監督:安彦良和、声の出演:古谷徹、武内駿輔、宮内敦士、廣原ふう、内田雄馬、春野杏、上田耀司、林勇、伊藤静、遊佐浩二、成田剣、新井里美、潘めぐみ、小西克幸、古川登志夫ほかのアニメーション映画『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』。

 

宇宙世紀0079年。地球連邦軍とジオン公国との戦争の中、地球におけるジオン軍の本拠地オデッサを目指す連邦軍の戦艦ホワイトベースは、補給のためベルファストを経由する途中で小さな島に残る敵の掃討を命じられる。カイやハヤト、アムロらが島に向かうが、1機のザクの攻撃を受けてアムロの乗ったガンダムが行方不明になる。

 

ネタバレがありますので、ご注意ください。

 

TVアニメ「機動戦士ガンダム」(1979~80年 総監督:富野喜幸) ──通称“ファーストガンダム(初代ガンダム)”の第15話「ククルス・ドアンの島」(監督:荒木芳久)をもとに、同アニメ番組でキャラクターデザインと作画監督(「ククルス~」には不参加)を担当、またのちにコミカライズ作品として「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を執筆、その一部をアニメ化した際に総監督を務めた安彦良和が、TV版の総集篇である劇場版「機動戦士ガンダム」三部作 (1981~82年) や「THE ORIGIN」でオミットされたエピソード「ククルス~」を劇場アニメとして制作。つまり本作品がアニメ化されるのはTV版の放映以来43年ぶり。

 

 

 

 

TV版の1エピソードが原作だが、劇中の設定は「THE ORIGIN」のものを基準としているのでホワイトベースの進路が富野喜幸(由悠季)監督によるTV版や劇場版とは異なっていて、マ・クベが“大佐”ではなく中将だったり一部登場キャラクターも違う(リュウがいなくてスレッガーがいるとか)。

 

「スター・ウォーズ」などと同様、「ガンダム」は長い歴史があるシリーズで、人によって思い入れやこだわりのある作品や高く評価するポイントなどもさまざまでしょうから、あくまでもここでは「オレ基準」(以前もう一つのブログに書いた記事はこちら)で感想を記しています。

 

皆さんの評価とは異なるかもしれませんが、特別ガンダムのファンでもなんでもない、ただ80年代初期のガンダムブームの頃に子ども時代を過ごした現・おっさんのたわいない戯れ言ですので、純粋に作品の紹介や考察、分析のようなものを読みたいかたは、他のちゃんとしたレヴューをあたられた方がよいと思います。

 

なお、この『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』はTV版か劇場版のガンダム、もしくは漫画版「THE ORIGIN」のいずれかに触れている必要があって、“ファーストガンダム”というものの予備知識がまったくないままいきなり観たら(そんな人がいるのかどうか知りませんが)、物語の背景を理解するのは相当難しいでしょう。

 

客席には、今年の初めにドルビーシネマで上映されていた劇場版『銀河鉄道999』の時に比べると若いカップルの姿もあって、「ガンダム」は現役の“コンテンツ”なんだな、と。

 

この映画は「特別興行」ということで劇場のチケット料金は一律1900円で、招待券やポイント等は使えません(それ知らずに貯まったポイントで観ようとして観られなくて、大変なショックを受けたんですが^_^;)。だから映画館に来てるのは「それでも観たい」というお客さんばかりなので、最初から“いちげんさん”は想定されてない。

 

 

 

この映画を観て興味を持たれて、それから初めて“ファーストガンダム”や“THE ORIGIN”に触れる、という順序でもいいと思いますが。

 

ちなみに、今では“作画崩壊”回の代表作のようなTV版「ククルス・ドアンの島」というエピソードを僕がちゃんと認識したのは90年代の初めとだいぶ遅くて、関西で深夜に週一で3話連続でファーストガンダムが再放送された時でした。

 

作画の荒れについて話題にしたかどうかはもう覚えていないけれど、当時同番組を観ていた知人たちとこのエピソードについて喋った記憶はある(こちらは名作として今でも語られる「時間よ、とまれ」についても)。ジオンの脱走兵をめぐってザク対ザクの戦いが繰り広げられる、他のエピソードとはまったく絡まない単発の話だったから印象に残ったのかもしれない。

 

僕はTV版の荒々しいタッチが好きなので、観ている間は絵の歪みだとかデッサンの狂いみたいなのはそんなに気にならなかったんだけど、その後、インターネットでこの「ククルス・ドアン」がネタにされるようになって、アップされた画像などをあらためて見てみて笑わせてもらいました。

 

 

オムツ穿いたひょっとこみたいな“ドアンザク”と、顔が折りたたまれちゃってるガンダム。現代アートか^_^;

 

昔集めていたガンダム消しゴム(ガン消し)の中にも、「ククルス・ドアン」に出てくるような異常に細身のザクがあったなぁ、なんてことを思い出したりして。

 

今回の映画でも、ドアンが乗るザクは“鼻”の部分が長めに見えるようにデザインされている

 

そもそもファーストガンダムのTV版って「ククルス・ドアン」以外でも作画の粗さをイジられることが多くて、のちに部分的に新しく描き直した画に差し替えた劇場版と比べてTV版自体の作画レヴェルをあれこれ言われる中で、「ククルス~」の作画の崩れっぷりは何十年も語り継がれるほどぶっちぎりだったということですね。

 

そういう不名誉な部分で記憶されることになってしまった(ストーリーについては比較的肯定的な意見もあるが)エピソードを劇場作品としてリメイクしよう、というところに、「不憫な子」に対する作り手の愛を感じますが。

 

 

怯えて逃げようとする敵の兵士をガンダムで踏み殺すアムロ、やたらと泣き虫なフラウ・ボウやアムロのことでなぜか妙に弱気なブライトなど、TV版とのキャラの違いに困惑

 

 

アムロ以外、物語の本筋にはほとんど絡まないホワイトベースのメインクルー

 

 

で、もう最初に結論から言うと、観てよかったです。…ただ、作品として大満足だったとか、胸が熱くなって涙ぐんだとか、そういうことはなかった。

 

僕は以前4DXでリヴァイヴァル上映された安彦監督の83年の映画『クラッシャージョウ』を大酷評してしまいまして、アニメ化された「THE ORIGIN」(BSで放送されてたのを視聴)の出来などからも安彦さんの監督としてのセンスは80~90年代あたりで止まってんじゃないか、と思ったもんだから、かなり警戒していたんですよね。

 

だけど、『ククルス~』に対しては辛口の感想もある一方で、感動した!圧倒的じゃないか我が軍は…といったご意見も少なからずあるので、観ないでぶつぶつ言ってるよりもちゃんと劇場で観てから文句言おうと思いまして。

 

安彦良和さんって1947年生まれの団塊の世代で、ちょうど僕の母親と同世代なんです。幼い頃は氏がキャラクターデザインを手がけたアニメをよく観ていたし、「ガンダム」といえば僕にとっては安彦キャラが出てくるファーストガンダムのこと。それ以外の作品には興味がない。

 

なので、なんだかんだ言いつつもやっぱり彼が監督した“ファーストガンダム”はこの目で観ておきたかった。ガンダムを監督するのはこれが最後、とも仰ってますし。

 

それで、普段は劇場でまず出すことはない1900円を支払って観たのです。

 

無人のはずの島で敵軍の脱走兵が戦災孤児たちと暮らしている。その男、ククルス・ドアンは島にやってくる者たちを自身のモビルスーツ・ザクによって襲い、子どもたちを守ろうとする。そこへアムロたちホワイトベースのクルーがやってきて…という話で、物語そのものはシンプルで入り込みやすいし、ドアンの“仕事”がなんだったのかわかる最後にはちゃんとカタルシスもある。

 

 

 

 

 

背景画も丁寧で、『クラッシャージョウ』を観た時のような激しい嫌悪に襲われることもなく(後述するように呆れ返るような展開もあったが)、覚悟していたほどに不快感をもよおすことがなかったことにまずはホッとしました。

 

この作品の舞台となるのは通称「帰らずの島」で、そこでドアンと20人の子どもたちの生活が描かれて、助けられたアムロがドアンに隠されてしまったガンダムを探し続ける中で彼らとの交流が深まるが、やがてジオンから送られてきた傭兵部隊“サザンクロス隊”とドアンの関係が明らかになる。

 

 

二刀流といえば対ギャン戦を思い出すが、マ・クベにちなんでだろうか

 

子どもたちの生活描写については安彦監督は高畑勲監督の作品を意識していたそうで、なるほど、喧嘩したり仲直りしたり、みんなで賑やかに楽しい時間を過ごしたり、子どもたちの面倒を見ながらドアンのことも心配する年長の少女や連邦軍の兵士であるアムロに憎しみを募らせる少年、泣き虫な幼児など、アニメ作品らしく子どもたちはそれぞれわかりやすくキャラ付けされていて、昔観ていた「世界名作劇場」的な世界を彷彿とさせるものがあったし、あるいはTV版第27話「女スパイ潜入!」の少女ミハルと彼女の弟、妹たちとカイ・シデンの交流を思い出したりもした。

 

 

 

 

でも、やりたいことはわかるんだけど、残念ながら僕はこの子どもたち関連の場面は結構長く感じてしまったのでした。

 

108分の作品でどれぐらい子どもたちの描写に割かれていたのか正確なところはわかりませんが、おそらくはああやって時間をかけてアムロと子どもたちを絡ませることで彼らをただのモブではなくて、それぞれが個性のある「守るべき存在」として印象づけたい、という狙いがあったんでしょう。

 

だけど、その方法がずいぶんと拙く感じられてしまって。

 

たとえば高畑監督や、あるいは宮崎駿監督の作品で描かれる子どもたちの生態を見ているような安定感がなくて、なんだか作り物めいた、大人が頭で考えた子ども像を延々見せられてるようでこっぱずかしかったんですよ。

 

食事のシーンにしても、『天空の城ラピュタ』に出てきたようなシチューがテーブルに並べられてみんながそれをうまそうに食べたりするんだけど、そこで交わされる会話も、子どもたちがアムロと打ち解けていく過程も、すべてがぎこちなくて落ち着かない。まるで若手の監督が作ってるみたいな脚本と演出。

 

TV版では、ホワイトベースの中で民間人の老人がわずかな隙に子どもの食事を盗む描写があったり、砂漠の中の店でアムロが水と一緒に食べる固そうなパン、あるいはカイを警戒して顔をしかめながらやはり固そうなパンを齧るミハルの幼い弟と妹など、この映画よりもはるかに短い放送時間の中で記憶に残るいくつもの場面があるんだけど、この映画の子どもたちの描写はTV版にあったような脳裏に焼きつく濃縮されたイメージというのがいまいち湧いてこなかった。

 

子どもたちの箇所はもっと短くまとめられたんじゃないか、と。なんとなく漫然と大勢の子どもたちの紹介をされてるようで、「ここはトバしていいから他の場面を見せてくれないかなぁ」と感じてしまった。

 

それでも、まだあの辺は真面目にやってる感じがあったんだけど、スレッガーの乗るジムが島に突っ込んできてジムの頭部がとれる悪ノリ(セイラさんの「不時着しますわよ」みたいな台詞廻しもヘンだったし)とか、何よりもサザンクロス隊の隊長とドアンが死にもの狂いで戦っている時に、逃げ出したヤギと子どもたちの追っかけというしょーもないおちゃらけた場面を挿入したことにはそのあまりのセンスのなさ、せっかくの作品を自らぶち壊す行為に心底寒いものを感じてしまった。

 

「THE ORIGIN」でもしばしばああいう唐突なおふざけシーンを入れてたけど、照れ隠しなのか気分転換のためなのか知りませんが、ほんとにつまらないです

 

そういうのは絵コンテのマスの外でやっててくださいよ。映画の中に持ち込まないで!ムカムカ

 

あの場面のせいで、この映画で描かれた「戦争」も「殺し合い」も「人の死」も、ただの嘘っぱちの「ごっこ遊び」、冗談になり下がってしまった。

 

 

ぎり戦中生まれである富野さん(ちなみに富野由悠季と宮崎駿は同じ1941年生まれ)はともかく、安彦さんにとって「一年戦争」は本気の戦争なんかではなく、学生運動かなんかの代わりだったのではないか。お祭りの一種だったんだろう。そうでないなら、命のやりとりをしてる最中にあんなふざけた描写などできないはずだ。

 

サザンクロス隊の面々もそうだったけど、全体的に登場キャラのデフォルメのしかたが極端過ぎるんだよね。富野さんは(少なくとも“ファースト”の頃は)各キャラクターをもうちょっと繊細に、そして魅力的に描いていたと思う。

 

 

 

音楽の使い方も酷かったなぁ。

 

TV版の劇伴が何曲か使われてるんだけど、選曲も曲が流れるタイミングも最悪で、せっかくのいい音楽がちゃんと活かされずに無駄遣いされている。「この曲流せば、おっさんたち感涙だろ」って魂胆が見え見えな、あまりにもあざとくて雑な音楽の使い方はとても残念でした。

 

比べる必要もないんだけど、でも現在劇場公開中の『トップガン マーヴェリック』と比較すると、ほんとにすべてが雲泥の差なんだよなぁ。

 

ハリウッド大作映画と日本のアニメを比べても意味がない、と言われるかもしれないけど、トップガン』の1作目と同じ年に公開された『ラピュタ』は観終わったあとの満足感はハリウッド大作並みかそれ以上にあったでしょう。アニメだからどーこうとか予算がどーこうとかじゃなくて、作り手の志の違いだと思う。

 

『マーヴェリック』も80年代当時へのノスタルジーを喚起させる効果があったけど、でも映画自体はしっかりと「今」の仕様だった。80年代なんて知らない世代も楽しめる作品に仕上がってたでしょう。『ククルス・ドアン』はずいぶんと“いにしえ”の香りが漂っていた。観客の若者がおじいちゃん監督に合わせてあげなきゃいけないような。

 

立場は逆だけど、『ククルス・ドアン』の敵役のサザンクロス隊のメンバーと『マーヴェリック』のトップガンの精鋭たちが頭の中で重なったんですよね。

 

 

 

 

たとえ今は敵であってもサザンクロス隊の面々はククルス・ドアンとは元同僚だったわけだし、だから彼らのキャラクターをもっとしっかり描き込めば、ただの勧善懲悪を超えたプロ同士の熱き闘いがスクリーンで繰り広げられただろうに。

 

でも、サザンクロス隊の新しい隊長はひたすらドアンを憎むキレやすいデカブツなだけだし、「ヒャッハー!」と浮かれてるタトゥー男なんかも、誰もがいかにもマンガっぽいキャラクターのままに終始する。

 

ドアンと男女の関係にあった女性パイロットとか、いくらなんでも観客が想像で埋めなきゃならない部分が多過ぎる。

 

冒頭でドアンが操縦するザクに倒されるジムのパイロットたちにしても、ただぶざまに怯えながら殺されるだけで、単なる“やられ要員”なんだよね。

 

 

 

そうじゃなくて、あのジムのパイロットたちはとても優秀なんだけど、そんな彼らでさえもドアンにはかなわないのだ、というふうに描いてこそ、ドアンの並外れた戦闘能力が実感できるんでしょう。

 

安彦さんの登場キャラクターの描き分けはほんとに単純で、凄い奴と雑魚があっさりと選別されてしまっているんだな。そこがこのクリエイターの限界なのだと僕は思う。

 

モビルスーツ同士の“殺陣”は迫力ある場面(ドムみたいなホバー機能で滑るように移動してヒートサーベルを操るザクなど)もあったけど、やっぱり細くて均一な線で描かれたメカたちからはどうしてもCGっぽさが拭えないし、かつての手描きの絵による、時にはデッサンの狂いも構わず「かっこよさ」を優先させた大胆な動きや構図はCGでは再現が難しいのか、窮屈な印象を受けた。

 

 

 

…えーっと、なんだか貶してばかりでまったく褒めていませんが(;^_^A

 

作品として大満足だったり胸が熱くなって涙ぐんだりはしなかった、っていうのはそういうことです。

 

それでも、古谷徹さんのアムロの声や、古川登志夫さん(今回、古川さんが安彦監督の1つ年上だと知って結構衝撃だったんですが。えっ、諸星あたるが来年喜寿!?^_^;)のカイの声を久しぶりに聴けたのは嬉しかったし、幼い頃から親しんできたファーストガンダムの世界にもう一度触れられたのは感慨深いものがありました。

 

主題歌を唄う森口博子さんは「Zガンダム」以来、ガンダムと縁の深い人だけど、僕は80年代や90年代当時よりも、むしろあれから時を経た今回の彼女の歌声の方が胸に響いたし、粗が少なくないこの映画を大いに救っていたと思う。

 

歳を重ねること、年月を経ること。それらがけっして悪いことではないと思える、この長い時間の流れに身を委ねることの心地よさに浸りました。

 

だから言いたいことはいっぱいあるけれど、観てよかったです。

 

 

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