クレイグ・ガレスピー監督、エマ・ストーン、エマ・トンプソン、ジョエル・フライ、ポール・ウォルター・ハウザー、エミリー・ビーチャム、ティッパー・ セイファート=クリーヴランド (Tipper Seifert-Cleveland)、カービー・ハウエル=バプティスト、ジョン・マクリー、ジェイミー・デメトリウ、マーク・ストロングほか出演の『クルエラ』。
1970年代のロンドン。問題児扱いされて学校を退学させられた少女エステラ(ティッパー・ セイファート=クリーヴランド)は、母のキャサリン(エミリー・ビーチャム)に連れられてパーティが行なわれている高名なファッション・デザイナーのバロネス・フォン・ヘルマン(エマ・トンプソン)の屋敷に行く。しかし、そこでキャサリンは高所から落ちて亡くなりエステラは天涯孤独の身となる。成長したエステラ(エマ・ストーン)は、仲間のジャスパー(ジョエル・フライ)とホーレス(ポール・ウォルター・ハウザー)、愛犬たちとともにいっぱしのスリ師になっていたが、やがて“就労”先のブティックでオーナーのバロネスに見出されてファッション・デザイナーの道を歩むことになる。
字幕版を鑑賞。
『アイ, トーニャ 史上最大のスキャンダル』のクレイグ・ガレスピー監督とエマ・ストーンが組んだ、往年のディズニーアニメーション映画『101匹わんちゃん(101匹わんちゃん大行進)』のヴィラン(悪役)、クルエラ・ド・ヴィルの若かりし日を描いた作品。
実のところ、僕は『101匹わんちゃん』をちゃんと観たことがなくて断片的なイメージしか記憶になく、だからディズニー・ヴィランとして有名なクルエラのこともよく知らないんですよね。映画の内容も頭の中で『わんわん物語』とゴッチャになってるし。
グレン・クローズがクルエラを演じた実写映画『101』『102』も未見。
そういえば、オリジナル版のクルエラって研ナオコにそっくりだなぁ、と思ってたら、最近ご本人がコスプレしていたw
ほぼ本人
…そんなわけで、クルエラというキャラクターそのものにはまったく思い入れはないんだけど、ただ、90年代に“冬季オリンピックのスケートリンクのヒール(悪役)”として有名になったフィギュアスケーターを描いた『アイ, トーニャ』(今じゃオリンピック自体が“ヒール”になっちゃってるのがなんとも皮肉ですが)は面白かったし、“あのエマ・ストーン”が満を持してディズニー映画に出演、しかも悪役を演じるということで大いに興味をそそられました。
以前からエマ・ストーンって絶対悪役がハマると思ってたから。低めのハスキーヴォイスが魅力のエマ・ストーンだけど、実はこれまで悪役を演じたことはないんですよね。
同じくディズニー・ヴィランを主人公にした『マレフィセント』もそうだったように、誰も共感できないモノホンの悪人として描かれることはないだろうと予想していたし、ちょうど『アイ, トーニャ』の主演のマーゴット・ロビーが演じた“ハーレイ・クイン”みたいなアンチヒーロー、見た目はワルっぽいけど憎めないキャラなんだろうな、と。
まぁ、だいたいその通りだったし、つまり「やりたいことやるぜ♪」な型破りな女性キャラクターなんですね。その姿は見ていて気持ちがいいし、これまでいろんな映画に登場してきた女性のヴィランを思い出す。
仮面をつけて素顔を隠して活動するところなんかはキャットウーマンみたいだし(普段は眼鏡をかけていて、本名のエステラと“変装後”のクルエラという二つの人格を持ってるっぽいのもよく似ている)、少女の頃にちょこまかと動き回る様子は『キック・アス』のヒット・ガールみたいだった。『キック・アス』で悪役を演じてたマーク・ストロングも出てますし。今回はイイ人の役ですが。
少女時代のエステラがとってもキュート
オリジナルのアニメ版での女ボスと痩せっぽちと太っちょの子分の男たちの三人組は、おそらく「タイムボカン」シリーズの悪玉トリオの元ネタなんだろうけど(『クルエラ』でのクルエラのコスプレっぷりはちょっとドロンジョ様っぽいし)、この映画の中ではクルエラと2人の男たちは一応対等な関係。
ポール・ウォルター・ハウザー (左) がトンズラー役。関西弁ではなくロンドン訛りで喋る
この3人の関係性がちょっと無理を感じさせるところがあるし、後述するように誰にでもお薦めかというと必ずしもそうではないのだけれど、それでもきっとこの映画にハマる人もいるだろうと思う。
ところが、この『クルエラ』はちょっと前に公開されたディズニーアニメ『ラーヤと龍の王国』と同様にディズニープラスで同時配信されていて、そのためほとんどの大手シネコンで上映されておらず、僕が住んでる地域ではイオンシネマでやってるだけ。しかも字幕版は一日に1回のみの上映。
いろいろと事情があるのは察しますが、でもほんとに納得いかないなぁ。この規模の映画がわずかな館数でしかやってないって、なんかもう、ディズニーは自ら率先して映画の興行システムを破壊しにかかってるようだ。
公開開始の翌日に観ましたが、会場のお客さんはカップルが何組かと女性のお一人様が何人かいたぐらいで少々寂しかった。まぁ、このご時世ですから混雑なんてしてない方がありがたいけど。
その数少ない映画館でさえこんな少人数の集客なんだから、残念なことこの上ない。皆さん、映画館じゃなくてネット動画で観てるのかな。もったいないなぁ。
気を取り直して感想を書いていきますが、まずこれはここ何年間か公開されてきたディズニーアニメのいわゆる実写化リメイク作品群とはちょっと趣きを異にしていて、魔法の類いは出てこないし、ファンタジー映画と呼べるほど空想的な場面もないし、男女の恋愛の要素もない、しかも上映時間が134分あるということで(※…って、実写版『美女と野獣』は130分だし『アラジン』は128分あるんですが。えっ、そんなに長かったっけ^_^;)、ディズニーのアニメをもとにした映画としてはわりと異例尽くしな作品だと思うんですよね。
そこで好みも分かれるんではないかと。
これはもう、ただひたすらエマ・ストーンを堪能する映画(^o^)
『マレフィセント』との違いは、あの映画でアンジェリーナ・ジョリーが演じた主人公が最終的に“正義の味方”になるのに対して、この映画でクルエラは別に善玉=ヒーローにはならないこと。彼女は誰かを救うわけではないし、平和のために戦いもしない。基本的には「自分」のために、「自分がなりたいもの」になる、というだけの話。
ド派手な衣裳に身を包み、大勢の人々の前に姿を現わして騒ぎを巻き起こしはするものの、クルエラは別に魔女でもなければ悪人でもない。やってることはせいぜいスリ。
…あれ?ヴィラン(悪役)の話じゃないの?って思うけど、そう、これ「看板に偽りあり」で、少なくともこの映画でのクルエラさんは“悪役”じゃないし、では何かをきっかけにして彼女は「悪」に堕ちていくのかといったら、それも映画を最後まで観ていればわかるけど、別に彼女はダークサイドに転じることはないんですよ。エステラが少女時代から抱えていた問題は最後に解決されるんだから。これは“母”のデカい屋敷を我が物にして“ド(デ)・ヴィル (De Vil)”を名乗る、ファッション界の若き天才の誕生譚なんだよな。
これをバットマンの宿敵ジョーカーの誕生を描いた『ジョーカー』の女性版、みたいに言ってる人もいて、確かに両者には共通する部分(“本当の自分”になる物語)もあるんですが、でも『クルエラ』には『ジョーカー』のような悲壮感や世界への呪詛、暴力性は希薄で、だからこそ楽しめるところと物足りないところの両方がある。良くも悪くもディズニー作品の範疇に収まっている。
ただし、親子の関係について触れているのは『ジョーカー』と重なるし、「才能」、「性格・気質」…など何を「受け継ぐ」のか、という問題を扱っていることでも2本の映画には共通点がある。
クルエラが炎に囲まれるシーンでは「Smile」が流れる。なのでこの映画が女性版『ジョーカー』と呼ばれるのもわかるし、作り手も意識していたんでしょう。
深く掘り下げると結構やっかいなことを描いてもいるんですね。
もちろん、単純にエマ・ストーンのファッション・ショーを楽しむつもりで観たって全然構わないと思いますが。
観る前は、僕はこの映画がミュージカルなのかどうか気になっていたんですが、結局そうではなかったのはハッキリと残念でした。
エマ・ストーンのファッション・ショーは退屈しなかったし、彼女の“悪女”っぽい演技も見ていて小気味よくて楽しかったけど、もしもこの映画がミュージカルとして作られていたらもっと好きになっただろうし、さらに幅広い客層にも受け入れられただろうと思う。ファッション業界を描いているんだから歌やダンスが入るのは自然だし、もとのアニメでも唄っていたのだから。
コロナ禍の真っ只中でミュージカルを作るのはリスキーだった、とかいう理由でもあるのかなぁ。
さて、先ほど「エマ・ストーンを堪能する映画」と呼んだけど、この映画ってエマ・ストーンの女優人生を重ねることもできると思うんですよね。
エステラはもともと黒と白に色が分かれた髪をしていたんだけど、人々の中で自分の個性を抑えてまわりに溶け込むために赤毛に染める。
エマ・ストーンも女優の仕事を始めた初期の頃は地毛のブロンドを赤毛に染めていた。
だから、ようやく仕事を見つけたもののトイレ掃除とゴミ出ししかさせてもらえず自分の才能を発揮できずにいたエステラが、やがてバロネスにそのデザインセンスを認められて彼女の下で働くことになる展開は、演じるエマ・ストーン本人の人生を映画化したようにも思える。それを言えば『ラ・ラ・ランド』だって似たようなサクセス・ストーリーだったわけですが。
では、これ以降はネタバレを含みますので、どうぞ映画をご覧になったあとでお読みいただきますように。映画館に行かれないかたは、ディズニープラスで観られますし。
何になるかは自分自身で決める、という主人公をエマ・ストーンが演じる“サクセス・ストーリー”として彼女の七変化やくるくる変わる顔の表情などを楽しんで観ていられる一方で、ストーリーそのものは意外な展開があるようなものではなくて、観客にとってはことの真相が予測できたりすでに知っていることにあとから主人公が気づいていく、という作劇なので、少々じれったさも感じた。
つまり、長年エステラは母キャサリンを死なせてしまったのは自分の落ち度だったと思っていたのがそうではなかった、と終盤になってようやく気づくんだけど、それは映画の序盤ですでに観客は知っているので、わかりきったことをずーっと引っ張ってる感じで、ぶっちゃけこのシナリオは全然巧くないのではないか、と。
エステラがクルエラに変化するきっかけもすごく唐突に思えたし。
少女時代のエステラは、意地悪をしてくる男子たちと殴り合って学長から退学させられるような気の強さを持ち合わせてはいるけれど、素直で母を愛する「イイ子」として描かれていて、そもそもちっとも悪くなんかないんですよね。
これはハッキリ言わせてもらうけど、素行が悪い奴は小学生や幼稚園児の時から悪いですよ。それが生まれ持った性格のせいなのか、それとも家庭環境のせいなのか、その理由は知りませんが。
だから、エステラは別に悪い子ではないし、それは成長したあとでもそんなに変わりはないはず。
だけど、エステラは母を失ってたった独りきりになった自分に声をかけて仲間にしてくれたジャスパーとホーレスを、だんだん手下扱いするようになっていく。
そのあたりの飛躍が、ちょっと僕は納得いかなかったんですよね。
ジャスパーとホーレスもエステラの変化に不満を言ってて、やがて彼女を見捨てそうにもなるんだけど、エステラが彼らを「家族」だと思っている、と反省の言葉を述べるとあっさり許して、結局は彼女の言いなりの手下みたいな状態になっちゃう。
ちょっと「家族」という言葉を安易に使い過ぎじゃないでしょうか。
表向きは2人の仲間はエステラと対等ということになっているんだけど、それはただ誤魔化されてるだけに見える。だったらこんな誤魔化しなんかせずに最初から女ボスと2人の子分という関係にすりゃいいじゃないか。エマ・ストーンの子分になれるんならポール・ウォルター・ハウザーも本望だろ(^o^)
ジャスパーとホーレスがただエステラのために尽くすだけじゃなくて、逆に彼女が2人の仲間のために何か行動する場面が必要だったんじゃないかなぁ。それでこそ彼ら3人は互いにフィフティ・フィフティの関係になれるのだろうから。
…で、映画の後半では母の仇であるバロネスにいかに復讐するか、という展開になっていくんだけど、さらに殺された母キャサリンはエステラの実の母ではなく、彼女はバロネスの身のまわりの世話をする仕事をしていたことが判明する。
エステラの実の母はバロネスだった。
自分を愛してくれた母は本当は血の繋がらない他人で、天才的なデザインの才能を持ちながら非情で人としては最低な、おまけにかつて産まれたばかりの実の娘を殺そうとまでした女がエステラの母親だった。エステラの才能はその母から受け継いだものだった。
…エステラはバロネスのことを「サイコ」と呼ぶんだけど、ファッション・デザイナーの世界を描いた華やかなお話かと思ってたら、ずいぶんと暗い話なんだよね。
僕はこの映画を観ながら、途中で「これは一体何を描こうとしている作品なんだろう」と、ちょっとよくわかんなくなったんですよ。
エマ・トンプソンが演じるバロネス(女男爵)は、自分以外のすべての人間を見下していて、才能ある者からそのデザインを奪うことになんの躊躇もなかったりと、誇張されてはいても、「競争に勝つためには他人のことなど考えていられない」というものの考え方にリアリティを感じる。こういう人、世の中にいるでしょう。
エマ・トンプソンは『ウォルト・ディズニーの約束』の頑固な作家から、今度は“ヴィラン”に
そういう人物の血を自分は受け継いでいるのだ、という、まるで親子の血の繋がりを突き放すような展開には面白さも感じたんですが、エステラが自分の娘だと知ったバロネスが手を組もうと誘って断わられて、バカの一つ覚えみたいに昔キャサリンを突き落として殺した同じ場所でエステラを殺そうとするくだりとその結果の陳腐さには、「なんだ、このやっすい2時間サスペンスドラマみたいなのは」と呆れてしまった。
とても134分もかけて語る内容じゃないと思った。
だけど、こんな内容でもミュージカルだったらそんなに引っかからなかったかもしれないんだよね。つくづく惜しいなぁ。主人公が夢を追う過程で母親の死の真相や主人公の出生の秘密も絡んでくる、ミュージカル向きの題材だと思うから。
バロネスの裏をかいて生き残ったエステラが、あらためて“クルエラ”として生きることにした理由がよくわからなかった。
以前、自分の欲求のために仲間を子分のように扱ったエステラは、まるでバロネスのようだった。
彼女は反省して実の母とは違う生き方をすることにしたんじゃないのだろうか。ジャスパーとホーレスが好きだったのはエステラだったはずだけど、そこであえて“クルエラ”を名乗ることにしたのはなぜか。今や無人となったバロネス・フォン・ヘルマンの家の「HELLMAN HALL」の看板の「MAN」を壊して「HELL HALL」にして(『バットマン リターンズ』でのキャットウーマンを思わせる)そこに住むことにしたり、かつての同級生やピアニストになったバロネスの元弁護士にダルメシアンを贈ったことにはどういう意味があるのか。
「ヴィラン誕生」と謳われているけれど、『マレフィセント』がそうだったように、これは善悪のキャラクターをひっくり返して逆に描いたものだよね。
だって、この映画でのダルメシアンたちは(犬笛で操られていたとはいえ)エステラの育ての母だったキャサリンを殺してるんだもの。101匹わんちゃんの仲間、完全に悪役じゃん。
じゃあ、クルエラはその母の仇である犬たちを殺してコートにすることにしたんでしょうかね(キャサリンを殺したダルメシアンたちに仕返しする機会はあったのに、劇中で彼らに手は出していないのだが)?でも、エステラはダルメシアンを贈った2人にはなんの恨みもないはず。
見方によってはひどく殺伐とした話にも思えてくる(;^_^A
早くも続篇の制作が決定したということだけど、元祖「101匹わんちゃん」とはずいぶんと違う話になりそうですね。
『101匹わんちゃん』って1961年の作品で、初公開されたのはもう60年も前なんですよね。
『クルエラ』の舞台は70年代なので、そしたらお話が繋がらなくなっちゃいますが、これまた『マレフィセント』がそうだったように、この実写版前日譚はアニメ版とはまったくの別物として観るべきなんでしょう。
血の繋がった母親を警察に逮捕させる娘。実の母親だろうが許してはならないことは許さない。「家族」や「親子」の関係の修復と「寛容」の大切さを描いた朝ドラ「おちょやん」に真っ向から対抗するようなお話でした。
「おちょやん」は主人公が役者として生きていくお話だったけど、『クルエラ』もまた主人公クルエラが夢を追ってファッション・デザイナーになる物語だった。彼女はなりたい自分になる。
劇中で「叫びを聞け」という言葉が発せられるけど、それは僕にはまるで「あたしはヴィラン(悪役)なんかじゃない!」というクルエラの叫びに思えたのでした。
※第94回アカデミー賞衣裳デザイン賞受賞。
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