ガイ・リッチー監督、メナ・マスード、ナオミ・スコット、ウィル・スミス、マーワン・ケンザリ、アラン・テュディック(声の出演)、ナヴィド・ネガーバン、ナシム・ペドラド、ヌーマン・アチャルほか出演の『アラジン』。
砂漠の中の国アグラバーで相棒の猿アブーとともにコソ泥をやって生活しているアラジン(メナ・マスード)は、サルタン(王)の娘ジャスミン(ナオミ・スコット)と出会う。アブーが盗んだジャスミンの腕輪を返そうと王宮に忍び込んだアラジンは国務大臣のジャファー(マーワン・ケンザリ)に捕らえられる。ジャファーはアラジンを使って洞窟から「魔法のランプ」を手に入れようとする。魔法のランプの中には“ご主人様”の3つの願いを叶えてくれる魔人ジーニー(ウィル・スミス)が封じ込められていた。
内容について述べますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。
『シンデレラ』や『美女と野獣』など、ここ最近続々と作られているディズニーの往年の名作の実写化リメイクですが、今年はすでにティム・バートン監督の『ダンボ』が公開済みだし、早くも8月にはジョン・ファヴロー監督による『ライオン・キング』が控えている。10月にはアンジェリーナ・ジョリー主演の『マレフィセント』の続篇。
アニメの実写化ではないけれど、1964年の『メリー・ポピンズ』の続篇も公開されました。
さらにアニメの方でも今月にはピクサーの『トイ・ストーリー4』、11月にはディズニーの『アナと雪の女王2』が公開される。
なんと、今年はディズニーもピクサーもオリジナル作品が1本もないんですよね。すべて実写化リメイクか続篇。
これはさすがに異常な状態で、このような興行が今後も続くのであれば問題があると思う。
すでにこれから作られる予定のディズニーアニメの実写版のラインナップも挙がってきてるし。
だからこの『アラジン』も公開前はそんなに気乗りしなかったんです。いや、『シンデレラ』も『美女と野獣』もよかったけど、いくらなんでもリメイクし過ぎでしょ。オリジナル作品の方をもっと頑張って作ってよ、と。
一番最初に『アラジン』の予告篇が流れた時には世界中の人々が「青いウィル・スミス」に仰天したし、「悪い予感しかしない」と言ってる人もいた。正直、僕もそうでした。やらかしちゃってるんじゃないか、と^_^;
だけど、蓋を開けてみるとこれが大ヒット。懸念だったランプの魔人ジーニー役のウィル・スミスも評判がいい。
アニメ版はつい先日も地上波で放映されましたが、僕は何年か前にDVDで観返していて、その時感じた疑問がこの実写版ではどのように解消されているのか、あるいは変わっていないのか確かめたかったから公開されてまもなく観にいってきました。
これまでに通常サイズのスクリーンで字幕版を2回鑑賞。
ウィル・スミスは『メン・イン・ブラック』や『ワイルド・ワイルド・ウエスト』などでも主題歌を唄ってたけど、久々に彼の歌声を聴いた気がする。
お馴染みアラン・メンケン作曲の歌が観客をアラビアンナイトの世界へいざなってくれる。
ちなみにアニメ版とこの映画の元ネタである「アラジンと魔法のランプ」、あるいはそれ以外でも「アリババと40人の盗賊」や「シンドバッドの冒険」など、僕たちが子どもの頃から親しんできた「アラビア」を舞台にした有名な物語がどれも実は「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」の原典にはなくて西洋に紹介された時に付け加えられたものだということを知って、なかなか衝撃だったんですが。
だって、僕はこの3つ以外のアラビアンナイトの話を知らないもの。
ディズニーの『アラジン』の舞台となる王国アグラバーはもちろん架空の国だけど、そもそもがアラビアンナイトとは関係がないお話だったとは。映画ではそこが中東だとは一言も言ってないんだけど、まぁ、登場人物たちの名前や服装とかサルタン(国王)という称号、先ほどの冒頭の曲「アラビアンナイト」などからも中東が舞台と考えられる。
僕は今回この実写版『アラジン』の1回目の鑑賞前にインド映画『パドマーワト 女神の誕生』を観たんですが、そちらには実在したイスラム教国が登場して、サルタン(スルターン)が主人公の敵として出てきていました。
劇映画だから当然デフォルメされたり史実と異なる描写もあるんだけど、リアル中東(『パドマーワト』の原作はイスラムの詩人が16世紀に書いたもの)と西洋人が考えた空想の中東が描かれた映画を同じ日に続けて観られたのはなかなか面白かったです。
『パドマーワト』と『アラジン』の大きな違いは、女性の描き方。
『パドマーワト』ではヒロインや女性たちは男性のために踊るが、『アラジン』のジャスミン姫は自分自身の気持ちを唄う。
イスラム圏の女性は人前でおへそを出すことはないからか、この実写版のジャスミンはアニメ版のようにおへそは出していない。胸の谷間はしっかり強調してますが
実写版『アラジン』では新たに作曲されたジャスミンの歌があって、彼女は劇中でその歌を2度唄う。
一度は国務大臣のジャファーに侮辱されたあとに、その次はそのジャファーがジーニーの魔法を使ってジャスミンの父であるサルタン(『彼女が目覚めるその日まで』のナヴィド・ネガーバン)から権力を奪って国王になろうとした時に、彼女が衛兵の隊長ハキーム(ヌーマン・アチャル)の名を呼んでジャファーに従おうとする彼の目を覚まさせる場面。
それらは女性には自己主張する権利があることを訴え、またジャスミンには重大な局面で人を動かす力があることを証明している。本人の意思と能力があれば女性だって人々のリーダーになれるということ。
現実に女性のリーダーは存在するし当たり前のことのように思えるけど、でもジャスミンのようにやる気と実力があっても世の中のルールがそれを邪魔することも多い。だからこそ、彼女が唄う「スピーチレス~心の声」に多くの女性たちが心を動かされるんでしょう。
正直なところ、最初に聴いた時は力強い歌だとは感じつつもアナ雪のレリゴーにちょっと似てるなぁ、と思ってしまって。
曲のメロディそのものにそこまでグッとくることはなかった。
1回目の鑑賞時には、僕はどうしてもアニメ版との違いが気になっちゃって、確かにウィル・スミスのジーニーは愉快なんだけど彼がより目立つようになったせいで主人公であるはずのアラジンの存在感が薄くなっているように感じたし、お相手のジャスミンがアニメ版よりも気が強そうなこともあって、観終わったあとに「これはアラジンは絶対にジャスミンの尻に敷かれるなぁ」と思ったり(まぁ、尻に敷かれようが腰に巻かれようが、それでふたりが幸せなら人がとやかく言うことじゃないですが)。物語自体はアニメ版とそんなに違ってるわけじゃないのに、ジャスミンが能動的になった分、アラジンがだいぶ地味目なキャラクターになってしまったような印象。
いや、アクション場面はふんだんにあるし、アラジンが行動的なことには変わりはないんだけど。
猿のアブーのCG技術が素晴らしかったですね。昔の『ジュマンジ』の頃とは隔世の感が
またマーワン・ケンザリ演じるジャファーは悪役であるにもかかわらず、アニメ版の彼よりも迫力に欠けていてやけに小物に見える。
マーワン・ケンザリはこれもリメイク版の『オリエント急行殺人事件』で誠実そうな車掌を演じてた人で、いかにもな悪役というイメージじゃないし声もおっかなくない。予告で観た時からそのキャスティングには違和感があった。むしろ、サルタンに仕えるハキームを演じた俳優さんの方が恐そうでジャファー役に相応しいんじゃないかと思ったぐらい。
アニメ版と比べて、なんとなくバランスが悪いように感じられたんです。
だから最初は皆さんが褒めてるほどには出来がいいとは思わなかった。
ただ、それでも面白かったし、もう一回ぐらい観ておきたいと思って2度目の鑑賞をしたところ、1回目よりももっと楽しめて(アベンジャーズの法則)、満足度もさらにアップしたのでした。
1回目だって楽しんだんですけどね。
まだ公開が始まってそんなに経っていなかったこともあって平日の昼間なのにシネコンの上映会場はほぼ満席で、しかもほとんどが若い女性。女性同士で観にきているか男女のカップルばかりで、僕のようなむさ苦しいおっさんは他にまったくいませんでした。
『シンデレラ』の時もそうだったしある程度予想はしていたものの、ほんとに前後左右どこも女性ばかりでまるで女性専用車に紛れ込んだような状態。生きた心地がしませんでした。
両側の肘掛けも使わず両腕をグッと内側にたたみ込むようにしてリュックサックは両膝で力一杯挟んで、あまりドキドキし過ぎて汗をかくと臭うかもしれないから必死に平常心を保ち、両隣の女性たちに警戒されないようになるべく存在感を消して2時間余シートに腰を埋めていました。
…すっげぇ疲れた(;^_^A
でも、途中でウィル・スミスが面白いことを言うたびに左隣の女性が両手で口を押さえながら笑ってたり、率直に画面に反応してるのが微笑ましかった。
人が映画を楽しそうに観ている姿って、とてもいいですね。幸せな気分になる。
映画が終わって出ていく時に女性の一人が連れの女性に「ウィル・スミスがジーニーじゃなくてウィル・スミスだったよねw でもそれもいいよね」って笑いながら喋ってて、皆さん、ほんとに心から楽しんでるのが伝わってきました。次の週に観た2回目もそんな感じだった。
エンドクレジットの途中で帰りだす人もいればスマホの明かりをつけだす人もいるし、いかにも若い女性たちといった自由さ。若い女の人たちの中におっさんが独りでいるのは緊張感を強いられるしくたびれるから(ご迷惑でもあるだろうし)今後はできるだけ御免被りたいですが、この『アラジン』はヒロインのジャスミンの存在感が際立っているから、その姿と客席の女性たちが重なって、彼女たちが映画から元気をもらっているような、あるいは彼女たち自身の中にある元気や輝きと映画の中のヒロインが共鳴しているような、そんな印象があった。
みんな、ナオミ・スコットの歌声に聴き入ってる。
そして2回目に観た時にはアニメ版との違いを楽しむ余裕も出てきて、同じ物語の語り直し、実写版独自の視点に注目することで1回目の時以上にこの映画が好きになりました。
ジーニーやジャスミンと比べてアラジンの存在感が薄い、というのはどうしても気になるところではあるんだけれど、逆にジャスミンのキャラをもうちょっと立たせるためにあえて彼をおとなしめにした、と取れなくもない。
ジーニーがアニメ版よりも目立ってるのはしかたなくて、映画の冒頭と終わりにも登場して人間になった彼が妻や子どもたちとともにこの物語の語り手を務めることで、見方によってはジーニーが主人公のようにも見えるようになっている(エンドクレジットの名前も彼が一番上)。
パレードのシーンでジーニーのデカ過ぎるターバンに笑った
どうしてこのような構成にしたのかは知らないけれど、以前『グリーンブック』の公開時に「魔法の黒人 (Magical Negro)」(要するに、白人の主人公の助っ人を務める便利で都合のいい黒人キャラクター)の一覧の中にウィル・スミスのジーニーも入っていて(現在は削除されている)、映画の公開前はそこんところを危惧されていたんですが、ジーニーの出番が増えて彼の劇中での役割をさらに大きくすることで主にアフリカ系の人たちからの批判を回避する目的もあったのかな、なんて思ってしまった。
でもまぁ、そもそもジーニーは主人公のアラジンの“お助けキャラ”なわけで誰が演じたってご主人様に仕える魔人なんだし、ジーニーが劇中で大活躍してまるで主人公のような扱いを受けることがわかったら手のひらを返すように「魔法の黒人」認定は撤回、なんてのはどうなんだろうね。ちょっと調子良過ぎやしませんか。
この映画じゃ白人キャラはこれも新たに付け加えられたジャスミンの婿候補のアホっぽい王子(ビリー・マグヌッセン)だけで(このキャラも一部で批判されている)、アラジンを演じるメナ・マスードはエジプト出身だし、ジャスミン役のナオミ・スコットは母親がインド系。
ジーニーは立場上アラジンとはご主人様と召使いみたいな関係だけど実際には互いに対等で、ジャスミンに魅せられたアラジンが彼女と見事結ばれるよう協力するうちに二人は友人になる。
足をプラプラさせて恋バナに聞き入るジーニーは女子力高め
だから、そこまで神経質になることもないんじゃないだろうか。
この映画で彼も久々にスターとしてのオーラを取り戻したようだし、こんだけ愉快なウィル・スミスを見るのは『メン・イン・ブラック』以来かも(あ、2008年の『ハンコック』もあったな)。
そして、この映画のジャスミンは、2020年代のディズニープリンセス像を打ち出している。
僕はアニメ版の感想で、ジャスミンとアラジンは最後に普通の人として生きていけばいいのに、というようなことを書いたんですが、そしてそういう結末だって充分ありだとは思うんだけど、この映画では上を向いて進むヒロインを描こうとしていて、国王の娘であるジャスミンは自分もまたそのあとを継いで自ら国を治めたいと思っている。だけど法律によって国王は男でなければならないことになっている。彼女はそこに異を唱えるんですね。私にだって国王の務めを果たせるんだ、と。
アニメ版ではジャスミンが国王になるということをつっこんで描いてはいなかった。彼女がそれを望んでることすら触れられていなかったと思う。
だから、国のリーダーになろうとしている女性を描く時に相手の男性も押しが強いキャラだと互いにぶつかっちゃうから、アラジンの方を傍らで彼女を支えられるような性格にしたのかな。
ジャスミンにとって「自由」とは、理不尽なルールに縛られずに自分が進みたい道を進むこと、なりたい自分になること。
劇中でアラジンはジーニーの魔法で着飾って自分のことをアバブワ王国のアリ王子だと偽り、ジャスミンの方はアグラバーの街なかで出会ったアラジンに咄嗟に自分は王女様のお付きの侍女だと嘘をつく。王女や王子、国王といった権威や肩書きが重要なのではなくて、相応しい能力を持った者がその立場につくことが大事。
──これも当たり前のことだけど、僕たちが住む現実の世界では今その当たり前のことができていないからこそ、「私は黙らない」と唄うジャスミンの心の叫びは切実さを帯びてくる。
この実写版で新しく登場するジャスミンの侍女のダリア(ナシム・ペドラド)は、それまでアニメ版では動物しか友だちがいなかったヒロインが得た同じ人間の友人で、彼女とジャスミンの関係はちょうどジーニーとアラジンのそれと対になっていて、最後にはダリアは人間になったジーニーと結婚する。
この辺はかなり図式的でいかにも体よく「あてがった」という感じだけど、アラジンにとってのジーニーがそうだったように、ダリアはジャスミンとは性格の異なる親友で助言者でもあり、また一応高貴な身分でまだ羽目はハズせないジャスミンの代わりに感情表現豊かに振る舞い、そしてジャスミンとは違う人生を歩んでいく。
あるいはダリアとジーニーは、ジャスミンとアラジンの別の人格なのかもしれない。
先ほど僕は「普通の生活をすればいいのに」と述べましたが、結婚して子どもを作って…という「普通の生活」をダリアとジーニーたちが受け持つんですね。
ジャスミンとアラジンは「ふたりが結ばれる」という物語の結末は一緒でも、かつてのアニメ版とは違う関係性を築いていくのでしょう。
ジャファーが迫力に欠ける、と書いたけど、この実写版でのジャファーは若い頃はアラジンのようなコソ泥だったという設定で、だから野心に燃える彼の姿はやがてアラジンがなったかもしれないものだ。
アラジンはジーニーの忠告を無視して本当の自分の姿を隠してニセモノの“アリ王子”のままでいようとしたために、結果的にアグラバーを危機に陥れることになる。
アラジンとジャファーの違い、それは友人がいたかどうかということ。
ジャスミンにはダリアが、アラジンにはジーニーがいてくれたが、ジャファーに友だちはいない。ペットの“お喋りクソバード”イアーゴ(声:アラン・テュディック。この人もいろんな声をアテてるなぁ)は、いざという時にはご主人様を置いて逃げようとする。
常に「2番目」であることが我慢ならず、国王をはじめすべての人々を見下し自分の欲望のために利用するジャファーを諌めてくれる友はいない。たとえいたとしても、彼は誰の言葉にも耳を貸さないだろう。
実写版のジャファーが恐ろしいヴィラン(悪役)というよりも心に余裕のない小心者のように描かれていたのは狙いだったのかも。
『美女と野獣』の野獣とガストンの闘いが野獣に姿を変えられた王子の心の中の葛藤、自分自身との闘いのことだったように、クライマックスでのジーニーの魔法を巡るアラジンとジャファーの闘いは“アラジン”という一人の青年がまさに彼のその選択を試された瞬間なのだ、といえるでしょう。
ジャスミンがアラジンを“選んだ”のは、彼が正しい選択ができる人だということがわかったから。
正しい選択こそが本当の「自由」の扉を開ける鍵となる。正しい「願い」をすること。
これはとても大事なことを言ってる気がする。
自己主張したりリーダーになる女性を描いた映画はこれまでにもいっぱいあるけれど、ディズニーのおとぎ話映画でそれをやることに大きな意味があるのかもしれない。
世界中の人々、そして女の子たちが観るのだから。
ここで訴えられていることが多くの人たちに影響を与えもする。
ディズニーのおとぎ話の実写化映画も1本ごとに少しずつ進化している。
来年には『ムーラン』が実写化されるんだそうだけど、今度は女性の戦士が主人公。ジャスミンが蒔いた種はそこでどのような花を咲かせるのだろうか。
※追記:その後、『ムーラン』は新型コロナウイルス感染症の影響で劇場公開は中止。Disney+で2020年9月4日からネット配信された。
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