2本とも見応えある映画でしたので、ぜひご覧ください。

 

 

 

ゲイソン・サヴァット監督、エッシー・デイヴィス、トーマシン・マッケンジー、エロール・シャンド、トニ・ポッター、シャナ・タンほか出演の『ドライビング・バニー』。2021年作品。(裸のムラ』の感想はこちら

 

ニュージーランド。ある事情から妹夫婦の家に居候している40歳の女性バニー(エッシー・デイヴィス)。長男や幼い娘とは監視付きの面会しかできないが、娘の誕生日までに新居に引っ越して3人で一緒に暮らすことを夢見ている。そんなある日、妹のグレース(トニ・ポッター)の新しい夫ビーバン(エロール・シャンド)が車庫の車の中で継娘トーニャ(トーマシン・マッケンジー)に言い寄っている場面を目撃したバニーはビーバンに立ち向かうが、家を追い出されてしまう。住む場所まで失ったバニーは救い出したトーニャとともに、愛する娘を奪い返すべく立ち上がる。

(映画.comの作品紹介に加筆)

 

ネタバレがありますので、これから鑑賞されるかたはご注意ください。

 

ジョジョ・ラビット』や『ラストナイト・イン・ソーホー』などのトーマシン・マッケンジーの出演作品ということで鑑賞。

 

映画の舞台はニュージーランドですが、トーマシン・マッケンジーさんもニュージーランド出身だったんですね。インタヴューでは「母国の映画産業に貢献したかった。故郷で何かするのはすごくいい気分」と語っている。

 

 

 

 

てっきり彼女が主演だと思っていたら、主演は彼女の伯母役のエッシー・デイヴィスでした。

 

シングルマザーで経済的な事情と過去のある事件によって子どもたちと一緒に暮らすことができないバニーが、姪のトーニャとともに旅に出る『テルマ&ルイーズ』みたいな話を想像していたんですが、彼女たちが車でドライヴに出るのは映画の後半だし、確かに車に乗ってある場所に向かいはするんだけれど、長距離を移動する過程を描いたいわゆるロードムーヴィーではなかった。

 

エッシー・デイヴィスさんは40歳にしてはちょっとトウが立ってるんだけど(実際には彼女は1970年生まれで今年52歳)、そのくたびれた顔や身体が主人公バニーにぴったりで、職もなく肩身の狭い思いをしながらなんとか子どもたちと同居できるようにと願い続けている女性の風情が全身から滲み出ていた。

 

 

 

 

この映画、女性2人が旅をする、観ていて元気が出てくるような陽気な作品かと思っていると、ここで映し出される「生活苦」はとてもリアルで、生活保護を受けながら貯金して家を借りることがどれほど難しいかが結構な尺を使って描かれる。

 

バニーは顔見知りの先住民の若者たちと一緒に信号待ちの車の窓を拭いて小遣いを稼いでいるが、運転手のある女性から「ワイパーがあるから結構。物乞いの真似はやめて就職しなさい」と言われる。

 

 

 

 

バニーが職を探している様子は映されないけれど、就職できるんならもちろんこんなことはやってないはず。

 

バニーと一緒に車窓拭きをやっている若者たちも同様だろう。職にありつけないから「物乞い」呼ばわりされながらも続けている。

 

妹のグレースは再婚で、バニーはそこに身を寄せさせてもらってビーバンの幼い連れ子たちの面倒を見ているが、さすがに妹夫婦の家にもバニーの子どもたちを呼び寄せるゆとりはなく、グレースは再婚相手に気を遣い「私の家ではないから」と言って姉に対してあまり親身ではない。

 

誰もが自分のことで精一杯で、人に、身内にさえも手を差し伸べる金銭的、精神的余裕がない。

 

アパートを借りようにもバニーは収入がなく生活保護を受けている身のため、どこでも門前払いを食う。

 

日本でも生活保護を受けることに対して世間ではしばしば冷ややかな、時に攻撃的なまでの反応が見られますが、ニュージーランドでもシングルマザーに対してはけっして手厚く援助する体制ではないのか、劇中で行政の対応は非常に冷淡(その一方で、非営利団体だろうか、アパートを借りるために衣装を貸してくれたりするのだが)。

 

ここでも目立つのが母親が子どもを抱えて苦しんでいる姿で、「子どもの父親は?」という疑問が湧いてくる。

 

父親がその役割を果たしていないから(バニーの夫は果たそうにももはや果たせないのだが)母親が一人で責任を負わされて苦しまなければならなくなる。

 

 

 

かなり八方塞がりの状態のバニーだったが、ビーバンがトーニャに性加害を行なっている現場を見てしまい、どうしても見て見ぬフリができなくて彼からトーニャを救うが、激昂したビーバンに追い出されてしまう。

 

妹のグレースに事情を話しても彼女は本気にせず(あるいはビーバンに捨てられることを恐れて)、娘の心の傷を放置したまま再婚相手に追従する。

 

当面の住む場所も失ったバニーは窓拭き仲間の若者の家に泊めてもらい、禁じられていた子どもたちが養父母と住む家に思わず行ってしまう。

 

そのため、子どもたちは住処を移動させられてしまい、親子での同居の夢はさらに遠退く。

 

ブチギレたバニーが取った行動は…。

 

ということで、子どもが最後の拠り所だった女性が想いがかなわずに暴走していく、という物語だった。

 

この映画については、明るくて楽しいノリ、という感想を書かれているかたもいらっしゃったけれど、う~ん、僕はほんとに深刻なものを描いている作品だと思いましたけどね。

 

いや、バニーはもともと元気で明るく口も悪い(笑)愉快な女性ではあったんだけど、その彼女がヤケクソになって後戻りできないような犯罪に走ってしまう姿に、僕は楽しさよりも痛々しさと現実のこの社会の不寛容さが覆いかぶさってくるような感じでツラかったです。

 

けっして「大暴れしてスッキリ」みたいな明るい後味の映画ではないと思いましたが。

 

この映画の原題は「The Justice of Bunny King(バニー・キングの正義)」で、つまり、バニーにとっての「正義」はああだった、ということでしょう。

 

性被害を受けている女の子を救うことも、我が子と暮らすために人質をとって立てこもることも、彼女にとっては「正義」だった。

 

この映画では、バニーはいっぱい間違いを犯すし、いろんな人たちに迷惑もかけまくる。

 

是枝裕和監督の『万引き家族』が公開された時に、主人公である“家族”の行動が無責任で道徳的にも倫理的にも間違っている、として非難する人々がいましたが、おそらくこの『ドライビング・バニー』の主人公バニーのことも同じように叩く人たちがいるんだろうな。『万引き家族』ほど話題になってないから無視されてるけど。

 

バニーがやったことはいちいち正しくない。

 

せっかく泊めてくれた大家族の一家が留守の時に、その家を自分が借りたアパートと偽って恩を仇で返すようなことをしたり、売りアパートの一室に勝手に入り込んでトーニャと一緒に泊まってしまうし(なんで売る前から住める状態になってたのかよくわからないが)、最後には女性を人質にとって籠城。

 

 

 

 

だけど、彼女が正しくないことをしてるのは他の登場人物たちの反応からわかるし、では、彼女はなぜあんなことをやらかしてしまったのか、彼女を追い込んだのはなんなのか、ということに目を向ける必要があるでしょう。

 

バニーが夫を殺したのは、赤ん坊だった我が子を傷つけられ瀕死の状態にされたから。子どもを救うために彼女は夫を殺した。

 

追い出されるだろうことを予想しながらトーニャを救ったことからも、彼女の証言は「正しい」のだろうと思える。

 

そんな人物をどうして世の中は救えないのだろうか。

 

本当に難しい。

 

この映画に登場する人々で明確に「悪」だと断定できるのはトーニャに言い寄っていた(乱暴している姿が直接映っていないところがまた非常に微妙なのだが)ビーバンだけで、バニーや赤ちゃんを抱えた若い女性に事務的に接する役所の人たちも「悪」だとは言い切れない。それぞれが自分の職務に忠実に仕事をしているのだし(人質になった女性はお茶を入れて一緒にバニーの娘の誕生日を祝ってくれる)、バニーの要求は彼らの一存で許可できないものも多い。

 

突発的な行動を起こしやすかったり、根拠もなく人をたやすく信用してしまうところ、バニーの普段からの言動などから見ても彼女が高等教育を受けているわけではないことがうかがえるし、自分でも「自分で自分が抑えられなくなる」と言っているように彼女は明らかに支援を必要としている人なんだよね。

 

自己責任、自業自得で誰からも手を差し伸べられずにほっとかれたら、何が本当に正しくて何は間違ってるのか、その判断ができずにどんどんおかしな方に向かっていってしまう。

 

『万引き家族』がそうだったように、この映画はバニーが正しいとか正しくないとかいうようなことを言ってる作品ではなくて、問題提起をしているんですよ。

 

彼女をあんな目に遭わせているのは、そしてあんなふうに暴走させたものは一体なんなのか?と。

 

最後に、バニーはトーニャにビーバンから盗んだ車のキーを渡す。

 

継娘である自分に性加害を働いた継父や自分のことを心配してくれなかった実の母からも離れて、ずっとずっと遠くへ行くトーニャ。

 

それにしても、トーマシン・マッケンジーはいつもツラい境遇の女性を演じているよなぁ。たまには幸せな役も見たいんだけど^_^;

 

この映画、劇的なシーンでもそんなにショッキングな演出をしていなくて、トーニャが乱暴されている場面にしても、あるいはバニーが撃たれるシーンにしても、音響効果もそんなに大きくなくてわりとあっさり終わるんですよね。

 

あえてカタルシスを与えないようにしているような。

 

車で移動する時も、車窓に流れるのは曇天や特に美しくもない田舎の風景。

 

最後も、果たしてあのあとバニーはどうなったのか、そしてトーニャはどこに向かったのか、その後の彼女たちの運命についても描かれないまま映画は終わる。

 

けっしてわかりやすいハッピーエンドではないし、『テルマ&ルイーズ』のようなドラマティックなエンディングでもない。

 

あそこまで暴走するかどうかはともかく、バニーのような境遇の女性は現実に存在するだろうし、トーニャのような女性も確実に存在している。

 

それでも、あなた方は「自業自得」だと言いますか?と、この映画は僕たちに問いかけている。

 

 

 

 

 

 

 

五百旗頭幸男監督によるドキュメンタリー映画『裸のムラ』。

 

石川県の谷本正憲知事はコロナ禍で失言や失態を繰り返し、27年に及ぶ長期県政はついに終わりを迎えた。新知事に就任したのは、谷本の選対本部長を務めていた衆議院議員・馳浩。馳知事が掲げたスローガンは、彼が22年前に衆議院に初当選した際と同じ「新時代」だった。一方、映画は石川県の市井の人々にもカメラを向け、同調圧力の強い社会で暮らすムスリム一家や、車で移動しながら生活する家族の姿を通し、理想や自由をめぐる葛藤と矛盾を浮かび上がらせていく。(映画.comより転載)

 

はりぼて』の五百旗頭(いおきべ)幸男監督の最新作。

 

 

 

五百旗頭監督が舞台挨拶に来られて、『はりぼて』の時はリモートでの舞台挨拶だったから、生でお話がうかがえて嬉しかったです。

 

 

 

五百旗頭監督は壇上で淀みなく朗々と映画について語られて、それはこれまでにも舞台挨拶を数多くされているからということもあるのでしょうが、もともとTVでキャスターをされていたからでもあるだろうし、ジャーナリストとしてさまざまな取材もされるわけだから、言いたいこと、ここで伝えようとしていることがハッキリしてるんですよね。

 

しかも、ただ自分の言いたいことを一方的に喋り続けるのではなくて、お客さんからの質問にも的確に答えてらっしゃって、質問されたかたがたも皆さん「尋ねたいこと」を限られた時間の中で見事に言葉にされていたのがとても印象的でした。

 

五百旗頭監督は「最初から結論ありきの映画を撮ってもつまらない」というようなことを仰っていて、それって、たとえばマイケル・ムーアの映画の対極にあるものですよね。

 

メッセージありきではなくて、あるいは最初から誰かを「悪」と決めつけて映画を作るのではなくて、「人」に興味を持って彼らを撮っていくうちに何かが見えてくるのを待つ。一見すると無関係にも思えるものが、やがてシナプスが繋がるようにテーマだったり「今」が浮かび上がってくる。

 

いや、マイケル・ムーア監督の『ボーリング・フォー・コロンバイン』も『華氏911』も僕は面白かったですけどね。

 

そして、五百旗頭監督の作品にはマイケル・ムーア作品にあったようなユーモアがしばしば見られる。

 

編集なんかでは明らかに意図的に「茶化し」をやってますし。

 

主に市議会議員たちを撮っていた『はりぼて』に比べると今回の『裸のムラ』はより市井の人々を捉えようとしている分、対象への悪意を含んだ“笑い”の要素は減ってますが、でも登場する「バンライファー」のご一家の娘ちゃんの姿には思わず微笑んじゃうような可愛らしさがあって(だけど、映画を観ていれば、彼女は彼女なりにかなりまわりの大人たちに気を遣っているのがわかる。“子どもらしさ”を演じてみせているようなところもあって、見ていて少々不安になる)、それが政治の世界との直接的な対比にもなっているし、「誰のための政治なのか」を考えさせられもするし、この映画のタイトルである「ムラ」とはなんのことなのかも次第に掴めてくる。

 

 

 

映画には3つの家族が登場して、バンライファーの秋葉夫妻は出番は一番少ないのだけれど、彼らには子どもがおらず、その点であとの2つの家族と異なっているし、48歳にして夫が「自分探し」をするように夫婦で北海道に渡っていくふたりには、子どものいる家族とはまた違った生き方や価値観が見られて興味深かった。

 

妻がインドネシア人で夫が日本人のムスリム(イスラム教徒)の松井家も、結構歯に衣着せずに自分の意見をしっかりと言う妻のヒクマさんに、映画を観る側のこちらが勝手に思い描いていたムスリムの女性像、あるいは外国から日本に来た女性像を覆されて新鮮な驚きがある。

 

 

 

 

日本で結婚して3つも仕事を持っているのに、どうして日本に帰化しないのか、という質問に、ヒクマさんは「日本の国籍を持っていても外見で外国人扱いされる」と答える。それ以外でも、ヒクマさんの日本に対する指摘は一つ一つが実に的を射ていて耳が痛過ぎる。

 

以前TVでやっていた名古屋入管で殺されたウィシュマさんについてのドキュメント番組で、酷い目に遭わされて「これのどこが“おもてなし”なんだよ」と言っている外国から来た人たちのことを思い出した。

 

ロシアに抵抗するウクライナには同情するのに、パレスチナの人たちが土地を守るために戦ったらテロリスト扱い、と冷めた口調で語るヒクマさん。笑顔の中に怒りややるせなさを溜め込んでいる感じだった。彼女は夫や子どもたちとともに一所懸命に生活しているけれど、けっして日本に対してお世辞は言わない。

 

一方で、バンライファー(バンで旅をする生活を続ける人々)の中川さんが求める「自由な暮らし」は長女の結生ちゃんの自由を奪ってはいないか、という疑問を抱かせるし(映画ではいつも一人で遊んでいるので、学校は?お友だちは?と心配になったんだけど、学校には行ってるみたいだしお友だちとも遊んだりもしているようです。結生ちゃんのブログはこちら)、ムスリムの松井さんのご一家については、僕は観ている時には気づかなかったけど、監督が“ヒクマさんを中心にした「ムラ」”という表現をされていて、なるほどなぁ、と(二人の娘さんたちの顔がヒクマさんによく似ていて、お母さんの遺伝子強いなぁ、と思った^o^)。

 

いたるところに「ムラ」はある。それを簡単に「良い」「悪い」と判断はできないけれど。

 

 

 

また、「ムラ」≒「家父長制」というのはこのドキュメンタリーの作り手自身にも言えることで、インドネシア人と日本人のハーフでムスリムの娘さんにこれまで差別を受けたことについて執拗に質問を繰り返して「わからないならいい」と言われる場面など、あえてメディアの加害性を剝き出しにしている。

 

そのことについて上映後に質問された監督は、あの松井家の次女に対する質問は事前に両親に許可を取っていたこと、映画が完成して試写にご家族揃って来てくれたことなど、必要なケアをしたうえでの「演出」であることを語られていました。

 

 

 

これは作り手は「加害者である」ということに居直っているのではなくて、ドキュメンタリーを撮る行為自体が現実を歪めて撮影対象を傷つけもする加害行為なのだという事実を作品の中に刻み込んでいるのでしょう。

 

五百旗頭監督ご自身「男村の住人」であることを自覚しているのは、劇場パンフレットの監督のディレクターズ・ノートを読めばわかる。

 

3つの家族の姿と並行して映し出されるのが石川県の知事選や県庁の関係者の様子なんだけど、この映画は「北陸の保守王国」と呼ばれる石川県で五百旗頭監督が覚えた違和感からすべてが始まっている。

 

同じ知事による、あまりに長過ぎる県政。

 

 

 

 

「女性の活躍」を打ち出しながら、実際にはおっさんやジジイばかりが集まってワチャワチャ好き勝手やっている。民意は?女性の活躍はどこに行った?

 

映画では90年代にまで遡って、「神の国発言」の元首相で先のオリンピックでもいろいろあったアノ人も出てくる。

 

 

 

おっさんが爺さんになっても、何十年経ってもこの地域は、この国は何も変わっていないのではないか、という恐怖。

 

映画の冒頭と最後に映し出される知事のための氷入りのお茶の入れ物を延々と拭いている女性職員の姿には、ブラックユーモアを超えて何か得体のしれない気味悪ささえ感じたのだった。

 

 

 

このままでいいのだろうか、という強い疑問を持つこと。

 

それが何よりも大事なのではないか。

 

──こういうことも、もう何年も前からずっと同じことを繰り返し言ってるような気がするが…。

 

五百旗頭監督が『はりぼて』を撮った富山のチューリップテレビを辞められて(『はりぼて』の終盤でも描かれている)石川テレビに移ったのは、直接「お上」から圧力があったのではなくて、局の中にまで忖度が蔓延していることへの怒りからだったようだ。石川県庁の内部がそうだったように。

 

元プロレスラーの馳浩衆議院議員に質問しようと手を挙げても全然差されないので何度も何度も手を挙げ続ける五百旗頭監督の姿には、ドキュメンタリーの作り手として、ジャーナリストとしての意地や矜持が込められていたように感じました。

 

 

応援演説の進次郎がまた笑わせてくれるのだが

 

 

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