森達也監督によるドキュメンタリー映画『i-新聞記者ドキュメント-』。
東京新聞社会部記者の望月衣塑子(いそこ)氏にキャメラで密着しながら、彼女の仕事を通して現在のこの国の問題とさまざまな立場からそれらに相対する人々を捉える。
劇映画『新聞記者』の基となったノンフィクションの著者・望月衣塑子さんを撮ったドキュメンタリーですが、珍しくシネコンでもやってるので観てきました。
実をいうと僕は森達也監督のドキュメンタリー映画をこれまでちゃんと観たことがなくて、恥ずかしながらオウム真理教の信者たちを追った『A』『A2』も佐村河内守氏を取材した『FAKE』もいまだに観ていない。でも森さんの著書は何冊か読んでいるし、メディアでの氏の発言などもたまに目にすることはあった。
今回はよく利用するシネコンでやっていることもあって観ることができたんですが、客席はガラガラでした。映画館もいいけど、こういう作品はTVでもっと気軽に観られたらいいのにな。
それぐらい、今観ておいて損はない映画でした。というよりも、できれば今のうちに観ておいた方がいいでしょう。TVでやるべきものを代わりに映画館でやっているともいえるのだから。もしも最寄りの劇場で上映されているなら、ぜひご覧になってみてください。
ネタバレどうこうという作品ではないですが、内容について書きますので、まだ観ていない人はご注意を。
望月衣塑子というジャーナリストに対する印象は人それぞれでしょうが、この映画では彼女の仕事ぶりを追いながら、ひと頃メディアでもよくとりあげられていた官邸記者会見での官房長官への質問がどのような経緯でされているのか知ることができる。
パワフルでアグレッシヴ、時に強い口調で相手を問い詰めることもあるが、それがすべて記者としての情熱と責任感からくるものであることもわかる。
また、単に個人的な想いだけでなく、その行動が取材先での人々の生の声、「どうかこの声を政府に届けて」という要望に応えようとする使命感に基づくものであることも。
他の女性記者が言っていたように、自分たちは政府関係者と接触する特権を持っているのだから、それを可能な限り活かさなければ、ということ。
何かと叩かれがちな人でもあるが、「出過ぎる杭」である望月さんを叩いたり彼女に妙な嫌悪感を持つ者たちというのは、果たしてどれだけ日頃の彼女の活動のことを知っているのだろうか。
「当たり前のことをしているだけなのに、なぜ注目されるのか」と彼女自身も不思議がる。望月さんが特別目立つのだとすれば、それは他の多くの記者たちがやるべきことをやっていないからだ。
──この国のメディアはおかしい。ジャーナリズムが機能していない。
森監督はその事実を、望月衣塑子という新聞記者の姿を通して観客に今一度問いかける。どうしてなのだろう、と。
社会部の望月さんがなぜ政治部のテリトリーでもある記者クラブで煙たがられながらも官邸記者会見に出続けているのかというと、それは伊藤詩織さんの準強姦揉み消し事件がきっかけだった。
伊藤詩織さんもレイプの被害者でありながら嘘つき呼ばわりされたり「売名行為」などと烈しい誹謗中傷に晒されてきた人だが、望月さんと彼女との共通点は疑問に対して諦めたり泣き寝入りをせずに追及し続けているところ。
だからこそ、今でも彼女たちは時々会ってはエールを送り合っている。
彼女たちが叩かれるのは、おそらくふたりが“女性”だからというのもあるんだろうと思う。自分の意見を言って、世の中の男たちに黙って服従しない、彼らを“立てない”女性を憎む者(その中には女性もいる)は一定数存在する。
おとなしく黙っていろ、と。
この映画が映し出しているのは、望月衣塑子というジャーナリストの個人的な思想・信条というよりも、彼女の姿を通して見えるこの国のあまりに不可解なシステムと現政権の異常さだ。
望月さんは、なぜどう考えてもまともな返答をすることが期待できない官房長官への質問を続けるのだろうか。それは、そうやって問題点を指摘し続けてニュースなどで報じられることで視聴者に訴えかける効果があるからだ。そのために記事を書き、自分の発言の信憑性も高める。
官房長官が彼女の発言を「事実誤認」だと言うなら、その証拠を挙げて説明すべきだろう。だが政府はそんなことはしない。その代わりに彼女だけに質問制限(2問まで)をかけ、さらに質問中の彼女の言葉に被せて報道室長が「質問に移ってくださ~い」と散々妨害する。このようなことをされているのは彼女だけである。特定の記者の質問だけが遮られているのに、記者クラブはそれに対してなんらアクションを起こそうとはしない。
他の記者たちも、望月記者の質問を煙たがるんだったらなぜ自分たちがどんどん必要な質問をしないのか。記者会見というのは政府の広報のためにあるのではない。記者が質問するためにあるのだ。
外国のジャーナリストから「あなたは新聞記者か、それともジャーナリストか」と問われた望月さんは、「いちジャーナリストでありたいと思うけれど」と答える。だが、どこかに所属していなければ記者会見に参加することもできない。事実、海外のメディアは自由に入れず質問もできない。長年日本で仕事をしているこの外国人ジャーナリストは、ハッキリと「日本のメディアは後退した」と言う。
この国の政府の活動がいかに不透明で外部に閉ざされているか。
“記者クラブ”などという前時代的なものがいまだに存在していて、外国のメディアが質問しようとすると事前に質問の内容を提出しなければならないが、そんなことは海外ではありえない、と先ほどの外国人ジャーナリストは呆れる。トランプ大統領だって記者たちの質問にその場で答えているのに。
つまり、この国では自分の頭で考えて質問に即座に答える能力もない人間が首相やら官房長官の座についているのだということ。
この映画を望月さんの「プロパガンダ」だと感じる人もいるかもしれないが、ヴィデオキャメラの前で彼女が自分の政治的信条を語ることはなくて、望月さんはただ取材を通して知ったデータを基に明らかに矛盾する、納得できないことへの説明を求め、そのことで人々が「知る権利」を守ろうとしているだけだ。なぜならそれが“新聞記者”の、メディアの果たすべき役割だから。
そんな“当たり前のこと”さえ理解していない者のなんと多いことか。
新聞社には「なんだあの女。朝鮮人。殺したる」と脅迫電話がかかってくる。
あの電話の送り主は特定されて逮捕されたんだろうか。完全な殺人予告でれっきとした犯罪なのだが。
こういう頭のネジのトンだ連中の、何かといえば「敵」と見做した相手を“朝鮮人”だのなんだのと特定の国の人たちへのヘイトと絡めて罵る文句というのはいつだって似たり寄ったりで、まるで「自分」というもののない、自動的にヘイトを撒き散らす“ヘイトbot”みたいな存在だ。本人が電話口で明らかにまともに喋れてないし。まともに日本語を喋れない奴に外国人扱いされたくないよなぁ。
この脅迫電話の主の声は、自分と意見が違う者の存在を許さない、人を生きた人間としても個人としても見ない醜悪さに満ちている。簡単に「殺す」などという言葉を発するところからは、人命や人権というものを意識すらしていないのがわかる。
そして「寄らば大樹の陰」で、おそらく自分は「国」という大きなものに忠誠を誓い「正義」や「大義」のために行動していると思い込んでいる。「あいちトリエンナーレ」の脅迫電話の主もそうだったように、社会に居場所のない者(老人も少なくない)がしばしばこのような極端で愚かな行ないをするが、それだけではなく、一見するとその辺の普通の会社員とか学生などがやはり誤った正義感から攻撃に加わったりする。
個人が「国」や「日本人」を勝手に代表した気になると、ろくなことがない。
少なくともジャーナリズムに関しては、人を「好き嫌い」で判断するよりもその人がやってることが「真っ当」かどうかを見極めたいものだ。
僕が森達也監督の視点に共感を覚えるのは、そこに常に「集団」への懐疑があるから。人は集団に属してそこからものを言うようになると、物事を「敵か味方か」で判断しがちになる。しかし、自分や自分が所属している組織や団体が常に「正しい」とは限らなくて、間違いを犯す可能性もある。そのことをいつだって意識し続ける必要がある。
望月さんもまた、同じ新聞社の仲間と激しく議論することもある。劇映画『新聞記者』で掲げられていた言葉「誰よりも自分を信じろ!そして、誰よりも自分を疑え!」だ。
どうもここ何年もの間、巷では「批判すること」自体を「悪」と見做す風潮が蔓延しているようですごく気になっているんですが、勘違いしてる人があまりにも多過ぎやしないだろうか。
「批判を許さない社会」というのは「服従を強いる社会」ということであり、それはつまり権力者による「独裁を許す社会」だ。そんな世界に住みたいですか?
考えることも疑問を持つことも異議を唱えることもやめて、ただ力の強い者、声の大きな者に黙って従うだけになってしまった人間のことをなんと呼ぶか。「廃人」だ。
たかだか映画を1本観ただけで何かをわかったような気になるのは危険だけど、わかった気になったというよりも、誰もが薄々気づいていたことをあらためて確認したような感じではあった。僕が今生きている場所は、当たり前のことがされなくなって、おかしなことを「おかしい」と指摘すれば攻撃されるような異常な社会なのだ、と。
新宗教系の保守団体「日本会議」の構成員が現内閣に占める割合は、なんと8割。首相をはじめそのほとんどが「美しい日本」の提唱者だということ。「美しい日本」というのは戦前の皇国日本のこと。
要するに、今この国や政府は“カルト”に牛耳られているのだ。
そう考えると、彼らがなぜあそこまで身内びいきでそれ以外の国民には無関心で無慈悲、非情で非人間的ですらあるのかがよくわかる。カルトだから非人間的なのか、もともと非人間的だからカルトに所属するようになったのかはわからないが。
付き合えば自分たちにメリットがあると見做した者は保護するが、そうでなければさっさと切り捨てる。その切り捨て方はちょうど、昔、小学生の時に昨日まで普通に仲良く喋ってたクラスメイトが今日になったらいきなりこちらを無視しだすようになったのを思い出させる。そんなレヴェルの話ではないが、そういうことを平気でやれる連中だということ。人の命だって一顧だにしない。自殺者出てますもんねぇ。よくそれで平気で嘘をつき続けられるものだ。
人間としてとても重要なものが欠落している者たちの集団。
森友学園問題の籠池夫妻も切り捨てられた者たちである。
映画の中で望月さんは籠池夫妻と会って話しているけど、そこでこの籠池泰典氏は、今の政府は「長いものには巻かれろ」精神が蔓延していると語る。
彼はこれまで自分がやってきたことは棚に上げて「武士道に反することはしない」などと豪語しているが、子どもたちに運動会で教育勅語を朗読させて近隣諸国から日本を守ろう、みたいなことを唱えさせたり「安倍首相がんばれ」などと言わせていたことの一体どこが武士道なのか。あの子どもたちのその後が心配だ。
僕はこのおっさんには同情も共感も一切覚えないし、必要最低限の知識も人を見る目もないという点でもどうしようもない人間だと思うけれど、正気に返ったのならそれだけがせめてもの救いだな。
夫が喋ってるのを遮ってやたらと森監督や望月記者にどら焼きを勧めまくる奥さんが可笑しい。その辺の関西のおばちゃんそのまんま。どつき漫才なら夫に「じゃかぁしい!」とどつかれてる。だが、そんなどこかユーモラスな彼らがやってきたことやその思想は無責任で危険極まりないものだ。彼らがつるんでた首相夫妻同様に。彼らは現政権が進める邪悪な計画の片棒を担いでいた。二度と表舞台に立たないでほしい。
この映画を観ていると、この国がとんでもないことになっているのをあらためて思い知らされる。
政治家は堂々と嘘をつきまくり、権力者とその取り巻きの犯罪が裁かれず、首相は国民から巻き上げた税金を使って反社会勢力の人間や愛想笑いを浮かべた芸能人たちと桜見ながらメシ食ってる。…これのどこが「美しい日本」なのか。
政府の暴走を止めるジャーナリズムが機能していないんだったら、それはまさしく戦前と同じだ。カルトの狂信者たちは大喜びだろう。
宮古島の自衛隊の基地では、弾薬庫は「倉庫」と表記されていた。そして弾薬庫と給油所の距離が近過ぎて安全基準を満たしていなかった。望月さんが問いたださなければ、その事実はほとんどの人々に知られることもなかった。
メディアは、なぜこんなに自衛隊に気を遣うのか。首を傾げざるを得ない。
あるメディア関係者は、事実を報道したり政府を批判するようなことを述べれば「左翼」だの「活動家」だのと言われるが、それはメディアを舐めてる、と憤る。
メディアだけの責任ではなく、国民一人ひとりの選択にも責任がある。誰を選ぶのか。何を正しいと考えるか。
森監督は言う。右も左も関係ない。メディアとジャーナリズムはどちらにとっても大事なはず、と。
それがないがしろにされた時、かつてのように破滅へ転がり落ちていくことになる。
公道を撮ってるだけでいちいち通行を邪魔しにくる警官に森監督がアニメ化してケンシロウみたいに筋肉モリモリ~!!ってなって暴れる場面は笑いましたw
悪魔のような形相の官房長官と対峙する望月さんもスーパーヒロインに変身!
自民党の候補の応援で首相や官房長官が駆けつけ演説をする。
「安倍首相がんばれ」のプラカードを掲げる者たちがいる一方で、「安倍やめろ」というプラカードを持った人々の姿も。
両陣営から汚い怒号が飛ぶ。巻き舌の不快な罵声。どっちも似たような種類の人間たちに見える。
敵味方に分かれて罵りあう者たちの中で、望月さんが無言で選挙カーの上の首相たちを見つめている。
映画のラスト近くで第二次世界大戦が終わってナチス・ドイツから解放されたフランスで、裏切り者の烙印を押されて坊主頭にされた女性たちが見せしめのために歩かされているロバート・キャパの写真が映し出される。「1万人の人々が裁判を受けることなく処刑された」と森監督自身のナレーションが入る。
少々唐突な印象を受けるのだが、あえてここでナチスに関するエピソードを入れたことは当然意図的でしょう。
ナチスは近代以降、最大最悪の“カルト”だった。そしてまた、僕が住むこの国にも同じように人間の尊厳を踏みにじる軍隊とそれを支持した者たちが大勢いた。今もいる。
森監督の集団への懐疑を語る言葉が脳裏に蘇る。
「みんな」や「世間」、「我々」ではなく、「一人称単数の i=“自分”」の視点と言葉こそが大事。
“群れ”ではなくて、個人としての目を失いたくないな、と思う。
元文科省事務次官の前川喜平氏は、「今の政府は国民のことをバカだと思っている」と語る。
そう、バカだと思ってるし、このままバカでい続けてほしいと願っている。
どんなに食い物にされてコケにされても文句も言わずに政府を支持し続け批判者を叩いてくれる、忠実な奴隷でいてほしいのだ。
…いいのか?それで。
──今、あなたに問う。
問われているのはこの国の政治や政治家のあり方…そして、この映画を観ている僕やあなた、国民一人ひとりの判断力だ。
異色の監督・森達也の新作『i』に、これまた異色のこの人が斬り込んだ│月刊「創」ブログ
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