是枝裕和監督、福山雅治、役所広司、広瀬すず、吉田鋼太郎、斉藤由貴、満島真之介、松岡依都美、市川実日子、橋爪功出演の『三度目の殺人』。

 

同僚の弁護士の摂津(吉田鋼太郎)から食品会社の社長を殺した容疑で捕まった元従業員の三隅(役所広司)の弁護を頼まれた重盛(福山雅治)は、死刑からの減刑を目標として被害者の妻・美津江(斉藤由貴)や娘の咲江(広瀬すず)と接触するうちに、三隅の犯行の動機がこの遺族にあるのではないかと感じ始める。しかし三隅の証言は二転三転し、そのたびに重盛たちは翻弄されることに。

 

ここ何年かは1年に1本というペースで作品を撮り続けている、そして今やカンヌ国際映画祭の常連でもある是枝裕和監督の最新作。

 

しばらく続いていた「家族」についての作品群とはちょっと毛色の異なる、殺人事件にまつわるよりシリアスでサスペンスフルな内容。

 

 

 

先日この最新作の公開に合わせて地上波で放映された『そして父になる』でも主人公を演じていた福山雅治が是枝監督の映画に二度目の主演、そして『海街diary』の四人姉妹の末妹を演じていた広瀬すずが、物語の鍵を握るヒロイン役としてこれも二度目の出演。

 

重盛の中学生の娘・結花役の蒔田彩珠も、前作『海よりもまだ深く』に続いてやはり二度目の出演。

 

二度目の出演者が多いけど(蒔田彩珠は他に是枝監督のTVドラマにも出演しているが)、偶然だろうか。

 

もはや常連俳優ともいえるリリー・フランキーは今回出ていなくて、その代わり吉田鋼太郎が出ているのがちょっと可笑しかったんだけど、もちろんそれはたまたまなんでしょうw

 

リリーさんと吉田さんは顔は似てるけど、演じる役柄は微妙に違ってますから。お互いに代わりにはならないわけで。

 

福山さんと吉田さんが演じる弁護士たちの事務所で働く事務員・亜紀子役の松岡依都美さんは、僕は白石和彌監督の映画(『凶悪』『日本で一番悪い奴ら』)でいつもピエール瀧に乳揉まれてる人、というイメージがあるんですが(笑)今回ピエールは出てないので乳は揉まれていませんでした。

 

時々関西弁風の喋り方をして、橋爪功演じる元・裁判長で重盛の父と冗談言い合ったり咲江に「アメちゃん」くれたりする明るい女性の役で、陰鬱になりがちな内容のこの作品の中でちょっとした息抜きになってくれていた。この人も是枝作品への出演は『海よりもまだ深く』に続いて二度目。

 

市川実日子が演じるノーメイクで表情を抑えた検察官のキャラクターが『シン・ゴジラ』の時とほぼ同じだったのがちょっと笑えた。明らかに「尾頭さん」を意識したキャラ作りでしたよねw

 

 

 

僕は、一見同じようなキャラクターでもシンゴジの時よりもやっぱり今回の市川さんの演技の方がちゃんと「演技」をさせてもらえている分、深みがあったと思います。尾頭ファンは観ておくべきでしょう。

 

そして、斉藤由貴のこのタイミングの現実での不倫騒動はなんとも間が悪すぎというか、逆に映画の宣伝効果になっちゃってるような気もするんだけど^_^; もちろん作り手は意図してるはずなどないのにこのシンクロニシティはちょっとスゴいな。

 

ちなみに、特にTVの予告などではまるでハリウッドのこの手のジャンル映画のように演出しているけれど、実際の内容はかなり地味で暗いです。

 

弁護士と検察が丁々発止のやりとりをする法廷劇や謎解きの面白さが売りの映画ではないので、そのあたりは期待しない方がいいと思います。

 

法廷の場面はあるし、それは非常に重要なシーンではあるけれど、時間としてはそんなに長くはない。

 

では、これはただ地味で暗いだけのジメついた日本映画、という昔ながらのイメージそのまんまな作品かといったら、実はしっかり謎が提示されるし、展開も二転三転する。

 

しかも、単に殺人事件を描いたフィクションではなくて、僕には現実と接点のあるリアリティのある物語に思えたのです。

 

また、これはちょうど『そして父になる』がそうだったように、一種の「寓話」の形になっている。

 

なんの「寓話」かといえば、劇中でも使われる「忖度(そんたく)」という言葉が示すように、これは僕たち「日本人」についての寓話なのだ。

 

この映画には「家族」や「日本の司法制度」「人の命の重さ」についてなどいくつかの要素が混在しているけれど、つまるところそれは「日本人」についての映画ということになる。

 

それと、映画を観てる最中からずっと感じていたんだけれど、これまで過去に観たさまざまな作品のモザイクみたいな映画だな、と。

 

それでは、これ以降は映画の内容について触れますので、まだご覧になっていなくてネタバレを避けたいかたは映画を観終わってからお読みください。

 

 

僕はこの映画を劇場で二度観たんですが、それでもすべてをしっかり理解できたとはいえなくて、これは噛めば噛むほど味が出るというか、何度か観直してみていろいろ見えてくるものがあったり気づくことがある映画だな、と思います。

 

まず僕がこの映画を観ていて強く連想したのは、これも福山雅治が主演したTVドラマ「ガリレオ」シリーズの劇場版の1本、『容疑者Xの献身』。

 

『容疑者Xの献身』(2008) 監督:西谷弘 出演:柴咲コウ 堤真一 松雪泰子

 

 

あの映画で殺人事件の容疑者が取った行動、その動機がこの『三度目の殺人』と非常によく似ているなぁ、と思ったんですよね。主演は福山さんだし、被害者の遺体は焼かれるし、母親と娘という家族構成、主人公が容疑者と対面する場面など、偶然にしてはちょっと似すぎている気がする。

 

他にも、この『三度目の殺人』で斉藤由貴が演じる、娘に甘えたような態度をとる母親像は、僕はちゃんと観ていなかったのでうろ覚えだけど、波瑠主演のNHKドラマでやはり斉藤さんが演じていた娘にベッタリな母親を思い出させる。

 

 

 

それ以外にも黒沢清監督の『CURE』(役所広司が主演している)とか、なんとなく似てるような映画を思い浮かべたりもしますが、僕は劇場パンフレットは買っていないし、この作品についての解説もほとんど目を通していなくて、またノヴェライズ版も読んでいないのでこの映画の背景については知りません。

 

だから、あえて監督が他の作品と似せたのか、それともほんとに偶然なのかわかりませんが、僕にはこれまで観たことがあるような映画の断片をコラージュして作ったもののようにも思えたんですよね。

 

他の何かに似ている、というのはこの映画では重要なことなので。

 

映画の後半で突然被害者の殺害を否認しだした三隅が重盛の前で見せた泣き顔は、重盛の中学生の娘・結花が万引きをして父親の前で見せた嘘泣きの涙と、また三隅が殺したカナリヤは、結花が死なせてしまった魚(重盛が“ニモ”と呼んでいるからクマノミだろうか)と呼応している。

 

三隅は、まわりの人々の気持ちをすくい取ってそれを具現化している。

 

30年前に北海道の小さな町で借金の取り立て屋たちを殺したのも、そして今回、実の娘に性的暴行を加え続けていた食品会社の社長を殺したのも、彼が人々の気持ちを「忖度(そんたく)」したからだった。

 

この「忖度」という言葉は、重盛ら弁護士が裁判長や検察官たちと「阿吽(あうん)の呼吸」で公判の続行を決める場面に重なる。

 

「なんかみんなで目配せし合って…」と困惑する川島(満島真之介)に摂津が「裁判長が“サイン”を出したから」「同じ司法という船に乗ってるんだから」と説明する。

 

 

 

直接言葉に出していなくても、相手の意を汲んでそのように判断し配慮する。

 

「忖度」という言葉はいつ頃からかあまり褒められたものではない否定的な意味合いで頻繁に使われるようになったが、相手の気持ちを推し量ろうとすること自体は別にいいも悪いもなくて、物事や人間関係を円滑に運ぶための手段に過ぎない。

 

この映画では、三隅や彼の裁判にかかわる人々の姿が、その「忖度」が無意識のうちに行なわれる日本社会の戯画のように描かれている。

 

僕はもう、それだけでとても面白かったんですよね。単なるフィクションではない、と言ったのはそういうことなんですが。

 

最後に三隅が取った行動とその理由、それを想像して「乗った」重盛。

 

一見すると何も考えずにただ証言をコロコロ変えているようにも思えた三隅だったが、映画を観終わったあとにはそれらにしっかりと筋道だった理由があったことがわかる。

 

三隅は実の娘をレイプしていた社長を殺し、それを「見て見ぬふりしていた」その妻に不倫や殺人の主犯の疑いを着せ、彼を救おうと裁判で父親からのレイプについての証言をしようとする咲江の心の傷を世間に晒さないために、いきなり無罪を主張して裁判官の心証を悪くして自らを死刑に導く。

 

映画のタイトルの「三度目の殺人」とは、三隅が自分自身に下した、そして重盛がそれに手を貸した「死刑」のことだった。

 

「カラッポの器」のようだった三隅は、そこに幾人もの人々の想いを入れていた。

 

しかし、三隅は重盛のその謎解きを「ダメですよ重盛さん。僕みたいな人殺しにそんなことを期待しても」と軽く一笑に付す。

 

そして「それはいい話だ」と微笑むのだった。

 

まったく別の作り手による『容疑者Xの献身』で描かれていたものが、より説得力を増してここで描き直されているようにすら感じる。

 

一方で、すべてを理解できたわけではない、というのは、たとえば三隅が四羽殺して一羽だけ逃がした“カナリヤ”にはどんな意味があるのだろうか、とか、彼が社長の遺体にガソリンをかけて燃やし十字架状の焼け跡を残したことと、カナリヤの墓にやはり十字架の形で小石を並べたことについてなど、映画を観ている間にはその意味がしっかりとはわからなかったものもあったから。

 

咲江の足が不自由なのが、生まれつきなのか、それとも彼女が主張するように工場の建物から飛び降りたからなのか、そのあたりもよくわからなかったし、嘘ならなぜそんな嘘をつくのかも僕にはちょっとわからなかった。

 

咲江は、自分の意思ではどうにもならない運命というものに抗おうとしていたのだろうか。

 

三隅は重盛に「生まれてこない方がよかった人間ってのが、世の中にはいるんです」と言う。

 

「命は選別されている」とも。それは「理不尽だ」と。

 

これは、人間の命を弄ぶ者への呪詛にも近い、“神”への問いかけだろう。十字架はここでは神への感謝や信仰の表われではなく、抗議のようなものとして用いられている。

 

キリスト教が根づいていない日本ではこれらの表現がちょっとわかりにくいので、どうしてあえてこういう描き方をしたのだろう、と不思議でした。

 

三隅は北海道出身という設定だけど、北海道にはキリスト教が何か深くかかわりがあるのだろうか、などとも考えたりしましたが、どうなんでしょうね。

 

ここで「人間の命を自由にできる存在」、つまり死刑を宣告できる者として裁判官、すなわち重盛の父親が例に挙げられている。もちろん、三隅に最終的に死刑を言い渡す裁判長も同様の存在だ。そしてあの裁判長は、弁護士や検察官たちに無言で「忖度」を促していた。

 

 

 

罪びとである社長を殺すのも、罪のないカナリヤを生かすも殺すも自分次第。十字架は処刑の道具。三隅がやっていたのは、裁判長が被告の命を握っていることの比喩だったんでしょうね。

 

単純に日本の裁判の「死刑制度」に異議を唱えているわけではないけれど、被害者の遺族の咲江にも人の命についての台詞を言わせていることからも、映画の作り手がそれに疑問を持っているらしいことはわかる。

 

また、三隅に「生まれてこなければよかった人なんていない」と言った川島にむかって、重盛はあとで「俺はそうは思わない」と答える。

 

この時や摂津たちの前で被害者の社長のことを「あんな父親、殺されて当然なんだよ!」と言葉を荒らげる重盛は、まるで三隅が憑依しているようだ。三隅の思いを重盛が汲み取って語っているようにも見える。

 

ラストシーンで、面会室のガラスに映る三隅と重盛の顔が徐々に重なっていく。

 

 

 

これはある種の「ドッペルゲンガー(分身)」の物語といえるかもしれない。

 

私たちが無意識に、あるいは時にそれを強く意識しながら日々行なっている「忖度」。

 

それはハッキリと言葉で伝えなくても相手が望むように物事がしつらえられる「いい話」になることもあれば、社長夫人のなんでもないようなメールの文言が殺人の依頼や不倫の口止めにも見えてくるような、不穏で薄気味悪いシステムにも感じられる。

 

 

それからもっと気になったのは、重盛ら弁護士たちが咲江と話す場面で、さらっと語られた三隅と咲江との間の性的関係の有無について、会話を聴いていると咲江は否定していないんですよね。「覚悟しています」と答えている。

 

常識的に考えれば、実の父親からずっと性的暴行を受けてきた娘が、その父親とたいして歳が違わない男とそんな関係になるだろうかと思うんだけど、ベンチに座って「普通(三隅に会いに)行かないでしょ」と言う重盛に、咲江は「…普通ってなんですか」と尋ねる。

 

 

 

この場面と、咲江が家で母親から「(裁判で)余計なこと言わないでね」と念を押されて「…余計なことって何」と真顔で尋ねる場面は相似形を成している。ここでの「余計なこと」とは殺された社長が会社ぐるみで食品偽装を行なっていたことだが、咲江が言っているのはもちろんその父親が彼女に14歳の頃からし続けてきた恐ろしい行為のことだ。

 

三隅には最初の殺人の時以来30年逢っていない娘がいた。三隅は社長の娘の咲江に自分の娘を重ねていた。

 

その娘は映画の中では登場しない。彼女が勤めていた店を訪れた重盛たちにも会おうとしないし、父親について証言することもなかった。

 

僕は、もしかして三隅には北海道に住むこの実の娘と何かあったのかな、と邪推してしまったんですよね。

 

殺人犯の父親を娘が忌み嫌うのはしかたがないようにも思えるけど、でもそれだけではなかったのではないか、と。

 

三隅が自分のことを「生まれてこなければよかった」と言っているのは、娘との間に許されない行為があったからではないか。

 

三隅は、自分に「似ていた」社長を殺したのではないか、と。

 

また、主人公の重盛にも娘の結花がいる。重盛は妻と離婚の手続きの最中で、そんな家庭環境の中で結花は父親との絆を求めている。

 

この映画では「父と娘」の関係を意識的に選んで描いている。

 

是枝監督はかつてご自身の幼い娘さんとのやりとりが『そして父になる』を作る時のヒントになった、というようなことを語っていたけれど、これは僕の勝手な憶測ですが、今回の作品の中に自らの娘への想いを込めていたんじゃないだろうか。

 

『海街diary』で、やはりなき父親によって翻弄される姉妹の四女を演じていた広瀬すずの二度目の起用にも意味があるように思えたし。

 

もちろん、この映画でも広瀬さんは好演していたし、彼女はその存在感や演技力を買われてキャスティングされているのでしょうけれど。

 

広瀬さんは『ちはやふる』や『チア☆ダン』みたいに元気印のカリスマ的なヒロインと、こういうちょっと地味めな少女役を作品ごとに演じ分けている感じで、それがとてもバランスが取れてていいですね。

 

 

個人的には『海街diary』やこの映画での風景に溶け込んでいるような役柄の方が好きですが。

 

 

こうやって頭をグルグルさせながらこの映画を思い返してみると、そこには切なさと不気味さ、その両方が入り混じっていて、だからこそ何度も観るたびに別の角度からさまざまな意味合いを見つけ出せるんじゃないかと思います。

 

最初観た時は、確かに見応えはあってよかったけど映画としてはここ最近続いていたちょっとほのぼのとしたところのある家族モノの方が俺は好きだなぁ、と思ったんですが、手法は変えていてもやはりこの『三度目の殺人』もまた家族や親子についての映画だったし、日本人の「忖度」についてという、さらにもうちょっと広く深いテーマを描いていたことで別の面白さも感じられたから、僕はこれまでの是枝監督作品と同じくこの映画も好きですね。

 

この映画は殺人や司法というものについて描いているけれど、目の見えない人々が互いに動物の“象”の耳や鼻など別々の部分に触ってそれぞれが象というものについて異なる印象を語ったという逸話に、重盛が「俺は今どこに触っているんだろう」と呟きながら月の光に手をかざしたように、正体のわからない、さまざまな面を持ったものに触れている感覚がありました。

 

画面が終始暗めで劇場によってはちょっと観づらいかもしれませんが、雪の積もる北海道で役所広司と広瀬すず、そして福山雅治たちが雪合戦したり、三人が並んで寝そべって空を見ている姿はとても叙情的で美しかった。

 

あと、僕は以前何度か訪れたことがある名古屋市役所が裁判所の建物の内部として使われていて、重盛たちや咲江が古びた大理石の階段を昇ったり降りたりする場面が何度かあるのが(咲江が入っていた「御休憩室」にも見覚えが)ちょっと懐かしかったです。

 

 

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