5月14日(金)、NHK連続テレビ小説「おちょやん」が最終回を迎えました。

 

 

 

 

なんで急に朝ドラ?って感じで申し訳ありませんが^_^; これまでもう一つのブログに感想を書き続けていたところ、突然パソコンであちらのブログにアクセスできなくなりまして(スマホでは見られるんですが)、それは僕のオンボロPCのせいで、しかも只今「緊急事態宣言」の発出に伴って最寄りのインターネット・カフェではパソコンが使えないため、あちらのブログにいつ感想が書けるかわからないのでやむなく急遽こちらのアメブロの方に書き込むことにした次第です。

 

なので、なんの前置きもなくいきなり最終回の話とかされてもよくわかんないと思いますが、ご容赦ください(;^_^A

 

ドラマの内容について触れますので、これから再放送やDVD、動画配信などでご覧になる予定のかたはお読みにならない方がいいと思います。

 

 

一応、説明しますと、「おちょやん」は女優の浪花千栄子さんと彼女の人生をモデルにしたフィクションで、主人公・竹井千代を杉咲花さんが、また喜劇役者の2代目渋谷天外をモデルにした天海一平(2代目天海天海:あまみてんかい)を成田凌さんが演じました。

 

 

 

千代の父親・テルヲをトータス松本さんが演じて、朝ドラ史上でも上位にくるなかなかのクズ親父ぶりを見せて、Twitterでも「テルヲを憎んでトータス憎まず」などと言われたりも(^o^)

 

 

 

 

幼少期の千代役だった毎田暖乃ちゃんは、ドラマの終盤では千代の姪でやがて養子となる春子も演じてましたね。

 

前作「エール」がコロナ禍で収録が中断して放送終了が遅れたために「おちょやん」は去年の11/30からの開始で、例年よりもちょうど半月分放送期間が短くなったんですが、一週間で1エピソード、というルールが徹底していて、良くも悪くもポンポンと手際よくお話が進んでいきました。

 

金曜日には問題は解決して(※ドラマ本篇は月曜から金曜までの5日間で、土曜日は一週間のまとめ)視聴者に余計なストレスを残さない安心感と引き換えに、ステージをクリアしては次に進んでいくゲームの主人公のように感じられなくもないところはあった。

 

1話15分とはいえ、何しろ五ヵ月半という長い期間放送されるわけだからその間視聴者を飽きさせずに毎日TVの前に座らせ続けるにはある程度のテンポのよさは必要だろうし、浪花千栄子さんの俳優人生をドラマ化するにあたって、どのエピソードを拾って、ドラマとしてフィクションをどんなバランスで入れるのかとか、作り手の工夫のあとがうかがえて僕はとても面白かったですけどね。

 

お芝居のお話を、主役の口上から始まり、舞台の袖でそれを見守る黒衣(桂吉弥)、最後には幕が引かれて終わる、まるで1本の長大なお芝居のように描いてみせたのはユニークだったし、同じ大阪放送局(BK)による「スカーレット」と並んでとても好きな作品になりました。

 

その一方であえて述べるなら、疑問を感じた部分もいくつかあって、それは「親による子どもの虐待・搾取」と「戦争責任」についての扱い方。

 

千代の実の父親であるテルヲは妻のサエ(三戸なつめ)を病気で亡くして、後妻として栗子(宮澤エマ)を連れてくるが、身篭っている栗子は継子の千代と弟のヨシヲを疎ましく感じ、千代を奉公に出させてヨシヲの育児も放棄して竹井家から出ていってしまう。

 

またテルヲは千代の奉公先や京都の撮影所で女優としての仕事を始めた娘の前にたびたび現われて、血を分けた肉親であることを理由にしては千代の信頼を裏切り続ける。

 

親に捨てられたヨシヲは神戸のヤクザに拾われてそこの舎弟になり、成長後(演:倉悠貴)に千代の働く芝居茶屋「岡安」で姉と再会したのち、どのような経緯でかは描かれないが満州に渡って、そこで千代と一平夫婦の息子代わりだった寛治(前田旺志郎)と偶然出会う。

 

テルヲと継母の栗子は要するに「毒親」だったわけだけど、やがて病気で亡くなる直前にテルヲは改心して千代に詫びを入れ、また栗子は戦後になってから「鶴亀新喜劇」を出奔して行くあてのなかった千代の前に何十年ぶりかで現われて、一緒に暮らすことになる。栗子は長年、密かに千代に花籠を贈り続けていた。また、テルヲとの間の娘・さくら(千代の異母妹)が産んだ孫の春子を育てていた。千代と同じくテルヲの血を継ぐ春子を託して栗子は亡くなる。

 

このドラマで千代は「赦すヒロイン」として描かれている。夫の一平が座員の灯子(小西はる)と不倫して彼女が一平の子を産み、千代は離婚して芝居からも離れるが、最後には元夫もその再婚相手も赦す。

 

人は過ちを越えて赦し合うことができるし、血が繋がっていてもいなくても家族のように大切な存在として愛し合うことができる。そういうことを語っていたのだろうし、コロナ禍の現在だからこそ、そのような寛容さと救いはよりいっそう必要だろう。

 

ただ、史実では浪花千栄子さんの父親はドラマで描かれたよりももっとはるかに“人でなし”だったし、その父とはある時点で縁が切れたようで親子が和解したという記録はない(花籠をめぐる継母とのエピソードは完全な創作)。また、彼女が夫から受けた仕打ちもドラマで描かれたようなマイルドなものではなかった。離婚後に再び「新喜劇」の舞台で元夫と共演することはなかった(そもそも出演を打診されていない)。

 

夫が反省して浪花さんに謝ることはなかったし、それどころか彼女はその夫からほとんど追い出されるような形で劇団を辞めて離婚している。浪花さんはそんな元夫を、ドラマの中の千代のようには赦さなかった。

 

では、「赦さない」のはダメなことなんだろうか。

 

でも、世の中には「だんない(大事ない)」では済まないことがあるし、なんでもかんでも赦すことなんてできない。赦せないこと、絶対に赦してはならないことだってある。

 

誰も「悪人」にはせず、過ちは反省して心を入れ替え、赦しを請う。どんなに裏切られたとしても、罪を憎んで人を憎まない。

 

…そんな「こうであったらいい世界」を描くことで、これを観る人々が少しでも世の中に希望を持って前向きになれたら、というドラマの作り手の強い想いはよく伝わりました。

 

それでも、現実はそうではないことが圧倒的に多い。

 

理不尽な思いをして、納得いかないままどこかモヤモヤを抱えながら僕たちは生きている。

 

だから、シャレにならない酷い結果になることは絶対にない「朝ドラ」の清々しい世界に心が洗われる気持ちになることもあったし、別に朝っぱらからドロドロした人間関係を見たいわけではないのだけれど、でも、現実に「あったこと」を「なかったこと」のように無視して「描かない」(なかったことをあったように描くのも同様)というのは危うさを伴う。それは「“批判”を許さない」ということにも繋がるから。

 

「正しくないこと」に対しては、きちんとけじめをつけることも必要。そして、人間には正しさや美しさだけではなくて、間違っていたり「醜い部分」だって確実にあるんだということは忘れない方がいい。

 

もう一つの「戦争責任」についてですが、戦前戦中に千代たち「鶴亀家庭劇」では戦地の兵士たちを称揚するような芝居を作って観客もそれを歓迎するんだけど、座員たちも社長の大山鶴蔵(4代目中村雁治郎)も自分たちがやってきたことに疑問を持つことさえなかった。

 

千代もまた、自分たちが戦争に「加担」していたことには最後まで気づきもしない。

 

実際に浪花千栄子さんが戦時中の自らの活動をどう思っていたのかは知らないし、彼女たちに限らず当時は演劇でも映画でも戦意高揚のための作品はたくさん作られたわけで、その作り手たちが戦後になってかつての自分たちの行ないを反省したかというと、ほとんどの者たちは反省などせずにシレッと「民主主義」に鞍替えしていたのかもしれない。

 

だけど、だからといって今、ドラマの作り手が戦争の時代を描く時に、あの当時を「観客を楽しませるためにやっていたんだから」と表現者の責任をどこかウヤムヤにしたままにすることに僕は抵抗を覚える。

 

登場人物たちに自覚があるかどうかはともかくとして、ドラマの作り手側は同じ「表現する者」としてそこはちゃんと追及すべきではないか?

 

この作品に限らないけれど、戦後生まれで戦争を知らない世代(僕だってそうですが)が描く「戦争」には、どこか戦争を突然やってくる災害か何かと混同してるような、責任の所在を自分たち以外のところに丸投げして自らは被害者や犠牲者として捉えがちなところがないだろうか。

 

おしん」や「澪つくし」で、戦争で儲けようとした者たちがどうなったか、戦争に対して無批判のまま「お上」に従った者がその後何を失いどのような悔いを心に負うことになったか(「おしん」の作者・橋田壽賀子さんはご自身の戦争への反省を主人公のそれに重ねていた)思い出したい。

 

──以上のように、う~ん、これはどうなのかなぁ、と思うところもあったんですが(それは「おしん」や「澪つくし」だって同様ですが)、それでもこの「おちょやん」を僕は毎日本当に楽しんで観たし、ここ数年観てきた朝ドラの中でも一番と言えるぐらいに好きになりました。

 

ドラマの作り手がとてもよく考えて、批判も想定しながら丁寧に物語を紡いでいるのが観ていてわかったから。

 

きっと、「朝ドラ」という枠組みの中で、「やりたいこと」と「やれること」のせめぎ合いがあったのだろうと思う。

 

何よりも、「芝居」と出会ってその楽しさに目覚めていくひとりの女性の一代記、というおなじみのフォーマットを用いながら現在のコロナ禍の日本に向けたメッセージ性を込めた物語は、ここで挙げたような疑問も含めていろいろと考えさせられるところがあって面白かったし、主役から脇まで出演者たちの演技も素晴らしかった。

 

主演の杉咲さんはもちろんのこと、お相手役だった成田さんの繊細な表情の演技、かと思えばハゲヅラが似合い過ぎ(笑)で達者な老人演技など、杉咲さんの巧さと見事なコラボレーションになっていて、後半では妻を裏切る損な役回りでありながらそれは役者としてはまさしく演技の見せどころでもあって、以前出演された「わろてんか」の時以上にその存在を日本中に知らしめたなぁ、と。

 

 

 

あいにく成田凌さん主演の映画『カツベン!』を僕は酷評してしまいましたが(成田さんの演技ではなくて、作品そのものを批判したんですが)、彼が主演した他の映画『愛がなんだ』や最近公開された『まともじゃないのは君も一緒』などは評判がいいから、僕はどれも未鑑賞ですがそのうち観てみたいです。

 

 

杉咲花さんについては、たとえば「スカーレット」の主演の戸田恵梨香さんはご本人が兵庫出身だから同じ“関西人”の主人公と重なるところがあったのに対して、杉咲さんは東京の人なので“おちょやん”こと千代とは普段から言葉遣いも違うし、朝ドラのあとに放送される「あさイチ」出演の時も役柄とのギャップがあって、浪花千栄子さんの喋り方を研究して演技に活かすなど本当にゼロからあの役を作っていったんだなぁ、とあらためてその努力に感服。

 

これまた僕は杉咲さんが出演された映画というのをほとんど観たことがなくて(朝ドラ以外のTVドラマも普段観ないし)、だからこれから彼女が出演している素敵な作品にめぐり逢えるのを楽しみにしています。

 

秦基博さんによる主題歌「泣き笑いのエピソード」は、まるで初回から最終回まで観てから作ったような、主人公・千代に寄り添った歌詞でした。もうこれから毎朝この歌がTVから流れてこないのは寂しい。レトロな絵柄の犬ん子さんのイラストのアニメーションもよかったなぁ。

 

 

 

 

かさぶたが消えたなら 聞いてくれるといいな 泣き笑いのエピソードを

 

 

関係者の皆さん、1年間の長きに渡る撮影おつかれさまでした。楽しいひとときを、どうも、おおきに。

 

17日の月曜日からは早速、朝ドラの新作で清原果耶さん主演の「おかえりモネ」が始まりますが、もう少し「おちょやん」の余韻に浸りたいなぁ。

 

 

 

 

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