三島有紀子監督、黒木華、野村周平、成田凌、夏帆、東出昌大、桃果、高橋洋、酒向芳、神野三鈴、渡辺美佐子出演の『ビブリア古書堂の事件手帖』。

 

原作は三上延の同名小説。

 

海沿いにある小さな食堂を営んでいた祖母の絹子(渡辺美佐子)が亡くなり、五浦大輔(野村周平)は彼女の遺品で夏目漱石のサインが入った全集の鑑定を頼みに篠川栞子(黒木華)が店主を務めるビブリア古書堂へ足を運ぶ。ひょんなきっかけでその店で働くことになるが、祖母が持っていた「それから」に挟まれていた彼女の若い頃(夏帆)の写真から、太宰治の小説「晩年」にまつわる禁断の恋の物語が明らかになっていく。

 

公開が始まって半月以上経ちますが平日の午前中でもそこそこお客さんは入っていて、女性が多く年齢層もちょっと高めでした。

 

事前に厳しい評価も目にしていたから観ようかどうしようかかなり迷ったんですが、先日観たばかりの『日日是好日』に続いて黒木華主演作品として、せっかくだからこちらも押さえておきたいと思って。

 

僕は原作はまったく読んだことがなくて、以前、剛力彩芽主演で放送されていたTVドラマをチラッと目にしたことがある程度です。それもちゃんと1話全部通して視聴したことがあったかどうかも、設定やストーリーなどについてもまったく覚えていません。ただなんとなくレトロな雰囲気の古本屋さんを舞台に実在の文学作品を扱っている、という非常にボンヤリした印象で観ることに決めたのでした。

 

1990年代にTVで放送していた「文學ト云フ事」という番組が好きだったので、なんとなくああいう雰囲気の作品をイメージしていた。

 

 

 

剛力さんのドラマ版では毎回最後にヒロインの栞子(しおりこ)さんの謎解きがあったと記憶しているので、そういう探偵物っぽいお話にも興味をそそられたし。

 

そしたら──

 

…う~む、久しぶりにやらかしてしまった。きましたよ、観たことを後悔する映画が。

 

そんなわけで、以降はこの映画と原作、そしてこの映画の監督さんや出演者の皆さんのファンのかたがたにはおそらくとても不快な文章が続きますので、該当するかたはお読みにならない方がいいかもしれません。一切褒めていません。あらかじめご了承のほどを。

 

個人的な事情もあってこの映画についてはできればこのような内容の文章は書きたくなかったのですが、劇場作品に対してひとりの観客として思ったことを正直に記しておきたいので。

 

あくまでも「僕」個人の評価ですから、この映画が「面白かった」「好き」というかたがたのことをとやかく言うつもりはまったくありません。

 

物語の中身に触れますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

どうも最初からちょっと物語に入り込めないところはあって、何よりもまず登場人物、特に主人公の栞子に対してず~っと違和感が拭えず最後まで慣れなかった。

 

TVドラマ版を観た時に毎回剛力さん演じる栞子が長台詞をがーっと一気に喋る場面が結構あって、なんだかいかにも一所懸命覚えた台詞を棒読み気味に喋ってる感じがしたんだけど、今回の黒木さんも同じような台詞廻しだったので、あれは原作通りということだったんでしょうか。

 

栞子は本のことになると饒舌になる、と説明もされてたし。

 

 

 

だけど、僕にはそれはただあまり演技が巧くないだけに見えてしまった。

 

映画が始まってから襲ってきたこの違和感に「これはフィクションの世界だから。一種の“ファンタジー”みたいなものなんだからリアルじゃなくてもいいんだ」と必死に自分に言い聞かせながら観続けていたんだけど、この映画を観ようと思ったきっかけでもある黒木華さんの演じるキャラクターにノれない、というのはなかなか痛くて、彼女の出演作品で初めてその演技に疑問符が浮かんできたのでした。

 

どうやら黒木さんが演じる栞子は剛力さんよりも原作のイメージに近いらしいんですが、僕は原作のことは知らないので、ヒラヒラな服を着た彼女の昭和テイストな外見はともかくとして、まるでアニメキャラみたいな可憐な声や喋り方に嫌悪感すら抱いてしまった。

 

確かに黒木さんは新作ごとに可愛くなってはきてるんだけど(彼女の顔のアップショットで鼻の毛穴まで映ってたのはどうかと思ったが)、今回はちょっとあまりに作り過ぎなんじゃないかと。

 

正直なところ、僕は剛力さんの演技の方がまだ抵抗がなかったです。

 

これは出演者の演技だけの問題じゃなくて、脚本から演出まですべてについていえること。

 

なんでこのキャラはこういうことを言ったりやったりするのか、理解し難い場面が多い。

 

栞子のアニメみたいな喋り方や極端に世間知らずという特徴は、劇中で「そういうキャラだから」と説明されることで不問にされて、「リアルじゃない」という批判を作り手はあらかじめ封じているつもりのようで、彼女と対照的な性格に設定されている妹の文香(桃果)は逆に誰にでもやたらと馴れ馴れしく、栞子のことを(大輔と観客に)解説したり何かと姉につっかかってくるためだけに登場する。

 

このあたりの人物の設定とか配置が本当にで、その中でも特に文香は一番不要なキャラだったと思う。都合のいい時にだけ帰ってくるし。

 

この映画の原作小説は「ライト文芸」というのに分類されるんだとかで、僕はそのようなジャンルを今回初めて知ったんだけど(呼び方は定着していないそうですが)、要するに通常の小説とライトノベルの中間のような読み物、出版物のことらしい。登場人物がまるで漫画やアニメのキャラクターみたいなのは、そういうことなんですね。

 

大輔役の野村周平さんが出演していた実写版「ちはやふる」三部作も僕はそのいかにも漫画みたいなキャラ設定(こういう表現自体が漫画っぽいが)や筋運びにイチャモンつけてしまったんだけど、ここでもまた同じような文句を言うことになるとは。僕は野村さんにはとことん縁がないようで。彼のせいではないですが。

 

僕は野村周平演じる大輔にも、一応ヒロインであるはずの栞子にも、1964年の場面に登場する作家志望の田中(東出昌大)にも大輔の祖母の絹子にも誰にも感情移入ができなかった。

 

それどころか、最初に書いたように彼ら一人ひとりにいちいち違和感と嫌悪感をもよおしてしまった。

 

あまり「感情移入」とか「共感」という言葉を多用すると、「映画は主人公や他の登場人物に“感情移入”や“共感”できなくたって構わない作品もある」と反論されそうだけど、でも観客に共感を求めている場面で共感できないなら、それは単に人物描写を失敗してるってことでしょ。

 

幼い子どもが本棚の本を手に取ったらその孫を何発もひっぱたく祖母。もうその時点でダメ。じゃあ、そんなことするほど知られたくない秘密って一体なんだったのかといったら、若い頃に不倫してたという証拠。孫にとっては知ったことではない。

 

 

 

 

それを罪深くも美しいもの、みたいに描いているから余計釈然としない。

 

若い頃の描写にしても、絹子が夫(高橋洋)と田中との間で気持ちが引き裂かれる、みたいなことは一切なくて、出会ったらさっさと意気投合して夫がいる前でもしょっちゅう会ってる。バレたらマズいとは思ってるようだけど(いや、バレバレでしょうに)、夫に対する妻の後ろめたさが伝わってこなくて彼女の気持ちが全然わかんない。一切描かれないから。夫の方は黙って妻を監視してるだけの男みたいに見える。なぜかあまり同情的に描かれていない。

 

では、絹子は毎日に満たされないものや夫への不満があったのかといえば、やはりそんな描写は特にない。普通に笑顔でお店で働いていたし、夫が妻をないがしろにしているというわけでもない。

 

もしかしたら、そういう何考えてんだかまったくわからない絹子というキャラクターは漱石や太宰の小説の登場人物にインスパイアされてるのかもしれないけど、不倫の恋を描くんなら、ダメだと思っていてもどうしても惹かれてしまう、そういう葛藤がなければただの気の迷いか浅はかな行為になってしまうでしょ?

 

小説や映画などのフィクションに対して常識的なモラルを振りかざしてもしょうがないんだけど、この映画の登場人物たちは、たとえば『時計じかけのオレンジ』の登場人物たちのようにその無軌道ぶりで観客を挑発したり倫理観を揺さぶるのが目的ではなくて、彼らの許されない恋とか、大切な本への執着とか、どこか観客が共感を覚える人々として描かなきゃならないはずで、常識的な人間が一線を越えるからこそそこに観客はカタルシスを得るんでしょう。

 

でも最初から何考えてるのかよくわからない奴らが勝手に不倫したり本をめぐって追っかけっこしてるだけでは彼らの気持ちに寄り添ったり自分を重ねたりできなくて、物語自体をまったく楽しめないじゃないですか。決定的に描写不足なんですよ。

 

太宰気取りでともに心中することをもちかけてきた田中に絹子が「生きてさえいれば」と説得する場面はよかったけれど、そもそもなんで絹子はこんな夢見るバカ男に惹かれたんだろう。イケメンだったからか?

 

絹子の若い頃を演じる夏帆さんは確かに可愛らしかったけれど、彼女が年取ったらあの暴力ババアになるのかと思ったら感動も何もしない。どう考えてもおかしいでしょ、あの描写は。

 

だって、ぶたれたことがトラウマになって孫の大輔は活字ばかりの本を読めなくなったって、なんだそれ。どうしてそんな無理やりな話にするんだろう。ってゆーか、大輔が活字を読めないという設定って要るか?

 

大輔は栞子や彼女の同業者の稲垣(成田凌)と違って小説に詳しくない多くの人々の代表であることはわかるんだけど、だからって何も活字恐怖症にまでする必要はないでしょう。なんでこう、なんでもかんでも極端に振り切れた人物ばかり登場させるのか。

 

 

 

成田凌が演じる稲垣が見せるクライマックス近くのサイコな演技も、ほんとに安っぽく感じられてしょうがなかった。

 

僕は成田さんを朝ドラの「わろてんか」で初めて観てとても魅力的な俳優さんだと思ったので、今回のこの映画での残念な演技はやっぱりシナリオと演出に問題があるんじゃないかと思います。

 

繰り返しますが、僕は原作を知らないから、この問題の原因が原作にあるのか映画の脚色のせいなのかはわかりません。この映画の作り手は原作に忠実にやってるだけなのかもしれない(※追記:原作を読まれたかたによれば、全体的に内容がかなり改変されているそうです。また、連作短篇である原作からエピソードを2つ──TVドラマ版の第1話と6話──ピックアップして1本の映画にしているようで、なるほど、ストーリーに無理を感じるのはそういうことか、と)。

 

でも、自分に怪我をさせた犯人を太宰の「晩年」の稀少本でおびき出そうとする栞子は絹子同様に何考えてるんだか皆目わからないし(そんなことしたら店や蔵書に危険が及ぶことぐらい予想できるだろうに)、一方の大輔の方は「命に代えても守ります」と大見得切って栞子から強引に稀少本を預かった直後にそれを奪われる。…アホなの?

 

そして、実は奪われた本が本物ではなくレプリカだったことを栞子に教えられて、自分が彼女に初めから信用されていなかったことにショックを受けて店を辞めようとする。

 

…いや、だってお前奪われてんじゃん。もしも本物だったら取り返しのつかないことになってたのに(後述しますが、最後にもっと取り返しのつかないことになります)、なんでそこでこいつが怒ってんのか意味がわからない。怒る権利1ミリもありませんよね?自分の方こそ大口叩いといてあっちゃり栞子の信用を失ったわけだから。「俺にこんなこと言う資格なんかないけど」みたいなこと言ってるけど、その通りだから。

 

ここは、たとえば大輔が必死に守り通した本が本物ではなかったことを知って憤慨する、とかいうふうにしないと。

 

間抜けにのこのこと手ぶらで本屋に舞い戻ってきてorz(の逆向き)みたいな格好で膝ついてる大輔見てこちらは吹きそうになってしまいましたよ。ギャグなのか、と。あまりにヒド過ぎるショットだったから。

 

すべての登場人物たちのこだわりや怒りの方向が全部あさっての方角を向いている。

 

「晩年」の稀少本を手に入れようと躍起になっていた犯人がその正体を現わすくだりも、最初に怪しかった奴がやっぱり真犯人でした、というオチで…あぁ、謎解きの要素ってこの程度なのか、と。なんかまるで小学生向けのお話のようで。

 

 

 

それと、稀少本の件のようにみんなには内緒で実は栞子さんが…という展開があまりに多過ぎるんだよね。そんな「後出しジャンケン」がオッケーだったら、あとからいくらでも「…実はこうだった」って都合よくつじつまを合わせられるじゃん。

 

漫画本を見て栞子が暖炉のある屋敷を言い当てる場面も、たとえばさりげなくその漫画本の匂いを嗅ぐ1ショットを入れるだけでも多少説得力が増すのに、そういうことすらやらない。これはまったく推理物でもなんでもないよな。

 

あんな屋敷に住んでる人間が30万ちょっとぐらいを惜しんで本を盗むというのも不自然だし。そこは気づけよ、と。

 

ビブリア古書堂周辺の現在エピソードは全部いらないな、って思いました。クライマックスが車とスクーターの鈍臭いカーチェイスとかヘロヘロな殴り合いとか、マジでふざけてんのかと。このくだりがまたダラダラと長いし。あまりにつまらな過ぎてこっちの方こそ怒りが湧いてきた。

 

文学的な作品を期待していたのに、自分が一体何を見せられてるのかわかんなくなってきて客席で腕組みしてしまった。

 

いや、そもそも逃げる前に相手を捕まえなさいよ。わざわざ本棚崩して犯人を下敷きにしたんだから。

 

本を守ろうとしてるのに、なんで海の方に逃げるの?相手はただのスクーターなのに。

 

しかも、栞子さんはなんと、あんだけ大騒ぎしてた大切な稀少本をあっさり海に投げ捨ててしまうのだ。

 

ポイって。えっ。

 

僕がこの映画にイライラした理由は無数にある(笑)けれど、まず栞子や稲垣が大輔の前で得意げに開陳する浅いにもほどがある江戸川乱歩に関する薀蓄や田中が絹子の前でそらんじる小説の一節のように、ヲタクの知識自慢やナルシストの芸術家かぶれの仕草みたいなのがあたかも「本を愛すること」であるかのように描いていること。

 

「文学っぽさ」の上っ面を撫でてるだけで、作品や作家を掘り下げることはまったくない。これならEテレの「100分 de 名著」でも観てた方がよっぽどいい。

 

「映画」に関してもよくそういう人いますが(別にそれは人の勝手だからお好きになさればよろしいが)、映画を年間何本観てるとか映画鑑賞歴何年とか、作品や監督、俳優についてどんだけ知識があるとか、そうやってまるでマウンティングの道具や同族意識の確認のために映画を利用してる人は本当に「映画」が好きなんだろうか、と僕は疑問なんですよね。「本」もそうだと思う。ほんとに好きな人は自慢なんてしないですよ。自慢する人は何か別の目的がある。

 

まぁ、僕みたいにこうやってブログで偉そうに映画をぶっ叩いてるような人間も同類ですが。

 

小説それ自体を愛することとコレクションとしての古書を愛することは重なる部分もあるけど当然異なるところもあって、この作品は明らかに後者の方を描いている(内容についての言及もあるがそれも浅い)。だけど、では美術品としての「本」そのものに対する強い思い入れがあるのかといえば、大層なことを言ってるわりには簡単に破ったり焼いたり本棚ごと崩したり海に捨てたりと、その扱いはあまりに乱暴きわまりない。

 

僕は別に読書家でもないし本のコレクターでもありませんが、この映画での本の粗末な扱われ方には怒りを禁じ得ない。この映画の登場人物たちで本当に本を大切にしてる奴なんて一人もいない。

 

読書好きの人たちや古本屋さん、本のコレクターたちは、これ観て腹は立たないのだろうか。

 

これはちょっと信じ難いほど酷い出来だなぁ、と僕は思いますけどね。だんだん面白くなっていくんじゃなくて、観てるうちにどんどんムカついてくる映画ってスゲェよな。

 

褒めるところがあるとすれば、店内で薄ぼんやりと見えた「ぐりとぐら」や「エルマーとりゅう」が懐かしかったことぐらい。それだけかな。

 

あと、栞子は子どもたちの前で「銀河鉄道の夜」を読んで聴かせていたけど、黒木華さんはいろんな作品で宮澤賢治と「銀河鉄道の夜」に縁がありますね。

 

いろいろともったいなかったな。描きようによってはとても心に残る映画になったと思うんだけど。

 

これ見よがしに引用される太宰の言葉も何も心に響かず。

 

 

自信モテ生キヨ 生キトシ生クルモノ スベテ コレ 罪ノ子ナレバ

 

 

…いや、観客を失望させる映画こそ罪の子だと思うぞ。

 

もうそろそろ年間映画ランキングの時期が近づいてますが(自分で勝手にやってるだけだが)、この映画は今のところ僕の今年のワーストワンかその次ぐらいですね。

 

今年は「…なんじゃあこりゃあ!!」というトンデモ作にはぶち当たってないなぁ、といい塩梅に思っていたところにこれがきたもんだから。なまじちょっとだけ期待させられるような要素があっただけに、見事に裏切られたガッカリ感と静かな怒りに震えてますよ。観るかどうか悩んだ末に選んだのに。

 

もう一度『ボヘミアン・ラプソディ』観ればよかった。

 

 

関連記事

『リップヴァンウィンクルの花嫁』

『海街diary』

『カツベン!』

「澪つくし」と「おちょやん」

『桐島、部活やめるってよ』

『スパイの妻<劇場版>』

 

 

 

 

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ