黒沢清監督、蒼井優、高橋一生、東出昌大、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、笹野高史ほか出演の『スパイの妻<劇場版>』。

 

第77回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞。

 

1940年。神戸で貿易会社を営む福原優作(高橋一生)は、仕事で甥の竹下文雄(坂東龍汰)を伴って中国の満州へ赴く。かの地は実質的に日本の関東軍によって統治されていた。優作の妻の聡子(蒼井優)に昔からのなじみで今は憲兵となった津森泰治(東出昌大)が、時節柄、外国人との付き合いや舶来品を使うことをひかえるよう忠告する。日本に戻った優作にどこか違和感を持った聡子は、会社を辞めて旅館の一室にこもっている文雄を訪ねる。

 

ネタバレがありますので、映画をご覧になってからお読みください。

 

今年のヴェネツィア国際映画祭で受賞してニュースにもなっていましたが、これはもともとこの規模での公開の予定だったのか、それとも現在大ヒット中の某アニメ映画の上映回数の大幅な増加の煽りを食らったせいなのか知らないけれど、僕が住んでるところではわずか1館でしか上映していなくて、またかよぉ~、と(;^_^A

 

先日観た『ミッドナイトスワン』も(あちらはもとから上映館が1館だったですが)公開開始直後は満席続きで懲りたから、今回は事前に余裕のある回の席を取っておいたおかげで無事観られました。

 

「劇場版」とあるので、別のヴァージョンがあるのだろうか、と思っていたら、もともとNHKのBS8Kで6月に放送された作品なんですね。

 

それを劇場映画として映像をいろいろ調整して「映画」っぽく仕上げたようで。内容は同じだということですが。

 

さて、早速文句を言ってしまいますが、正直なところ、最初のワンショットから「なんだか画質があまりよくないヴィデオ映像みたいだなぁ」と思ってしまった。なんかTVの走査線が見えていそうな感じで。

 

映画の終わりに流れるエンドクレジットも眼鏡の度が急に合わなくなったのかと思ったほどに文字が二重にブレていて読みづらかったし、本篇の映像の方も映画の前に流されるローカルCMみたいな画質で美しさが感じられなかった。

 

これならフィルムで撮るか、8Kのまま手を加えずに上映してもらいたかった。いや、通常の映画館のスクリーンで8Kの映像が映し出せるのかどうか僕は知りませんが。

 

黒沢監督はインタヴューの中で8Kの映像はクリア過ぎて「『俳優が演技している』ふうにしか見えない。演技をしている人がセットのなかで台詞を言っているところを、生々しく中継しているふうにしか見えないんです。」と仰っていて、つまり「映画らしく見えるルック」を狙っての映像の調整だったのだろうけれど、この映画の演出自体がそもそも役者が台詞を喋る舞台演劇っぽいので、だったらむしろ舞台中継のように鮮明な画面のままの方が合っていたんじゃないかと思うんですが。

 

この映画に関しては主演の蒼井優さんの演技を絶賛する声が多くて、そのことにも僕はちょっと疑問があったんですよね。

 

あ、蒼井優さんの演技力についてどーのこーのとイチャモンつけるつもりはありませんので。それは高橋一生さんに対しても同様。

 

 

 

お二人とも数多くの映画やTVドラマ、演劇作品に出演されていて多くの人々にその才能を高く評価されている俳優さんたちだし、あいにく高橋さんの出演映画は僕はほとんど観ていないんですが(ジブリアニメとか『スウィングガールズ』のゲロ吐く先輩とかシン・ゴジラぐらい)、蒼井優さんはやはりそんなに本数は観ていないものの、彼女が10代の頃からその出演作(岩井俊二作品や『フラガール』など)を拝見してきたんで、今さら彼らの実力を貶める気なんかない。

 

ただ、多くの人たちが「巧い」と褒めているこの映画での彼女の演技に、僕は山田洋次監督の『おとうと』や『東京家族』『家族はつらいよ』などの時と同様の「不自然さ」を覚えたんですよね。

 

あれらの作品での彼女の演技を僕は「巧い」とは思えなかったように、この映画での蒼井さんの演技はまさしく黒沢監督が言われていたように『俳優が演技している』ようにしか見えなかった。「映画的な演技」には見えなかったんです。いや、映画的、ったってリアリズムのものからデフォルメされた様式的なものまでそのスタイルはさまざまだから、ここで言ってるのは写実的かどうか、ってことですが。

 

Twitterで「西島秀俊と小池栄子で見たかった」というご意見を目にしたけれど、激しく同意。演技力の話ではなくて、映画としての見た目の説得力というところで。

 

高橋一生さんは現在39歳だし蒼井優さんは35歳なので年齢的には別におかしくはないんだけど、蒼井さんは少なくとも映画の中では戦前の貿易会社の社長夫人には見えないんですよね。まだどこか娘さんの雰囲気がある(津森が彼女のことを「14歳の少女のまま」だと言っているし、僕はわからなかったですが、彼女が着ている洋服に幼さを強調させる部分があるそうなので、聡子が若く見えるのはわざとなのでしょうが)。彼女が義理の甥の文雄から「叔母さん」と呼ばれるのには違和感しかない。40手前の高橋さんも若く見えるから、文雄役で現在23歳の坂東龍汰さんとそんなに歳が離れているように見えないのです。彼が「叔父さん」と呼ばれるのも、やはりしっくりこない。

 

 

 

もっとも、「写実的ではない」というのはこの映画に関しては悪口ではなくて、“芝居がかかった「演技」”というのはこの作品の内容ともかかわってくるので、蒼井優さんのどこか作り物めいた奥様演技も「映画内映画」での聡子の演技のような「演出」の一つと捉えられなくもないですが。

 

 

 

高橋さんの朗々とした台詞廻しも、それから演技力に関してはわりと手厳しい評価もされることのある東出昌大さんも、この映画での三人の演技のスタイルには統一感があって、だから途中から舞台劇を観ているつもりで彼らの演技を観ていました。そういう意味では黒沢監督の演出は終始一貫していた。

 

 

 

なので、なんかキャスティングに対して難癖めいたこと書いちゃいましたが、三人のアンサンブルはよかったし最後は納得しました。

 

ロケ撮影した庁舎の建物の面白い使い方(本来、建物の入り口付近である階段のあるスペースを“部屋の中”という設定で使っている)なども、限られた予算だからこその工夫といえるし、さまざまに戦前風の建物をバックに撮られた場面の数々には野外演劇の趣きもある。

 

夫婦の寝室にいきなり他の女が入ってくる場面に見られるような「舞台演劇っぽさ」をあえて強調することで、フィクション=作り物っぽさを際立たせたり、あるいは一組の男女が「国」を相手に戦うメロドラマ、というこの映画の内容自体が劇中で優作が妻をヒロインにして撮っていた自主映画をなぞっていて、「入れ子構造」のような効果をもたらしている。

 

優作も聡子も「演技」をしていて、互いを出し抜いたり騙したりする。

 

聡子が優作と一緒にいようとすると優作は離れていく、戻ってきたと思ったら今度は女を作っているのではないかと疑わしくなる、だから…と延々追っかけっこしている。

 

要するに、デヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』のような夫婦とか男女についての「寓話」ということなのでしょう。

 

優作と文雄が満州で見た日本軍による残虐行為も、その証拠となるノートやフィルムをめぐる逃避行も、結局のところこの夫婦のイチャコラを盛り上げるための演出に過ぎない。

 

だから、聡子は夫が金庫の中に隠し持っていたノートをわざわざ憲兵に差し出してなんの罪もない文雄を拷問に遭わせても平然としているし、優作の方は別々にアメリカに逃げるはずだった聡子を匿名の手紙でやはり憲兵に密告して逮捕させる。やられたらやり返す。

 

 

 

普通に話を追っていると、彼らがやってることは不必要なことばかりだ。

 

僕が『ゴーン・ガール』を観ていてなんだかピンとこなかったのは、この男女の関係の寓意がよく理解できなかったから。観終わったあとに…だからなんなんだ、という感想しか湧いてこなかった。

 

この『スパイの妻』でも、捕まった聡子は精神病院に入れられるが、1945年に神戸が空襲に遭って病院は火の海となり、そこから逃げ延びた彼女は海にたどり着いて浜辺で号泣する。

 

それはずっと一緒にいたかった夫が自分を置いて一人で去っていったことへの悲しみだったのだろうけれど、最後にとってつけたように「優作の死亡の証拠書類には偽装の跡があった」「聡子は優作を追ってアメリカに渡った」みたいな字幕が入る。『ゴーン・ガール』の最後のあの一言ですよね。「これが結婚なのよ」。追っかけっこ再開w

 

人を食ったような話、というのが最終的な感想かな(;^_^A

 

ただ、これは監督さんや脚本家のかたがたはもちろん意識されているのだろうけれど、優作が満州で見た人体実験の記録は、史実では最終的にはアメリカの手に渡り、虐殺行為の加害者たちは誰一人として罰せられなかったんですよね。

 

実は男女の間のいざこざよりも、この事実の方がよっぽど恐ろしいと思うんですが。

 

この映画は角度によって異なる見え方をする作品といえるだろうか。

 

精神病院に入れられた聡子は、彼女をそこから出してやろうとする医師(笹野高史)に、

 

「わたくしは狂ってはおりません。でも、それゆえわたくしは狂っているのでしょう、この国では(※うろ覚えなので正確ではありませんが、こんな内容の台詞)」

 

と答えて病院にとどまる。

 

彼女の言葉は、映画の初めの方で憲兵の津森が洋装で舶来のウイスキーを楽しむ聡子にした、彼女が今後受けるだろう「批判」を警告する言葉への返答になっている。この国では私は「まとも」として扱われないのだ、と。正気と狂気が反転した世界。それはまさに今のこの国のことを言い表わしている。

 

海外の人々と交流し、外国の品々を楽しんでコスモポリタンとして生きる。「国」が間違ったことをしでかしたならば、それを正そうとする──優作や聡子がしていたことが「売国奴」などと罵られるような世の中への恐怖。

 

優作は“スパイ”ではないし、聡子も“スパイの妻”ではない。彼らは正しいことをしただけだ。

 

僕は男女のことはよくわからないし恋愛にもあまり興味が湧かないけれど、この映画で描かれた愛し合う個人よりも「国」という得体の知れない概念の方が尊ばれるような世界が迫ってくることへの危惧は、今の時代にもっとも“正常”な感覚だと思います。

 

 

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