森達也監督、井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、コムアイ、松浦祐也(井草茂次)、向里祐香(井草マス)、碧木愛莉(キム・ソンリョ)、木竜麻生(新聞記者・恩田)、杉田雷麟(行商団・藤岡)、カトウシンスケ(劇作家・平澤計七)、ピエール瀧、水道橋博士、豊原功補、柄本明ほか出演の『福田村事件』。PG12。

 

脚本は佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦。音楽は鈴木慶一。

 

1923年、澤田智一(井浦新)は教師をしていた日本統治下の京城(現・ソウル)を離れ、妻の静子(田中麗奈)とともに故郷の千葉県福田村に帰ってくる。澤田は日本軍が朝鮮で犯した虐殺事件の目撃者であったが、静子にもその事実を隠していた。その年の9月1日、関東地方を大地震が襲う。多くの人びとが大混乱となり、流言飛語が飛び交う9月6日、香川から関東へやってきた沼部新助(永山瑛太)率いる行商団15名は次の地に向かうために利根川の渡し場に向かう。沼部と渡し守の倉蔵(東出昌大)の小さな口論に端を発した行き違いにより、興奮した村民の集団心理に火がつき、後に歴史に葬られる大虐殺が起こってしまう。(映画.comのあらすじに一部加筆)

 

i-新聞記者ドキュメント-』の森達也監督が初めて長篇劇映画の監督に挑戦。

 

関東大震災(1923年9月1日発生)の5日後に起きた、村人たちによる行商団惨殺事件“福田村事件”の史実にもとづく物語。

 

 

 

関東大震災が起こった9月1日に公開開始というところからも、作り手からの強いメッセージが感じられます。

 

 

日本人も日本人に殺された...映画『福田村事件』が描く「普通の村人」による虐殺【森達也監督に聞く】

http://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2023/08/post-102531_1.php

 

 

他国への侵略行為や民族差別、そこから生じた“復讐への怯え”からくる過剰な防衛意識の末に虐殺へと至るプロセスが描かれる。

 

それはけっして「なかったこと」にしてはならない負の歴史。反省や教訓として語り継ぎ、記憶し続けなければならない。同じ過ちを繰り返さないために。

 

 

 

 

小池百合子・現東京都知事は、これまで通例だった朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文を7年連続で送らず、つい最近も松野博一・官房長官が関東大震災後の朝鮮人虐殺に対して「政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」などと明らかに事実に反する発言をしている。

 

朝鮮人が震災後に集団で掠奪や殺戮を行なった証拠など一切ないが(むしろ、そんなものはなかった、という記録は残っている)、日本人が朝鮮人を虐殺した証拠はしっかりある。政府高官が堂々と大嘘をついている。

 

今年の9月1日には、墨田区横網町公園での式典でヘイト団体による妨害が行なわれようとして市民たちにより阻止されてもいる。

 

 

 

この映画で描かれている史実をもとにした凄惨極まりない話は、100年前の昔の出来事であると同時に現在のこの国の状況を指し示してもいる。過去のことではない、と。ましてや「なかったこと」でも、今後ありえないことでもない。

 

歴史を直視せず、過去の過ちから学ばなければ、ここで描かれたようなことは2023年の今や将来にも起こりうる。その戒めとしても作られるべき作品だったし、残されるべき作品。

 

…ではあるんですが、この映画、題材が題材だけにもちろん内容はシリアスだし別にコメディ的な演出をしているわけではないんだけれど、観ていてところどころ反応に困ってしまう部分はあった。

 

去年の『愛なのに』に続いてここでも胸をはだける向里祐香。おっぱいをそんなところにのっけたら、柄本明さんが本当に昇天してしまう!^_^;

 

 

 

彼女以外でも、田中麗奈やコムアイなど、主要登場人物である女性たちが積極的に夫以外の男性とまぐわう場面があって(モテ過ぎだろ東出昌大。いや、わかるけどw)、それは生身の人間の欲求としての表現なんだろうし、そりゃ震災当日にセックスしてた人たちだって現実にいるだろうから、それをそのまま描いたということなんだろうけど、さすがに皆さん、ちょっとお盛ん過ぎじゃないでしょうかね。

 

 

 

 

まるで靖国神社で兵隊コスプレしてるおっさんみたいな出で立ちの水道橋博士とか、明らかに軍服のサイズが合ってない気がしたし、わざと滑稽に見えるように写してるようで。

 

 

 

村の女性がいきなり行商団のリーダーの沼部の頭に鳶口(とびくち)を振り下ろして殺害する場面は、史実通りなのかそれとも作劇上の演出なのか知りませんが(行商団の人々の殺害に村の女性が加わっていたのは事実)、その「あっ」っというタイミングに呆気にとられるし、それをきっかけに行なわれる阿鼻叫喚の殺戮場面のバックに和太鼓がドンドコドンドコ鳴るのもほとんど祭り状態で、見方によってはかなりブラックなコメディのように感じられなくもない。不謹慎ギリギリというか、ちょっとそれを越えてる感も。

 

まぁ、まったく予備知識、事前情報を入れずに観た人にとっては充分ショッキングな内容ではあっただろうけど、この映画は朝鮮から帰郷した澤田夫妻(ちなみに彼らは映画のために作られた架空の人物だが、夫の智一が妻に語る教会での日本の憲兵による虐殺行為は史実)のパートと香川県から薬の行商に来た一団のパートが交互に描かれるので(その間に新聞記者や社会主義者らの場面が入る構成)、途中から嫌な予感しかしないし、行商団の一行が日本人であることも観客にはわかっているので、あとはもう予想通りの最悪の展開になっていくのをただ黙って観ているしかない。あ~、やめてくれー、と。

 

だから、いよいよ殺戮が始まった時点ではショックを受けるというよりも、腹立たしさや虚しさの方の感情が勝ってしまったのだった。

 

この映画にカタルシスはない。悲壮な音楽で悲劇を盛り上げもしないし、新聞記者も澤田夫妻も村長(豊原功補)も、正しい判断力があるはずの人たちが人殺しの現場では棒立ちで犠牲者を見殺しにする。

 

なぜ誰も身を挺して殺されかけている人たちを救おうとしないのか、と観ていて彼らの無力さ加減にイライラしたが、それこそが監督の狙いでもあったんだろう。

 

集団が暴走した時、その集団をはるかに上回る人数で対抗するか、「お上」のようにその集団がひれ伏すような存在の鶴の一声がなければ、もはや個人の力ではそれを食い止めることはできない。

 

街なかで突如武器や凶器を振り回して暴れたり誰かを殺しかけている者がいたら、自分にはそれを止めることが果たしてできるか?ってことと同じで。それが“群れ”になっていたらなおさら。

 

だからこそ、集団で暴走する前に阻止しなければ。

 

そのためには、何よりもまずは各自が「人命」の尊さを学ばなければならないし、そこに例外はないのだということも頭に叩き込んでおかなければならない。

 

行商団の人々に日本人かどうか問いただす村人たちに、永山瑛太演じる沼部は「朝鮮人だったら殺してもええんか?」と怒りを込めて言う。

 

 

 

結局、朝鮮半島で独立運動(非暴力なものだったが、日本軍が武力で弾圧)を起こして日本の支配に抵抗する現地の人々を恐れるあまり、震災後に「朝鮮人が暴動を起こして掠奪・強姦・殺戮を行なっている」「井戸の水に毒を入れてまわっている」などというデマを信じて(デマを積極的に流していたのは内務省や警察だった)、日本人は自分たちこそが残虐行為に手を染めたのだった。犠牲者の中には中国人やこの映画で描かれたように同胞であるはずの日本人も含まれる。

 

朝鮮人のことを「鮮人」などと蔑称で呼び(確か劇中では中国人に対する蔑称も口にしていたと思うが)、日本人よりも下の存在と見做す、その差別意識ことがすべての元凶でもあった。

 

現在でも韓国朝鮮系の人々のことを蔑称(“鮮人”よりももっと簡略化された呼び名)で呼んだりヘイトを撒き散らしている連中はいるし、この映画の中で渡し守の倉蔵が「鮮人は嫌いだ」と言って、日本で稼げるだけありがたく思え、というようなことを吐き捨てていたように、そういう物言いで彼らを敵視する者たちがいる。

 

今の政府や東京都のトップたちはそれらを野放しにするだけでなく、もはや堂々と同調している始末。100年前と何が違うのか。暗澹たる気持ちになりますが、一方では『福田村事件』のような映画が作られて公開され、大勢の観客が劇場に足を運んでいる。

 

どこの国の人間だろうと、いい人もいれば悪い人もいる。当たり前のことだ。

 

ジャパニーズのことを「ジャップ」と呼べばそれは蔑称であるように、人種差別や民族差別だけでなく、人々をある枠の中に押し込めてカタカナで2~4字程度の略称で呼ぶことは、それ自体が人を名前のある個人ではなくて、数字だったりただの塊としか見ない、人間蔑視の行為なんだよね。

 

映画のラスト近くで、生き残った行商団の少年は殺された仲間たちの名前を一人ひとり呼び上げる。彼らにはちゃんと名前があって、それぞれ独立した人格を持つ尊厳ある“生きた人間”だった。殺されてよい存在ではない。

 

日本人の自警団の男たちに竹槍で寄ってたかって突き殺された、朝鮮アメを売っていた朝鮮人の娘(碧木愛莉)は断末魔に自らの名前を名乗る。それは彼女の命と同様、誰からも侮蔑されたり奪われてよいものではない。

 

 

 

殺していい命などない。

 

「国や村を守るため」などと言っているが、それでどうして幼い子どもたちや妊婦を殺す必要があるのか。正気を失った者たちにはもはや正義や大義などというものはない。

 

沼部の頭を割って殺した女性は、夫が東京に行っていたためにてっきり彼が地震で命を落としたか朝鮮人の手で殺されたものだとばかり思っていたが、大惨事のあと、その夫はひょっこり村に戻ってくる。だが、妻が奪った人の命は二度と戻ってこない。

 

都合のいい時だけ「愛国」「国防」などという言葉で誤魔化してはならない。

 

僕たちがもっとも恐れなければならないのは、被害者になることを恐れて“加害者”になることなのだ。

 

 

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