同日に鑑賞した振り幅があり過ぎる2本。

 

 

 

 

斉加尚代監督によるドキュメンタリー映画『教育と愛国』。

 

2017年にMBS(毎日放送)で放送されたドキュメント番組を再編集、追加取材分を加えて劇場映画化。

 

1945年の終戦以前は日本の小学校で「修身」という呼び名だった「道徳」の授業が2018年度より正式教科とされた。その矢先に、東京書籍の教材の中で「パン屋」が「和菓子屋」に修正される。その理由は、文科省の学習指導要領の「国や郷土を愛する態度」に照らし合わせて“不適切”だと判断されたからだった。政府与党を中心にした「愛国」を強調する風潮、また、歴史の教科書の記述をめぐって行なわれている数々の政治介入、圧力が年々増していっていることの問題点を採り上げる。

 

「教育」が、「知識」がいかに大事か痛感する1本。

 

「教育」と「調教」は違うんだ、ってことを強く深く胸に刻んでおきたい。

 

教育や歴史からの学びを軽視する者たちに、政治や国の将来を委ねてはならない。

 

『汝の敵、日本を知れ (Know Your Enemy: Japan)』(1945)

 

 

 

 

映画の中で「表現の不自由展かんさい」の会場前に乗りつけた街宣車から迷彩パンツ穿いた右翼が耳が腐りそうなヘイトをがなってたけど、ああやって攻撃的で差別的な暴言を撒き散らす人たちって、彼ら自身がアイデンティティが不確かで揺れているんだろうと思う。不安だから人を攻撃する。

 

この映画を観ていて感じたのは、「愛国」だのなんだのと言い募る者たちの、表面では強がって人を見下し冷笑している裏で、怒りと復讐心に燃えている傷ついた人間の姿でした。傷ついているからこそ他の人を傷つける。自分の拠って立つところを求めて「愛国」や「美しい日本」をスローガンにして“仲間”と群れる。弱いから。その弱さを認めて受け入れることができないから。

 

だけど、彼らがもたれかかっているのは偽りの「共同体」、偽りの「真実」、偽りの「歴史」だ。

 

自分の弱さを認めて自らの過ちを正す勇気を持ちたいものですね、お互いに。

 

ウクライナを侵略する自国を嬉々として支持しプーチンに「ウラー」の歓声を上げるロシアの人々の学ばなさ、成長のなさに呆れ返るけど、でも僕たち日本人にはロシア人を笑う資格なんかないんじゃないか。

 

だって、日本人こそ歴史から全然学んでないもの。「歴史から学ぶ必要などない」などと口走るもうろくジジイが東大の名誉教授とかしているような国なんだから。反省もせず、同じ間違いを延々繰り返している。三歩歩いたらそれ以前のことを忘れるニワトリ並みの記憶力。そういうのを世の中では「バカ」と呼ぶ。バカのままでいたくないなぁ。

 

まずは皆さん、参議院選挙前にこの映画を観ておいた方がいいと思いますよ。

 

 

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『i-新聞記者ドキュメント-』

 

 

 

 

 

 

 

吉野耕平監督、吉岡里帆、中村倫也、柄本佑、尾野真千子、高野麻里佳、小野花梨、前野朋哉、小林郁大、工藤阿須加、矢柴俊博、古舘寛治、新谷真弓、六角精児、みのすけ、徳井優ほか出演の『ハケンアニメ!』。

 

原作は辻村深月の同名小説。

 

地方公務員からアニメ業界に飛び込んだ新人監督・斎藤瞳(吉岡里帆)は、デビュー作で憧れの天才監督・王子千晴(中村倫也)と業界の覇権をかけて争うことに。王子は過去にメガヒット作品を生み出したものの、その過剰なほどのこだわりとわがままぶりが災いして降板が続いていた。プロデューサーの有科香屋子(尾野真千子)は、そんな王子を8年ぶりに監督復帰させるため大勝負に出る。一方、瞳はクセ者プロデューサーの行城理(柄本佑)や個性的な仲間たちとともに、アニメ界の頂点を目指して奮闘するが──。

(映画.comより転載)

 

内容についてネタバレがありますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

 

ちまたでとても評判がいいので気になっていたんですが、僕は今では日頃TVアニメや日本製のアニメ映画を観ないので、その制作現場を描いた業界モノを果たして楽しめるかどうか不安だった。

 

でも、モノを創る人々を描いているのなら何かしら感じ入るものがあるんじゃないかと思ったのと、実はこれまで主演作品を1本も観ていなかった吉岡里帆さんの映画を初めて観てみるいい機会かも、と考えて、公開開始からひと月近く経って上映館も減り一日の上映回数も1回になってたところ、ちょうど時間も合ったので鑑賞してきました。

 

さて、お断わりしたように僕は普段日本製のアニメを観ないので(ディズニーやピクサー、またはヨーロッパ産のアニメーション映画等は観ますが)、それらについての知識もなく、アニメファン、特にアニメオタクの人たちに対してはかなりの偏見も持っています。

 

なぜ、日本のアニメを観ないのかといったら、嫌いだから。

 

キャラクターのデザインも作画もシナリオも演出も声優の声も喋り方も、何から何までもが不快なので。もちろん、世の中には物凄い本数のアニメ作品があるからそのすべてではないけれど(先日、自分としてはかなり珍しく久々に観た日本のアニメ『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』も、最近の作品としてはそこまでの抵抗はなかった。でもまぁ、あれこれケチつけちゃったんですが)、映画館で流れる予告篇にはいつも虫唾が走るし、TV観ていてたまたまアニメがやってたりすると、とりあえずチャンネル替える。

 

ここ何年間かで大ヒットして客が劇場に殺到したいくつかのアニメ映画も1本も観ていない。

 

ディズニーやピクサー、海外製のアニメにはそのような嫌悪感や忌避感を抱かないので、これはもう生理的に受けつけないのだとしか言いようがない。

 

…そういう人間が書いた感想ですから、日本のアニメがお好きなかたはお読みにならない方がいいかもしれません。頭にクるでしょうから。

 

「嫌い」と言いながらも、昔からそうだったわけじゃなくて、子どもの頃はTVでは基本的にアニメか特撮ヒーロー番組ぐらいしか(あとはドリフとかクイズダービーなどのヴァラエティ番組)観ていなかったし、当時は別にアニメを毛嫌いなどしていなかった。

 

その後も恋愛モノとか大人向けのドラマにはまったく興味が持てなかったから(今もですが)、自分はこれからもずっとアニメ番組を観続けていくんだろうな、と素朴に信じていた。

 

だからむしろ、現在は漫画やアニメとはほとんど無縁な生活をしていることが不思議なほどで。

 

じゃあ、「昔の作品はよかった。今のはよくない」という“懐古厨おじさん”なのかといったら、確かにそういう部分もあるんだけど、最近リヴァイヴァル上映された昔のアニメ映画(『クラッシャージョウ』『銀河鉄道999』)のことも酷評しちゃったように、結局のところ、ある時代(だいたい70年代から80年代のアニメブームの頃)以降から現在に至る日本のアニメに抵抗を覚えるようになってきたんだとわかった。逆にそれ以前の、まだ純粋に子ども向けだった頃の「漫画映画」には海外の作品同様に愛着が湧く。

 

 

中には例外もあって、宮崎駿監督や高畑勲監督の作品とか(あえて“ジブリ作品”とは言わない。苦手なジブリ作品もあるから)、最近なら片渕須直監督の『この世界の片隅に』はとても好きだったりする。でも、それらはほんとに例外中の例外で。ヲタクに向けて作られてないから。

 

今の日本のアニメって、作家性を高く評価されているカリスマ的な監督によるエッジの効いたちょっとアート系の匂いがする作品群(こちらはこちらでまた僕は大の苦手)か、一応、広い層を対象にしていながらも「大きなお友だち」を大いに意識した作品群、それらの要素が微妙に入り混じったタイプのものだとか、「アンパンマン」みたいに完全に幼児向けのものだったりいろいろあるとは思うんだけど、目立ってるのは圧倒的にアニメファンやアニメオタクをターゲットにしたもので、そこでまるで常識のように流通されてるヲタク的なコードとかお約束、内輪ネタ、そういう諸々の閉じた世界観(世の中の見方)が気持ち悪くてしょうがない。

 

何かといえば「神作画」とか…なんでも“神って”りゃいいってもんではない。“神”の暴落も著しい。

 

作品にのめり込めばのめり込むほど細かい部分にこだわりたくなるのはファンとして当然かもしれないけれど、一番の問題点は作り手の方もヲタクになってしまっていること。ヲタクがヲタクに向けて作品を発信してる。

 

で、そんな僕が大の苦手とする最近のアニメを作っている若手監督とスタッフやプロデューサーたちの奮闘を描く『ハケンアニメ!』を観て、どうだったかというと…。

 

…う~~~~ん……

 

まず、映画が始まって5分とか10分経たないあたりですでに嫌な予感が…^_^;

 

この映画、作品の作りが民放とかでよくやってる業界ドラマそのものなんですね。役者の演技も登場人物の設定だとか物語の展開、演出など、そのすべてが。旬の俳優さんが何人も出てるし。

 

僕はこれまで出演俳優に惹かれて民放のいくつかの連続TVドラマに挑戦しながら挫折し続けてまして、まともに最終回まで観続けられた作品がほとんどないんですが、それはどの作品も型通りで途中で飽きちゃうから。

 

必ずいつも何か「よさげ」な長台詞があって、そこで主人公がみんなの前で心情を吐露するとか、メンバーの中には頼れるおじさんがいて、主人公を励まして助力してくれるとか、そういう「お仕事ドラマ」のパターンみたいなのの繰り返しにしか思えなくて。実写なのに人物のデフォルメのされ方がまるでアニメみたいなんだよね。

 

 

この映画だと、中村倫也演じるなんか勘違いしまくったナルシスティックな言動を繰り返すアーティスト気取りのカリスマ・アニメ監督の描き方なんて典型的で、僕はアニメ業界のことは知らないからああいう奇人めいた人物が実際にいるのか、誰かをモデルにしてるのかどうかもわからないですが、最後まで彼の“キャラ”を受け入れることができませんでした。

 

 

 

いや、時々核心を突くような言葉を吐いたりするし、かっこ悪いところもちゃんと見せてはいるから、ただのイケメンのナルシーでは終わっていなかったけど、ああいう極端でアニメっぽいキャラ造形を実写ドラマで見せられるのがしんどくて。

 

 

そういうこともあって、僕はてっきりこの『ハケンアニメ!』の原作は漫画かアニメだと思っていたんだけど、小説だったんですね。ちょっとびっくりした。悪い意味で。

 

ガンダムやジブリアニメの台詞のあざとい引用とか(これが原作にもあるくだりなのか、映画化に際してのアレンジなのかは知らないが)、「わかっててわざと野暮なパロディしてまーす」なヲタク臭がほんと鼻についた。

 

中村倫也さんはドキュメント番組のナレーションや美術展の音声ガイドを担当されたりもして落ち着いたイケボが耳に心地よい俳優さんですが、僕はNHKの朝ドラ「半分、青い。」で彼が演じた“ゆるふわ男子”以来、中村さんのイケメン演技にアレルギーがありまして。あのドラマで注目しだした人もいらっしゃるんでしょうけど。

 

特に女性に大人気の人だから、この映画の彼のことも皆さんきっと「かわいい」と感じられたりしているのでしょうが、劇中での尾野真千子がそうしたみたいにぶっ飛ばしてやりたくてしょーがなかった(あくまでも役柄についての話で俳優さんご本人のことではないので、くれぐれもファンのかたは『“推し”の悪口言いやがって!許せん』と腹を立てられませんよーに)。

 

どんなにナルシストでもわがままでも「イケメンなら許す」っていうのは、どんなに性格悪くても「美人なら許す(ブサイクなら許さない)」というのと同じでとても不愉快な価値観だと思うんだけど、別にそれで構わない人たちも大勢いらっしゃるようで。僕はムリなんですよね、男だろうが女だろうが関係なく、何かと人を外見でジャッジしたり、ツンデレを“キャラ”みたいに振りかざす人。

 

ラスト近くで王子がタクシーの中でプロデューサーの有科に「恋人いるの?」とか「ここ何年も見てきたけど、心配になって」とか挙げ句は「よかったら結婚してあげようか」みたいなこと言ってて、ハァ?何ホザいてんだ、こいつ、と思ったんだけど、尾野さん演じる有科は怒るんじゃなくてドギマギしながら明らかに喜んでる。「イケメンなら、ってゆーか中村倫也なら許す」ってことか。

 

 

 

普通にハラスメント発言だと思うんだけどね。

 

それを「問題発言」としてではなく、ツンデレっぽく冗談めかした愛の告白、という「萌えシーン」として描く迂闊さ。これ、多分日本の映像業界全体に(そして受け手側にも)蔓延してる意識の低さだと思う。

 

日本のアニメとか(って、これは実写映画ですが)TVドラマが嫌いな理由の一つが、登場人物たちにこういう耳を疑うような台詞を平気で言わせちゃうところ。

 

あの場面で、有科Pは王子に真顔で「…それセクハラ発言ですから。今度言ったら監督降ろしますよ」と答えるべきだったと思う。そんで、えっ、と固まってる王子にニッコリ笑い返せばいいでしょ。

 

仕事仲間同士なんだからなぁなぁで無礼な言動も許されるんだ、とか、作品の結末を急に変えることにして大勢のスタッフに頭下げて彼らに迷惑かけまくっても結果よければすべてよしなんだ、という現場の理屈を「善きこと」のように描くのとか、ほんとに前時代的なものの考え方が皆さんお好きなのね、と。

 

 

アニメ業界とか芸能界の人などは「好きでその仕事を選んだ」んだから無理するのが当たり前で、それが嫌なら辞めちまえ、という論法。

 

きっと、ここでの「アニメ作り」というのは、ちょうど徹夜して学祭の準備をする学生たちのような感覚(おむすび作って振る舞ったり)で描かれてるんだろうけど、そしてモノ創りという行為にはそういう度を越した頑張りや狂気というものも時には必要なのでしょうが、プロの世界でそういう「無理して頑張る」姿勢を奨励するような展開って、僕は個人的には共感できないです。『バクマン。』からちっとも進歩してないなぁ。

 

映画の中ではアニメ番組「サウンドバック」のラストを変えたらどうよくなったのか、観客のこちらにはいまいちわからなかったし。

 

トップガン マーヴェリック』でトム・クルーズ演じるマーヴェリックが「俺にとってパイロットは職業じゃない。生き様なんだ」と言うように、作品を作る監督をはじめスタッフや関係者たちの「仕事」を超えた作品への入れ込み、思い入れと努力、それを受け手も共有することで仲間意識が生まれ、感動が広がっていく。

 

…そういうことなんだろうと思いますが、僕は共有できなかったな(理由はのちほど述べます)。

 

これは映画の作り手に問題があるのか、それとも原作者に原因があるのか知りませんが、やたらと人を顔の良し悪しみたいなもので判断するようなうっすい価値観(劇中で瞳は妙にその美貌を褒めそやされる)だとか、人の“選別”のしかたがそもそも間違ってる気がする。今どきアニメを介して「リア充」と「非リア」の区別とかします?ズレ過ぎじゃねーのか。

 

河原で友人とバーベキューしてたら「リア充」なの?だったら、仕事でみんなでアニメ作ってる人だってリア充だろう。人の孤独だとか痛みだとかをなんか勘違いしてないか?

 

“自分”の中にある勝手な基準を、世の中の基準だとかスタンダードな価値観だと無理やり決めつけないでもらいたい。

 

正直なところ、これだったらたまにNHKとかでやってるアニメスタジオやアニメ制作の裏側を取材したドキュメンタリーを観てた方がいいな、とさえ思った。問題点も含めて現状のリアルがわかるから。アニメっぽく描かれたアニメ制作の現場は、どこまでリアルなんだか門外漢にはわからない。

 

そういえば、朝ドラの出演者がいっぱい出てましたね。尾野さんや主演の吉岡さんもそうだし。いや、朝ドラの方も旬や売れっ子の俳優を起用してるからカブるんでしょうけど。

 

吉岡里帆さんについては、僕が彼女を初めて見たのは2015年の『幕が上がる』なんだけど、あの映画では注意深く観ていないとどこにいたのか気づかないぐらいの小さな役で、でも演劇部員の眼鏡っ娘ぶりはなかなか可愛かった。

 

 

 

その後、朝ドラ「あさが来た」でこれまた眼鏡女子を演じていて、その時の真面目で気が強い女性役は僕の中で吉岡里帆という俳優さんのイメージを形作るものとなったのでした。

 

そして、今回の『ハケンアニメ!』での彼女の役もまた眼鏡の女性で、新人監督ということでまわりにいろいろと気を遣うことはあるけれど、でも仕事に対して自分に厳しく(ゆえに同じ作品にたずさわる仲間に対してもその目は厳しい)、クリエイターとして自分が本当にやりたいことを貫こうとする、自我のハッキリした言うことはしっかり言う人、ということでは僕が以前から持っていた吉岡さんご本人のイメージそのままでした。

 

 

 

だから、ぴったりのキャスティングだと思ったし、吉岡里帆さんからはヴァラエティ番組に出演している時の様子などからいつも「頑張っている人」のオーラが漂っているので、それが映画の主人公・瞳の「戦い」と重なって、どこかに痛みやルサンチマンを抱えた者たちがアニメを通して浄化されていく姿に共感を覚えた人たちも大勢いるのでしょう。

 

ちょっと前まで「どん兵衛」のCMに出てた人が映画の中では即席カップうどんのCMに自作のアニメ番組を使われて(「みんな揚げちゃう」)憤慨するパロディめいた展開とか、コージーコーナーのエクレアが自分へのご褒美だったり、単なるアニメ的な人物造形ではない、吉岡さんだからこそのヒロイン像(おそらく、ほんとの“ヒロイン”は中村さん演じる王子なんだろうけど)になっていて、吉岡里帆さんにはいつか朝ドラの主人公を演じてほしいなぁ、と思いました。

 

「下町ロケット」(観てないけど)みたいにみんなで協力し合って何かをやり遂げること、視聴者に作品を「届ける」ことの素晴らしさを描いた物語がウケるのはわかるし、僕もところどころジ~ンとくる部分もあったんですが、一方でノれないところも多々あって。

 

他の皆さんも感想で書かれているように、「ハケンアニメ!」の「ハケン」って“派遣”のことかと思ってたら“覇権”という意味だったんですね。

 

まず、しょっぱなからこれが2本のアニメ作品のうち、どちらが一番かを決める「勝負」の話だとわかって、あぁまたそーゆーのか、と。なんでいつも勝ち負けみたいなことばっかやるんだろう。

 

 

僕はてっきりこれは新人監督が悪戦苦闘の末についに作品を完成させるお話なのかと思っていたんだけど、そうではなくて、映画が始まった時点で瞳が監督するロボットアニメ「サウンドバック 奏の石」の制作は結構進んでいて、わりと早い段階でTVでの放送が開始される。

 

だけど、「サウンドバック」(通称「サバク」)は王子千晴が作るバイクガールズアニメ「運命戦線リデルライト」に比べて人気は今ひとつで、瞳のことも「監督はこの作品限りかも」と陰口を叩かれる始末。さぁ、「サウンドバック」は起死回生して強敵「リデルライト」に勝利できるか?ってことで。

 

 

 

 

 

ロボットアニメだから子どもの頃のああいうアニメ作品を思い起こすところもあったし(「リデルライト」のバイクの疾走シーンは気持ちよかったし)、部分的にではあるけれどアニメ制作の過程を見られるのは興味深くはあったものの、「サバク(このタイトルの略し方も地味にヤだった)」の主人公の少女の声を担当する声優・葵(高野麻里佳)は僕が心底苦手な超音波みたいな甲高い声を発するし、「サウンドバック」という作品自体が(全体的なストーリーは描かれないし説明されないからわからないが)どこか「セカイ系」の香りがする。

 

ロボット同士の闘いが主人公の心と繋がっていて、その勝利が世界全体の救済に直接結びつくような。

 

そして、それはこの『ハケンアニメ!』という映画にも言えることで、ここでの話題の新作アニメはスマホの最新モデルとかゲームの新作かそれ以上のもののように大々的に宣伝されて、通勤通学電車の中でも駅でも誰もがスマホでそれを観ながら熱っぽく口々に感想を述べ合ってたり、街なかの巨大ディスプレイでも作品やそれについてのニュースが映し出されていて、まるで日本中の人々がそのアニメ対決を固唾を呑んで見守っているように描き出される。

 

アニメ勝負が世界の存続とかかわってでもいるかのように。

 

実家が貧しかった瞳は、子どもの頃から魔法少女アニメで描かれるような「魔法の世界」が信じられず、他の女の子に手渡されたお下がりのオモチャの魔法のステッキを拒絶してしまう。しかし、大人になってからふと目にした王子の作ったアニメ作品に感動してアニメ制作の道を志す。

 

その王子の方は、モテずに2次元の世界の女性キャラでオナニーばかりしていた思春期への恨みを武器に、かつての自分のような孤独な者たちに向けて作品を届けたいと願っている。

 

彼ら2人や瞳の住むアパートの隣人の小学生・太陽(小林郁大)が抱えているっぽい「生きづらさ」、そういった登場人物たちを「救済する」ものとしてアニメが扱われている。

 

クライマックスでは登場人物たち全員が浄化されたようになって、「勝負」には負けたけど、本気で作ったモノはしっかりと人々に届いたことがわかって映画は終わる。

 

柄本佑さんが演じるやり手プロデューサー・行城のキャラは儲け役で印象に残ったし(最後に歩き去りながら絶対アレやるだろうな、と思ってたら、やっぱりジャンプしてやってたしw)、彼の言葉にはモノを人々に提供する立場の人間の矜持のようなものも感じて、だからそういうところは面白かったんですが。

 

 

 

『マーヴェリック』も『ハケンアニメ!』も、必死で頑張る主人公たちがその努力の結果、多くの人々を“救う”物語で、今多くの人々が救いを求めていることを痛感するんですが、だけどここであえて、安易に群れの狂騒に浮かれるな、と言いたい。熱狂と狂信はよく似ている。

 

 

↓数少ない批判的なレヴュー。いちいち同意

 

僕は映画だとかアニメだとかが世の中の「役に立つ」から、人を救うから好きなんじゃない。

 

「たかが映画」「たかがアニメ」に過ぎないからこそ、「でも俺は好きなんだよ」と言えるのだ。

 

 

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