小泉徳宏監督、広瀬すず野村周平真剣佑上白石萌音矢本悠馬森永悠希清水尋也坂口涼太郎松岡茉優松田美由紀國村隼出演の『ちはやふる -上の句-』『ちはやふる -下の句-』。

原作は末次由紀による同名漫画。





瑞沢高校1年の綾瀬千早(広瀬すず)は、幼馴染の真島太一(野村周平)とともに最低限必要な部員数5名の「かるた部」を設立して早速“競技かるた”での団体戦優勝を目指す。小学生の時に千早と太一と3人で一緒に競技かるたに熱中した綿谷新(真剣佑)は、その後故郷に帰り、今ではバイトをしながら大好きだったかるたとも距離を置いていた。彼ら三人とかるた部の仲間たちの競技かるたに懸ける青春と友情を描く。


二部作がほとんど間隔をおかずに連続公開されて1作目の公開時にとても高い評価を受けていたので大変気になっていたんですが、3月以降、アカデミー賞関連作やアメコミヒーロー映画、ディズニーアニメなど観たい作品が目白押しで時間的金銭的に厳しくてやむなく『上の句』は劇場鑑賞を断念。後篇から観るわけにはいかないので必然的に2本ともDVD待ちだな、と思っていました。

それがたまたま運よく2本連続で観られる機会があったので、111分+102分の3時間半ぶっ通しの鑑賞。とにかくそんなに評判がいいのなら観ておかねば、という気持ちで臨みました。

原作漫画は一切読んでいないし、アニメ版も観ていません。内容についての予備知識もなし。そういう人間が映画だけ観て書いた感想です。

で、前もってお断わりしておくと、これから記す感想は世間やTwitterのTLで目にする「青春映画の傑作」とか「今年ナンバーワン」といった大絶賛のオンパレードみたいなテンションではなく、むしろかなり批判的なものになると思います。

この映画のファン、そして原作漫画のファン、広瀬すずさんのファンのかたがたなどは不快に感じられるかもしれません。

また、文中にしばしば「漫画的」という表現があまり良い意味ではなく使われています。そのあたりも人によっては引っかかるでしょう。

それは僕の最近の日本の漫画やアニメに対する一方的な偏見からくるもので、ぶっちゃけ個人的にあまりよい印象を持っていないからです。

もちろん「漫画」とか「アニメ」といったって物凄い数と種類があって、それらを十把一絡げにするのはあまりに乱暴すぎるし、僕にだって好きな漫画やアニメはあるので、すべてのものを否定するわけではありません。

以上のことをあらかじめご了承のうえでお読みください。

本来『上の句』と『下の句』に分かれた2本の映画ですが、続けて観たこともあるし僕はこの2本を1本の作品として捉えていますので、今回はまとめて一つの記事で扱います。

いつも以上にダラダラ長ったらしくなるかもしれませんが、2本分の感想ということで。

ネタバレもありますので、未見のかたはご注意ください。



まず冒頭からかなり長いこと映画に入り込めなくて困った。

映画は主人公・千早の高校1年の春から始まるんだけど、そもそも人物関係がよくわからない。誰が誰の知り合いだったり幼馴染だったり、このおっさんは一体誰なのかといった基本的なことがちゃんと説明されずに、ヒロインの疾走とともに映画自体が慌ただしく駆け抜けていく。

あとで知ったけど、原作漫画はヒロインたちが小学生の時も描かれているんですね。

映画ではそれは説明台詞で語られたり回想シーンとして断片的に描かれはするけど、いきなり高校生から始まって「かるた部作ろう!」みたいなノリになるので、まるでまわりは自分以外全員知り合いで勝手に盛り上がってる中で独り取り残されて放置されているような疎外感を味わったのだった。

もうその段階で後悔し始めて、劇中での太一の台詞のように「これはなんの苦行だよ」と。こういうノリの映画をこれから3時間半観続けるのかと思うとめまいがした。

僕がなかなか映画に入り込めなかった最大の理由は、登場人物たちのノリがTVドラマのそれというか、「漫画」そのものだったから。

映画の最初の方ではヒロインや同じ「かるた部」に入部する高校生たちはやたらドタバタしていてハシャぎまくってるけど、別に笑えるわけでもなくずいぶんと空回りしている。

この前半で、僕は何か自分がこの映画からハジかれたと感じた。

DVDで観て、主人公たちのトバし方についていけなかった『バクマン。』の記憶が蘇ってきた。

あの映画もやたらと持てはやされてたけど、僕にはなぜそんなに高い評価を受けているのかわからなかった。「クリエイターには泣ける映画」という話だけど、僕はクリエイターじゃないからか、まったく泣けなかった。

漫画原作の映画といえば昨年観た『海街diary』は好きな作品で、そこにも出演していた広瀬すずさんはとても瑞々しくて素敵だったし、同じように高校で部活動に励む主人公たちを描いた『幕が上がる』は僕の2015年ベストワン映画なので、こういうジャンルには別に抵抗はないし、だからこの『ちはやふる』だって夢中になれる可能性はあったのです。

出演者は高校生役では主演の広瀬すずと、子役出身で最近もNHKや民放のTVドラマでよく顔を見かける矢本悠馬、そして僕は未見ですが『舞妓はレディ』のヒロイン役だった上白石萌音ぐらいしか知らないので、先入観もない。

やはり主演の“ももいろクローバーZ”のことを何も知らなかった『幕が上がる』と同じ条件。

登場キャラたちの特殊な生活環境が描かれるのは『海街diary』と共通していなくもない(ちょっとムリヤリだけど)。

でも『海街diary』は言われなきゃ漫画が原作であることも意識しなかっただろうし、『幕が上がる』は“ももクロ”のアイドル映画でもあったけど演出はきわめてオーソドックスで、漫画的に誇張された演出、演技は非常に限られた範囲でだけ行なわれていた。

それに比べると、『ちはやふる』は常に「漫画」を意識させられるのです。

競技かるたの試合中に突然白目を剥いて眠ってしまう千早とか、クイーンの若宮詩暢(しのぶ 演:松岡茉優)は普段はクールなのに原宿で売ってる激レアなタオルに急に反応してやはり試合中に大声上げるとか私服がダサいなど、そういう特徴や属性を持たせることによってキャラを立たせようとしてるんだろうけど、漫画やアニメだったらそういうの通用するかもしれませんが、生身の俳優が演じる実写映画ではやり方を間違えるとしらじらしいだけなんですよね。で、この映画ではそのやり方を間違えている。

盛り上がってるところでいちいち展開の腰を折るので、観ていてイライラしてきて。

僕はもともと登場キャラたちの設定とか知らないから、最初、千早が競技中にいきなり眠り始めた時には、彼女はナルコレプシーのような睡眠障害か何かを患っているのかと思ったんですよ。いや、冗談ではなくて。

そういう病気を抱えながら、まわりの人々に温かく見守られて明るく競技に励む少女の姿が描かれるのかと。それがドラマの内容にかかわってくるのかと思っていたんです。

そしたらそんなことはなくて、単に試合中でも電車の中でも無防備に白目剥いて寝てしまうという、ただそういうキャラというだけでした。

広瀬すずが突然“ヘン顔”してぶっ倒れたら面白くてカワイイでしょ?ってことなんだろうけど、個人的にはああいう邦画によくあるストーリーと無関係な「面白いでしょ?笑ってね(^o^)」的な安易な“おふざけ”や「変な間」で笑わそうとする心底サムいギャグってほんと大嫌いなので(この監督さんは確か『ガチ☆ボーイ』でも同じようなことやってた気がする)、笑いのセンスのない人が“どや顔”でギャグかましてるのを見せつけられている不快感があった。あ、今自分で言ったことが全部自分に跳ね返ってきましたが。

それに『下の句』で千早が試合中に熱を出して倒れる場面があるんだけど、これまでに何度も彼女が白目剥いて寝てたおかげでその急病の場面に危機感が感じられなくて。すごく邪魔な設定だった。

原宿のタオルはその後の伏線になってるんだろうけど、出し方があまりにヘタすぎるでしょう。あんなわざとらしく「これ重要アイテムですよ!」って何度も念を押されてもさぁ。

なんかこういうの見ると、「あぁ~…」ってなるんですよね。漫画やアニメのノリをそのまま実写に持ち込まないでほしいな、と。

もちろん中にはマンガっぽい実写映画ってのもありますが、じゃあ、この『ちはやふる』はそういうデフォルメされたキャラたちがスラップスティック・コメディのようにドタバタギャグを繰り広げる映画かといえば、そうじゃないし。

そもそもコメディ映画ですらないわけで。

だったらああいう“キャラ萌え”みたいなのを狙った余分な設定や演出、いらなくね?と思う。

たとえば、90年代の周防正行監督の映画や2000年代の矢口史靖監督の映画などは、ジャンルとしては『ちはやふる』と似ているのだけれど、堂々とコメディタッチで描かれていた。

周防監督の『シコふんじゃった。』や『Shall we ダンス?』では主人公たちがチームになって相撲や社交ダンスの試合に臨む。その合間合間にギャグが入っていて客席の観客を暖める。

竹中直人がお笑い担当って感じだったけど、それ以外の登場人物たちも台詞のやりとりや動きのギャグなどで笑わせてくれた。随所にコメディ的な要素を用いつつ、最後は主人公の自己実現が達成される。

矢口監督の『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』もそうで、映画そのものはわりと真っ当な青春群像劇なんだけど、やっぱり途中でクスクス笑えたり爆笑ポイント(アフロヘアが燃える玉木宏とかイノシシに追いかけられる上野樹里など)が設けられている。

おかげで老若男女が笑って熱くなって感動もできるエンタメ作品に仕上がっていた。

その分、登場人物たちはかなり漫画的、記号的ではあったのだけれど。

一方、『ちはやふる』にはそういう笑える要素がほとんどないんですよね。

だからやはり笑える要素はそんなにない『幕が上がる』の方に一見近そうなんだけど、『幕が上がる』は原作が小説という違いもあるかもしれませんが、登場人物には突飛な設定はなく、普通の等身大の高校生たちが描かれている。変に登場人物たちのキャラを立たせようとはしていない。原作にある男子キャラまで削ってしまっていたから、恋愛要素も皆無。

『ちはやふる』では太一はイケメンで成績も優秀、スポーツ万能というスーパーな設定で、また千早は姉(広瀬アリス)がモデルをやってる美人姉妹で他校の男子生徒たちからも口々に「可愛い」と言われるぐらいの美貌の持ち主ということになっている。

もうそれだけでかなり「漫画的」な世界観。

しかも千早は自分が美少女であることに無自覚で、だから人前でも平気で白目剥いて寝ちゃえる。そういう無邪気で天真爛漫な少女ということになっている。逆に自分の容姿に対するコンプレックスもない。少年漫画の主人公みたいな性格なんだよね。

こういう、外見は可愛くてまわりの人たちよりも飛び抜けて秀でた特技を持っているけど、中身はまだ幼くて隙がある女の子がイイ、ってことなんでしょう。

『海街diary』での広瀬すずもそういうまだ自分の美しさを自覚していない少女役だったけど、劇中で彼女は別に「美少女」と持てはやされることはなかった。姉役の女優さんたちが全員美人だからってのもあるがw 演じている広瀬さんは紛れもなく美少女だけど、あの映画の中の彼女はどこにでもいる普通の女子中学生を見事に演じていた。そう見えるように演出されていた。彼女に好意を持つ男子も出てくるけど、それもまたどこにでもある小さな恋としてささやかに描写されている。

自分の美しさに無自覚だった少女がそのことに気づき他者の目を意識しだして、それがその後の彼女の人間的、女性的な成長に繋がっていくとかいうのならそれはそれで意味があるかもしれないけど、この『ちはやふる』ではそういう部分は描かれていないから、劇中での彼女の「美少女設定」はまるで無意味だ。

単に彼女がまだ精神的に未成熟であることを強調しているに過ぎない。要するに処女崇拝みたいなもの。

「千早が美少女設定なのは、その後に彼女が呉服屋のパンフレットや試合で着物を着る伏線だから必要なのでは」というご意見を下さったかたがいるのだけれど、着物がよく似合う美少女、というのは彼女の実際の姿で映像的に証明されるのだから、言葉で前もって強調したりさらに上塗りする必要はないと僕は思います(すみません、頑なで^_^;)。

 


呉服屋の娘のかなちゃんがそれを発見し、太一もまた千早の着物姿に見惚れるなり、あるいは『海街diary』の少年のように「似合ってる」という一言で想いを伝えるなりすることで、あらためて千早=広瀬すずの美しさを観客に意識させられるでしょう。

美人女優がそのへんの普通の女性を演じることはあるし、だからこの映画だって正真正銘「美少女」の広瀬すずが元気で競技かるたに夢中の「見た目は普通の女の子」を演じることだってできるはず。『海街diary』ではそういう「普通のサッカー少女」を演じてたんだから。

映画のヒロインが可愛いことに越したことはないかもしれないが、競技かるたに強いことと「美少女」であることにはなんの関係もない。何度も例に挙げてしつこいですが、『ズートピア』でヒロインのジュディが“可愛い”ことと彼女の「警官としての能力」には関係がないのと同じで。

だから劇中で千早が「美少女」であることをことさら強調する必要もない。観客が映画を観ながら広瀬すずさんのことを「千早、可愛いなぁ」と感じてればいいのだから。

無敵のかるたクイーンである詩暢が普段着のファッションセンスがゼロ、という設定らしいのもそうで、言葉にするとすごくわかりやすいですが、でも僕は映画の中で詩暢を演じる松岡茉優が水筒を肩からかけたあの服装で現われてもちっともダサいとは思わなかったんですよ。ってゆーか、松岡茉優が着たらなんだって可愛く見えるだろう。

 


彼女をほんとにダサく見せるためには、もっと決定的に美的感覚が壊れてるところを示さないと。

広瀬すず=美少女、の逆パターンで、クールキャラの詩暢の意外なダサさ、というギャップによるギャグになってないんですよね。

だから、そういうキャラ属性みたいなものをいちいち設定してる時点で僕はこの映画は「漫画」のようで、でも中途半端だしちっとも笑えないから「なんだかなぁ」って思いました。

そりゃ、『Shall we ダンス?』や『ウォーターボーイズ』だって笑えなかった、という人もいらっしゃるぐらいで、どんな笑いを好むかは人それぞれですけど。でも『Shall we ダンス?』や『ウォーターボーイズ』が笑えなかったのに『ちはやふる』では笑えた、っていう人いるのかな。

出演者たちの演技はとてもよかったし、それらはけっしてわざとらしいオーヴァーアクトではなかったから、そのまま普通の高校生たちという設定で描けばよかったんですよ。

原作に笑えるギャグが少なかったり監督が笑いの描写が苦手なんだったら無理に笑えないギャグみたいなの入れなくたっていいし、主人公たちを最初から選ばれたエリートみたいな描き方しなくてもよかったのでは?

あと、どーでもいいツッコミだけど、この映画の中では「まつげくん」はどう見たって太一じゃなくて新(あらた)の方だろう。

桐島、部活やめるってよ』で東出昌大が演じていた高校生(ちなみにカノジョ役は松岡茉優)はイケメンでスポーツマンという設定だったけど、それにはちゃんと意味が込められていた。

モテてなんでも器用にこなせるけど、本当に好きなものがない、恋愛にすら夢中になれない空虚さを抱えた彼が、これまでは一切眼中になくて気にも留めていなかった神木隆之介演じる一見冴えない映画部の部長に敗れる、という話だった。

『ちはやふる』の太一もそれに近い悩みを持つんだけど、彼は千早に好意を持っているからけっして空虚ではないし、千早は競技かるたのA級で天才肌の“カルター”。離れて暮らす新も永世名人(津嘉山正種)を祖父に持つサラブレッドだし、太一だって彼らにはまだかなわないが腕はある。

主要キャラの3人ともエリートたちなんだよな。

僕がなんだかこの映画にノれなかったのはそれもある。

要するに、自分にはまったく関係ない世界の人々の話だから。歌舞伎の御曹司とかトップクラスのアスリートの話みたいな。

梨園の人々やトップアスリートには彼らなりのドラマがあるだろうから、描きようによっては凡人やそれ以下である僕みたいな人間が観ても燃えるものになるでしょうが。

でもなぁ、太一役の野村周平だって誠実な演技でイケメンだけど嫌味な感じはしないから、わざわざ彼や千早を美男美女だと断わり入れる必要なんかないと思うんだがなぁ。

ほんと不要な設定だったと思う。

逆に僕が一方的に持ち上げている『幕が上がる』では、高校演劇の名門校から来た、という設定だった有安杏果の劇中劇での演技にあまり説得力がなかったですが。

それこそ彼女の役を松岡茉優が演じてたら、文句なく他の子たちと実力が違う存在として観客の目に映っただろうと思う。

まぁ、『幕が上がる』は一応順位を競いあいはするけど『ちはやふる』みたいにライヴァル校と戦って勝つ、みたいなスポ根モノではないし、主演の百田夏菜子が演じるのも千早のようなスーパーヒロインではないので脇のキャラがあまり突出してしまわない方がいいんだろうけど。

だから、『幕が上がる』と『ちはやふる』は似ていても別種の映画なんですよね。どっちが上とか下とかではなく、違う種類の映画。

僕は『幕が上がる』の方が断然好きだ、というだけのことです。


それと、少年漫画や最近のTVドラマなどでは脇の登場人物たちがやたらと主人公の心情について解説したり彼や彼女のことを必要以上に慮ったりすることが多いのだが、この映画もそういう傾向がある。

『下の句』でのクライマックスで、試合に臨む着物姿の千早の姿を見て仲間たちが「…千早が、ドタバタしてない!」と呟くんだけど、この台詞も要らないな、と。

映画の中で試合中に千早が他のみんなよりも特にドタバタしていた印象はないし(競技自体がドタバタしてるから^_^;)、これは背筋を伸ばして芯の通った独楽のように「凛として」歩く千早の姿こそが「ちはやぶる」という状態なんだ、ってことを示している場面だけど、それは千早=広瀬すずの歩く姿を映像で見せれば充分だから。

彼女を見つめる仲間たちの表情だけで物語れるはずでしょう。そういうのこそ俳優は演じ甲斐があるのだろうし、監督は演出のし甲斐があるんじゃないのかなぁ。

舞台演劇と違ってこれは映画なんですから。顔の表情をアップで撮れるんだから。

この映画に限らず多くの邦画にいえることですが、言葉による説明が多すぎる。映像の力を作り手が信じていないんじゃないかと思えてきてしまう。あるいは観客をバカ扱いしすぎ。

かるたに書かれた和歌のように「言葉」によって美しさを想像させるものもあるけれど、逆に「映画」というのは映像によって美しさをダイレクトに伝えられるので、スクリーンに映った広瀬すずの着物姿の美しさに説得力があれば美辞麗句や余計な「設定」は要らない。

和歌が余分な言葉を削ぎ落として最小限の言葉で「美しさ」を表現するように。

國村隼が演じる府中白波会の会長・原田先生が“競技かるた”について台詞の中でルールの説明をしてくれるのは観客としてはありがたいしそれは必要なことだと思うんだけど、これも登場人物の気持ちについてまであれこれ解説する必要はない。




そのへんも非常に「漫画的」、あるいは「TVドラマ的」だと感じたところです。

太一が原田先生に、千早や新のような天才ではない自分の悩みを打ち明け千早への想いを語る場面なんかも、確かにあそこは「青春全部懸けたってあいつには勝てない」と戦う前からあきらめかけている彼が、本職は神主の先生から「やりきった者だけが神頼みする資格がある。『青春懸けても勝てない』というのは、ちゃんと懸けてから言いなさい」という大切な言葉をもらうところなんだけど、でも幼い頃からかるたを通して世話になってきたとはいえ、あの年頃の男子が大人に向かって好きな女の子についてあんなふうに赤裸々に語ったりするだろうか、と。

みんな思ってること喋りすぎなんじゃね?って。もっと余白が必要なんじゃないですか?

あそこも太一は先生に何もかも心の内を喋りすぎだし、先生は太一の心情をあまりに理解しすぎている。太一が千早のことを好きなのは映画を観ている観客にはわかっているのだからそれをいちいち口に出して言わなくたっていいし、先生もそのことには気づきつつも敢えて触れずにアドヴァイスする、といった計らいが必要だったのではないだろうか。

大人ってそんなに子どものことを何もかも理解してるわけじゃなくて、でも要所要所でなんとなく察して助言をしてくれる、って感じじゃないのかな。


そしてもっと根本的なことで不満だったのは、この映画の中で「競技かるた」のルールについての充分な解説がされていないこと。




僕は「競技かるた」というものをこの映画を観るまではまったく知らなくて、観始めるまでてっきり普通のかるたについての映画だと思っていたんです。

映画を観終わってインターネットで確認してみるまでは、なんならこれはこの映画の原作漫画のために創作されたゲームなのかと思ってたぐらいで。

古典に思い入れのあるかなちゃんが劇中で憤慨していたように、かるたにまったく詳しくない僕もずいぶんと乱暴で雅さに欠ける競技だなぁ、と感じた。

それが「競技かるた」が実在する競技で1950年代頃から結構長く日本中の幅広い年齢層に親しまれていて、映画で描かれる試合も実際のものを基にしていることを知って驚いたんですが、映画を観ている間、この「競技かるた」のルールがよくわからなくて参った。

かるたって手のひらでしっかりと札を取るものだと思ってたら、競技かるたでは片手で勢いよく吹っ飛ばしてるし、手で防御して相手が取れないように妨害したりしてるけど、なんで自分で取らないのかわかんなかったり、基本的なルールを知らない者には非常に不親切だなぁ、と。

せめて普通の「かるた」との違いぐらい説明してくれてもいいのに。

さまざまな競技がある中で男女混合、というのは珍しいけど、ならなんで個人戦のトップが男女別に「名人」と「クイーン」に分かれてるの?とか。

僕が説明を聞き逃したのかもしれませんが、試合中に片方の選手が手を挙げるあのしぐさは一体なんですか?そんなことすらわからなくて。

あんなふうに個人戦をいっぺんに大勢でやったら誰がジャッジしてるのかわからないし。だったらいくらでもズルできるじゃん、と。囲碁とか将棋みたいなものなのか。

でも床の札を手でパァン!とやる荒っぽさばかりが目立ってて、囲碁や将棋のような頭脳戦の側面がよくわからない。

勝負の要となる「運命戦」については原田先生が解説してくれるけど、それよりももっと基礎的な部分での説明が不足している。

なんだかすべてが「そんなことはみんな知ってるの前提」でお話が進んでいって映画は僕が感じたような初歩的な疑問にまったく答えてくれないから、フラストレーションが溜まってしまった。

「競技かるた」は誰もが知ってて当然、といえるほどメジャーではないでしょうに。

ルールがわからないと主人公たちの危機やどうしてそこから挽回できたのか、ということがわからない。

だからなんとなくノリだけで、スローモーションが多用される試合を観ているしかなくなる。

こここそ「漫画的」な手法でいろいろわかりやすく観客に解説してくれればいいじゃないか。そういう必要なことはやらずに、なんで登場人物がベラベラと心情を吐露したり白目剥いたりとかどーでもいいことばっかやるんだろう。

それとも作り手は、この映画を観る人たちは原作漫画をすでに読んでいたりアニメ版も観ているはずだから、今さら「競技かるた」についての説明など不要、と考えたのだろうか。

こういう「漫画」や「アニメ」などの実写化作品によくあることだけど、生身の人間である俳優が演じる実写映画がしばしば原作の漫画やアニメよりも「下」の存在のようにみなされているのが僕は我慢ならないのです。

原作に似てるからいいとか、似てないからダメだとか。肝腎なのは「映画」として面白いかどうかなのに。

映画って「総合芸術」だから(“芸術”かどうかの議論はあるでしょうが)これまでに音楽や小説、戯曲などいろんなものを取り込んできて、その中に「漫画」もあるわけで、題材として取り入れることはあってもそれらに従属しているわけじゃない。

映画は映画で独立したメディアだ。漫画や音楽がそうであるように。

何度も繰り返しますが、漫画が原作の実写映画がダメだとか嫌いだとか言いたいんじゃなくて、実写映画をまるで原作漫画の劣化ヴァージョンみたいに扱うのがおかしい、と言っているのです。それは映画を見下している。

だから原作のファンに気を遣ってとか、ほんとバカバカしいと思うんです。だったらすでにアニメ作品になってるんだからそれを観ていればいい。

実写として作るなら、それに合わせて当然変える必要があるところも出てくるはずで、そういうアレンジが実写映画ならではのものであれば実写化した意味や意義が生まれる。




主演の広瀬すずは間違いなくこの“千早”というヒロインをカリスマ性をたたえた少女として演じきっていたし、多くの人々が絶賛している松岡茉優もまたクイーンの貫禄を説得力抜群に表現していました。

結果的には千早を引き立てる役になっているかなちゃんを演じる上白石萌音も、その役割をしっかりと果たしている。絶妙な配役だと思う。

新を演じる真剣佑が試合中の千早を見つめる時の表情や父親の千葉ちゃん譲りの大きな瞳が涙で潤むところなどは漫画やアニメでは再現不可能で、彼のあの顔の演技は賞賛に値すると思う。この映画で僕が一番印象に残ったのは彼の微妙な表情の変化を表現する演技でした(新の母親役がつみきみほだったのもちょっとツボだった。久しぶりにこの女優さん見たなぁ)。

 


ああいう演技の前では説明的な言葉は要らない。

このように出演者たちはそれぞれ好演していたし、だからそれだけでも原作漫画が実写化された意義は感じます。

単に原作ファンが観にきてくれることを期待して作ってるのなら志が低すぎるけど、むしろ原作とは別物としてこの映画が好きだったり、あるいは原作よりも好き、という人が多いのであれば、この作品が大勢の人々に支持されていることは日本映画界の希望といえるかもしれませんね。


Perfume - FLASH



ちょっと前に「最近の邦画のレヴェルが低下している」という指摘があってそれに対する現場サイドからの逆ギレがもとで炎上したりしていましたが、さまざまな制約がある中で日本映画界が力をこめて作った映画が観客たちに支持され歓迎されるのは僕だって望ましいことだと思うから、無下にクサして「これだから今の邦画は」みたいなこと言いたくなんかないし、最初から延々批判めいたことばかり書いてきたので「酷評している」と思われたでしょうが、せっかく3時間半かけて観たんだし(別に誰に頼まれたわけでもないが)僕も競技の模様などにはグッときたりもしたから(女の子たちの張り切ったジャージのお尻に別の意味でグッときたし)、この映画に魅力を感じるところもあるのです。

さらなる続篇の制作が決まったそうですが、また観にいこうかな、と思ってますし。

難癖つけてるだけじゃなくて、一応真面目に観てますからね。


この映画の主人公は千早だが、『上の句』は彼女を見つめる太一の目線で描かれている。ガリ勉だが競技かるたはズブの素人の“机くん”(森永悠希)が試合にどうしても勝てなくて「どうせただの数合わせだったんだろ!誰でもよかったんだ」と脱落しかける時に優しく肩を叩いて彼を引き上げるのも太一だ。

そして『下の句』では、クイーンとの決戦を望むあまりチームとしての団結力に自ら亀裂を入れてしまう千早と仲間たちとの絆の再生が描かれる。

そんな彼らの姿を間近で見た新は、祖父の死によって失いかけていた競技かるたへの想いが再び蘇ってくるのを感じる。

千早たちのライヴァル校の主将・須藤(清水尋也)の最高にムカつく感じはよく出てたけど彼をただの悪役にするんじゃなくて、『下の句』では「俺たちが強いのは、先輩たちが築いてきたものを現役がしっかりと継承しているからだ」と言って、自分の力を過信するあまりスタンドプレーに走りそうになっていた千早に大切なことを気づかせる(もっとも、彼が貸してくれた代々受け継がれてきた研究ノートが千早たちに活用されている肝腎の場面が見当たらなかったが)。

 


この2本の映画では「友情」がテーマになっていて、誰かがピンチの時には仲間こそが(時にはライヴァルさえも)そこから救えるのだということを繰り返し訴えている。

多くの人たちがこの映画に惹かれるのもその部分なんだろうと思う。

千早たちを「あの人たちはかるたが好きなんじゃなくて、みんなで何かするのが好きなだけだと思う」と言ってただ一人で競技かるたに打ち込む孤高のクイーン・詩暢と、友人たちとの絆の素晴らしさをあらためて知った新たちとの今後描かれるであろう戦いは、二つの価値観の戦いでもある。

それはきっと二つとも勝負に必要なものなんでしょうけど。だからこそ、原作を読んだことがなくて今後の展開を知らない僕は、千早と詩暢、そして新の戦いは楽しみでもある。

僕はこの2本の映画を続けて一度観たきりですが、これは二度目以降にこそより楽しめる映画なのかもしれません。人物関係や競技のルールなどを把握したうえでもう一度観たら細かいディテールや伏線などに気づけるのかな。

2本の映画を公開順に間隔をおいて観た人で、特に『上の句』を大絶賛されているかたの中には『下の句』でテンションが落ちた、ガッカリ、みたいな感想を述べられているのを散見しますが、わずかな休憩を挟んで完全に1本の映画のようにハシゴして観た僕にはあの処理はまったく違和感はなくて、『下の句』の前半で太一と千早が新を訪ねる場面や千早と「かるた部」の仲間たちとの不協和音は作劇上必要なものだから、あそこがかったるい、という評価はこの映画の大切な部分をないがしろにしていると思うし、僕はこの2本の映画を絶賛はしませんが「『上の句』は傑作だけど『下の句』は残念」という評価には首を傾げざるをえないですね。

2本続けて観てようやく1本の映画として成り立っていると思うから。

まぁ、これは本来1本の作品を2本に分けて公開した作り手の責任でもあるんですが。

そして物語は復活した新が戻ってくるさらなる続篇に続く、ということですね。


…なんか貶してるのか褒めてるのかわかんない感想になっちゃってますけど。

とはいえ、10代や20代ぐらいの人たちならともかく、いい年コイたおっさんたちがこの作品をこぞって褒めまくってるのにはかなり疑問を感じます。少々心配になってくる。おっさんたちは大丈夫なのか?と。そんなに青春の汗や涙、恋愛に飢えているんですかね。

おっさんのくせに『幕が上がる』を褒めまくってるお前が言うな、って話ですが。



関連記事
『ちはやふる -繋ぐ-』
『三度目の殺人』
『ラストレター』
『キリエのうた』
『勝手にふるえてろ』
『ビブリア古書堂の事件手帖』
「カムカムエヴリバディ」



【Amazon.co.jp限定】ちはやふる -上の句- 豪華版 Blu-ray&DVDセット(.../広瀬すず

¥6,264
Amazon.co.jp

【Amazon.co.jp限定】ちはやふる -下の句- 豪華版 Blu-ray&DVDセット(.../野村周平

¥6,264
Amazon.co.jp

映画『ちはやふる』オリジナル・サウンドトラック/横山克

¥3,240
Amazon.co.jp

COSMIC EXPLORER/Perfume

¥3,240
Amazon.co.jp

ちはやふる コミック 1-31巻セット (BE LOVE KC)/末次 由紀

¥14,363
Amazon.co.jp



にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ