ブリッツ・バザウレ監督、ファンテイジア・バリーノ(セリー)、タラジ・P・ヘンソン、ダニエル・ブルックス(ソフィア)、コールマン・ドミンゴ、コーリー・ホーキンズ、ハリー・ベイリー、フィリシア・パール・エムパーシ(若き日のセリー)、H.E.R.(メアリー“スクィーク”)、ジョン・バティステ(グレイディ)、シアラ(壮年期のネティ)、デオン・コール(セリーの父・アルフォンソ)、デヴィッド・アラン・グリア(エイヴリー牧師)、エリザベス・マーヴェル(市長夫人)、スティーヴン・ヒル(ヘンリー“バスター”)、アーンジャニュー・エリス、ルイス・ゴセット・Jr.ほか出演の『カラーパープル』。2023年作品。

 

原作はアリス・ウォーカーの同名小説。

 

1909年。アメリカのジョージア州。優しい母(アーンジャニュー・エリス)を亡くし横暴な父(デオン・コール)の言いなりとなったセリー(フィリシア・パール・エムパーシ)は、父の決めた相手“ミスター”(コールマン・ドミンゴ)と結婚し、自由のない生活を送っていた。さらに、唯一の心の支えだった最愛の妹ネティ(ハリー・ベイリー)とも生き別れてしまう。やがて、セリー(ファンテイジア・バリーノ)は自立した強い女性ソフィア(ダニエル・ブルックス)と、歌手になる夢を叶えたシュグ(タラジ・P・ヘンソン)と出会う。彼女たちの生き方に心を動かされたセリーは、少しずつ自分を愛し未来を変えていこうとする。 そして遂に、セリーは家を出る決意をし、運命が大きく動き出す──。(公式サイトのあらすじに一部加筆)

 

物語の中身とラストに触れますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

実は僕は1985年(日本公開は86年)のスピルバーグ監督の映画は観ていなくて(クインシー・ジョーンズによるテーマ曲はよく覚えているんですが)、原作も読んでいないからこの作品には今回のミュージカル映画版で初めて触れることに。

 

 

 

スピルバーグ監督は今回の作品では製作を担当しています。

 

また、85年版の主演だったウーピー・ゴールドバーグさんが、今回はお産婆さん役で出演されてましたね。

 

スピルバーグ監督の85年版は、僕は長年あまりうまくいかなかった作品だと思い込んでいたんですが、あの映画を好きだというかたは結構いらっしゃるようで、観てもいないのに勝手に決めつけたらダメだなぁ、と反省。

 

ともかく、去年にこのミュージカル版の存在を知ってから楽しみにしていました。

 

ミュージカル版は上映時間が141分あるけれど、85年版は154分だったんですね。それは大作だ。

 

1909年から1947年までの40年近い年月に渡る物語。

 

実話をもとにしたわけではないようだけど(ごめんなさい、原作未読のため、そのあたりのところをよく知らなくて)、黒人の作家でフェミニストでもあるという原作者が先祖が受けてきた差別や女性としての自らの経験などを物語の中に込めて描いたんだろう、と想像。

 

観る前から、ただ楽しくて賑やかな作品ではないのだろうとは予想していましたが、黒人差別を描いているのだと思っていたら、同じ黒人の中での男性たちからの女性に対する暴力や搾取などについての映画だった。

 

僕がまず連想したのは、去年観た『ウーマン・トーキング 私たちの選択』でした。

 

あの映画の公開時に『カラーパープル』について触れられた感想を読んだ記憶も。

 

これは、自分を虐げる男たちのいる場所から飛び出していく、という展開が確かに『ウーマン・トーキング』と共通しているし、自分は無力だと思い込まされていた女性が「自分には力があるし、私は美しいんだ」と声をあげる物語、ということでは、ガスライティングを題材にしたいくつもの映画が思い浮かぶ。

 

つまり、白人でも黒人でも変わりなく、男性からの暴力の問題はあるわけだけど、ただ、黒人女性の置かれた立場というのは白人の女性よりもさらに苛酷なものであることが、現実の諸々の問題を見てみればよくわかる。

 

劇中で、家族と一緒に出かけていたソフィア(ダニエル・ブルックス)が白人の女性から「私のメイドにならない?」と声をかけられるシーンなど、逆のパターンはありえないでしょう。

 

見ず知らずの人に対して、いきなり「子どもがたくさんいるから私のメイドにはもってこい」などと発言することがいかに非常識な行為か。

 

そして、いくら断わってもほとんど命令のような口調でしつこく声をかけてくるその白人の市長夫人(エリザベス・マーヴェル)に「まっぴら御免だ (Hell No!)」と答えたためにソフィアは白人の男に殴りつけられ、反撃すると白人たちから袋叩きにされて牢屋にぶち込まれる。

 

彼女の恋人でボクサーの“バスター”ヘンリー(スティーヴン・ヒル)が我が身を挺してソフィアを守ることはなく、彼がその後、獄中のソフィアに会いにくることもなかった。

 

 

 

 

 

 

ソフィアは態度も体型も豪快な女性だけれど、「自己主張する女性」であっても黒人であるためにより多くのハンデを負うことになる。

 

これがエマ・ストーンみたいな美人の白人女性だったら『クルエラ』や『哀れなるものたち』のようになるわけで。最初から特権があるんだよね。

 

つまり、同じ女性の中でも序列、ヒエラルキーがある。

 

エマ・ストーンは黒人差別に反対する女性を演じた『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』では、あくまでも白人女性の立場から黒人差別に物申していて、そのため白人の作り手たちによるあの映画自体に特にアフリカ系の人たちから疑問が投げかけられていた。

 

バービー』がそうであるように、そして『ウーマン・トーキング』、あるいは『グロリアス 世界を動かした女たち』がそうだったように、白人の女性たちには彼女たちの闘いがあったし、そこで達成されたもの、獲得されたものが現在肌の色を越えて共有されてもいるのだから、けっしてその努力を腐すつもりはないですが、白人女性にとっては当然の権利がそれ以外の女性たちにはまだ手にできていないということは多々ある。

 

ただし一方では、例えば去年、若い黒人女性が地下鉄の中でアジア系の女性に暴力を振るった事件が報じられたり、アフリカ系の女性が被害者だけではなくて加害者になることもあるので、結局のところ暴力は弱い立場にある人々に向けられるということ。

 

『カラーパープル』では長年の黒人女性の艱難辛苦が描かれるけれど、それは白人による黒人への差別や暴力と変わらない。

 

19世紀に奴隷として白人の農場で働かされた黒人男性を描いた『それでも夜は明ける』で、白人の男性農園主が奴隷の黒人女性に行なった性暴力と、まったく同じことを『カラーパープル』では黒人男性が黒人女性に対してやっている。

 

 

 

父親(実の父親ではなかったのだが)が娘・セリーをレイプして、その結果生まれた赤ちゃんを他人に売り渡す。この男は、教師にするつもりでいた次女・ネティにも手を出していた。

 

また、セリーがその父親に無理やり結婚させられた“ミスター”は、助けを求めてやってきた妻の妹をこれもレイプしようとして、拒まれると「この恩知らずが!」と荷物ごと家から放り出す。銃を撃ちながら「戻ってきたら姉妹ともども殺す」と言って。

 

こいつら異常者じゃねぇか…と思ってしまうけれど、そういうことを黒人に限らずいろんな肌の「男たち」はやってきた。

 

これはもはや「なぜ男は暴力を振るうのか」という根本的な問題になるんだけれど、腕力や金、地位や名声などがあれば男性じゃなくても人は人に暴力を振るったり酷い仕打ちをすることは、某歌劇団での事件を見てもわかる。単に世の中で腕力を持っているのは圧倒的に男性たちだし、金や地位もそうだというだけ。

 

ここで男たち(もちろん、一部の、ですが)は女性だったら誰でも構わず、ではなくて相手を選んで性加害を行なっている(タイムリーな話題ですね)ことに注目すべき。

 

『カラーパープル』でセリーとネティの姉妹を父親やセリーの結婚相手である自称“ミスター”ことアルバートが襲ったのも、彼女たちが弱い立場だから。

 

アルバートを演じているコールマン・ドミンゴさんは、アーンジャニュー・エリスさんも出演していた『ビール・ストリートの恋人たち』では娘を大事にする父親役だったのが、今回は世の中のクズを代表するような男の役で、アルバートは一見するといつも楽器を奏でていて明るくユーモアのあるような人物なんだけど、実際の彼はいろいろと劣等感を抱えており特に女性に対しては容赦なく暴力を振るう。

 

 

 

妻を文字通り奴隷のようにしか見ていない。結婚とは名ばかりで、彼はセリーの父親から彼女を奴隷のように「買った」のだ。モノとして所有しているつもりだったんだろう。

 

アルバートの女性に対する言動は、彼の父親譲りであることがわかる。このオヤジにしてこのせがれ。

 

そうやって男たちは女性蔑視と彼女たちへの暴力を受け継ぎ、繰り返してきた。

 

アルバートの老いた父親を演じていたのが『愛と青春の旅だち』でリチャード・ギアをシゴいたり、『アイアン・イーグル』の「チャッピー!!」でおなじみのルイス・ゴセット・Jr.というのがまた意図的なものを感じさせる。

 

ここで描かれているのは「有害な男らしさ」だから。

 

女性の場合だと通常の暴力にさらに性加害が重なるんだけど、自分の「力」を相手とまわりに知らしめるために暴力を振るう、ということでは相手が男性でも同じ。

 

ウィル・スミスが主演した『ドリームプラン』(妻役でアーンジャニュー・エリスがここでも出演)でスミス演じるテニス選手のヴィーナス&セリーナのウィリアムズ姉妹の父で自称“キング・リチャード”が、子どもの頃にお使いを言いつかって出かけたが白人たちに寄ってたかって暴力を振るわれた時に、それを見た彼の父親が息子を助けずにそそくさと自分だけ逃げた経験を語っていた。普段は家族の中で威張っている父親が、いざという時にいかに頼りなくて不甲斐なかったか。

 

でも、そのウィル・スミス本人はその後、アカデミー賞の壇上で自分の妻をネタにして公衆の面前で茶化してみせたコメディアンの横っ面をひっぱたいて顰蹙を買っている。

 

あの事件を「妻を守った男らしい行動」としてインタヴューで「キュンとした」とか言ってる日本の女性がいたけど、あれは妻を守ったんじゃなくて、自分よりも格下だと思っている相手の男性にマウントをとったんだよね。

 

もしも、あれが黒人のクリス・ロックじゃなくて白人の男性だったら、果たしてウィル・スミスは同じことをやっただろうか。

 

『カラーパープル』の父親や夫が娘や妻の妹を襲ったのも、反撃されない、自分が痛い目を見ることがない相手だと思っているから。相手を見下しているから、そういうことを平然とした。

 

“キング”とか“ミスター”とか名乗って、自分のことを偉く大きく見せようとする、という行動原理は呆れるほどワンパターンだ。

 

一方で、コーリー・ホーキンズ(『イン・ザ・ハイツ』)演じるソフィアの夫・ハーポは、妻の尻に敷かれて、まだ夫婦であるにもかかわらず彼女に別の男を作られてしまう。理由はわからないけれど、ハーポは彼自身は頼りなさげなくせに妻が自分の言うことを素直に聞くことを望んでいたので、父のアルバートから吹き込まれてきた「有害な男らしさ」を発揮しようとしてソフィアに愛想を尽かされたんじゃないだろうか。

 

 

 

そんなハーポも、ソフィア以外の女性・メアリー(ハーポから“スクィーク (squeak)”と呼ばれると腹を立てる。演じるのはH.E.R.)とあっちゃりくっついている。

 

でも、ソフィアに対してずっと心残りがあって、二人の女性の間で何やらフニャフニャと煮え切らない態度をとり続ける。

 

この映画には「理想的な男性」が一人も出てこない。

 

エイヴリー牧師(デヴィッド・アラン・グリア)は娘のシュグ(タラジ・P・ヘンソン)がブルース歌手になったことを受け入れられずにいる。

 

頑なだったりサイテーな男たちに変化をもたらすのは女性たちなんだよね。

 

セリーと、離ればなれになった妹・ネティとの間の姉妹愛。それが「希望」として描かれている。

 

 

 

ソフィアやシュグとの友情も(シュグとはベッドもともにします^o^)。

 

 

 

 

宣教師夫妻と一緒に祖先の故郷であるアフリカに渡ったネティ(シアラ)の存在は、けっして諦めない、希望を捨てない、というセリーへの大いなる励ましであったと同時に、この映画を観る多くの女性たちへの応援歌でもあるんじゃないか。

 

少女時代のネティ役のハリー・ベイリーさんは、実写版『リトル・マーメイド』でいろいろとヒドいことも言われたけれど、ここでもやっぱりキュートでした。彼女の歌もよかったし。

 

 

 

シュグ役のタラジ・P・ヘンソンさんは『ドリーム』ではNASAで活躍した計算手の黒人女性を演じていて、あの映画でも人種差別に立ち向かっていましたが、『カラーパープル』では化粧したり綺麗な服を着たり、そして唄い踊ることの喜びをセリーに伝える、華やかな世界で生きる女性をゴージャスに演じていました。

 

 

 

終盤で1926年ぐらいからいきなり47年にまで飛ぶんで、かなり駆け足な気がしたし、正直なところ時代の移り変わりみたいなものはあまり伝わらなかったかなぁ。演じている俳優さんたちの加齢もあえての演出なのか、そんなに感じられなかったし。40年近く経ってるんですが(爺さんとか、生きてないでしょ)。原作はきっともっとずっと長いんでしょうね。

 

ツラい場面もあるんだけど、それはミュージカルにしたことで観ていて落ち込み過ぎないようにはなっていて、劇中での彼女たちの歌とダンスは、暴力になんか負けないんだ、という世界中の女性たちの叫びに思えたのでした。

 

最後に生き別れになっていた我が子たちと再会できるくだりとか(このあたり、実はあまりに歌が耳に心地良過ぎて少しウトウトしていたせいで、なぜあの二人がネティと合流できたのかよくわかんなかったんですが^_^;)、アルバートが反省してセリーと和解したり、牧師も娘を受け入れられたり、すべてがうまくいき過ぎなのではないか、とも思うんですが(原作の方を知らないので、そちらに忠実なのかどうかもわかりませんが)、でも、ああいう結末にしたのはこれも意図的なのだろうし、私たちが求めているのは間違いが正されたり、罪を犯した者がそれを悔い改めることなのだ、ということを言ってるんだろうから、あれでいいんでしょうね。

 

黒人たちは、どうしてこれまでにヒドい目に遭いながらも“神”を信じて賛美できるのだろう、と不思議だったんですが、あまりに苦しいからこそすがるものが必要なのだし、彼らの神への信仰は「けっして負けない、挫けない」ための自分自身への激励でもあるんじゃないだろうか。

 

シュグが、神は自然にも宿っている、というようなことを言うのが興味深かったんですよね。

 

本来、キリスト教の神はそういう自然崇拝だとか八百万の神みたいなものとは異なっていて、意志のある「唯一絶対神」のはずだから。

 

セリーが「私を愛しているのなら、どうして神は子どもたちを引き離すのか」と問うと、シュグは「それは人間の問題」と答える。

 

差別するのも、人に暴力を振るうのも、それは人間がやってること。

 

まぁ、確かにその通りだ。

 

自然災害のように、なぜ?どうして?と天に向かって問わずにはいられないようなこともあるけれど、多くの問題は人間自身が起こしている。

 

僕がこの映画から受け取ったのは神がどうとかいうことよりも、彼女たちが「私は美しい」と唄っていたように、たとえ誰がどんなヒドいことを言ってこようがやってこようが、まずは自分自身を愛そう、ということでした。

 

私は私を肯定して愛する、という宣言。

 

それができたら、自分以外の人のことも愛せる。

 

憎しみを植え付けられたり、人を見下し虐待して憂さを晴らすようなことを自分に許してしまったら、アルフォンソやアルバートのようになってしまう。

 

それはすべての差別や戦争などに対しても言えることでしょう。

 

唄って踊ることは「喜び」だ。暴力は必要ない。

 

 

 

 

 

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