是枝裕和監督、安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太(ひいらぎひなた)、角田晃広、高畑充希、中村獅童、田中裕子ほか出演の『怪物』。

 

音楽は坂本龍一。

 

第76回カンヌ国際映画祭、脚本賞(坂元裕二)、クィア・パルム賞受賞。

 

諏訪湖を臨む郊外の町。クリーニング店で働くシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、小学5年の息子・湊(黒川想矢)から学校で担任教師・保利(永山瑛太)に暴力を振るわれ、暴言を吐かれたと聞いて学校を訪ねる。しかし、校長の伏見(田中裕子)をはじめ当事者である保利や教師たちの応対からは誠意が感じられず、その後も湊の身に異変が起こるたびに学校側の釈明を聞くが、早織から責任を問われた保利は彼女に湊が同級生の星川依里(柊木陽太)を苛めている、と告げる。

 

去年の『ベイビー・ブローカー』に続く是枝監督の、カンヌでの受賞も記憶に新しい最新作。

 

安藤サクラさんは2018年の『万引き家族』以来、2回目の是枝作品への出演。

 

2019年の『真実』はフランスを舞台に出演者は主にフランス人俳優たちで作られたし、『ベイビー・ブローカー』は韓国人俳優が出演して舞台はやはり現地で、ということだったので、かなり久しぶりに日本を舞台に日本人俳優を使って撮られたことが嬉しかった。

 

まぁ、『万引き家族』は定期的にTVで放送されているし、先日も地上波の「土曜プレミアム」で『海街diary』が放映されたばかりだから、そんなに久しぶりに日本が舞台、という気もしないんですが。

 

で、さっそくですが、以降はストーリーのネタバレがありますから、まだご覧になっていないかたは鑑賞後にお読みください。

 

是枝裕和監督の映画としては使われている手法は珍しいタイプのものだから、ひょっとしたら作品は評価が分かれるかもしれませんが(小学校を舞台に“いじめ”が描かれる内容なので、観る人によってはツラい気分になる可能性もあります)、鑑賞後にいろいろと頭の中を駆け巡る思いを反芻しながら他のかたたちのさまざまな意見・解釈を読むと映画としての面白さも広がるだろうし、僕は一見の価値がある作品だと思います。

 

シナリオの構成は劇中でほぼ同じ事柄が3つの視点に分けて描かれる、いわゆる「羅生門形式」を思わせるもので、一つは安藤サクラ演じる早織、もう一つは永山瑛太演じる教師の保利、最後は黒川想矢が演じる早織の息子・湊(みなと)の見た目で、建物の火事、教師による生徒への暴力の一件の真相、それらの前後、何がどのようにしてすれ違い、誰がどう傷ついたのか、「怪物」とはなんなのか、何が「怪物」を生み出すのか、といったことが徐々に明らかになっていく。

 

…といっても、ミステリー的な面白さで興味を惹きつけながらも、最後に明快な答えが出てすっきりするタイプの物語ではなく、登場人物たちの描かれ方に対しても観客の反応の中には批判的な意見もある。

 

いわく、複数の視点を導入したことで作為が目立ち、その分、それぞれの人物像がボヤケて、また肝腎の少年たちの内面が置き去りにされているのではないか、といったような。

 

この映画に関しては、観る人がどんな内容を期待して何に注目しているか、どこに不満を持ったのか…などが知れるので、作品への批判も大変興味深いんですが、僕がこの『怪物』を観ていて連想したのは、先月末に観たばかりのケイト・ブランシェット主演の『TAR/ター』でした。

 

人は物事が部分的にしか見えていなくて、そこをどう切り取るかで相手の印象や人物像も変わってくるし、そのことで時には不当な評価を受けたり理不尽に陥れられたりもする。

 

『怪物』で教師の保利がこうむったこと──身に覚えのない暴力行為をでっち上げられて、それがもとで退職を余儀なくされる、という展開は『TAR/ター』と重なる部分がある。

 

また、是枝監督の2017年の作品『三度目の殺人』で、「盲人たちが象の足や鼻、耳をそれぞれ触って異なる解釈をする」という寓話が語られていたけれど、この「物事や人物の一部だけ理解して、すべてを理解したと錯覚してしまうことのたとえ(ノヴェライズ版『三度目の殺人』より)」はそのまま『怪物』で描かれていることに繋がっている。

 

今回、シナリオを担当してお見事カンヌで受賞されたのは脚本家の坂元裕二さんですが、『三度目の殺人』との共通点はとても興味深いですね。

 

それと、この映画に笑いの要素はほとんどないんだけど(生徒の母親に学校に乗り込んでこられた担任教師・保利が緊迫した空気の中で唐突に飴を舐めだす場面には、安藤サクラさんのリアクション演技も含めて思わず笑ってしまうが)、まるでアンジャッシュのコントのように(あのコンビも片割れがプライヴェートでの行為を批判されて芸能活動を謹慎してましたが)ほんとは噛み合ってない会話が双方の思い込みと勘違いであたかも噛み合っているように錯覚させつつ進んでいくところが似ていなくもないし、「普通」や「男らしさ」をめぐるいろんな問題を内包しながらも、結局のところおおもとの“事件”は少年の「性」の目覚めが直接的な一因だったところなど、こう言ってはなんだが、ハッキリ言って“滑稽”でもある。

 

 

 

 

物語を追っていくと、何度も「そんなバカな」という偶然によって勘違いが積み重なっていったり、あるシチュエーションが視点を変えた瞬間にまったく別の意味を持ってくるところなど、大泉洋主演の『アフタースクール』的なコメディをめっちゃシリアスに撮った、みたいな作り。

 

真剣と滑稽は両立するし、事実、この社会は信じられない偶然の連続や思い込みによってしばしば突拍子もないことが起こる。誰もが“幸せ”を求めながらも、すべての人が幸せを感じることは難しい。しょーもない、しょーもない。

 

最初、我が子が“いじめ”に遭っている、もしくは担任教師から虐待を受けている恐れがあることがわかって(証拠となる傷もあるし)早織が湊の通う学校に向かい、校長や教師たちと対峙する場面はしばらくかなりストレスフルで、学校側のあまりに不誠実で非常識な態度に早織でなくてもキレそうになるが、それが次の保利の視点から描かれるエピソードで、これまであれほど観客が共感し、ともに怒りに震えていた早織がものの見事に「モンスターペアレント」と化してしまう。

 

保利の側からすれば、やってもいない暴力行為を糾弾されて謝罪させられるという、悪夢のような出来事なわけで、このあたりにはちょっとロザムンド・パイク、ベン・アフレック主演の『ゴーン・ガール』っぽさも(あの映画も3つのパートに分かれていた)。被害者と思われていた者がついた「嘘」が物語を動かし、まわりの者たちに多大な影響を及ぼす。

 

「いじめ問題」を扱っているように思えた映画は、しかし本当はそうではないことが次第にわかってくる。

 

 

父子家庭の星川依里に嫌がらせしたり、彼と仲がいい湊をからかい続けていた同級生の男子たちの加害行為は最後までおとなたちに気づかれないままだし、いじめの現場を目撃していたにもかかわらず星川や湊に救いの手を差し伸べずに、いじめっ子に加担するような形で結果的に保利を退職に追いやることにもなった女子たちもまた、その罪を咎められることはない。

 

この映画は“いじめ”や教師による生徒の虐待行為を批判することが目的で作られてはいない(そもそも「教師による虐待行為」は冤罪だったのだし)。

 

じゃあ、何を描いていたのかといえば、先ほどの『TAR/ター』と共通することと、もう一つはセクシュアリティの問題。

 

このことがLGBTQ+の点から批判があるようだし、僕もちょっと疑問があります。

 

カンヌでは脚本賞と同時にクィア・パルム賞も受賞しているわけですが、同賞は「LGBTやクィアをテーマにした映画に与えられる」ということで、それは劇中での湊と星川の関係が同性愛、あるいは彼らがセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)として描かれているから、なのだろうけれど、う~ん、どうなんだろう。

 

湊は、または星川は同性愛者かもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこんとこはちょっとよくわかんない描き方だったでしょう。

 

世の中には物心ついた頃から、場合によってはそれ以前から自分が同性愛者だと、またはLGBTQ+のいずれかだと意識している人もいるかもしれませんが、そうじゃなくたって小学生や中学生ぐらいの年頃には同性にときめいたり肉体的な接触なんかは別に珍しいことじゃないんじゃなかろうか。自分の経験で言ってますけど。ふざけて抱き合ったりキスしたりすることぐらいあったよね(えっ、俺だけ?^_^;)?

 

だから、湊が星川に感じた欲求をもって、彼らをLGBTQ+と見做したり、この映画がそういう題材を扱っているのだ、と断定するのはどうなんだろう。

 

そんなこと言い出したら、誰でもLGBTQ+ということになっちゃわないか。

 

花の名前をたくさん知ってたり、女の子たちと仲がよければ、同性愛者だとか“女子”だってことになるの?だったら、今やってる朝ドラ「らんまん」の主人公はLGBTQ+なんですか?

 

そういえば、今「らんまん」には安藤サクラさんのお父さんの奥田瑛二さんが出演されてますね(無理やり脱線)。

 

 

「LGBT理解増進法」の罪と共振するクィア映画『怪物』

http://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2023/06/lgbt.php

 

 

…湊や星川がLGBTQ+かどうかはともかく、湊が「生きづらさ」を抱えていることは確かで、その最大の要因が「男らしさ」のプレッシャー。母が口にする「普通の家庭」という言葉もそう。

 

ラガーマンだった湊の父親は、浮気相手とドライヴ中に事故で死んだ、と説明される。

 

母親の早織に、お父さんのようにはなれない、と言う湊は「男らしさ」の呪縛に苦しみ、組体操の一番下で支えられずに崩れてしまった彼に何気なく「男らしくないぞ」という言葉を発した担任の保利が自分に暴力を振るい、お前の頭の中身は「豚の脳」と入れ替わっている、という暴言を吐いた、と嘘をつく。

 

 

 

星川への言いようのない性衝動と、「男らしさ」を気安く口にする保利への抵抗が合わさって、湊にそのような行動をとらせた──要するにそういう真相で、1本の映画の中にいくつもの要素が混在しているので一体何を描こうとした作品なのだろうと少々頭がゴチャゴチャしましたが、作品をいろいろと腑分けしてみれば、最終的には「有害な男らしさ」の弊害に行き着く。

 

保利は早織がシングルマザーであることを知っても「うちもそうですけど」と意にも介さず、そんなことで甘えるな、と言わんばかりのふて腐れ気味な態度で早織に応じる。

 

保利は保利で、自分も母もこれまで頑張ってきたんだから、同じ条件で生活している早織に厳しい目をむけたのかもしれないし、彼がことあるごとに「男らしさ」を口にするのも、無意識のうちにそうやって自分自身を鼓舞してきたのと同様のことを生徒たちに求めていたのかもしれない。

 

そんな保利はことさらマッチョではないし、普段の言動だっていかにもな体育会系というわけでもなく、子どもたちにだって優しい教師なのだが。

 

彼が湊の“標的”にされてしまったのも、生徒たちからもかばわれず、犯してもいない罪に対する罰を与えられることになったのもすべて悪い偶然に過ぎなくて、ほんとにお気の毒としか言いようがないけれど(通常のドラマならば、星川依里を虐待していた中村獅童演じる彼の父親こそが罰せられるべきだろうに、そうならないのが意地が悪い)、ゴムがないのに恋人とセックスしようとしたり、細かいところを拾っていくと保利はこの世の中のどこにでもいる「普通」の男性の代表格みたいな存在で、その彼が世間の「普通」になれず常に「生きづらさ」を抱えている湊の「嘘」によってヒドい目に遭わされる、というこの物語は、不条理劇のようでありながら実はとても理にかなった寓話であることがわかる。

 

保利にとって、自分の前で突如変貌する生徒たちも学校も、モンスターに見えただろう。

 

でも、観客は、一方で湊や星川が、「目が死んでる」校長の伏見さえもが、人間らしい感情を持っていたり、家族と楽しげに会話もするし優しさもあることを知っている。

 

湊による保利への不可解極まりない仕打ちは、なき父親への反発を本人はそうと意識せずに保利に重ねた結果だったのかもしれない。一方で、星川がついた「保利が湊に暴力を振るっていた」という嘘も、自分に好意を持っている湊への彼なりの同調であるとともに、湊と同じく“父”=“男らしさ”への逆襲であったのかもしれない。納得はいかないが、それでも少年たちの言動はまったく理解不能、というほどではない。

 

映画では描かれていないが、あのいじめっ子たちだって、彼ら一人ひとりは愛すべきところもある子どもたちに違いない。でも、私たちが互いを見ることができる範囲はあまりに狭い。

 

互いにもう少し歩み寄って、多様な視点と広い視野で見つめ合えたなら、私たちはもっと生きやすくなるのではないか。

 

限られた者たちだけの“幸せ”は本当の幸せなどではない、と伏見校長は湊に語る。

 

目立たず、気づいてももらえない、そんな小さな存在が、それでもけっしてないがしろにされない世界──湊と星川が「生まれ変わって」緑の中を大声を上げて走っていったあの光景──あれこそが、おとなたちが子どもたちに残すべきものだと僕は思います。

 

 

 

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