セオドア・メルフィ監督、タラジ・P・メイソン、オクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイ、キルステン・ダンスト、ジム・パーソンズ、グレン・パウエル、マハーシャラ・アリ、ケヴィン・コスナー出演の『ドリーム』。2016年作品。

 

原作はマーゴット・リー・シェタリーによるノンフィクション小説。

 

1961年、アメリカ、ヴァージニア州ハンプトン。数学の天才であるキャサリン(タラジ・P・メイソン)は、同じアフリカ系の友人ドロシー(オクタヴィア・スペンサー)とメアリー(ジャネール・モネイ)とともにアメリカ南東部のNASA(アメリカ航空宇宙局)ラングレー研究所で計算手として働いている。57年のソ連の人工衛星打ち上げ成功はアメリカに衝撃を与え、急遽進められた有人宇宙飛行計画のためにそれぞれの部署で仕事が続いていたが、いまだ社会や職場での女性の地位が低く人種的な偏見もあって彼女たちは苦難を強いられる。

 

これは知られざる黒人女性たちのマーキュリー計画。“ライトスタッフ”を陰で支えた人々の物語。原題は「Hidden Figures(隠された人々)」。

 

 

 

邦題には当初「私たちのアポロ計画」という副題が付けられる予定だったのが、主にインターネット上で批判が続出して、結局副題は外されたという経緯がありました。

 

その顛末は僕もTwitterでリアルタイムで目撃していたんですが、その撤回劇があまりにあざとい感じがしたので、最初は話題作りのための“仕込み”なんじゃないかと勘繰ってしまったほど。

 

実際に映画を観てみると描かれているのは「マーキュリー計画」だから、その批判はもっともだし、つくづく意味不明な副題は外されてよかったと思います。

 

確かに「マーキュリー計画」の成果はのちのアポロの月面着陸に受け継がれていくし、この映画のヒロイン、キャサリン・ゴーブルさんはアポロ計画にもかかわっているので嘘は言っていないんだけど、それは映画じゃ描かれていないんだからやはり的外れな副題であることにかわりはない。

 

邦題の「ドリーム」についても「凡庸なタイトル」という批判があるけど、この映画でもニュース映像の中で映し出されているマーティン・ルーサー・キング牧師が行なった有名な「私には夢がある(I have a dream.)」で始まる演説にかけてあるのでしょう。僕は悪くないタイトルだと思いますけどね。

 

これは数学を通じて、その先にある「夢」に向かって偉大な功績を残した女性たちの物語なのだから。

 

その「功績」とは、有人宇宙飛行計画に貢献したことと同時に、1960年代の南部という人種差別が色濃く残っていた時代にさまざまな困難を乗り越えて、アフリカ系の黒人女性として前例のなかった新たな道を切り拓いた、ということ。

 

キャサリンをはじめ、この映画に登場する多くのアフリカ系の計算手、エンジニアたちは、これまで一部の人々の間以外でほとんど知られることもなく、その功績が讃えられるようになったのもごく最近のこと。

 

そこにも今に続く差別の根を見る思いがしますが。

 

この映画の中でキャサリンに注がれる白人男性たちの視線がなんとも居心地が悪くて不快だった。

 

 

 

 

同じポットからコーヒーを注いだだけで変な目で見られ、やがてポットを別にされてしまう。その屈辱。

 

彼女一人だけ「有色人種用トイレ」を使わなければならず、片道15分もかけて移動しないと用も足せない不便さに誰一人として気づきもしなければ、そんな苦労を一顧だにもしない無神経さ。

 

とにかくこの映画に登場する白人たちは、キルステン・ダンスト演じる上司のミッチェルも、ジム・パーソンズ演じるスタフォードも、その他大勢の奴らもみんな不愉快な連中ばかり。

 

彼らは根っからの悪人ではないかもしれないが、自分たちが差別を行なっていることに無自覚だった。

 

唯一、ケヴィン・コスナー演じるSTG(スペース・タスク・グループ:宇宙特別研究本部)の責任者ハリソンだけが、白人を完全な悪者にしないためかキャサリンに差別的な言動はせず、彼女の希望に沿うようにそれまで白人用と非白人用に分けられていたトイレを一緒にしたり(「誰でも小便の色は同じだ」という台詞がふるっている)、軌道の解析を担う彼女が最新の情報を得られるように会議に同席させたりする。

 

ケヴィン・コスナーは儲け役でしたね。

 

 

 

世の中の上司がこういう理解ある人ばかりならどんなにいいだろう。ある種の理想の上司像かもしれない。

 

もっとも、彼のスタッフへの技術的な要求は非常に高いものだし使えない者はどんどんクビにもするので(キャサリンの前に1年間で12人辞めさせられた、と語られる)、部下としてはまったく気を弛められないだろうけれど。

 

白人の部下たちの緊張した態度から、ハリソンがいかに彼らに怖れられているかうかがえる。

 

この映画は、集められた優秀な人々が女性であるために、またアフリカ系であるために正当な評価も扱いも受けられない姿を描くことで、差別問題について考えさせてくれる。

 

先ほどの白人たちの黒人女性に対する反応をいちいち見せているのも、「差別」というのがどういうものなのか具体的に観客にわからせるためでもある。

 

差別している本人たちは意識すらしていないところで、人は人を見下したり無視したり、「これがルールだから」と言い訳して差別に加担する。

 

「勝利が見えてきたと思ったらゴールを変えられる」というメアリーの台詞が印象的だった。

 

彼女はエンジニアを目指しているが、「白人専用の高校を卒業しなければその資格を得られない」というルールが立ちはだかる。

 

ドロシーは黒人であることを理由に管理職になれず、IBMの勉強をするために図書館に行くが(専門書は高額のため買えないから)、彼女が必要としている本は“非白人用”の図書館には置いていない。

 

入り口のところですでに振り分けられるのだ。

 

白人(もちろんそのすべてではないが)は、いつだって自分たちが不利になると彼らに有利になるようにルールを変えてくる。それはオリンピックの競技のルールから政治や経済まですべてにおいて徹底している。常に自分たちが勝てるように細工する。

 

その姿勢はこの映画のヒロインたちと同じく“有色人種”である僕たちに対しても同じだ。

 

ハリウッド映画に白人以外の有色人種の俳優が主要な役で出演する機会がきわめて少ないことが問題にされるけど、それについては「客を呼べるスター俳優がいないから」というもっともらしい理由が挙げられる。

 

けれど、アメリカ在住の女優、藤谷文子さんが述べていたように、そもそも白人以外の客を呼べるスターを育てていないんだからそんな人材がおいそれといるはずがないのだ。最初からチャンスが与えられていない。

 

この映画の興行的な成功は、そういう従来の固定観念を覆す役割も果たしたということ。

 

本当に不利な状況の中で、キャサリンたちは自分自身の実力を発揮して人一倍努力を重ねて自らの権利を獲得していく。そしてそれは後進の道を開くことにもなった。

 

映画評論家の町山智浩さんによれば、アメリカではこの映画は学校などで大人たちが大勢の生徒たちを連れて観にいってそれが大ヒットに繋がったんだそうだけど、キャサリンたちが差別的な相手に向かって毅然とした態度と機知に富んだ返答によって問題を乗り越えていく姿は本当に溜飲が下がる思いがするから、それで子どもたちも差別というのがどういうものなのか、そしてそれにどう対処すべきか、ということを学んでいくのでしょう。

 

研究所で働く黒人女性たちがズラッと並んでスローモーションで颯爽と歩いてくる場面は、『ライトスタッフ』っぽかった。『アルマゲドン』を連想した人もいるかもしれませんが。

 

 

 

この映画については、観た人の中には「所詮は自分とは関係ないエリートたちの話」と揶揄、あるいは自己卑下する向きもあるけれど、世の中というのは一部の選ばれた人たちによって物事が前進していくということはままあるし、エリートといっても彼女たちは特別裕福な家庭の人々ではないので、もちろん楽々と成功を掴んだわけでもない。

 

彼女たちは同じ時代に低賃金で貧しい暮らしをしていた人々に比べれば高給だったし、その数学の才能を見込まれて選び抜かれた人たちではあったけれど、以前にはなかった“前例”を作ったんですよね。

 

そこは素直に憧れたり、そういう生き方を手本にしたっていいと思う。パイオニアというのはそういう存在なのだから。

 

そしてこの映画は、メアリーが白人の裁判長に訴えかけたように「前例がないなら、あなたが“前例”になりなさい」というメッセージを発している。

 

実在のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンを描いた『42 ~世界を変えた男~』もそうだったように「実話を基にした物語」ではあるけれど、この手の映画にはよくあるようにすべてが史実通りというわけではなくて、人物関係が整理されていたり、劇中で白人用と有色人種用のトイレが分けられていたためにキャサリンが苦労する、というエピソードが事実とは違っていたり、ドロシーの管理職への昇進、メアリーのエンジニアへの転身についても時期が異なっていたりとさまざまな脚色は施されているようです。

 

 

描きたいテーマに沿って劇映画としていろいろ取捨選択されているんですね。

 

NASAを舞台にしながらも、そこでの物語を当時のアメリカの縮図のように描いたのでしょう。

 

キャサリンと出会ったジム・ジョンソンが「女性がそんな仕事を?」と驚いたり、メアリーの夫がやはり彼女がエンジニアを目指していることに最初は反対するのも、身近な者の中にもある女性への偏見だったり無理解をわかりやすく表現していたんだと思う。

 

これは1960年代のアメリカの話だけど、職場での女性の待遇など今の日本に置き換えたって成り立ちそうな内容だし。

 

キルステン・ダンストはこの映画では損な役回りだけど、彼女のキャサリンやドロシーへの態度、物言いは「こういう人、いる」というリアリティがありました。

 

 

 

ダンストが演じるミッチェルは劇中ではほとんど笑顔を見せず、男性の上司に向かって意見を言うこともなく、いつもどこか疲れた表情をしている(もう一人の女性スタッフも同様に笑顔がなく、常に事務的な態度)。彼女もまた男性たちの中でいろいろと諦めてきたんだろう。あるいはやはり顔の表情の変化に乏しい男性スタッフに同化しているのかもしれない。

 

それはちょうど、サウジアラビア映画『少女は自転車にのって』の女性教師たちが生徒の少女たちに見せていた表情にとてもよく似ている。ああいう表情の人たちは僕たちのまわりに大勢いる。ヘタしたら僕だってそうかもしれない。

 

自分たちは男性たちの中で、そのルールに従いながらなんとか仕事を得ている。あれこれと自己主張して睨まれたくないし、仕事も失いたくない。

 

ちなみに、本人も無意識にキャサリンたちを差別しているミッチェルとスタフォードは実在の人物ではなくて、当時のスタッフの価値観を反映させて創られたキャラクターとのこと。

 

トイレでミッチェルがドロシーに「偏見はない」と言うと、ドロシーは「わかっています。そう思い込んでることは」と答える。

 

その直後に気まずそうに一人で立ち尽くすミッチェルの姿がしばらく映る。

 

僕はこれ、白人と黒人の話だけじゃなくて、たとえば正社員と非正規雇用者の間の話のようにも思えたんですよね。ドロシーたちは短期の契約で働いていた。仕事の中身は正職員並みだったにもかかわらず。

 

「偏見はない」と言いながらそこにはしっかり待遇の違いがあったし、世間一般に「白人男性>白人女性>黒人」という序列があった。

 

この映画は優れた才能を持った黒人女性たちが自分たちの権利を獲得していく様子を描いていく。

 

だからさっき誰かが言っていたように、これは「エリートや特別な能力を持った選ばれた人たちの物語」であることは確かで、彼女たちのように自分の実力を発揮して自らの地位向上を実現できればそれは素晴らしいことだけど、ではそれができなければ人から見下されて安い賃金で我慢しなければならないのだろうか。

 

結局は「努力しろ」ってことか。貧しいのは努力が足りないせいなのか。

 

持てる者と持たざる者の格差が広がる一方の現在、これは単純に肌の色による差別だけの問題では終わらない。

 

それでも、誰しも努力がしっかりと報われてその能力や成果が正当に評価される世の中になれば、奮起して頑張れるようにもなるし、理不尽な差別によって貴重な才能が潰されていくことも防げる。

 

少なくとも僕に確実にできるのは、“差別する側”になって彼女たちのような人々の夢を奪わないことだ。

 

そういう意味でも、このような映画は作られる必要があるし、こうして多くの人々に観られて絶賛されることによって励まされる人たちもいるだろう。

 

キャサリン・ゴーブル、のちのキャサリン・ジョンソンさんは、「誰も抜けがけなんかしなかった」と語る。彼女たちは自分が得たものを仲間たちとともに分かち合い(ドロシーが自分だけではなく、仲間たち全員でIBMについて学んだように)、それが結果的に世の中のアフリカ系の女性たちの地位向上、権利獲得に大きな影響を与えた。

 

勇気を持って“前例”となること。何よりも讃えられるべきは彼女たちのその姿勢だろう。

 

主演のタラジ・P・メイソンはリメイク版の『ベスト・キッド』でも明るくて息子想いの母親を演じていたけれど、この『ドリーム』でも夫を亡くしながらも女手ひとつで子どもたちを育てて、NASAでの仕事に邁進しながらやがて新しい夫を迎える朗らかさとたくましさをそなえた女性を好演している。

 

知的で真面目なんだけどダンスだってするし、異性にも関心はある。

 

とにかくこの映画の黒人女性たちはとても魅力的に描かれている。自信に溢れてイキイキと働いている彼女たちがかっこよくて美しい。

 

映画の冒頭で白人の警官を前にした時のキャサリンたち三人の緊張した様子からは、それまでアフリカ系の人々が受けてきた差別の歴史が見える。

 

それでもこの映画の中でキャサリンもドロシーもメアリーもいつも明るさとユーモアを失わない。ツラいことがあったら集まってお酒を飲んで踊って憂さを晴らす。

 

 

 

この映画が差別問題を扱っていながら深刻になりすぎないのは、彼女たちの明るさのおかげ。

 

ドロシーを演じるオクタヴィア・スペンサーは『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』でオスカーを獲って、その後も多くの映画に出演しているけど(この映画の前にやってたクリス・エヴァンス主演の映画の予告篇にも映っていた)、ヴィオラ・デイヴィスとこの人は女優版モーガン・フリーマンか?ってぐらいに気がつくとどっかにいるw

 

メアリー役のジャネール・モネイは、『ムーンライト』でマハーシャラ・アリ演じる麻薬の売人の恋人を演じてましたね。マハーシャラ・アリはこの『ドリーム』ではキャサリンの新しい夫ジムを演じています。

 

ちょっとキャストがカブりすぎな気はしないでもないけど。

 

人気俳優はどこでも引っ張りだこ、ということだろうけど、そしてこの映画の出演者たちはみんな素晴らしい演技を見せてくれていたから別に文句はないんだけれど、できればもっと無名のアフリカ系の俳優たちにチャンスを与えてほしいなぁ。『ムーンライト』のように。

 

アフリカ系以外の有色人種の俳優もよろしくお願いしたいところですが。

 

 

僕は原作の小説を読んでいないし、映画が史実にどれだけ忠実なのか知りませんが、キャサリンの家庭はもうこれ以上ないぐらいに理想的に描かれている。

 

家庭は円満で親子関係も良好、そして新しく夫として父親として家族の一員になるジムもキャサリンの子どもたちや彼女の母親とも打ち解けて、ついにサプライズのプロポーズ。

 

憧れを感じさせるようなキャサリンの私生活には、これといって問題がない。逆にいえば劇的なドラマがない。

 

家庭こそが彼女の安息の場所になっている。

 

ドロシーやメアリーたちも同様で、彼女たちの戦いの場はNASAに限られている(メアリーの白人専用の学校への進学の件ももちろん仕事関連)。

 

日常の人種差別や女性差別の問題を深く掘り下げて描こうとすればどうしても残酷でつらい多くの現実を見つめなければならないけれど、この映画ではメアリーの夫が最初は妻が白人たちの中で前例のない挑戦をすることに懐疑的だったり、キャサリンたちが黒人であるがゆえに受ける差別の描写によって、直接描かれている以上のことを想像できるようにしている。

 

だから観終わったあとは重く沈んだ気持ちではなくて、明るく前向きな気持ちになれる。

 

そういう意味では、とても人に薦めやすい映画です。実際、僕も何度かジ~ンときましたし。

 

繰り返すけど、こういう映画は必要だと思います。

 

ただ、僕はハクション大魔王並みに数字に弱いので、劇中でキャサリンが黒板に数式をズラ~っと書いて宇宙船の軌道を解析する場面がしばらく続くと、急激に眠気が^_^;

 

 

 

観客があの数式の意味を理解する必要はないし、あれはキャサリンがいかに数学で天才的な才能を持っているかということを伝えるための演出なのはわかってるけど、ちょうど火星への有人宇宙飛行を描いた『オデッセイ』の中盤にも激しい睡魔に襲われたように、日常生活に支障をきたすほど理数系の分野にさっぱりな僕はあの手の描写が大の苦手で。

 

あそこに書かれていた数式もすべて正確なものなんだそうですが。

 

ほんとはもっともっと地味な作業の繰り返しだったんでしょうね。映画ではそれを凝縮して見せている。

 

そして、彼女たちのそういう地味で目立たない作業が、宇宙飛行士であるジョン・グレンたちのように表舞台で脚光を浴びる人たちの命を支えていたのだということ。それは他のさまざまな分野でもいえるでしょう。

 

誰の働きもけっしてないがしろにされない、忘れられない世界であってほしい、と理想的なことを考えたりしました。

 

 

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