是枝裕和監督、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノシュ、イーサン・ホーク、クレモンティーヌ・グルニエ、マノン・クラヴェル、アラン・リボル、クリスチャン・クラエ、リュディヴィーヌ・サニエ、ロジェ・ヴァン・オールほか出演の『真実』。

 

フランス映画界の名女優、ファビエンヌ・ダンジュヴィル(カトリーヌ・ドヌーヴ)の自叙伝出版のお祝いで、ニューヨークで脚本家の仕事をしている娘のリュミール(ジュリエット・ビノシュ)が夫のハンク(イーサン・ホーク)と娘のシャルロット(クレモンティーヌ・グルニエ)を連れてパリにある実家を訪れる。だが、5万部刷られて発売を控える「真実」と題されたその自叙伝の内容は、リュミールからすれば嘘ばかりだった。

 

去年の『万引き家族』に続く是枝裕和監督の最新作。今年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門オープニング上映作品。

 

フランス語で撮られているので日本語吹替版も上映されてますが、僕は字幕版で鑑賞。

 

これはもともとジュリエット・ビノシュが以前から交流があった是枝監督に「いつか一緒に映画を」と持ちかけていたのが実現したもので、確か監督は『万引き家族』の上映でカンヌに滞在している時期にすでにあちらの俳優と組んで新作を撮影する計画についての話もされていた記憶がある。

 

ただ、フランス人俳優が出演する是枝映画というのがどんなものになるのか想像もつかなくて、期待よりも若干の不安要素の方が多かった。だって、これまで日本の監督が海外で撮った作品で「これぞ」と言えるものって何かあったっけ?と。黒澤明の『デルス・ウザーラ』ぐらいしかパッと思い浮かばない。

 

海外のロケーションや現地の俳優を使った瞬間にすべてが借り物のような、まがい物の恥ずかしさに溢れた「なんちゃって外国映画」みたいな邦画が今でもたまにあるけど、そういうの観たくないので。

 

でも結論から言うと、その不安は杞憂でした。

 

いつもの是枝映画のテイストを保ちながら、フランス映画の小品といった感じの作品に仕上がっていた。かつて観たことがあるフランス映画の穏やかな雰囲気があった。

 

出演者はフランスやアメリカの俳優だし、監督以外のスタッフもほとんどが現地の人たちだから、ほぼ「フランス映画」なんですよね。そういう「ガワ」だけじゃなくて中身も。

 

上っ面だけのお洒落な“おフランス”を舞台にした「似非フランス映画」ではなくて、たとえばエリック・ロメールの映画を彷彿とさせたり、これまでの是枝監督の作品ともまた少々異なる、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のあちらのあるタイプの映画を思わせる空気感なんですね。

 

そういう映画って、日本人のメジャーな映画監督で撮れる人って他になかなかいないんじゃないだろうか。

 

そして、“真実”はフランス語で“La vérité”。“ヴェリテ”ってシネマ・ヴェリテのヴェリテですね。題名自体がフランス映画っぽい。

 

僕は映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いて、観る前は「真実」という本のタイトルに込められた大女優の想いと、やがてその本の中身と事実の違いが明らかになっていくちょっとミステリっぽいお話なのかな、などと思っていたんですが、そういう作品ではなかった。もっとシンプルなものでしたね。

 

ジュリエット・ビノシュ演じるリュミールは母親であるファビエンヌに対してどうしても許せないことがあって、そのことでちょっと言い合いにもなるんだけど、そんなに深刻な展開にはならない。

 

 

 

明るい雰囲気で終わらせる、というのは監督も意識されていたそうですが、ほんとに全篇に渡って暗さや重さがないんですね。

 

この国の社会問題にも触れた『万引き家族』では映画をまともに観てもいない門外漢からのピント外れな批判があったけど、この映画はそのようなことはないし、ここ最近の監督作と比べてもとても軽ろやかな内容で、でも日常の中でふと感じるようなことやささやかな“波”を捉えた作品でもあり、そして「親子」についての紛れもない「是枝映画」になっている。

 

 

 

 

賞を獲ったとかどうとかいうこととは関係なく、観終わったあとは、やっぱり自分は是枝監督の映画が好きだなぁ、と思えた。

 

それでは、これ以降は内容について書いていきますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

 

まず、フォローさせてもらっている映画恵介さんの書かれたレヴューがこの映画の魅力をとても見事に表現されているので、リブログさせていただきますね(注:アイドルがうんこするシーンは出てきませんので、念のため^_^;)。


 

偉そうなこと言っといてなんですが、僕はこれまでフランス映画をそんなに観ていなくて、ほんとに恥ずかしながらカトリーヌ・ドヌーヴの有名な『シェルブールの雨傘』も『昼顔』も未鑑賞(ドヌーヴが出ている映画でちゃんと観たのって、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ぐらいしかない)なので、是枝映画がこの作品に込めたという往年の名作へのいくつものオマージュも拾えなかったんですが、そういう映画的な知識がなくても楽しめました。

 

ただし劇的な展開のある映画じゃないから、正直途中でウトウトしちゃったんですが。…いや、退屈だったからじゃなくて、基本的にフランス語での会話劇なので、なんだかフランス語のムニュムニュ言ってるのがあまりに耳に心地よくて^_^;

 

最初に観た時には終盤の二つの山場がある一番のクライマックス(といっても、そんな派手な場面ではない)で意識が何度も遠退いて内容を把握し損なってしまったので、後日もう一度鑑賞し直しました。また途中でちょっとうつらうつらしたものの、今度は前回寝落ちしかけて観逃した部分をちゃんと観ることができた。

 

1回目よりもさらにジ~ンときましたね。やっぱり是枝監督の映画は繰り返し観る必要があるな、と。

 

町山さんが言われていたように「カトリーヌ・ドヌーヴが樹木希林に見える」というのは確かに言われればそう見えなくはないものの(男たちのあしらい方とか、可愛らしさとふてぶてしさが同居しているところなど)、ドヌーヴさんには樹木さんの庶民的な親しみやすさや普通のおばちゃんっぽさはそんなにないよなぁ、と思ったし、『ルージュの手紙』の公開でドヌーヴさんが来日した時にお二人は対談もしていたけれど、『ルージュの手紙』でも彼女は娘から母親としての無責任さを責められる母親の役だったし(って、あいにく僕は未見ですが)、そもそもドヌーヴと樹木希林のお二人がそれぞれ演じる役柄や女優としての一般的なイメージはずいぶんと異なる。

 

 

 

 

ファビエンヌも演じるドヌーヴもどちらも国民的な大女優、というかなり特殊な存在なわけだし(樹木希林さんだってご本人はそうだったのだが)、そういう特別な人の家庭のお話に最初はそんなに入り込めなかったんですよね。

 

これまで観てきた日本を舞台にした作品に比べると、ちょっと距離を感じてしまったのでした。

 

だけど、一番重要な箇所を観逃したのが惜しくてもう一度観てみたところ、とても小さなことではあっても本人にとっては重要なことはある、そういう誰にでもある親子の間のことを描いているのがわかったから、やっぱりこの映画も好きになりました。

 

もうひとりの主人公でもあるリュミール役のジュリエット・ビノシュはオリヴィエ・アサイヤス監督の『アクトレス~女たちの舞台~』では彼女自身を思わせる国際的に活躍しているヴェテラン女優の役(そして『真実』でも言及されるセザール賞の主演女優賞にノミネートされている)だったけど、今回は女優になる夢を諦めて脚本家の道に進んだ女性を演じている。

 

役柄のその違いも面白い。

 

 

 

 

髪型もあるだろうけど、幼い娘のいる役柄の今回は『アクトレス』の時よりも若く見える。

 

『アクトレス』もそうだったけど、『真実』でも世代の違う女優たちが描かれていて、彼女たちの仕事への姿勢や矜持が語られるのが興味深い。

 

『真実』では、家族とともにファビエンヌを訪ねたリュミールの意図が夫のハンクによって明かされて、やがて彼女の中にある今もって現役の“女優”である母に対する長年に渡るわだかまりが噴出する。

 

とても印象的な台詞があって、それはリュミールと軽い口論となったあとにファビエンヌが娘の夫でTV俳優であるハンクに「よくあんな女と結婚していられるわねぇ」とボヤいて「そのエネルギーを演技に使いなさい」と忠告したあとに口にする、「チャリティや政治に口出しする女優は仕事に負けたのよ」という言葉。

 

女優というのはあくまでも作品の中で演じる役柄として勝負すべきで、それができない者がチャリティや政治に逃げるのだ、と。そしてあたかも女優の仕事を頑張っているかのように思い込む。…というのが彼女の言い分。

 

カトリーヌ・ドヌーヴ自身もこのような「女優至上主義」的な考え方の持ち主なのかどうかはわからないけれど、そういえば以前、彼女は#MeToo運動への違和感を口にしていた。

 

「偉大な女優は姓と名前の頭文字がどちらも同じ」と言ってファビエンヌがダニエル・ダリューやグレタ・ガルボ、アヌーク・エーメ、シモーヌ・シニョレなどの名女優たちの名前を並べた時に、他の者から「ブリジット・バルドー」の名前を挙げられて「ないない」と即座に否定するのが可笑しい(バルドーはチャリティや政治に口出しする女優だからか)。

 

「日常」なんてどうでもいい。「映画」には「詩(ポエジー)」がなければならない。

 

娘から母親としての役割をちゃんと果たさなかったことを責められても「よい母親で演技が下手な女優よりもマシ」というのがファビエンヌの信条なのだが、その理屈だと、女優としては偉大だが長年実の娘を虐待していたジョーン・クロフォードなども許されるということだろうか。多分そうなんだろうけど。普通の常識が通用しないのが女優という存在なのだ、という認識。芸術家全般に対してもよく議論されることですが、要するにどこか狂気を孕んでいる。

 

個人的には、そんなんだったら家族が迷惑するから結婚したり子どもを産んだりしなければよいだろう、と思うのだが。実際そうやって「芸の道」一筋の人生を選んだ女優さんだっているのだし。でも、そんなこと気にせずにわがままに好きなようにやるのが“女優”ってことだろうか。ずいぶんと都合のいい話で。

 

ファビエンヌも恋多き人で、夫がいながら浮気しまくってきた、という設定。

 

どうやら元夫のピエールは彼女によって放り出されたようだし、その理由はさだかではないが、リュミールも両親の離婚自体についてはもはやとやかく言ってはいない(でも、当てつけのようにペットのカメに父の名前をつけたのは彼女だが)。

 

母とのふれあいを充分にとれなかったことが彼女にとってはつらいのだ。

 

母親は健在で現在のパートナーと悠々自適な生活なんだし、リュミールもまた夫と娘との仲も良好で(ハンクが以前アルコールが原因でリハビリを受けていたことが台詞の中で語られているが)、今さら過去のことを蒸し返すのはどうだろう、という気もしないではない。

 

でも、子どもの頃からずっと引っかかっていたことが歳をとっても心の中でくすぶり続けている、っていうことはあるし、だからリュミールは一度母と腹を割って本音で話したかったんだろうな。そういうことを面倒くさがりそうな母親なだけに、これまですれ違いが続いてきたんでしょう。

 

会えば表向きはにこやかに接していても、車の中で喋りながら「沈黙が嫌だっただけ。どうせ興味ないから」と言うように、母は長年娘とちゃんと向き合ってこなかったのだ。

 

僕はドヌーヴが演じる家庭を顧みないこの母親の姿に、ちょっと『海街diary』で四姉妹の母親役だった大竹しのぶさんを思い出しました。日本版を撮るならファビエンヌの役は(世代は違うけど)大竹さんがぴったりなのではないか。

 

大竹しのぶさんの役柄と樹木希林さんのユーモアを併せ持ったのがドヌーヴ演じるファビエンヌ、という気がする。娘のことは彼女が幼い頃から秘書のリュックや姉のサラ(字幕ではサラがファビエンヌの姉なのか妹なのかわからないが)に任せっきりだった結構ヒドい母親なんだけど、どこか憎めない、という(笑)。

 

ファビエンヌが出演する劇中映画『母の記憶に』の原作はケン・リュウによる実在の同名小説で、映画恵介さんによるとこの『真実』の物語と重なる部分が多いそうです。

 

撮影中の映画『母の記憶に』で、ファビエンヌは歳をとってやがて母親よりも老いていく娘を演じる。その演技の様子を涙ぐみながら見ているリュミール。

 

母が「娘」を演じ、いつまでも若くて美しいままの「母」を演じている女優マノンには、同じく女優でファビエンヌの姉妹、リュミールにとっては母代わりでもあったが若くして事故でこの世を去ったサラの面影がある。

 

亡きサラがマノンの姿で現われて、ファビエンヌとリュミールの母娘の間を取り持つ。

 

『海街diary』で亡き祖母が母と四姉妹を再び結びつけたように。

 

ファビエンヌとサラの関係にはカトリーヌ・ドヌーヴと実姉でやはり若くして亡くなった女優のフランソワーズ・ドルレアックのそれが重ねられているそうだし、この“女優”の虚と実が入り混じった作品世界もまた、フランス映画の匂いがする。

 

ここでの「嘘」というのは道義的にどうこうといったことではなくて、「演技」と同じような扱われ方をされている。

 

ファビエンヌの自叙伝に書かれた「嘘」は、人々が求める“女優ファビエンヌ・ダンジュヴィル”にとっての「真実」。

 

歳をとって記憶も薄れ、台詞を覚えられなくなっても、“女優”であることはやめない。

 

サラの死をファビエンヌのせいだと責めるリュミールだが、ファビエンヌは動じない。「サラに本当に女優の才能があるなら、私生活の哀しみも“演技”に込めたはず」と言う。

 

サラは今もファビエンヌのそばにいる。それも「真実」。

 

“魔女”のファビエンヌは、ピエールを魔法でカメに変身させてしまった、と孫娘シャルロットに「嘘」をつく。

 

ファビエンヌがかつて映画で魔女の役を演じたのは、幼かったリュミールのためだった。リュミールが学芸会で「オズの魔法使い」のライオンを演じた時も、ファビエンヌは密かに観にきていた。

 

…もっとも、これらの告白が事実なのかどうか確かな証拠はないのだが(ファビエンヌは「オズの魔法使い」の舞台の台詞を覚えていたから嘘ではないのだろうが)。娘のために「演技」をしてみせたのだと考えられなくもない。あの母なだけに。

 

それでも、幼いシャルロットの声をリュミールのそれと聞き間違えるシーンがあるように、今でも幼かった頃の娘のことを彼女は覚えている。

 

親子で抱きしめ合って心を通わせたと思った直後に職業人の“女優”に舞い戻って、せっかくの「感動の場面」をぶち壊すような「台詞」を吐く母。

 

何が「真実」で何が「演技」なのかも、もうわからなくなってくる。

 

撮影所にリュミールと一緒に祖母の撮影の見学に行ったシャルロットは、澄ました顔で台詞を暗記している子役の少女に自分は「ハリウッドの子役」だと平然と嘘をつく。

 

さらにシャルロットは脚本家の母リュミールの指示で、ファビエンヌの前で「お祖母ちゃんに宇宙船に乗ってほしい(そうすれば歳を取らない)。女優になった私を見てほしいから」と「演技」する。あの母にしてこの娘と孫。

 

彼女のついた「嘘」はやがて「真実」になるかもしれない。

 

ちなみに、このシャルロットが祖母に「演技」してみせるシーンは映画をシメるところだから結構重要だと思うんだけど、監督によればあれは撮影の途中で書き足した場面なのだとか。ちょっと驚きですね。

 

女優の母のために娘は脚本を書き、孫娘もまた祖母から演技の素質を受け継いでいる。

 

忘れちゃいけないけど、リュミールの夫でシャルロットの父であるハンクだって役者だ。

 

ピエールもまた、かつては映画のスタッフだった。

 

これは映画一家による、是枝監督のフランス映画への愛を語った映画でもあるんですね。

 

ちょっと子役時代のエル・ファニングのような親しみやすい顔立ちをしているシャルロット役のクレモンティーヌ・グルニエちゃんがほんとに可愛くて(黄色の毛糸の帽子を落としてばっかいるしw)、彼女の動きや表情を見ているだけでも楽しい。

 

 

 

シャルロットは大人たちの緩衝材の役割も担っていて、ちょっと気難しいところもあるリュミールと、議論はあまり得意ではなさそうなハンクがうまくいっているのはこの幼い娘のおかげでもある。シャルロットを見ていると和むし、日常の細々とした苛立ちも収まるんだろう。

 

とても重要なマノン役のマノン・クラヴェルは大抜擢だったそうだけど、ガル・ガドットを思わせる顔立ちと低くてハスキーな声が本当に印象的で、ドヌーヴが演じる大女優がその演技に圧倒される場面を説得力をもって演じていた。これからの活躍が期待できそうな人ですね。

 

 

 

これは見慣れた日本の俳優以外のフランスやアメリカの俳優たちが出演したことで、新鮮さとともに独特のユーモアや細かい表情の演技などが浮き彫りになってくる感じで、監督のさりげない演出力の見事さと同時に出演者たちの演技力の確かさもうかがえて、何度でも観たくなる作品だと思いました。

 

 

 

 

追記:

 

その後、『真実 特別編集版』(字幕版)を鑑賞。

 

公開館数や一日の上映回数が限られていますが、いつもよりも遠めの映画館で一日1回だけやっているので、せっかくだから観にいってきました。

 

通常公開版の上映時間は108分だったのが、この特別編集版は119分。

 

主に主人公のファビエンヌとリュミール以外の男性の登場人物たち(シャルロットも含む)の出番が増えていて、特にイーサン・ホーク演じるリュミールの夫ハンクのエピソードが加わっている。

 

冒頭のファビエンヌのインタヴューの場面のあと、いきなり見覚えのない空港の場面が始まるので意表を突かれる。

 

劇中でリュミールがファビエンヌに「空港で20年前のママを写したポスターを見た」と台詞で言っていたけど、実際にその場面があったんですね。

 

通常公開版ではリュミールたち一家の初登場はファビエンヌの家の門から入ってくるところからなんだけど、この「特別編集版」では彼らが空港から車に乗って家までやってきてその門の中へ入っていく様子も撮っていて、パリの街なかの風景やリュミールの実家がどういう場所に建っているのかがよくわかるようになっている。

 

この始まりからもうかがえるように、「通常公開版」がファビエンヌとリュミールの母と娘の関係に焦点を絞っているのに対して、「特別編集版」はハンクとシャルロット、そしてファビエンヌの現在のパートナーであるジャックや元夫のピエールも含む「家族全員」の物語になっている。

 

通常公開版の方はあえて「内側」に視点を限定している。だから飼い犬のトトの散歩や撮影所、リュックの家族との会食とダンスの時などを除けば、なるべく塀の「外」の場面を挟まないようにしている。

 

わずか11分の違いだし、登場人物たちがより深く描かれている特別編集版の方を普通に公開すればよかったのに、という意見もあって僕も途中まではそう思っていたんですが、観終わったあとにはなぜ最終的に是枝監督が最初の公開版を選んだのかわかったような気もしました。

 

何よりもまずはファビエンヌとリュミールの話に集中させたかったからじゃないだろうか。

 

この特別編集版は、関係者だけに見せるかDVDの特典として付けるかするつもりではじめは公開する気はなかったけれど評判がいいので劇場で上映することにしたのだそうで、だから本当はこちらのヴァージョンで公開したかったけどやむなくカットした、ということではないんですよね。

 

この別ヴァージョンで追加されているのは、僕が気づいたところでは先ほどの空港のシーンと、ハンクとジャックが食材を買いにいくところ、食事の前の男性陣の会話、ハンクがリュミールに語る父親のこと、そしてハンクとシャルロットがクレープを食べながら会話する場面。

 

ファビエンヌがTVドラマの俳優であるハンクの演技を「モノマネ」とバッサリ斬ったあとで、ハンクは彼が自分の飲んだくれだった父親の物真似をずっとし続けてきたことをリュミールに語る。

 

ジャックと買い物しにいった時にハンクはそこであまり出来のよくない木彫りのお土産用の人形をぼったくり料金で買うのだが(通常版でもピエールがそれを弄んでいる)、彼が人形を気に入ったのはそれがどこか父を思わせるからでもあった。

 

ハンクにも彼なりの物語がある。

 

また、ファビエンヌには「夜のアレよりも料理の方が上手」などと好き放題言われているジャックは料理の先生との間にもしかしたら…という疑惑があり(それを想像するハンクの表情に笑う)、彼もハンク同様にただのヒロインの添え物ではなくて生きた人間なのだ。安泰だと思えたファビエンヌとの関係だっていつ終わるか知れない。ピエールとの結婚生活のように。

 

ジャックもまた「嘘」をついているのかも。

 

この特別編集版を観ると、どうしてファビエンヌが彼の作る「ティラミスの方がいい」と言ったのかもわかる仕組みになっている。

 

通常公開版では特に深い意味もないように思えて流して観ていた場面にもちゃんと物語的な意味が込められていたことがよくわかって、通常公開版を観たあとにこちらを観るとさらに味わい深くなる。

 

2回目の撮影の場面でファビエンヌに付き添っているのがリュミールだけだったのは、その頃ハンクとシャルロットはクレープを食べにいっていたからで、それはファビエンヌとリュミールを二人だけにしてあげるためのハンクの気遣いだった。

 

ファビエンヌが内緒で撮影を抜け出して食べにいこうとしていたおいしいクレープの店というのは、きっとハンクたちが行っていた店なんでしょう。

 

ハンクはシャルロットに、クレープを発明したのは自分だ、と言うが、シャルロットはそんなの嘘なのがわかっているのか興味なさげな反応。

 

この映画での「嘘」が「演技」のことならば、ハンクはファビエンヌが手厳しく評していたように「嘘のつき方」=演技力はイマイチということになる^_^;

 

まるで謎解きのようにいろんなことが繋がって明らかになる。

 

女優の母と脚本家の娘を描いた通常公開版のあとに彼女たち以外の登場人物たちももうちょっと詳しく描いた特別編集版を観ることで、『真実』という作品は二重の楽しみ方ができるんですね。

 

通常公開版を観て楽しまれたかたは、ぜひこちらもご覧になってみてください。

 

 

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