今年のアカデミー賞の作品賞、監督賞等にノミネートされている2本です。いずれも内容に触れていますので、これから映画をご覧になるかたはご注意ください。

 

 

 

 

濱口竜介監督、西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、安部聡子ほか出演の『ドライブ・マイ・カー』。2021年作品。PG12。

 

原作は村上春樹の同名短篇小説。

 

第74回カンヌ国際映画祭脚本賞、国際映画批評家連盟賞、エキュメニカル審査員賞受賞。

 

第94回アカデミー賞作品賞、監督賞、国際長編映画賞、脚色賞ノミネート。

 

国際演劇祭でアントン・チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を上演するため、舞台演出家で自身も俳優である家福悠介(西島秀俊)は広島に長期滞在し、車で移動する際には渡利みさき(三浦透子)という女性が運転を担当することになる。各国からオーディションに集まった出演希望者の中には、以前、家福の脚本家の妻・音(霧島れいか)が書いたTVドラマに出演した高槻(岡田将生)もいた。

 

先月観た『偶然と想像』の濱口竜介監督作品。

 

去年の夏頃に初公開されて、その時にはまだ朝ドラの「おかえりモネ」が放送中だったから、西島秀俊さんは忙しかっただろうなぁ、とか思っていた。

 

あれからカンヌで受賞したりアカデミー賞にもノミネートされて、現在も劇場で公開中。

 

ほぼ3時間(179分)ある上映時間にビビって長らく観られないままでしたが、そろそろ今月いっぱいで上映が終了する映画館もあるし、アカデミー賞授賞式も迫っているので、同じくオスカーにノミネートされているケネス・ブラナー監督の『ベルファスト』とハシゴで鑑賞。

 

早速、どうだったか結論から申し上げますと…

 

難しかった(;^_^A

 

↑鑑賞直後のツイート

 

2020年のアカデミー賞で作品賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』について、僕はわりと微妙だったという感想を述べたんですが、それでもあくまでもあの映画が「面白かったこと前提」でのことで、「だけど、そんなにみんなが持て囃すほどだっただろうか」という疑問を呈したのに対して、この『ドライブ・マイ・カー』はそもそも「面白かった」という評価ができなかった。

 

好きかどうかということでは、ハッキリ僕は好きな映画ではないです。あと、人にも薦められない。いや、観たい、と言ってる人に「観るな」と言いたいんじゃなくて、観る人、面白いと感じる人をかなり選ぶ作品だと言いたいだけです(僕が拝読したいくつかのブログ記事では貶しているものは見かけませんでしたが)。

 

 

 

実のところ、僕はこれまで村上春樹さんの作品を読んだことがまったくなくて(とゆーか、小説が読めないので彼以外の作家の作品もほとんど読んでない)、この『ドライブ・マイ・カー』の原作となったいくつかの彼の短篇のことも知らないし、作品についての予備知識もなく、また濱口監督の撮られた映画もこれまでに先ほどの『偶然と想像』1本しか観ていなくて、だから同監督の作風をちゃんと理解してもいなければ彼の映画のファンというわけでもない。

 

『偶然と想像』は僕はとても面白く観ることができたし、観終わって感動すらしたんですが。

 

なんというか、この『ドライブ・マイ・カー』は上のツイートでも書いたように「現代アート」を観ているようだった。僕は現代アートと呼ばれるものの良さがわからなくて、そういう作品を目にするといつも少し途方に暮れるんですが、つまり、たとえばルネッサンス期の絵画って専門的な知識がなくても「上手だなぁ」とか「美しいなぁ」とか、見ればその素晴らしさがなんとなくわかるじゃないですか。僕の場合、「現代アート」にはそれがないんです。

 

娯楽映画だったら、好きかどうかはともかく、とりあえずどういう物語なのか、何が描かれているのか理解はできる。笑ったりワクワクしたり、思わず涙がこぼれたり。

 

もちろん、この映画だって別に抽象的な表現がされているというんじゃないから、物語は追える。何が起こったのかも一応はわかる。

 

だけど、この映画から僕は「映画を観ている喜び」をほとんど感じ取ることができなかった。

 

この映画は多くの場面が会話で占められているんだけど、その時の俳優たちの台詞の喋り方が独特で、会話しているはずなのに、どこか詩を朗読しているような口調。棒読みというほど機械的ではないが、普段僕たちがしている通常の会話に比べると明らかにテキストを音読しているような台詞廻しになっている(演劇の出演者たちの会話で一部それが徹底されてないところもあったが)。

 

 

ウイスキーがあまり美味そうに見えないのもなぁ

 

『偶然と想像』でもあえて不自然に聞こえるような役者の台詞廻しを用いていたので、そういう実験的な試みを新鮮に感じて「演技」というものを意識して観ると面白いと思う人もいるのでしょうが、何しろ3時間ある映画なので、説明的で感情を抑えた台詞のやりとりがだんだん苦痛になってきちゃって。

 

この映画については「淡々とした~」と解説されることがあるけれど、それは描写が淡々としている、というよりは、ストーリーが展開していく中で重要なことがそれとなく示唆される、とかいうのではなくて、「言葉」の中でキーワードとなりそうな単語が述べられて、登場人物たちのことが「説明」されていく。

 

夫婦、男女、性、死、演技…

 

「言葉」こそが手がかりで、そこから“想像”したり“共感”することが求められる。

 

多言語でそれぞれ異なるさまざまなルーツを持つ人々が集っているにもかかわらず、たった独りの人間が自問自答しているようでもある。

 

映画の観客も参加して作り上げていく作品、ということでしょうか。

 

「現代アート」を観ているようだ、と言ったのはそういうことで、これはどういう意味なのだろうか、自分自身で解釈してみてようやくそこになにがしかの「意味」が見出せる。

 

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の大まかなあらすじぐらいは知っていないと、ラストでなぜみさきが家福の車に乗って韓国にいるのかよくわからないとか、作品を理解するために必要な知識もあるでしょう。

 

 

 

人を知ろうとするなら、自分を見つめなければならない。

 

そんなことを言葉で言われても響かない。

 

音さんは素晴らしい女性です、と言葉で言われても、どこが素晴らしいんだか僕にはわからなかった(音役の霧島れいかさんの演技はよかったし、“素晴らしい”かどうかはともかく、こういう人はいそうだ、というリアリティがあった)。

 

 

 

ただ、2年前に急病で亡くなった妻が生前、自分が書いた脚本のドラマの出演者と次々と寝ていた理由を彼女の心の中にあった「黒い渦」のせいにしようとする家福に、みさきが「そういう人だった、というだけではダメですか」と尋ねるところは面白かったです。なんか真理を突いてるようで。

 

妻が浮気することに深い「意味」なんてなくて、彼女は「そういう人」だったのだ、と。それは一番納得できる理由かもしれない。

 

人の心の中がわからなくても、その人を大切に思い、愛することはできる。

 

これは「後悔」についての映画でもあって、「話したいことがある」と言われて、それがなんだったのかわからないまま妻を失った男と、自分を虐待していた母を災害から救えなかった女性が互いに自分の心の中を曝け出して抱きしめ合うことで苦しみを乗り越えていくという物語だった。

 

パートナーの心の内を知ることなく二度と会えなくなった悔いについて描いた映画といえば西川美和監督の『永い言い訳』がありますが、残念ながらあの映画を観た時のような感動はなかったな。

 

アカデミー賞の選考委員は、むしろ西川監督に注目すべきではないだろうか。

 

なんか、オスカーにノミネートされた作品に対して失礼極まりない言い草だけど、でもここんとこTVでやたらと「『ドライブ・マイ・カー』はいくつの賞を獲るのか注目です」とか言ってるのを聞いてていい加減うんざりしてきたもんだから。ノミネートされたのはこの映画だけじゃないんですがね。

 

オリンピックで自分の国が何個メダルを獲るか、ってことばかり気にしてる連中と一緒で、ほんとバカじゃねぇのかと思う。それはアスリートたちと同様に、この映画の関係者の皆さんのせいじゃないですが。

 

出演者のかたがたは好演されていたし、何度も繰り返しますが、こういう作品が注目を浴びること自体は歓迎です。ただ、僕は好みじゃないというだけで。

 

みさき役の三浦透子さんは、現在放送中の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で川栄李奈さん演じる3人目のヒロインの友人役を務められてますが、家福役の西島さんとは仲良く朝ドラ出演者同士の共演ですね(^o^)

 

 

 

 

どこか田畑智子さんを思わせる顔立ちと、しっかりと前を見据えているようにも、あるいはうつろなようにも見えるそのまなざし、怒ってるようにも見える表情など、言葉以外の部分でとても印象に残る演技を見せてくれていました。

 

みさきの、「~ので」という言い廻しを多用する言葉遣いが耳に残る。

 

みさきが以前働いていたという、あのゴミ処理場にはどんな意味が込められていたのだろう。「過去」を葬る場所、としてのゴミ処理なのか。

 

 

 

西島秀俊さんについては、これは失礼ではないと思いますが、ベッドシーンでの筋肉質な裸体のインパクトが、家福という主人公に説得力を与えていたように思いました。

 

 

 

 

ちょっと気になった点としては、劇中で日本人の舞台俳優たちが外国人の俳優たちの台詞のことを「お経を聞いてるみたいで眠くなる」と言っていたけど、これは多言語による芝居というコンセプトを理解していないということじゃないだろうか。自分たちがやっている演劇活動の意味や意義をわかっていたら、そんな暴言など発するはずがないと思うんだが。

 

 

 

また、感情を込めずに台詞を言う読み合わせを延々続ける意味と理由を尋ねられても家福はそれに答えないが、結局彼の試みは功を奏したんだろうか。

 

でも、家福がみさきと抱きしめ合ったのは、「言葉」の意味を互いにちゃんと理解し合ったからでしょう。

 

それとも、あの場面は言葉の意味を超えて彼らがわかり合えたことを表現していたんだろうか。

 

的外れなこと言ってたらごめんなさい。わからないことだらけなので、独自に解釈しております。

 

…あとですね、これはたまたま他のオスカーの作品賞の候補作にそういう作品があったから気になったことなんですが、『ドライブ・マイ・カー』には耳は聴こえるけれど言葉は手話で行なう女性が登場しますが、演じていたパク・ユリムさんは実際に手話の使用者なのでしょうか。

 

 

 

すみません、劇場パンフレットを買ってないので彼女のプロフィールを確認できなくて。

 

コーダ あいのうた』では聴覚障碍のある人たち=“ろう者”の役を当事者である俳優が演じていて、それが「多様性」の一環としても語られていました。

 

『ドライブ・マイ・カー』での多言語による演劇というのも、やはり「多様性」を意識したものだろうし、俳優として手話の話者が登場するのもそうでしょう。

 

だとすれば、『コーダ』の公開時に議論されていたこと(「ろう者役は当事者が演じるべき」)は、この『ドライブ・マイ・カー』でも活かされなければ奇妙ですよね。同じオスカーの候補作品なんだし。

 

 

「多様性」が広まるのは結構なことだし、だからこそ僕もこういう映画を観る機会が得られたわけですから、それはよかったと思うんですが、一方で、一般の映画の観客を置いてけぼりにして一部の「わかる人」「感性の鋭い人」「映画的素養のある人」たちだけを対象にしてやしないだろうか、という気持ちもある。

 

アカデミー賞がカンヌやヴェネツィアの映画祭みたいになる必要があるんだろうか。

 

わかりやすくて大衆向けの映画が獲る賞があってもいいでしょう。多様性と大衆性は両立しないのだろうか。マジョリティにウケる映画は多様性がないのだろうか。

 

映画を観終わって、あれこれと頭を悩まして考え込むのもたまにはいいけれど、単純に笑ったり泣いたりできる、そういう映画が僕は好きだなぁ。

 

第94回アカデミー賞国際長編映画賞受賞。

 

 

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『蛇の道』

 

 

 

 

 

 

 

ケネス・ブラナー監督、ジュード・ヒル、カトリーナ・バルフ、ジェイミー・ドーナン、ジュディ・デンチ、キアラン・ハインズ、コリン・モーガン、ララ・マクドネル、オリーヴ・テナントほか出演の『ベルファスト』。2021年作品。

 

音楽はヴァン・モリソン。

 

第94回アカデミー賞作品賞、監督賞、助演女優賞(ジュディ・デンチ)、助演男優賞(キアラン・ハインズ)、脚本賞、音響賞、歌曲賞(ヴァン・モリソン「Down To Joy」)ノミネート。

 

1969年、北アイルランドの主都ベルファスト。9歳の少年バディの父は出稼ぎでしばしば家を空けるが、母が息子二人を育て、バディは学校で同じクラスのキャサリンに恋をしたり優しい祖父母や母の姉夫婦との仲もよく、一家は故郷に根ざして暮らしていた。しかし、やがてプロテスタントによるカトリック教徒の家への破壊行為が頻発し、両親は言い争うことが増え、一家は今後のことで決断を迫られることになる。

 

ちょっと前に観た『ナイル殺人事件』に続いてケネス・ブラナー監督作品。

 

完全なエンタメ系の『ナイル~』と、ブラナー本人の半自伝的な内容のこの『ベルファスト』と、見事に作品を撮り分けてますね。

 

 

 

予告篇で感じた雰囲気など、観る前からなんとなくアカデミー賞向きな作品のように感じてました。

 

果たして結果はどうなるかわかりませんが、今年はほんとにいろんなタイプの映画が作品賞の候補に挙がってますね。

 

これまで鑑賞したオスカーノミネート作品の中では、僕は断然『コーダ あいのうた』推しですが、自分の好み以外でもさまざまな種類の映画が支持されたり受賞するのは、それこそが「多様性」なんだと思う。賞を獲ろうが獲るまいが、それで作品の価値が決まるわけじゃないし、好きな作品は変わらず好きなままでいればいい。

 

『ベルファスト』は小粒な印象が拭えないけれど(それ言ったら『ドライブ・マイ・カー』だって特別大掛かりな映画じゃないが)、おそらくはアメリカでの国民の分断やコロナ禍下での差別と暴力なども意識して作られたのだろうし、期せずしてロシアによるウクライナ侵攻も作品と重なることになって、まさに「今」の映画になっている。

 

金持ちでもなければ貧しさに泥水すすりながら生きているのでもない、ごく普通のある平凡な一家が、町の中でキリスト教の宗派の違いによる対立で安全を脅かされて故郷を離れざるを得なくなる姿は、いつどこで似たようなことが起こっても不思議ではない。事実、世界の各地で紛争は絶えない。

 

アイルランドとイングランドの争いは歴史的に根深いものがあるのだろうし、そこに新教と旧教の対立が絡んできたりして僕にはなかなか理解が難しいのだけれど、この映画は主人公の少年バディの視点に近いところで描かれるから、社会背景についての説明がほとんどなくて、なぜプロテスタントによってカトリックが迫害されるのかよくわからないまま店や家々が破壊され、道路にバリケードが築かれて、バディの父親は町のならず者のような男から協力するよう脅される。

 

一部の大人や若者たちがどんなにお題目を唱えたところで、子どもの目から見たら人から人へ振るわれる暴力がどれほど理不尽で恐ろしいものか。

 

望んでいないのに、慣れ親しみ深い愛着のあった、父や母、祖父や祖母がずっと住んできた場所をあとにしなければならない悲しみ。

 

今、ウクライナの人々はそうやって祖国を追われている。

 

少年は笑顔でオモチャの剣とゴミ箱の蓋の盾で戦争ごっこに興じる。それが本当の戦争になった途端にその笑顔は消えて、恐怖の表情を浮かべ別れのつらさに泣く。誰がそんなことを望むのだろう。なぜ争わなければならないのか、なぜ壊し奪うのか。

 

バディはまだ幼いせいもあって、何が起こっているのかちゃんと理解していないし、ツインテールの少女モイラ(ララ・マクドネル)に連れられて暴徒たちの群れの中に入り込んでしまったり、彼女に命じられて暴徒たちに襲われた店の商品(なぜかバイオ洗剤)を盗んできてしまったりする。

 

 

 

幼い子どもはまだ善悪の判断もつかず、暴力の前では無力だ。でも、それは大人たちだってそんなに変わらない。ただ命からがら逃げるしかない。

 

ラクエル・ウェルチ(ちなみに彼女はアイルランド系の血を引く。※ラクエル・ウェルチさんのご冥福をお祈りいたします。23.2.15)主演のイギリスのハマー・フィルム制作の映画『恐竜100万年』(1966) やミュージカル映画『チキ・チキ・バン・バン』(1968) を家族で観たり、TVでは「宇宙大作戦(スタートレック)」がやっていて、「サンダーバード」のオモチャを買ってもらったり、日常でのささやかな喜びが淡々と描かれて、やがて町を出ていくバディの家族、そして独りベルファストに残った祖母(ジュディ・デンチ)の顔の大写しと彼女が息子夫婦や孫たちにむけて送る言葉とともに映画は終わる。

 

 

 

なぜ祖母一人を残していったのか、彼女は亡き夫(キアラン・ハインズ)の墓がある故郷に自分だけ残ることにしたのかどうかはよくわからなかったけれど(バスの中のバディたちが祖母に手も振らず、どこか沈んだ表情をしていたのが気になった)、映画の最後に映し出される、立ち去った人々と残った人々、そして命を失った人々にこの映画を捧げる、という言葉のように、おばあちゃんは「残った人々」を象徴する存在なのかもしれない。

 

 

 

 

劇的なことが次々と起こるような作品ではないし、暴力的な場面も人の死も、そこはあえてドラマティックに盛り上げないようにしたのかもしれませんが、それがかえって胸を打つところはあった。

 

舞台になっている場所がかなり限られていて、バディたちが住む建物の一角も似たようなところしか映し出されないのでベルファストという町の規模が少々わかりにくかったんですが、終盤で家族が高い崖の上から町を望む場面があったし、作品に込められたブラナー監督の故郷への深い愛惜の念を感じました。

 

頼りがいがあって男前の父(ジェイミー・ドーナン)と、背がスラッとしてサバサバした性格でもある美しい母(演じるのは、『フォードvsフェラーリ』でクリスチャン・ベイルの妻を演じていたカトリーナ・バルフ)。ケネス・ブラナーさんのご両親が実際にあのような人々だったのか、それともかなり美化した姿なのかはわかりませんが、父と母が皆の前で唄い踊る姿に人の心の中にいつまでも残る「懐かしく美しき日々」の残像を見ました。

 

 

 

 

学校で「将来、結婚したい」と思った女の子とも特に派手なエピソードはなくて、教室で互いにチラ見し合う程度だし、最後の別れもプレゼントを渡し合うぐらいのもの。でも、そんななんでもないような想い出の欠けらこそがかけがえのないものだということ。

 

甲高い声で顔にはソバカスがいっぱいのバディ役のジュード・ヒル君が可愛かったですね。笑顔がほんとに心から笑ってるような感じで、怯える演技や引っ越しが嫌で思わず泣き叫んじゃうところなんかもお見事でした。未来の名優の誕生かな?(^o^)

 

 

現在にタイムスリップ みんなかっけぇ

 

 

アカデミー賞の授賞式は日本時間の本日28日午前9時から行なわれます。

 

残念ながら僕は観られませんが、結果を楽しみにしています♪

 

第94回アカデミー賞脚本賞受賞。

 

 

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