剣豪で詩人のシラノ・ド・ベルジュラックは他の人々よりも身長が低いために、密かに愛し続けているロクサーヌにその想いを伝えられずにいた。ロクサーヌはある日一目見たクリスチャンという青年に恋をする。シラノと同じ隊に配属されたクリスチャンもまたロクサーヌのことを想っていた。文才がなく美しい愛の言葉を紡げないクリスチャンに、シラノはロクサーヌへの手紙の代筆を買って出る。

 

ハンナ』『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』のジョー・ライト監督の最新作。

 

時々『ラストナイト・イン・ソーホー』などのエドガー・ライト監督と名前がゴッチャになってしまいますが、もちろん別人。二人とも英国人なのも紛らわしいですが。

 

初めて予告篇を目にした時に、その歌とダンスシーンの美しさに「これはぜひ観たい」と思ったのでした。

 

エドモン・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を基にエリカ・シュミットが書いたミュージカル劇が原作で、彼女が映画の脚本も担当している。ピーター・ディンクレイジはシュミットの夫。

 

「シラノ・ド・ベルジュラック」は日本でも「白野弁十郎」というタイトルで翻案されたり、長らく舞台で上演されてきていることは知ってたけど、僕は一度も舞台版は観たことがないし、ミュージカル版の方も同様。

 

1990年のフランス映画『シラノ・ド・ベルジュラック』(日本公開91年。僕はレンタルヴィデオで視聴)がそれまで唯一観たシラノの作品で、ジェラール・ドパルデュー主演でした。

 

 

 

1990年版の『シラノ・ド・ベルジュラック』はもう長いこと観返していないため内容はほとんど覚えていませんが、2020年にはエドモン・ロスタンがシラノを主人公にした戯曲を書き上げて芝居が成功するまでを描いた『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』(2018) を観て、その中でロスタンによって「シラノ・ド・ベルジュラック」の物語が再現されていました。

 

ピーター・ディンクレイジ主演の今回のミュージカル版は、登場人物がかなり減らされてはいるのだろうけれど、概ね原作の戯曲通りのようで。

 

まぁ、大きな鼻が特徴のシラノが背がとても低い人に変わってますが。

 

 

 

 

 

ピーター・ディンクレイジはディズニーが現在制作中の実写版『白雪姫』の七人の小人について物申していて、それに対してディズニーが返答していましたが、『白雪姫』の主演は『シラノ』と同じくミュージカル劇の映画化作品で今年のアカデミー賞にノミネートされている『ウエスト・サイド・ストーリー』でヒロインのマリアを演じていたレイチェル・ゼグラーなので、たまたまとはいえなんだか因縁めいたものも感じたりして(ちなみに『白雪姫』には邪悪な女王役でガル・ガドットがキャスティングされている)。

 

 

 

いや、ディンクレイジさんは小人症の当事者として思うところを語られたのでしょうけど。

 

彼が希望するように「進歩的な捻りのある」作品になるといいですね。

 

正直なところ、今回の『シラノ』は僕はもうちょっとコメディの要素があったらよかったと思うんですが、小人症の俳優がコミカルな演技をしてみせることはディンクレイジさんが「白雪姫」の物語に示した嫌悪感の原因である「ステレオタイプ」のイメージを助長することになるのだろうか。小人症だったら「道化」を演じなきゃならないのか?と。

 

だけど、小人症であるか否かにかかわらず、「シラノ・ド・ベルジュラック」の物語はコメディと相性がいいと思うし(スティーヴ・マーティン主演の『愛しのロクサーヌ』という映画もあったし、ドパルデューが演じたシラノだってどこかおかしみをたたえていたと記憶している)、シラノは道化的なところを持ったキャラクターでしょう。好きな人のために別の男の恋文を代筆しちゃうようなお人好しな男なんだから。そこにはおかしみと哀しさの両方がある。

 

笑いと涙は両立するし、こんなことを書くと失礼かもしれないけれど、ピーター・ディンクレイジ演じるシラノが劇中で歩く姿はユーモラスだ。そして同時に物悲しくもある。

 

ピーター・ディンクレイジはこれまでいろんな作品でしばしばうんざりしたような表情や態度を見せてきて、それが「白雪姫」の七人の小人のような愛想がよくて滑稽な道化的「小人」像への批判的姿勢として見做されてもきたのだけれど、別に観客に媚びを売ったり無理やり愛想よく振る舞わなくたって、それでも「笑い」は生み出せると思うんですよね。

 

ピクセル』でディンクレイジさんは憎まれ役を演じていたけれど、彼の演技は笑えたし、主人公との和解も描かれて最後には勝利が待っていた。小人症の俳優が観客を笑わせるのがステレオタイプを演じることになるとは限らない。

 

それに、『シラノ』でヘイリー・ベネット(ジョー・ライト監督は彼女の夫。身内多いなぁ(^o^))が演じるヒロイン、ロクサーヌはもっともっと行動的な女性として描けたと思う。この映画でのヘイリー・ベネットは正統派美人というよりもちょっとファニーな雰囲気を醸し出していたし、クリスチャン役のケルヴィン・ハリソン・Jr.もまたゴリゴリのイケメンというよりは気のいいあんちゃん風の容貌をしている。

 

 

 

 

 

 

 

彼ら3人が恋をめぐってドタバタを繰り広げ、観客を笑わせながら、やがてそこに悲恋と別れが訪れる──そういう作劇は可能だったはず。

 

先ほどの『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』だってコメディでしたからね。

 

悪役は名バイプレイヤーのベン・メンデルソーンだし、シラノの物語は「笑い」をまぶして描いた方が絶対効果的だったと思うんだがなぁ。どうも真面目過ぎるというか。

 

 

 

 

まぁ、この映画の原作はピーター・ディンクレイジの妻が書いたものだから、そのミュージカル劇に忠実に映画化しただけかもしれませんが、この題材に対するアプローチを間違えたとしか思えないんだよなぁ。

 

だって、ロクサーヌはイケメンのクリスチャンに一目惚れして、それを古くからの友人で彼女に恋焦がれているシラノ(原作では従兄という設定らしいけど、映画の中ではどうだったか失念。劇中でシラノはロクサーヌのことを“妹”と言っていたが)に告げるし、そのシラノがクリスチャンからの手紙の代筆をしていることに気づかず、クリスチャンの凡庸な受け答えに失望したり、これはコメディにして描かないとロクサーヌがただの勘違いした残念な女性に思えてしまう。

 

ディンクレイジさんは「白雪姫」の昔ながらの代わり映えしないステレオタイプを批判したけど、だったら「シラノ・ド・ベルジュラック」の物語もまた「今」作る意味を考えて、いろいろ変えていけたんじゃないだろうか。そういう映画を観たかったんですけどね、僕は。

 

小人症の俳優がシラノを演じたり、黒人の俳優がクリスチャンをせっかく演じたのなら、既成のシラノ像やクリスチャン像、そしてロクサーヌ像だって更新できたはず。

 

自分を愛してくれる男性をただ待つんじゃなくて、自分から想いを伝えるロクサーヌが登場してもよかったし。なんとも惜しい。

 

 

 

…なんだか酷評めいてきちゃいましたが、それでも僕はこの映画の終盤に涙ぐんだし、嫌いにはなれないんだな。

 

ヘイリー・ベネットがもともと歌の勉強をしてきた素晴らしい声の持ち主であることを知らなかったし、ピーター・ディンクレイジの低くてよく響く声にも聴き入ってしまう。

 

シラノやロクサーヌが生きた時代は手紙は気持ちを伝え合うツールとして大きな力を持っていたのだろうけれど、僕には現代のネット社会が重なって見えたんですね。実は今だってそんなに変わらないのではないか。そして、誰もが「愛されたがって」いる。

 

シラノが「姿を見せずに語る」その姿に、僕は妙な共感を覚えたんです。

 

だからこそ、終盤にシラノの口から発せられる「狂おしいまでに誰かを愛したことはあるか」という言葉にハッとさせられる。この映画は僕に問いかけているのだ、狂おしいまでに誰かを愛したことはあるか?と。

 

死の間際、シラノはロクサーヌに抱かれながら「私が愛したのは“誇り”だ」と呟き、やがてこと切れる。

 

シラノが発して手紙にしたためた「言葉」を愛したロクサーヌ、それを知ってほとんど自害のような形で敵の銃弾の前に身を躍らせて死んだクリスチャン。

 

「愛するよりも愛されたかった者たち」は哀しい。

 

でも、その受け身な姿勢はまるで俺のようだ、と思った。

 

だからちょっとだけ泣けたのです。

 

 

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