大森立嗣監督、黒木華、樹木希林、多部未華子、山下美月、岡本智礼、郡山冬果、鶴田真由、鶴見辰吾ほか出演の『日日是好日』。

 

原作は森下典子によるエッセイ「日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-」。

 

1993年。母(郡山冬果)からの勧めで従姉の美智子(多部未華子)とともに親戚の“武田先生”(樹木希林)に茶道を習うことになった典子(黒木華)は、自分の不器用さに悩み、人生のさまざまな岐路においてお茶の稽古を続けるかどうか迷いながらも徐々にその奥深さに魅せられていく。

 

今年9月に亡くなられた樹木希林さんの出演作品(どうやら遺作ではないようですが)ということで鑑賞。

 

 

 

静かで落ち着いた映画ということなので、ちょっと今そういう映画も観ておきたいなぁ、と思ったし、一観客としてあらためて樹木さんとお別れするつもりで、というのもあった。

 

樹木希林さんは僕が物心ついた時にはすでにTVや映画で活躍されていたし、これまで多くの作品でそのお姿を拝見してきたから(今年だけでも3本の映画に出演している。僕はこの映画以外では『万引き家族』を鑑賞)、これから作られる新作映画にもう彼女は出てこないのだ、と思うとなんともいえない喪失感がある。

 

30年以上も数々の作品の中でだんだん歳を重ねられていく様子を見てきたから、なんだかほんとに身内の人を亡くしたみたいで。

 

ただ一方で、どこかまだ亡くなったという実感が持てずにいるのですが。

 

というか、樹木さんが出演した映画はこれからもきっとTVで放送されたりして目にするだろうから、もしかしたら今後もずっと亡くなったことを実感できないままかもしれない。

 

つい先月亡くなられたばかりだからか、この『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』のエンドクレジットのあとにも追悼の言葉は入ってなかった。

 

樹木希林さんの演技については他の皆さんはどのような評価をされているのかわかりませんが、演劇的な朗々とした台詞廻しではなくて、つっかえたりよれたり、現実の世界で自分自身の言葉で喋っているようなリアリティを感じたし、でもそれは他の誰でもない樹木希林節ともいえるオリジナルなもので、彼女が出演しているといつもその部分は安心感があった。

 

樹木さんが誰を演じても“樹木希林”、というのはあるんだけどw

 

ある時期から、機嫌がいい時には可愛らしく、時々憎まれ口みたいなのもきいたりするユーモラスで飄々とした、でも頑固なところもある年配の女性(『下妻物語』のおばあちゃん、好きだったなぁw)を演じてこられましたが、2007年の『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』では、内容はもうよく覚えていないけれど、主演のオダギリジョーと樹木さんが手を繋いで横断歩道を渡る姿に自分の母が重なって思わず涙しました(僕の母は樹木さんよりももう少し歳は若いですが)。

 

 

 

ちょっとお顔が18年前に亡くなった僕の母方の祖母に似てらっしゃることもあって、ずっと親近感があった。

 

だから、入れ歯を外して演技していた『万引き家族』での老婆役はショッキングでしたね。あぁ、歯がないと人相まで変わってしまうんだ、と。あれは樹木さんご本人の提案なんだそうですが、最後までプロフェッショナリズムを貫かれていたんだなぁ。

 

『万引き家族』での退場の仕方は現実に樹木さんが亡くなった今観るとあまりにつらいですが、この『日日是好日』での樹木さんはこれまでの印象のままで(入れ歯も入ってたしw)、最後も元気なままで終わるのでホッとさせられます。あらためて映画の中で穏やかにお別れできたような気がしました(来年には遺作が公開されるそうですが)。

 

ちなみに、この映画の前に別の映画館でリヴァイヴァル上映されている『遊星からの物体X』を観たんですが、両者で客層があまりに極端に分かれていたので笑いそうになってしまった。

 

あちらは見事におっさんばかりで、逆にこちらはほとんどが女性客。男性はご夫婦で来られている人ぐらい。わりと静かな場面が多いので、鑑賞中にお腹がぐるぐる鳴って恥ずかしかった。

 

観る直前に緑茶セット買って食べたせいか。

 

抹茶ではありませんが

 

それでは、これ以降は物語の内容について書いていきますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

観る前に言われてたように静かな映画で劇的な描写はほとんどないんですが、樹木さんは劇中では「次は100歳?」みたいなことを仰ってたけれど観客である僕たちはそれがかなわないことを知っているし、どうしたって彼女がもうこの世にはいないことを意識しつつ映画を観ることになる。それがどうしようもなく切なくて。

 

映画の内容を超えて胸に迫ってくるものがあった。

 

樹木さんが演じる茶道の先生はかつての師匠の死を自分のせいのように感じていて悲しみを背負っているのだけど、僕たちはその“樹木希林”というかけがえのない人を失ってしまったのだから。

 

鶴見辰吾演じるヒロインの父親の死が、どうしたって樹木さんの現実の死と重なって見えてしまう。

 

 

 

映画のクライマックスあたりから客席で激しく鼻をすすり出した人がいて、きっと内容とともに女優・樹木希林にまつわる思い出も一緒に脳裏に押し寄せたんじゃないだろうか。

 

年配のお客さんが多かったので、これまでにご自身の人生の中で味わった別れの悲しみが蘇ったのかもしれませんが。

 

僕は“つられ泣き”しないように我慢しながら観ていました。やっぱり樹木さんのことを考えると涙ぐんでしまうから。

 

いろんな意見があると思いますが、僕はこの映画を今このタイミングで映画館で観てよかったです。

 

現実の俳優さんの死と作り物の映画を一緒くたにするのは不謹慎かもしれませんが、それでも大勢の人たちと樹木希林さんとのお別れのセレモニーに参加したような、そんな気分でした。親戚でもないし面識があったわけでもない僕にできるのは、映画を観て故人を偲ぶことぐらいだから。

 

 

これは、樹木さん演じる武田先生と黒木さん演じる典子のユーモラスなやりとりにクスッと笑いながら、25年間の月日の経過とともに変わらない日常のかけがえのなさを見つめる映画。

 

僕は抹茶を飲むのは好きですが自分で点(た)てることはないし、本格的に茶道を習ったこともなければこれから習うつもりもないですが、だからこそそういう自分が知らない世界を映画で見ることができてなかなか興味深かった。

 

大学生の典子と従姉の美智子は最初はまったく茶道についての知識がなくて、お茶を飲む前に先にお茶菓子(とてもおいしそうでした^-^)を食べることすら知らないんだけど、そういう完全に無知な状態から観客も一緒にお茶の世界に触れていくことになる。

 

知らない人間にとっては奇妙にも思える所作のひとつひとつ。畳の歩き方から茶巾のたたみ方、物を置く位置、順序まで細かく決まっていて、その工程は素人目には実に複雑。がさつな僕は見てて茶巾を振り回しながら思いっきり畳にスライディングしたくなったほど。

 

たかが茶を飲むのにいちいちもったいぶってなんでこんなにめんどくさいことをやらなければならないんだろう、という疑問が沸々と湧いてくる。

 

それは典子が続けるお茶の稽古を通じて、なんとなく理由がわかるようにはなっています。

 

武田先生は、ひとつひとつの所作の意味を尋ねる典子と美智子に、頭で考えるのではなくて、まず「形」から入ることの大切さを伝える。いまいちピンとこないまま二人は稽古を続けることにする。

 

ところで、映画の冒頭で両親と典子のやりとりがあって、早速僕はこの両親(を演じる郡山冬果と鶴見辰吾)の台詞廻しに違和感を覚えたのです。

 

 

 

なんだか昔の映画みたいな時代がかった喋り方で、その会話の内容も妙にありきたりで古臭いんだよね。いつの時代の映画なんだ、と。ちょっと山田洋次の映画みたいな。舞台になっているのが1990年代初めだからといっても、当時もこんな喋り方してなかったでしょ。

 

この両親の演技に対する違和感は最後まで拭えなかった。

 

鶴見辰吾さんは普段他の作品ではもっと自然な喋り方だから、わざとああいう演出にしてるのはわかるんだけど、どうして彼にあんな年寄り臭い感じに演じさせたのか不可解だった。お母さん役の女優さんも同じく。

 

両親だけじゃなくて、ここでの典子とその弟(岡本智礼)や美智子の会話もすべてがわざとらしく、不自然に聴こえた。

 

…あぁ、これはお年寄り向けの映画なのか、と。確かにご年配のお客さんばかりだけど。

 

そんな感じで、映画が始まってしばらくはなかなか入り込めなかった。

 

僕は原作は未読ですが、作者の森下典子さんは1956年生まれなので、つまりほんとは森下さんが茶道を始められたのは1970年代ぐらいだったんでしょう。

 

母親が茶道を「昔はみんな嫁入り前に習った」と言っていたのも、70年代以前のことだと思えば納得がいく。

 

それを舞台を90年代にしたのは映画を現在の2018年で終わらせるためだったんだろうけど、おかげで物語が現実の樹木希林さんの逝去とも重なってより胸に沁みる一方で、先ほどの時代とズレているような両親の描写に見られる若干の違和感を伴うものにもなっている。

 

ただ、この映画はほとんどを武田先生の家でのお茶の稽古の場面が占めるので、典子や美智子、そして同じ女子大生たちの服装や髪型などを除けば社会風俗が描かれることはほとんどなくて、いつしか時代感覚が薄れていって、いつの時代ともしれない、あるいは時代を越えた場所としての茶席というものが立ち現われてきて、最初あった違和感も次第に消えていったのでした。

 

 

 

 

型に嵌(はま)っている、というのは一見窮屈で不自由な気もするのだけれど、一方で型というものがあってそれに従うからこそ時代の変化にも影響されずに変わらず続いていく、時間を超越したものにもなり得る、とも考えられる。

 

おおもとは変わらなくてもそこには季節ごとの変化があるし、現実には人も社会も移ろいゆくからこそ、敢えて変わらないものにこだわる、ということもあるのだろう。

 

そして、もしかしたらこれは、映画自体が武田先生が語っていた「形」からまず入る、という手順を踏んでいたのではないかと思い至りました(TV時代劇やサスペンスドラマなどにもいえることですね)。

 

 

 

 

実際のところ、監督さんがどんな意図でああいう僕が「古臭い」と感じるような台詞のやりとりの演出をされたのかはわかりませんが、定型の「形」に沿いながらそこに伝えたいことを込める、というのは映画のテーマに合致している。

 

僕自身は特に何かの「伝統」や「しきたり」に忠実に従うような生活はしていないから、とにかく昔からそうなんだから従うべき、みたいな考え方には反発を覚えるし、「伝統を継承する」みたいなことは、たとえば昔ながらの京都のイメージにもあるような非常に狭くて因習的な世界を想像してしまってあまり魅力を感じないんですが、それでも昔からずっと続けられてきた芸事やその歴史には敬意を払いたいとは思っています。それはちょうどアスリートと同じく、多くの鍛錬の中で培われたものだから。

 

ひとまず形に従えばあれこれと考え込まずに済むから、というのもあるんだと思う。本当の理由はそちらではないのか。

 

 

僕がこの映画を観ようと思ったのはもちろん樹木希林さんが出てるからですが、もう一つの理由は黒木華さんが主演だったからで、僕は彼女の熱烈なファンというわけではないし、その出演作品を逐一チェックしてもいませんが、気になる女優さんです。

 

「クラシカルな昭和顔(平成生まれなのに^_^;)」といわれて今では映画やTVドラマに引っ張りだこの売れっ子だけど、彼女が多くの人たちに支持されるのはとてもよくわかるし、失礼ながら「物凄い美人」ではないことが親近感にも繋がっているのだろうな、と。

 

なんというか、黒木さんの演技や台詞廻しがとてもキュートなんですよね。もちろん、役柄によっては可愛くない演技も見せているのだろうけれど。

 

いろんなタイプの作品に出演してますが、僕はこの女優さんはユーモアのある演技が似合っていると思います。この『日日是好日』でも真剣な表情でやってることが可笑しい、という場面がいくつもあって、畳を歩く時のぎこちない足の動きには笑ってしまった。肉付きのよい足首がまたなんか庶民的で好感が持てる。

 

 

 

元気にカラオケを唄ったり、不思議なダンスを踊ったり、黒木さんの可愛らしさが爆発してます(^o^)

 

それにしても、今年黒木さんは5本の映画に出演していて(そのうち主演は2本。現在3本の出演作が上映中)、まもなく主演作『ビブリア古書堂の事件手帖』も公開されるし、大河ドラマや民放の連ドラにも出ていて、ちょっと働き過ぎなのではないかと^_^; 現場で頭が混乱しないんですかね。お体大丈夫でしょうか(今年公開される映画が、すべて今年撮影されたとは限りませんが)。

 

今回、黒木華のキュートな魅力が満載だったのでそれだけでも観てよかったとは思うんですが、欲を言えばさらにもう一歩演技的に踏み込んでほしかったところはある。

 

これは1993年から2018年までの25年間を描いた物語で、最初は20歳だったヒロインは最後には40代になっている。それを黒木華が一人で演じている。

 

だけど、現在28歳の黒木さんが30歳の女性を演じるのはわかるんだけど、40代になった彼女が20代の頃とそんなに違って見えなかったんですよね。髪形は変えてたけどヅラなのが丸わかりだし、声も話し方も25年間でほとんど変化がない。

 

黒木さんは3年前の『幕が上がる』では普段の高めの可憐な声とは異なる低めの発声で頼りがいのある大人っぽい教師を見事に演じていたので、30代、40代と年齢を重ねるごとに演技に変化を持たせることは可能だったでしょう。

 

確かに40代でも驚くほど外見が若い頃から変化していないような人も稀にはいるけど、でも25年間ってやっぱり結構な年月で、見た目も中身もそれなりに変化はあるのが普通(僕自身は外見だけ変わって中身が思春期からほとんど変わってないのが非常に問題あるんですが^_^;)。

 

現在40代で活躍中の女優さんたちと彼女たちの25年前の姿を見比べたら、まったく同じということはありえないでしょう。

 

武田先生だってこの映画では25年間ほとんど外見の変化がないんだけど(白髪の量も変わっていない)、演じる樹木希林さんも10年以上前の『東京タワー』の時と最近とでは見た目はやはり微妙に変わっているし、25年前だったらなおさら変化していないわけがない。喋り方や振る舞いは変わっていなくても、見た目は明らかに変化している。自分の母親を見てるとよくわかる。

 

だから、主人公の典子や武田先生にもそこは経年による変化を持たせてほしかった。

 

まるで漫才コンビのように気が合って一緒にお茶の稽古に通っていた美智子も、ある時、彼女自身の意志で急に地元に帰って見合い結婚することになる。結婚式で挨拶してからは、数年後に美智子が夫や子どもたちと写っている写真が映し出されるだけで、典子は映画の中では彼女とは二度と再会しない。

 

世の中も自分もどんどん変わっていくんですよね。

 

その変わっていくものと、変わらないものとを対比させるためにも、典子の外見上の変化は必要だったんじゃないだろうか。

 

この映画は別に時の流れの無情さを描いているわけではないので、そこんところはそんなに力を入れなくてもいいのではないか、という意見もあるかもしれないし、あるいは撮影の都合などでメイクアップに時間を使えなかったとかそういう理由もあるかもしれないけど、僕はこれはわりと重要なことだと思うんですよ。

 

映画って舞台演劇などに比べても写実性が高いので、「何年も経ったという設定で…」といわれても、ほんとにそう見えないとその世界に没入しにくいんですよね。

 

余談ですが、先日DVDで『プリティ・リーグ』という映画を観たんだけど、これは若い頃に女子野球選手だったヒロインが何十年も経って昔を思い出している回想シーンから始まる物語で、最後に再び時代が現在に戻る。そこで彼女は昔試合で一緒に戦った古いチームメイトたちと再会する。

 

映画の本篇では若かった登場人物たちがラストで数十年後の姿を現わす。

 

老人になった主人公たちを演じているのは主演女優たちとはそれぞれ別の役者なんだけど、顔や外見の特徴が非常によく似た俳優を使っているので、あぁ、あの人が今こんなになって!という感慨があるんですね。

 

ここでも外見は変わったけど変わらない友情や大切な想い出などについて描いていたわけで、そこに映画ならではの説得力があった。『日日是好日』でもそこは省略せずにやってもらいたかった。

 

美智子役の多部未華子さんについては彼女が子役出身であることやこれまでにさまざまな映画やTVドラマに出演してることは知ってたけど、僕は多部さんが出演した作品をちゃんと観たことがなくて(朝ドラのヒロイン経験者でもあるけど、彼女が主演した「つばさ」は未見)、黒木華さんよりも若いと思ってたら現在29歳で実は彼女の方が1つ年上だったんですね。

 

なんとなく20代前半ぐらいをイメージしていたので、あぁ、もうそんな年齢なんだ、と。

 

いや、年齢のことをとやかく言いたいんじゃなくて、ほら、黒木さんは顔立ちがわりと大人っぽく見える女優さんだから^_^; だから役柄上も多部さんが年上の設定なのを知って、ちょっと不思議な感覚だったのです。キャリアが長い俳優さんって、その存在は以前から知ってても作品を観続けてないと頭の中で若い頃のイメージのまま止まってたりするから。

 

美智子は映画の後半に退場することになるんだけど、典子と美智子の会話シーンで見せる多部さんの目の演技はとても印象に残る。言葉以上に美智子が典子を見つめる目の表情でその感情を表現している。

 

前半はこの美智子と典子が慣れない稽古に戸惑いながら徐々にそれを楽しみだす様子が描かれていて、若いふたりの悪戦苦闘ぶりに笑ったり、将来について語り合う彼女たちに初々しさを感じたり、過ぎ去った自分の過去を重ねてちょっと感傷的な気持ちになったりしていました。

 

ずっと一緒だと思っていた仲の良い存在が自分よりも先に別のところに行ってしまう寂しさ。焦り。

 

自分の場所を探しながらさすらう不安。

 

その中でお茶の稽古を続けていくことが典子の心の支えになっていく。

 

結婚を考えていた相手の裏切りに遭ったり、いくつもの別れが断片的に語られはするのだけれど、美智子の結婚と父の死以外のことについてはほとんど詳しく描かれないので、この25年間に典子の上にいろんなことがあったのだ、というのがイマイチ伝わらないところはある。

 

基本的に映画はバックに典子のモノローグ(独白)が流れる形で各エピソードについての説明がされるんだけど、起こった出来事と典子の心情がず~っと「言葉」で語られるので、そこは映像で描いてほしかった。

 

なるべくあの茶室に舞台を絞ってそれ以外の要素を削ぎ落としてミニマルな映画にしたい、という狙いはわかるんですが、もしもモノローグを使うのなら、そこに映像と組み合わせることで生じる笑いの要素を加えたり、メタ的な視点から主人公が自分の経験について述べる、といったような仕掛けがないと少々退屈なんですよね。

 

「日日是好日」という言葉の意味についても、映画の観客ひとりひとりが自分の経験と重ねて気づいていけるように見せてもらいたかった。

 

茶道の才能があると説明されるひとみ(山下美月)が初登場後に典子と絡まないままいつの間にか姿が見えなくなっていたり(モノローグで説明されていたかもしれないけど、失念)、終盤に登場した親戚の雪野(鶴田真由)がただ武田先生の過去について説明する役割だけで、典子と彼女たちとの間にドラマらしいドラマがまったく生まれないのも、エッセイならばともかく劇映画としては大いに物足りない。

 

父親の死についても、何度もあのお父さんが娘とご飯を食べたがっては仕事の都合でキャンセルになる描写があるので、その後の展開がたやすく予想できてしまう。

 

それは巧くないなぁ、と。大切な人が亡くなる前に会えなかったことへの後悔というのは僕にもあるから、浜辺に立つお父さんのあの場面には確かに心動かされはしたんですが。

 

というか、鶴見辰吾さんは30代の娘がいる父親にしてはちょっと若過ぎるし、かっこ良過ぎる。

 

彼が妻に「母さん」とか呼びかけると違和感しかない。申し訳ないけど僕はミスキャストだったんじゃないかと思います。鶴見辰吾のせいではなくて、配役と演出が原因。

 

このように、出演者たちの好演のおかげで楽しめたところはあるものの、1本の映画としては若干微妙だった、というのが本音です。いえ、観てよかったですけどね。

 

着物姿の女性たちが集う茶会は彼女たちの晴れの舞台であり、五感を研ぎ澄まして自然の営みを味わう一種の旅でもある。

 

茶釜から柄杓ですくう水やお湯のコポコポという音。激しい雨音。周囲から音が消えて無音になる状態。さまざまな「音」が聴こえてくる。

 

武田先生の典子に対する気遣い。それは心に傷を負っているからできることでもある。

 

 

 

御点前を披露する場は一期一会で、お客様は次にはもう死んでいて二度と会えないかもしれない。そんな戦国の世の千利休の想いを想像して、その一席一席を大切にすること。

 

それはかけがえのない日常への想いに繋がり、そこから「日日是好日」という言葉が浮かび上がる。

 

日々の当たり前のことを当たり前のようにできるありがたさ。

 

そして、いつも同じように思えても、それは常に変化し、やがて失われていくものでもある。

 

だからこそ愛おしい。

 

いつも初めて出会ったように、そしてこれが最後であるかのように人や四季を見つめていけたら、毎日がより輝いて見えるかもしれない。

 

心を尽くした「お茶」には、そういう想いが込められているのだ。

 

 

関連記事

『キリエのうた』

『ビブリア古書堂の事件手帖』

『リップヴァンウィンクルの花嫁』

『小さいおうち』

 

 

 

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ