周防正行監督、成田凌、黒島結菜、音尾琢真、永瀬正敏、井上真央、高良健吾、竹野内豊、竹中直人、渡辺えり、成河、森田甘路、徳井優、小日向文世、池松壮亮ほか出演の『カツベン!』。

 

大正時代。まだ「活動写真」=映画に「音」がなかった頃、サイレント映画の解説者“活動弁士”に憧れる染谷俊太郎は、かつて活弁士として大人気だった山岡秋声の名を騙り泥棒一味の一員になっていたが足を洗い、活動写真館「青木館」で雑用として働くことになる。やがて俊太郎の活弁の技を使うチャンスが訪れて…。

 

2014年の『舞妓はレディ』から5年ぶりの周防正行監督の最新作。

 

…と言いつつ、僕は周防監督の映画は2007年の『それでもボクはやってない』からご無沙汰だったので、12年ぶりの鑑賞。

 

活弁士を描いた映画を周防監督が撮る、というニュースは結構前に目にして題名も告知されていたので、それはちょっと観てみたいなぁ、と思っていたんですよね。でも、その後長いこと音沙汰がなくて、映画の紹介サイトなどでもタイトルを見かけなかった。

 

宣伝を見るようになったのもわりと公開が近づいてからでしたが、なぜでしょうね。

 

予告篇では出演者がみんな「…これは一体いつの時代に作られた映画なんだ?」と思うようなオーヴァーアクトで、ちょっと不安も感じたんですが。なんだか三谷幸喜の映画みたいな…。

 

 

 

 

それでも、サイレント映画の時代が舞台なのでおそらく昔の「ドタバタ喜劇」を思わせる演出をあえてやってるんだろうことはわかるから、楽しみにしていました。

 

実際観てみると、『蒲田行進曲』や『キネマの天地』、あるいは大林宣彦監督の作品が思い浮かぶ。

 

 

 

まるでタイムトラヴェルしたように映画がまだ若かった時代に想いを馳せて、心地よさに浸ることはできるかと思います。

 

予想通り上映会場はご年配のかたがたがほとんどでした。別にそれはいいんだけど、どこから漂ってくるのかわかんないなんとも表現のしようがない老臭が凄まじくてちょっと堪え切れなかったので、マスクを装着。マスクかけると眼鏡が曇っちゃうんだけど、それでもかけざるを得ないほど臭かった。頼むからおじいちゃんたち(おばあちゃんかもしれないが)は映画館来る前に風呂入って香水か消臭スプレー吹きかけてきて!(いや、そういうワシも加齢臭がヒドいのだが…)(>_<)

 

ほのぼのとする場面とか笑えるところもちょっとあったし、こういうユルくて懐かしい感じの作品を好まれるかたもきっといらっしゃるだろうけれど、でもすみません、これ以降は結構あれこれとケチつけるような文章を綴るので、この映画が面白かったかたはお読みにならない方がいいかもしれません。

 

ネタバレもあるので、これからご覧になるかたはご注意を。

 

 

まず、先ほど「いつの時代に作られた映画なんだ」と書いたけど、脚本も演出も役者の演技も、ほんとにまるで80~90年代ぐらいに作られた映画のようだったんですよね。あるいはNHKで放送される単発ドラマのような感じ。

 

舞台は大正時代だし、最初から時代に左右されない、時代を超越した作品と捉えることもできるんだけど、映画の「作り」が何かとても“いにしえ”な雰囲気で。

 

冒頭から、まだ子どもだった頃の主人公・俊太郎とヒロインの梅子が出会って一緒に活動写真を観たりキャラメルを頬張ったりする芝居が全部段取りっぽかった。子役に限らず大人の俳優たちもちょっとびっくりするほど大仰でわざとらしい(もしくは棒)演技をする。それが凄く気になっちゃって。

 

だって、他の映画ではいい演技を見せている人たちが全員“大根”に見えてしまってたから。

 

主役の成田凌は彼のちょっと頼りなさげでお人好しっぽい役作りはとても効果を上げていて役柄にぴったりだったし、コメディがいける人なのがよくわかったんだけど、たとえば売れっ子イケメン弁士役の高良健吾の台詞廻しとか「…これでオッケーなの?」って首を傾げてしまうほどたどたどしかったし、90年代に周防監督作品でコミカルな演技を披露していた竹中直人ですら「あれ?…竹中さん、あまり笑えないんだけど」って、その不発ぶりに驚いてしまった。

 

これも最初に書いたように、皆さん大仰な演技は「あえて」「わざと」やってるのはわかるんだけど、じゃあ、この映画は爆笑に次ぐ爆笑の「痛快コメディ」なのかといったら、そんなに笑えはしないし、だけど役者の演技はデフォルメされまくってるから通常のお芝居を堪能することもできなくて、途中であくびが出てきてしょうがなかった。そもそもお話が面白くない。

 

これもわざとなのかと思えてくるほどすべて先が読めるようにできていて、しかも観客のその予想を映画は何一つ超えてこないので、ちっとも笑えないコント芝居を劇中の映写機の手廻しクランクをゆっくり廻すようにスローモーションで見せられているような錯覚に陥る。上映時間は127分ありますが、中身がスッカスカだから体感時間が長いのよ。

 

誰だ、この脚本書いたの、と思ったら、三谷幸喜監督作品で助監督を務めていた人だった。…あ、察し(;^_^A

 

この題材なら、もっともっと笑えておまけに泣ける映画にできたはずなんですよね。

 

周防監督は昔の映画のことやサイレント時代のことをいろいろと調べられたんだろうから、それらの知識を駆使してもっと“活動弁士”の知られざるエピソードを盛り込むことだってできたのではないか。

 

 

 

 

または、お話の内容はありきたりであってもいいから、そこに溢れるようなスラップスティック・コメディの要素をぶち込んで観客を抱腹絶倒させてくれたら、役者のオーヴァーアクトは全然気にならなくなるんですよね。ジャッキー・チェンの映画で彼のコミカルな演技に誰も「演技がわざとらしい」などと文句を言わないのは、ジャッキーの映画が笑えるからでしょ。あれは“芸”なんだから。

 

だけど、この『カツベン!』はというと、演技の間、演出や編集のテンポが恐ろしく悪くて、わざわざ笑えなく仕上げてるようにすら思える。

 

弁士をふんどし一丁にしてそれで笑いをとろうとするとか、だからこれは一体いつの映画なんだ。

 

周防監督の映画って、こんなにつまんなかったっけ。こんなに演出がヘタクソな監督だった?

 

ちょっと呆然としてしまった。

 

やっぱり脚本のマズさが致命的だと思うなぁ。

 

だって、竹中さんが演じる「青木館」の館主なんて、面白い台詞がろくにないんだもの。笑えたのって腐った床を踏み抜くとこぐらいで。その妻を演じる渡辺えりさんも同様。

 

このふたりのやりとりで笑わしてくれなくちゃ。だけど台詞が面白くないんじゃ、夫婦の面白いやりとりなんて演じられるわけがないよね。わめいてるだけなんだから。

 

渡辺えりさんは終盤に「タチバナ館」の館主(小日向文世)に雇われた永尾(音尾琢真)の狼藉を止めようとして暴力を振るわれるんだけど、観ていてただただ痛々しくて腹立たしいだけでちっともコミカルじゃないし笑えもしない。彼女がそのあとで永尾にやり返して溜飲を下げる場面もないから、もう彼女はなんのために出てきたのかもよくわからないキャラクターになってしまってるんですよね。ただいるだけ、みたいな。主人公の俊太郎ともそんなに絡まないし。竹中直人と渡辺えりを起用しといて笑いをとれないって、それはもったいなさ過ぎでしょう。だからって別に泣けもしないし。

 

ほとんどの登場人物がそうなんですよ。どの役柄も物語の中でまったく活かされてないんだよね。

 

これだけ芸達者を揃えながら笑えも泣けもしないとは。

 

竹野内豊演じる刑事は銭形警部っぽいキャラで俊太郎と永尾を追い続けてるんだけど、だったら彼を使ってそれこそ警官モノの追っかけをサイレントの喜劇風に面白おかしく撮ればいいのに、人力車とかリヤカーを使ったその場面がモタモタしていて全然スピード感がないもんだから、これで「笑え」と言われてもなぁ、と。いつの時代の映画なんだ、ってのはそういうことを言ってるんですが。

 

 

 

 

おそらく大林宣彦監督が同種の作品を撮ったら、狂ったようなキャメラワークやカット割りで眩暈がしてくるような映像を作り上げるんじゃないですかね。好みは激しく分かれるだろうけど。そういう「映画が走り出す瞬間」がないんですよ、この作品には。だから退屈だったし、長くも感じた(※個人の意見ですから、楽しめるかたもいらっしゃるでしょう、多分)。

 

それに、俊太郎と梅子の出会いは結局なんだったんですか?

 

子どもの頃に「活動写真」を介して生まれた彼らの繋がりは、時を経ての再会でいくらでも「運命的」なものとして描けたはずなのに、俊太郎は梅子にはほとんど未練がなさそうで、駅で独りぼっちの梅子は映画監督(池松壮亮)に女優として見出されて京都へ行くことになる。

 

映画のラストにはこれまたお約束通り梅子は女優として成功して、刑務所の俊太郎に会いにくるんだけど、彼に会わずに看守にハンカチに包んだある物を託していく。

 

そんなのキャラメルに決まってるんだけど、さすがにもうちょっと捻れないものだろうか。

 

キャラメルがちっとも効果的な小道具になってない。すべてが型通り。

 

もしも別れで終わるのなら、そこになにがしかの切なさを感じたいじゃないですか。せっかく縁があったふたりなのに。彼らが舐めたキャラメルの味は甘くて、ほろ苦くて、そしてちょっぴり涙の味がしたんじゃないのだろうか。だけど、そのあたりも妙にあっさりしてるんですよね。センチメンタルですらない。

 

 

 

梅子が駅に立ってる場面で目を疑うほど酷い機関車の合成ショットがあるんだけど、まともにVFXも使えないのならあんなショットいらないでしょう。車内のカットだけで充分だ。

 

映像に対するこだわりも感じられなかった。

 

やがて活動写真は「映画」と呼ばれるようになって、声も付くようになると活弁士はもはや不要な存在になる。

 

そのことを永瀬正敏演じるヴェテラン弁士・山岡が語るんだけど、この人の人物造形もよくわかんなくて、何かといえば酒飲んで寝てる、というのも芸がなさ過ぎだし、キャラがまったく立ってないから(俊太郎が子どもの時から山岡が見た目が全然歳を取っていないのも地味に気になる。いつものただの永瀬正敏でしかない)、「活弁」がやがては消えていくのだ、という哀しみもイマイチ伝わってこない。

 

だから、笑えもしないしジ~ンと涙で銀幕がかすむこともないので、何を描こうとしていた映画なのかよくわからないんです。どこにも着地しない映画。

 

僕はこれは、脚本・演出・演技すべてが失敗していたと思う(成田さんだけはよかったけど)。

 

劇中でスクリーンに映し出されるサイレント映画で「マッサン」のシャーロット・ケイト・フォックスや監督の妻でもある草刈民代、上白石萌音などが出演していて、そこは気がついた人は楽しいでしょう。だけど、あの映画のフィルムの切れ端を繋げた映像に俊太郎が下ネタだらけの解説を入れるところなんか、(この『カツベン!』という映画の)作り手の程度の低さと観客を舐めきったような作劇に僕はうんざりしてしまった。あれって「映画」というものへの冒涜的な行為じゃないですかね。

 

 

 

 

 

 

現実でもあの当時は「映画」そのものよりも人気活弁士の“名調子”の方が上の扱いだったのかもしれませんが、僕はこの映画から「映画」への愛も、それから「活弁」へのリスペクトもあまり感じられなかった。ひたすら雑に扱われる映画フィルムと低俗に描かれる活弁士たちや演奏者たちに映写技師(フィルム缶をフリスビーみたいに飛ばしまくってるしさぁ)。

 

それは『ニュー・シネマ・パラダイス』で描かれた映画館の猥雑な描写とは似て非なるものだ。あの映画からは、乱暴で猥雑なりに作り手や登場人物たちの映画への愛が感じられたから。

 

いや、だから別に映画の中で映画作品やフィルムをどんなに乱暴に扱おうと、それが「面白さ」に繋がってるならいいんですよ。作り手が「映画」で思いっきり遊んで、その無邪気さや暴力性、エロティシズム──そういったものと戯れて僕たち観客をスクリーンの向こう側へ連れてってほしいんです。活弁士の「声」は観客を夢の世界へといざなうセイレーンの歌声のようなものなのだから、劇中での女性客たちのようにその「声」に酔わせてくれなくては。

 

それなのに、ここぞ、というところでくだらない下ネタって、それは違うだろうと。下ネタがダメなんじゃなくて、タイミングをわきまえろよ、って話。

 

「活弁」って話芸なんだけど、この映画はその肝腎な「言葉」を大事にしていない。大事にしてたら台詞や会話の一つひとつだってもっと凝ったはずでしょう。「語り口」の面白さで観客をもっとグイグイ惹き込んでくれたはず。

 

この映画の美術はかなり頑張って当時を再現しているのだそうですが、だったら最後にあの青木館が火事で焼ける理由ももうちょっとマシな描き方をしてほしかったなぁ。

 

永尾が撃つ拳銃って弾丸が何発入ってるんだよ、とか、あの永尾という男を重要なキャラクターみたいに描いてるのも凄く的外れに感じられたし。あの刑事がとっとと射殺しとけば活動写真館だって燃えずに済んだんだし。

 

あんなどーでもいいクライマックスを入れるぐらいなら、梅子との恋愛ドラマの方をもうちょっとちゃんと描いてもらいたかった。

 

散々青木館を苦しめたタチバナ館の館主と井上真央演じるその娘があのあとどうなったのかもわからないし、物語をちゃんと描ききってないじゃないですか(ってゆーか、終わりのあたりをもうよく覚えていないのだが)。

 

徳井優演じる三味線奏者が持ち逃げした鞄の中に入ってるはずの大金がなかった、って…じゃあ、彼は鞄を開けずに店で飲んだお代をどうやって支払ったの?

 

それから青木館の館主は、結局あの盗んだ金で活動写真館を建て直すことにしたんですか?それでいいの?

 

腑に落ちないことだらけなんだよね。

 

そんなクソミソにこき下ろさなくてもいいじゃないか、と思われるかもしれないし、いや、面白かった、好きだ、というかたもいらっしゃるでしょう。だけど、この題材だったら絶対もっと面白くなったんだって!!^_^;

 

チャップリンの映画のストーリー展開に仮に無理があったとしても誰もいちいちツッコまないように、映画がツッコミを入れる余地もないほど面白ければ問題はないんですよ。そうじゃないから粗が気になるんで。

 

この映画のあとにストップモーション・アニメのひつじのショーン』の最新作を観たんですが、あちらは笑えて最後には見事にホロリとさせてくれてました。

 

ご老人たちばかりが観にきてる映画が子どもたちが観にきてた映画に完敗していた。『ひつじのショーン』は子ども騙しではなく、ちゃんと作られていたから。

 

「ひつじのショーン」って登場キャラが人語を話さないので、日本語の字幕はほとんどないんですよね。時々映る英語の文字の翻訳のためだけで。キャラクターの動きや仕草で物語を伝えている。

 

つまり、昔のサイレント映画の手法が活用されているんですね(もちろん、声や音、音楽は入ってるからサイレント映画ではないが)。昔の技術がしっかりと継承されていて、現在の観客がそれを観て楽しんでいる。大いに見習うべきだな。

 

トーキー(発声)映画の発明、普及以降、やがて昭和の時代になると廃れていった“活動弁士”という職業(現在も完全になくなってはいないが)は日本独自の文化で(海外にも音声による解説はあったようだが、観客が弁士の語りを聴きにくるということはなくて、あくまでも主役は「映画」の方だった)、それは落語や講談など耳で聴く娯楽の延長線上だった。日本の映画史の初期を語るうえでは、この「活弁」の存在はけっして無視できないでしょう。ちなみに、黒澤明監督の兄も元弁士でした。

 

そういうところはとても興味をそそられるからこの映画を観たわけですし、題材に期待させられただけに本当に残念。かなりガッカリな出来だった。

 

邦画のシナリオ、もっと頑張ってほしいです。

 

 

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