アントワーン・フークア監督、デンゼル・ワシントン、クリス・プラット、ピーター・サースガード、ヘイリー・ベネット、イーサン・ホーク、イ・ビョンホン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、ルーク・グライムス、マーティン・センズメアー、ヴィンセント・ドノフリオ出演の『マグニフィセント・セブン』。2016年作品。

 

南北戦争後のアメリカ。ローズ・クリークの町を乗っ取ろうとしているバーソロミュー・ボーグによって教会が焼かれ夫を殺されたエマ・カレンは、同じ町の若者テディQとともに町を救ってくれるガンマンを捜しにいく。お尋ね者を殺した委任執行官サム・チザムはボーグの名を聞くと興味を示し、やがてイカサマ・ギャンブラーのファラデー、サムとは南北戦争の時の知り合いである“グッドナイト”・ロビショーとその連れで中国人のナイフ使いビリー、指名手配中のメキシコ人のヴァスケス、斧が武器の大男ジャック、ネイティヴ・アメリカンのレッド・ハーヴェストなどが加わる。

 
以降、物語のネタバレを含みます。
 
 
1960年のジョン・スタージェス監督による『荒野の七人』のリメイク。
 
監督はデンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』やジェイク・ギレンホール主演『サウスポー』のアントワーン・フークア。
 
僕は『イコライザー』も『サウスポー』も好きな作品なので、その監督が『荒野の七人』の2016年ヴァージョンを撮ったということで昨年から公開をとても楽しみにしていました。
 
去年はたまたまなのかそれとも意識してなのか、この『マグニフィセント・セブン』の元ネタである黒澤明の『七人の侍』が「午前十時の映画祭」でリヴァイヴァル公開されて、TVでもBSで『荒野の七人』が放映されたりもして、どちらも楽しんで最新作への期待はさらに膨らんでいったのでした。

 

 

『マグニフィセント~』の直接的なオリジナル版である『荒野の七人』(原題は同じく“The Magnificent Seven”)は、あいにくこれまで映画館では観たことがなくてTV放映のみの視聴なんですが、日本の時代劇だった『七人の侍』が見事に西部劇に翻案されていて、なるほど名作だと思います。
 
 
 
僕は西部劇というのはほんとに数えるほどの本数しか観ていなくてまったく不案内なので偉そうなこと何も語れないんだけど、それでも『荒野の七人』はユル・ブリンナーやスティーヴ・マックィーン、ジェームズ・コバーン、チャールズ・ブロンソンなど往年の名優たちが揃っていて、彼らの雄姿を見ているだけで胸がときめきます。
 
で、『マグニフィセント~』を観た人たちの感想に目を通してみると、当然のごとく元祖『荒野の七人』に軍配を上げる人と、反対に「今回の『マグニフィセント~』の方が面白い!」と褒めてる人とに面白いぐらい評価がまっぷたつに分かれてる。
 
 
 
『七人の侍』と『荒野の七人』は、日本の時代劇とアメリカの西部劇という別のジャンルだからこそそれぞれの特色がうかがえて互いに異なる魅力があるので、単にこの2本の映画を比べてその出来をとやかく言ってもしょうがないな、と思うんですが、『荒野の七人』と『マグニフィセント・セブン』は同じ西部劇だから、これはもう観る側が映画に何を求めているのかということがハッキリとその評価に反映されるんじゃないか、と。
 
『荒野の七人』のストーリーの骨子はほぼ『七人の侍』のそれを踏襲しているので、『七人の侍』が娯楽活劇として最高だったのと同様に2時間ちょっとの上映時間(『七人の侍』の方は約3時間半)に無駄なものは一切なくて、やはり面白いんです。
 
一方の『マグニフィセント・セブン』は上映時間は133分とそれなりに長いんだけど、中盤以降がほとんど銃撃戦という作りで、だからとにかくガンマンたちが撃ちまくりあう映画が観たい人にはもってこいの作品になっています。
 
たとえばアメコミヒーロー映画などがリメイク、リブートされるたびによく言われるのが、「主人公がスーパーヒーローとして覚醒して活躍するまでが、かったるい」というもの。
 
『マグニフィセント・セブン』の前半はそういう観客の要望に応えるように、7人のガンマン(だけでなく、インディアンもいますが)が勢揃いするまでがかなりスピーディ。
 
あっという間に7人が揃っちゃう。
 
しかも、『七人の侍』や『荒野の七人』で描かれた侍やガンマンたちと助けるべき村人たちとの間の軋轢から団結に至る手順をすっ飛ばして、『マグニフィセント・セブン』ではガンマンたちと町の住人たちはわりとあっさりうちとけて協力しあう。
 
この映画に対する批判的な意見の一つが、「登場人物の掘り下げが浅くてドラマが平板」というもの。
 
『七人の侍』では、侍たちと百姓たちが互いへの不信感を打ち払って真に手を取りあい野武士に立ち向かうまでに、映画の半分近くが費やされている。
 
『荒野の七人』でも、7人のガンマンと村人たちは敵の盗賊を前にいったん決裂する。
 
そういう展開が『マグニフィセント・セブン』にはないんですよね。
 
とにかく悪い敵がいて、そいつらをやっつける。だから映画の後半はたいしたストーリーらしきものはない。撃ち合いが延々続く。
 
ちょっとマイケル・マンの『ヒート』を思いだした。
 
西部劇じゃないけど、クライマックスの白昼のロサンゼルスでこれでもかと続く銃撃戦が話題になったギャング映画でした。
 
ガンマニアはどう感じるのか知らないけど、僕は『ヒート』にはあまりピンとこなかったクチで、だからまぁ、ぶっちゃけ『マグニフィセント・セブン』にも「う~ん、まぁ、銃の撃ち合いは気持ちよくはあるが…」といったところでしたね。
 
撃ち合い、といってもこの映画は年齢制限はないので残酷な描写はないし、観ていてVFXを使ってるショットもハッキリとわかっちゃったので、19世紀の西部を舞台にした「血と埃にまみれた壮絶な殺戮劇」といったリアリティもあまり感じることはできなかった。
 
すでに指摘しているかたもいらっしゃるように、この映画は元祖『荒野の七人』のような純正ハリウッド製西部劇というよりも、どちらかといえばイタリアのマカロニ・ウエスタンの匂いがあって、主人公のサム・チザムや悪役のボーグの帽子や服装なども、それらの作品群を彷彿とさせる。
 
ガトリング砲(『荒野の七人』の続篇でも登場するが)や棺桶なんかもイーストウッド主演の『荒野の用心棒』やセルジオ・コルブッチ監督の『続・荒野の用心棒』などを思わせる。
 
 
 
僕はこのジャンルに詳しくないんでいちいち挙げられませんが、多分それ以外にも多くのマカロニ映画にオマージュが捧げられているんでしょう。
 
90年代にはマリオ・ヴァン・ピーブルズ監督の『黒豹のバラード』という黒人ガンマンが主人公の西部劇もあったから当然それも意識してるだろうし、同じく黒人が主人公といえばクエンティン・タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』(これも元ネタはマカロニ・ウエスタンの『続・荒野の用心棒』)も一応は念頭にあったと思う。
 
エンディングクレジットで『荒野の七人』の軽快なオリジナルテーマ曲が流れるけど、映画の雰囲気と曲調がまったく合ってなかった。
 
むしろ、この映画にはエレキギターのギュイィィ~ンッ!!ベベベベンッッ!っていうマカロニ調の響きの方が似合う気がする。
 
とはいえ、どうもマカロニ・ウエスタンの残酷趣味やエロも希薄なんだよね。
 
ウィル・スミス主演のSF西部劇『ワイルド・ワイルド・ウエスト』ほどではないけれど、いかにもデジタルな時代の西部劇っていうか。
 
僕はサム・ペキンパー監督の1969年の西部劇『ワイルドバンチ』が好きなんですが、あの映画に濃厚に感じられた“ロマンティシズム”も『マグニフィセント~』には大いに足りない。
 
 
 
『ワイルドバンチ』は『マグニフィセント~』とは逆に、ならず者たちが強盗を繰り返した挙げ句に軍隊と戦って壮絶に散っていく物語なんだけど、映画を観ているうちに犯罪者であるはずの彼らに肩入れしたくなってくるんですよ。
 
やがて消えていかざるを得ない、古き時代の遺物でもあるガンマンたちの挽歌を見事に描き出していた。
 
浪人たちが活躍する『七人の侍』にはしっかりとおぼえることができたそういう登場人物たちへの共感を、『マグニフィセント・セブン』の主人公たちに感じることは残念ながらできなかった。
 
マグニフィセント・セブン=崇高な7人、であるガンマンのうち4人は死んでしまうわけだけど、もともと縁もゆかりもない小さな町のためにろくな報酬もないのに自らの命を投げだして戦った男たちの悲壮感や矜持があまり感じられないんだよね。
 
だってそういう人間ドラマが何も描かれてないから。
 
『ワイルドバンチ』には説明的な台詞など一言も用いずに、クライマックス直前にウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインが目と目だけで通じあう、堪らなくイカす場面がある。
 
役者の顔の演技、一見ダラダラしているようなおっさんたちのじゃれあいみたいな場面が登場人物たちの生身の人間らしさを表現していて、のちのたった4人で何百人もの軍隊と撃ち殺しあう「死のバレエ」への見事な布石となっている。
 
面白いアクション映画ってのはアクション場面がただ続くのではなく、クライマックスに至るまでの過程をこそ丁寧に描写するものだ。
 
ペキンパーの“西部”への郷愁溢れる作品に比べれば、『マグニフィセント・セブン』はより即物的なエログロ上等のマカロニ・ウエスタンやそれらへのリスペクトに溢れるタランティーノ作品に近いのかもしれないが、でもそれにしてはやっぱりちょっとお行儀が良すぎるのだ。
 
僕は同じくデンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』の暴力場面が結構好きだったんで、それに比べてずいぶんとソフトで大味になってしまったフークア監督のこの最新作のアクションにはかなり肩すかしを食らってしまった。
 
せっかく西部劇、それもちょっとマカロニ入ってる感じのをやってるのに、なんでこんなにヴァイオレンス風味が薄いんだろう。
 
もっと銃で頭に風穴が空くとか、腕や身体が吹っ飛ぶとか血飛沫が吹き上がったり、女の人のおっぱいやお尻が出てきてもよかったんじゃないだろうか。
 
正統派西部劇をやりたいのか、それとも残酷ウエスタンをやりたいのかよくわからない。結局どっちつかずになっちゃったのがもったいなくてしょうがない。
 
この映画を観て痛感したのは、今ではそうやって主人公が悪い奴を思いっ切り残酷な方法でぶち殺したり、お姉ちゃんの裸が出てきたりするのを無邪気に楽しみづらくなってきているのかな、ってことでした。
 
そしてテロの時代である現在は、『ワイルドバンチ』のように一般市民を巻き込んで大暴れする“ならず者”たちにロマンを感じることも難しくなっている。
 
そういう意味では、『荒野の七人』は映画にとって幸福な時代の産物だったのかもしれない。
 
まだ写実的リアリズムが徹底してなくて残酷描写もなく、でもストーリーは手堅いから退屈はしない。観客が素朴に“ガンマン”たちに憧れることが許された時代。
 
今この時代に西部劇を作るなら、90年代にケヴィン・コスナーが撮った『ダンス・ウィズ・ウルブズ』みたいな時代に合わせた歴史劇路線か、それともサム・ライミが撮った『クイック&デッド』みたいな荒唐無稽なギミック満載の「おもしろウエスタン」、はたまたタラちゃんのようなマカロニを独自にアレンジしたもののように、さまざまな工夫が必要でしょうね。
 
そういえばこの映画に出演したイ・ビョンホンは、以前セルジオ・レオーネ監督、イーストウッド主演の『続・夕陽のガンマン』を韓国風に換骨奪胎したキム・ジウン監督の『グッド・バッド・ウィアード』に出ていた。
 
『グッド・バッド・ウィアード』は韓国の“いい顔”俳優ソン・ガンホも共演していた“キムチ・ウエスタン”で、時代考証もへったくれもない「なんちゃって西部劇」だったけど、それはそれで僕は面白かったんですよね。
 
少なくとも三池崇史監督の『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』よりはよっぽどしっかり“マカロニ・ウエスタン”していた。
 
ちなみにキム・ジウンはハリウッドでシュワルツェネッガー主演の『ラストスタンド』も監督していて、こちらはシュワちゃん演じる保安官がメキシコの麻薬王を追う、ちょっと西部劇風のアクション映画でした。
 
悪いけど、この『マグニフィセント・セブン』もキム・ジウンが監督していたらもうちょっと面白くなったんではないかな。
 
僕は韓国映画に特別詳しいわけでも大好きなのでもないんだけれど、韓国の映画監督はポン・ジュノにしてもパク・チャヌクにしても残酷(&エロ)描写がお得意な人が多いので、マカロニ風西部劇には合ってるんじゃないかと(彼らが日本の時代劇を撮っても面白いんじゃないかと思うんですが)。
 
『ラストスタンド』はアクション場面だけでなくドラマ部分を丁寧に撮っていて、物語の定石をしっかりと踏まえていた。西部劇だろうと現代が舞台のアクション映画だろうと、映画の面白さって物語の積み重ねや登場人物たちの描きこみにかかってるんだよね。
 
『七人の侍』や『荒野の七人』が今もなお面白いのは、俳優たちの演技や演出の巧さももちろんだけど、結局はシナリオが基本に忠実だからなんじゃないだろうか。
 
それに比べて、『マグニフィセント・セブン』はシナリオの練りこみがかなり甘かったと思う。
 
130分あったら主人公のサム・チザムや他の仲間たちのエピソードをもっと盛り込んでキャラクターにさらに深みを持たせることは可能だっただろうし、エマたち町の人間だって7人の助っ人たちと絡ませて彼らのドラマをもっと描けただろう。
 
そして、悪役であるボーグだってもっとリアルで恐ろしいキャラにできたはずだ。
 
人々から土地を奪おうとしているボーグ(ピーター・サースガード)は、教会でビンの中に入った土を示して「お前たちの土地はただの“土”になった」と言い捨てる。
 
 
 
 
まるでマンガみたいなアメリカの新大統領のトンデモぶりに世界中が振り回されている今、ボーグのような威嚇と暴力で民を苦しめ蹂躙する者は、現実に存在する倒すべき「悪」として観客の目には映る。
 
そして観客にとって、あの町はそのような「悪」からどうしても守らなければならないかけがえのないものになる。
 
だからこそ、これはアメリカ人にとって大切な「魂」についての燃える西部劇になったはず。
 
でも、この映画にはネイティヴ・アメリカンのレッド・ハーヴェスト(マーティン・センズメアー)の白人に対する憎しみと、それでも「悪」に立ち向かって戦うという男気、あるいは同じく差別にさらされて生きてきただろう中国系のビリーやお尋ね者に身をやつしたメキシコ人のヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)らの生き様などいくらでも描きこめたはずなのに、そういう人間模様は根こそぎ端折られているので、彼らの命を懸けた戦いに心底熱くなれないのだ。
 
 
 
 
そもそも彼らがあの町のために戦う理由がわからない。
 
町の住民たちとのいざこざもその後の和解もなく、そういう「お約束」のように最初からなぜか「よっしゃ、戦おうぜ」みたいになってるから。
 
まるで東映のスーパー戦隊モノ「バトルフィーバーJ」みたいな肌の色(国籍)豊かな仲間たちの「西部劇ごっこ」で終わってるんだよね。
 
まぁ、それは“キムチ・ウエスタン”や“スキヤキ・ウエスタン”も同様なんだけど。
 
なんか「魂」がこもってねぇぞぉ!って。
 
ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の登場人物たちの描きこみが浅くて人間ドラマが退屈、という批判があったけど、それと似たものを感じる。
 
僕は『ローグ・ワン』はわりと好きなんですが、あぁ、あの映画に不満をおぼえた人たちってこういう感じだったのか、と思ったりした。
 
イーサン・ホーク演じるグッドナイトとビリーの関係なんかは、台詞での説明だけじゃなくてもうちょっと映像で(回想シーンなども交えて)見せてくれてもよかったんじゃないか。
 
 
 
 
この映画では異人種間の仲違いというのはほとんどなくて、みんな最初から仲良しなので、そこもドラマが足りないなぁ、と。
 
ほんとはそここそが現実の世界での課題でしょうに。
 
そういう大切な部分を「かったりーから」と省略しちゃうのは、映画じゃなくて単なるシューティング・ゲームが好きな人間の趣向だと思います。
 
この時代にせっかく描くべき題材を目の前にして、ただ撃ち合いが気持ちよけりゃいいんだよ、という映画に仕上げてしまった作り手には失望を禁じえない。
 
今や売れっ子俳優で主演作が目白押しのクリス・プラットも、キャラは立ってるのに彼のドラマはほとんど描かれないのでその死にも涙するまでにはいかず、イーサン・ホークもイ・ビョンホンもヴィンセント・ドノフリオも名前も顔も知られてる俳優たちなのに、やっぱり彼らの最期にグッとくるものがない。
 
 
 
 
クドいけど、そこに至るまでのドラマが劇中に存在しないから。
 
僕はこれは致命的なミスというか、完全に諸悪の根源は脚本家だと思うんですが。
 
キャラクターの描きこみが決定的に足りない、という批判には全面的に同意。
 
グッドナイトが強いのか弱いのか見ていてモヤモヤさせられて、おそらくあれは『荒野の七人』でロバート・ヴォーン(ご冥福をお祈りいたします)が演じたリーのキャラを拝借したんだろうけど、やっぱり描きこみが足りないからなんだかよくわかんない人になっちゃってるし。
 
町の住民にしても、エマとテディQ以外の人々の見分けすらまともにつかないのはいかがなものか。
 
テディQ役のルーク・グライムスは去年観た『ハンズ・オブ・ラヴ』では主人公のジュリアン・ムーアに協力する同僚を演じていてなかなかよかったけど、今回はあまり目立つ活躍をさせてもらえなかった。
 
個人的には、映画の冒頭で夫を無残に撃ち殺されてしまうエマのおっぱいの谷間が気になってしょうがなかったですが。
 
もう、ずっと男たちと一緒に行動してるのに、このエマさんがいつもおっぱいの半分が見えてる状態なのがほんとにムラムラしましたよ。
 
演じているヘイリー・ベネットは『イコライザー』で殺し屋に殺されてしまう娼婦を演じていたけれど、ちょっと顔の感じがブライス・ダラス・ハワードっぽくてなんかいいなぁ、と。目のあたりがジェニファー・ローレンスにも似てますが。
 
 
 
 
フークア監督はアフリカ系の人だけど、前作『サウスポー』でもそうだったように白人の俳優の使い方が巧みですね。
 
それだけに、主人公のサムを同じアフリカ系のデンゼル・ワシントンが演じた必然性というものをこの映画からはあまり感じられなかった。
 
サムはかつてボーグに首を括られて殺されそうになった過去があった、ということが最後に明かされるんだけど、これもイーストウッドの映画を思わせたりして(『それでも夜は明ける』のように黒人奴隷が白人の農場主に吊るされることは実際にあったのだろうけど)、どこか借り物のイメージっぽいんだよなぁ。
 
『イコライザー』の面白さが嘘みたいで、ちょっと同じ監督が撮った作品とは思えないほど。
 
主人公の目的は復讐だった、ということでは「崇高な7人」のリーダーとしては失格なんじゃないか、と思いますし。それじゃ『七人の侍』や『荒野の七人』の精神が台無しだよ。
 
ほんとはアントワーン・フークアは『荒野の七人』なんかじゃなくて、マカロニ・ウエスタンのリメイクを撮りたかったんじゃないか。
 
だから最初に書いたように、人間ドラマなんざどーでもよくて、とにかく派手な撃ち合いがありゃいいんだよ、という人には楽しい映画なんだろうと思いますよ。
 
でも薄味だけどね。
 
悪のボスのボーグが最後にいきなり弱々しくなって命乞いする、というのも、意外性よりも唐突感しかなくて、大いにカタルシスに欠けた。
 
あそこは最後まで憎々しさを保ち続けてこそ溜飲が下がるんでしょうに、彼の最期もあまりにあっけない。
 
エマにとどめを刺させるなら、もっとそれにふさわしいシチュエーションを考えてほしかった。
 
西部劇だからこそできることだってあるわけだから。
 
一昨年観た『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の方がよっぽど“ウエスタン”してましたよ。
 
そんなわけで個人的には残念な出来でしたが、それでも『七人の侍』から続いたお祭りは楽しかったし、アントワーン・フークア監督にはまだ期待しているので次回作でぜひ挽回してください。
 
 
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