今月劇場で観た新作映画は8本、旧作は3本でした。

 

以下の寸評の中にはネタバレが含まれますので、ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

  ペルシャン・レッスン 戦場の教室

 

 

原作はヴォルフガング・コールハーゼの短篇小説「Erfindung einer Sprache」。

 

以前、Twitterでこの映画が紹介されていて興味を持ちました。よく足を運ぶミニシアターで上映されることを知って楽しみにしていました。

 

実際、見応えある作品でした。戦争中の収容所を舞台にしているのだけれど、最初からサスペンス含みのお話で、人と人との間の「権力」というものについて語っていて、これは僕たちにも大いに関係のあることを扱ってもいる。

 

 

 

 

なお、この映画は冒頭で「事実をもとにしている」というような字幕が出ますが、劇場パンフレットでの監督のインタヴューによると、原作は戦後すぐに著者が友人から聞いた話をもとにしているとのことで、事実がそのまま書かれているのではなくて脚色されているらしいし、映画の方も実在の人物の史実を描いているわけではない模様。

 

監督は、似たような話は数多くある、という言い方をしています。

 

ナチスの非道さや戦争の悲惨さを描いている、とは言えますが、僕はこれを日常の延長線上の話として見ました。ここで描かれているのは、僕たちの身近でも起こりうることだから。

 

僕はこの映画、まるでイソップ童話のような教訓が込められた話だな、と思いました。

 

ナチス親衛隊の制服を着た途端に抱く優越感や、制服が持つ「権威」(それは「暴力」によって守られている)をまるで自分自身の力や生まれながらの特権だと錯覚してしまう恐ろしさ。だが制服を脱げば、ただの人。制服を脱いだ時、その人物の本質が現われる。軍服を着ていなければ出てこなかったかもしれない横暴で冷酷な面。本人はそれを自覚していない。

 

 

 

 

ここで罪を犯すナチス関係者たちは、一方では「普通の人」だということ。つまり、この映画を観ている私たちもまた陥る危険がある罠だということだ。

 

人々に心の余裕がなくなっている今現在、私たちがくれぐれも心しなければならないことをこの映画は静かに、しかし強く訴えかけている。

 

看守のエルザを演じるレオニー・ベネシュは海外ドラマ「80日間世界一周」や木村拓哉も出演する「THE SWARM(ザ・スウォーム)」に出演しているそうだけど、僕はどちらも観る手段がないのが残念。どこか若い頃のジョディ・フォスターを思わせる目許が印象的だった。

 

 

 

 

コッホ大尉から雑な仕事ぶりをなじられてユダヤ人である主人公に自分の任務を取って代わられたことに怒り、無関係なユダヤ人女性の手を熱せられた鉄板で焼いて憂さを晴らしたり、ユダヤ人たちが苛酷な労働をさせられて強制収容所で殺されたりしている中で我関せずとばかりにイケメン兵長とイチャついているエルザは一見損な役回りだけど、彼女の存在そのものが人間の残酷さ、冷淡さと無関心ぶりを象徴しているようでもあった。日本の政治家にもいるじゃないですか、そういう人。

 

エルザが調子に乗って兵長のマックス(ヨナス・ナイ)を同僚から奪い、以前付き合っていた司令官(アレクサンダー・バイヤー)のアソコの大きさをマックスの前でからかったことをバラされて最前線に送られる様子はまるでコメディだ。

 

連合軍が攻めてくる直前にコッホ大尉の逃亡に気づいて司令官に報告するも、「兵長君は他にやることがないのかねぇ」と言われてしまうマックスも同様。彼は戦後、自分の犯した罪を隠してしれっと市民生活を続けたのだろうか。

 

ラース・アイディンガー演じるコッホ大尉は非常に興味深い人物で、制服の権威に守られた彼は戦争が終わったらイランのテヘランで料理店を開きたいと思っている。彼はもともと料理人だった。

 

だが、そんな彼はある時ナチスに入党した。さしたる理由もなくただ親衛隊に魅せられただけだった。思想的な何かがあるわけでも使命感に突き動かされたのでもなく、なんとなく彼は大尉にまで上り詰めた。

 

主人公のユダヤ人・ジル(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)をペルシャ人だと信じ込み、最後にはそれがすべてウソだったことを知るのだが、おそらくはコッホ自身、ジルがペルシャ人だと「信じたかった」んだろう。

 

だから、部下のマックスからいくらジルはユダヤ人だと言われても聞き入れず、一度はジルのミスで彼が嘘をついていたことに気づいて激昂し、強制労働の現場に送っても、わずかな希望にすがって再び彼をペルシャ人だと思い込もうとした。

 

自分がそう願えばいつかかなうのだ、と思っているところは人間として実に愚かだ。その幼稚な内面を制服で隠して、部下を怒鳴りつけたり褒美に与える缶詰で手なずけようとする。「ナチス親衛隊大尉」という地位、身分にあぐらをかいてそれを自分一人のために利用した。

 

結果的にジルを救ったにもかかわらず、自身は捕らわれてしまったコッホはちょっと気の毒にも思えるが、彼は映画の最初のジルと同じ立場になったのだ。

 

コッホの愚かさと弱さは、僕たち「普通の人々」が持っているものだ。

 

戦争がなければ、彼は無害な一介の料理人で生涯を終えていたかもしれない。だが、持つべきではない偽りの力を持ってしまった時、人は善人の仮面を外す。

 

この映画の“教訓”とは、コッホのあの振る舞いの中にある。

 

多くの人々に観ていただきたい作品です。

 

 

関連記事

『ありふれた教室』

 

 

 

 

  奈落のマイホーム

 

 

エンタメ作品として面白かったです。

 

これ、どうやって撮ったんだろ、ってド迫力なビルの倒壊、陥没シーンもあるし、劇場で観る意味が大いにあった。

 

映画が始まってからしばらく続くちょっとホームコメディっぽい流れには少々不安を感じさせられたんだけど、映画の根底にこのコミカルなテイストがあるからこそ、その後のディザスター・ムーヴィーと化していく展開にただ深刻なだけではない温かみと娯楽作品として楽しめる余地を与えてくれている。もしもこれがリアリズム一辺倒なガチ過ぎる作風だったら、こんなふうに災害を描いた映画を「楽しむ」ことは難しかっただろうから。

 

 

 

 

 

終盤での「…そんなこと現実に可能か?」って脱出方法も、この作りだからこそ受け入れられるのだし。ワァ~オ!!(^o^)

 

演技派のザキヤマさんみたいな顔の主人公とか、顔芸ですべてを持っていくキム代理とか、登場人物誰もが愛おしい。

 

また、10年、20年頑張ってやっと手に入れたマイホームが予期せぬ災害で…というのは僕らが住むこの国でも全然他人事じゃないし、「いい暮らしをしたい」という庶民の願いが無残に崩壊していく悲しみとともに、ここでは別の価値観も提示している。ドキュメンタリー映画『裸のムラ』のあの家族の生き方と繋がるところが面白い。生きてさえいれば、という希望を残したラストでした。

 

 

 

 

 

  ブラックアダム

 

 

ついにロック様がDC映画に参戦、ってことで予告篇もいかにもって感じでしたが、ほんとに予想通りの内容でしたね(^o^)

 

今、DCでは試写までされた『バットガール』が劇場公開・配信を中止されてお蔵入りしたり、ワンダーウーマンの続篇がキャンセルされたり、ヘンリー・カヴィルのスーパーマン再演も立ち消えになったりとゴタゴタしていて、このブラックアダムも今後他のDCスーパーヒーローたちとの共演はないようなことも言われていて(えっ、シャザムとも?)結構先行きが不安なんですが、ともかく単体のスーパーヒーロー映画としてアクアマンと同じ程度には楽しめました。

 

僕は個人的にはマーヴェルの真似っこして失敗した複数のスーパーヒーローたちの共演企画「ジャスティス・リーグ」の路線をやめて作品ごとの独立性の方を大事にしてきたここ最近のDC作品が好きだったので、またぞろ性懲りもなくアベンジャーズのあとを追うような計画の表明にはガッカリしてるんですが。

 

この『ブラックアダム』では、これまで映画ではまったく登場したことがなかった「ジャスティス・ソサエティ・オブ・アメリカ (JSA)」なるヒーローチームがいきなり出てきて“アンチヒーロー”であるブラックアダムと絡むんだけど、元ジェームズ・ボンドのピアース・ブロスナン演じる魔法を操るドクター・フェイトはまるでドクター・ストレンジだし、ホークマンはファルコンだし、天候を操るサイクロンはX-MENのストームやスカーレット・ウィッチみたいだし、アントマンとデッドプールがフュージョンしたみたいなアトム・スマッシャーとか、わざとか?ってぐらいの彼らの「パチモン臭さ」、「どっかで見たよーなキャラ」がいい意味で効果を上げてるんですよね。

 

 

 

 

いや、原作コミックではDCの方が先だし彼らこそがオリジンなんだ、って言いたいファンがいるのもわかりますが、映画ではマーヴェルの方が先に登場させてるからね。

 

アメコミヒーローってのは神話の神様たち同様、どこか似通っていたり、ちょうどギリシャ神話のポセイドンとローマ神話のネプチューンみたいにほぼ同一キャラだったり、ある種の「記号」的な存在なんで、この映画ではそういうかつての「伝説」だとか「神話」の中のキャラを象徴するような者たち、つまり「英雄/ヒーロー」のチームってことで、その彼らと対比されるブラックアダムの唯我独尊ぶりが強調される。

 

ぶっちゃけ、僕が一番面白かったのはブラックアダムとJSAの面々との闘いの場面で、真の敵であるはずの角の生えた赤鬼みたいなサバックとのバトルはさほど燃えることもなく、クライマックス付近ではパターンが読めてきたアクションに若干飽きてしまっていた。

 

サバック/イシュマエル役のマーワン・ケンザリって実写版の『アラジン』で悪役のジャファーを演じて、あそこでも最後は魔法でムッキムキの魔人に変身してたけど、ちょっとヴィランとしてデザイン的にも演出的にも工夫が足りなさ過ぎでは。キャスティングもステレオタイプ過ぎるしねぇ。

 

…だけど、最初に述べたように観てる間は楽しかったですよ。

 

世間での評判はイマイチ、みたいに言われてるし、続篇の計画もなかったことにされてしまったようだけど、たとえシリーズ化されなくても単体で成り立ってるこの作品を僕はユルく推したいな。

 

シャザム!』に続いてアノ人も律儀に顔出すしね(笑)

 

 

 

 

 

  ケイコ 目を澄ませて

 

 

元プロボクサーの小笠原恵子さんの自伝「負けないで!」を原案としたフィクションで、登場人物やストーリーも映画独自のものらしいけど、このとても小さな映画が海外で高く評価されたり日本国内でもクチコミで動員数や上映館を増やしているのは、コロナ禍に生きる僕たちの閉塞感や「しんどさ」、先が見えない不安を主人公のケイコの日々の描写の中に重ねているから(この映画はコロナ禍のため完成まで3年を費やしている)。

 

 

 

 

聴覚にハンディキャップのあるケイコが“怖い試合”にそれでも挑んでいく姿に、そっと背中を押されるような気がして。

 

試合で闘った相手もまた自分と同様に毎日仕事をしていて、リングの外では礼儀正しく挨拶して試合の礼まで言って立ち去っていく。彼女たちのような「普通の人々」が世の中に大勢いて、誰もが頑張っている。

 

病いが進行中のジムの会長もまた、この社会そのものを象徴しているようでもある。

 

16ミリフィルムで撮られた映像は2021年を舞台にしているにもかかわらず、どこか懐かしい肌触りで、いつか観た小さな映画たちを思い出す。

 

主演の岸井ゆきのさんは小柄で可愛らしい女優さん、というイメージがあったんですが、ボクサー役のために肉体を鍛え上げて臨んだその姿勢に静かに打たれたし、言葉をほとんど発することなく演じたこの役(同じ“ろう”の友人の中でもケイコは特に「無口」)はコロナ禍で多くを語らない市井の人々の一人であり、しかし一方でケイコがつけている日記は雄弁で彼女が毎日多くのものを観察し分析して考え続けてもいることがわかる。喋らないからってものを考えていないわけでも何も感じていないわけでもないことを、発声以外の演技で見事に表現していました。

 

劇中では弟が奏でるギターの音色以外はBGMは流れず、エンドクレジットでも音楽はなくて環境音がずっと流れ続ける。

 

耳が聴こえない主人公を通して「聴こえること」を噛み締める、そんな映画でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  アバター:ウェイ・オブ・ウォーター

 

 

2009年のジェームズ・キャメロン監督による『アバター』の続篇。

 

森の民であったジェイクとネイティリ、彼らの子どもたちは追っ手を逃れて海の民の住む村を訪れる。

 

 

 

 

海好きなジェームズ・キャメロンはきっと自然や野生の動物たちに彼なりに敬意を払っているんだろうけど、いざという時には都合よく自然が自分に味方してくれる、自分は常に正しいんだと信じているのなら、それはずいぶんと傲慢なんじゃないだろうか。

 

前作でもそうだったけど、この映画ではほとんどいつも主人公のジェイクと彼の家族の考えや行ないは正しくて、悪役だけでなく脇の登場人物たちの言動はしばしば間違っている。主人公が自らの未熟さを反省したり、誤った行ないを改めることはない。ジェイクが海の民の族長の妻に「何も学んでいない」と言われる場面があるけど、ジェイクは自分でなんでもできちゃう人なので、新しいこともあっという間に習得してしまう。

 

そんな「万能な父親」だったジェイクをクライマックスの危機で救うのは彼が「家族の恥さらし」と叱責した次男だが、「サリー家の団結」を描くためにその他のまわりの人物たちは貶められている。海の民の長の娘だけが、のけ者扱いされがちなジェイクの次男に優しく接する。ジェイクの子どもたちに意地悪する海の民の小僧たちなど、脇役の性格付けや行動が前作とほとんど同じ。

 

そういうパターン化された登場人物の配置や作劇自体が僕にはとても古臭く、なんなら稚拙なものに感じられる。

 

だいたい、ナヴィのアバターを作ることができるなら地球人のだって可能だろうし、だったらパンドラに生息するクジラみたいな生き物、トゥルクンをわざわざ殺して「老化を防ぐエキス」を採らなくたって、今回クオリッチ大佐がやってたように新しいアバターに自分を“コピー”することを延々繰り返していれば理屈のうえでは永遠に生きられるでしょ。

 

お話が最初から破綻してませんかね。

 

ジェームズ・キャメロンは監督の手腕はともかく、脚本家としては必ずしも高い才能があるとは思えない。

 

…なんかディスりまくってしまってお好きな人には申し訳ないんですが、でも3作目も公開されたら観にいくだろうし、文句も含めて語りがいのある“アトラクション”だと思いますよ。映画館でこそ観るべき作品なのは間違いないですし。

 

僕はハイフレームレートでの通常上映とIMAX3Dで観ましたが(※追記:その後、年が明けてから通常のスクリーンでハイフレームレートによる3D版を鑑賞。ただし、IMAXでもそうだったけど、3Dで観るとハイフレームレートの場面はあまり目立たず、事前に知らなければ気づかなかったかもしれない。ちなみに僕が行ったIMAXで使われていたのはRealD方式、通常のスクリーンで観たシネコンではMasterImage 3Dが使われていた。いずれも3D眼鏡が持ち帰り可能な従来の方式)、前者は時々1秒間に48フレームになって(すべてのショットではなく、あえてこれまで通りの24フレームのショットと混ぜてある)まるで実況中継のような臨場感があったし、後者では3Dが自然でより迫力が増して見えました。

 

この冬話題の一作だから、気になるかたは「アバ体験」をぜひどうぞw 3時間以上ありますが。

 

第95回アカデミー賞視覚効果賞受賞。

 

 

 

 

旧作

ジャバーウォッキー 4Kレストア版

 

空の大怪獣ラドン 4Kデジタルリマスター版(午前十時の映画祭12)

 

帝都物語

 

 

怠慢ゆえ、ちゃんと単発で感想を書けなかった作品が何本もありますが、今月観た映画はどれも満足度が高くて(内容に不満を感じた作品も映画館で観る意義は大いにあった)、なかなか当たりの月でした。どうしたって観られる映画の本数には限りがあるから、新作旧作ともに自分が観たかった映画をちゃんと観られるのはほんとに嬉しいですね。

 

もうすぐ大晦日ですが、今年観た映画の中からお気に入りを10本ほど(順位はつけず)選びたいと思っています(^o^) 

 

 

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