監督:米林宏昌、声の出演:高月彩良有村架純杉咲花松嶋菜々子根岸季衣寺島進ほか。スタジオジブリのアニメーション映画『思い出のマーニー』。

原作はジョーン・G・ロビンソンによる同名児童文学作品

主題歌はプリシラ・アーン



喘息の療養のために養母の親戚の家に滞在することになった杏奈(高月彩良)は、なかなか人と打ち解けられず現地の女の子にも心ない言葉を浴びせてしまう。ある日、杏奈は湿地の向こうの洋館に住む不思議な少女マーニー(有村架純)と出会う。ともに舟を漕いで語らううちに、いつしか杏奈にとってマーニーは大切な存在になっていた。


借りぐらしのアリエッティ』の米林監督の4年ぶりの新作。

いきなりですが、米林監督の劇場アニメーション第1作目の前作『アリエッティ』には個人的にかなり不満があって、その人の新作ということで正直なところまったくそそられず、いつもなら公開されたら真っ先に観に行くはずのジブリアニメをだいぶ遅れて鑑賞。

すでに他の人たちの感想もいくつか目にしていて、完全否定派は予想通りだけど中にはとても高く評価しているものもあり、自分は果たしてどちらになるのだろう、とずっと気になってました。

『アリエッティ』同様、原作は読んでいません。

だからそれとの比較はできないので、あくまでも1本の単独の映画としてどう感じたのか書いていきます。

というわけで、これ以降はストーリーのネタバレを含みますので、未見のかたはご注意ください。



まず、映画を観る前に設定だけ知ってずっと疑問だったのが、イギリスが舞台の海外文学を映画化するにあたってなぜその舞台をわざわざ日本に変えたのか、ということ。

『アリエッティ』の時にも強く感じた違和感が今回も濃厚に漂ってきて、悪い予感しかしなかった。

『アリエッティ』でも舞台は日本で人間たちは日本人、でも小人の主人公とその家族、同じ種族のスピラーは原作のまま、というのが観ていてすごくヘンだった。

ぶっちゃけ舞台が日本である必然性をビタ一文感じなくて。

なんで原作通りにしないのか。

その疑問は結局、今回の『マーニー』でも払拭されませんでした。

仮に日本の観客がより主人公に感情移入できるように、という配慮での改変だったら、それは余計なお世話でかえって観客の想像力や共感能力を侮っていることになるし、舞台や登場人物たちを変えるのならなんで中途半端にヒロインの一人は外国人のままなの?とか、とにかく原作の意味不明なイジり方が気になって仕方がない。

すいません、原作読んでないくせに言ってますが。

この映画を観る前に僕の頭に浮かんだのは、かつてTVでよく観ていた「世界名作劇場」(ジブリのスタッフにも参加者がいる)なんですよね。

ご存知「アルプスの少女ハイジ」をはじめ「赤毛のアン」や「若草物語」など、かつて日本では海外の児童文学や小説などを原作とした一連のアニメ番組が作られていて(原作のない完全オリジナルもあったが)、それらはアニメ化に際して細かい変更があったとはいえ、基本的には原作に沿った作りになっていました(もしくは短篇を1年間放映するために長篇に膨らませていた)。

少なくとも、まるっきり舞台を変えてしまう、というような乱暴な処理はしていなかった。

それでなんの支障もなかったし、僕ら日本の子どもはそのおかげで海外作品の存在を知ったり、より原作への愛着を深めたりしていたわけです。

ジブリだってこれまでに海外や異世界を舞台にした作品をいっぱい作ってきたけど、別に日本の観客が戸惑うようなことはなかったでしょう。

「思い出のマーニー」も、原作通りにアニメ化していたら2010年代の「世界名作劇場」になり得たんじゃないかと。

なのになんで日本に?というのは、ほんと思う。なんでなんですか?

だってさ、たとえば「赤毛のアン」の舞台をプリンスエドワード島から北海道に変えて、でも主人公はカナダ人のアンのままで彼女が日本人の登場人物たちとカラむ話にしちゃったら、それはもうまったく別の作品じゃないですか。ってか、わけわかんねーし^_^;

同じことをこの監督さんは『アリエッティ』や『マーニー』でやってる。

原作通り、イギリスを舞台にイギリス人の主人公でやってなんかマズいことでもあるの?

もしハリー・ポッターが住んでるのが東京で、ハーマイオニーやロンがアキコやケンイチという名前の日本人だったら、たとえ原作を読んだことがない人だって「なんで主人公だけガイジン?」って思うじゃん。

だから、舞台作りやキャラ作りの段階で、もう何か決定的に間違っている。

かつて高畑勲宮崎駿は「ハイジ」などで舞台となる国をロケハンで訪れて多くのスケッチや資料を残し、それらをもとに番組を作っていったのだが、その労力が惜しいから手っ取り早く日本にしちゃったんじゃねーの?と勘繰ってしまう。

それでも何やら思うところあってどうしても舞台を日本にしたいのなら、思い切ってアリエッティやマーニーだって日本人のキャラクターにすべきなんですよ。

日本にはコロポックルという小人の種族がいるわけだから、そこから発想してアリエッティたちを日本独自の小人たちに翻案することは可能だし、マーニーもまた、長い黒髪に着物姿の日本人女性にしたってお話はちゃんと成立する。

その後のオチも含めて、マーニーが杏奈と同じ日本人であることはいっそう自然なことだし。

 

 


もうすでに知ってる人は多いだろうからネタバレしちゃいますが、マーニーをイギリス人(映画の中ではどこの国の人か言及はないが)と日本人のハーフという設定にしたり、杏奈がマーニーの血を引いていたという結末はこの映画のテーマからズレてて、いたずらに観る者を混乱させるだけだと思うんです。

別にハーフやクォーターの人々の悩みを描いた映画じゃないでしょ、これは(それならそれで、もっと違う描きようがあるはず)。

もっと広く普遍的な物語でしょう。

つまり、杏奈のモノローグ(独白)にあるように、世の中には魔法の輪の内側にいる人たちと外側にいる人たちがいて、自分は外側の人間なんだ、と思っているような、疎外感や孤独を抱えている多くの人々の話ということ。

その点では、さっき言ったのと矛盾するけど物語の舞台が日本に変えられていたことは、この映画を「よかった」「好き」と言っている人たちにとってとても意味があったんだろうと思います。

遠いイギリスが舞台ではなく日本、主人公も日本人の一見“普通”の家庭の少女。また時代も原作が書かれた1960年代末ではなくて現代であること。

それゆえに深く共感を覚えた人たちがいるんだろうことはよく理解できます。

この映画は、最初から最後まで主人公の杏奈に違和感や嫌悪感しか抱けないか、逆に自分やもしくは親しい友人を見るように感じるか、人によってその共感度に違いがあるでしょうね。

それは、この映画を自分目線で観るか、それとも引いた目で冷静に観るかでも変わってくる。

僕は女の子でもその父親でもないのでそういう視点でこの映画を観ることはできないんですが、でもただ一点「疎外感」という部分では相通ずるものがあるので、「自分は親に愛されていないのではないか」「自分はまわりの人たちと違う」という杏奈の気持ちにちょっと寄り添えたような気はしました。

だからひたすらヒロインが何考えてるのかわからなかった『アリエッティ』よりは、もうちょっと楽しめたかな。

いや、楽しめた、というよりも作り手の意図が多少は理解できた、というべきか。

映画を観る前に読んだいくつかのレヴューで、杏奈がいかに他者の迷惑を顧みない自己中心的でワガママな、そして夢遊病の気もある異常で病的な少女か、ということを連綿と綴ったものをいくつか目にしたんだけど、そういう怒りはわかりつつも、これが「アンチ宮崎駿」という観点では実に理にかなった作品であることにちょっと納得もしたんですね。

どういうことかというと、今回、監督の米林宏昌さんは公開前から「脱・宮崎駿」を表明していて、パヤオ・チルドレンな僕はちょっとイラッときてもいたのです。

だってジブリのブランドを作り上げたのは宮崎監督作品のイメージなわけでしょ?これまでそれをさんざん利用しといてよく言うよな、と。

ところで、この『マーニー』の作画監督と共同脚本を兼任している安藤雅司は、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』でキャラクターデザインを担当したが、主人公の千尋の設定を巡って監督と決裂、それ以降は『かぐや姫の物語』までジブリと距離を置くことになった。

『千と千尋の神隠し』は宮崎駿が初めて現代の日本を舞台にした作品で(最終的に“現代の日本”を舞台にした宮崎駿作品はこの映画と『崖の上のポニョ』の2本のみ)、今回の『思い出のマーニー』と対照的な作品に仕上がっている。

冒頭、主人公の千尋は引っ越しすることになって同じクラスの友だちとも別れなければならず、憂鬱な面持ちで車の中で寝そべっている。

それは本作品『マーニー』で田舎に療養に行くことになる杏奈とも重なる、従来のジブリ・ヒロインとは異質なキャラである。

しかも千尋はそれまでの宮崎ヒロインのように“美少女”ではなくて目がちっちゃくて下ぶくれ気味の“おへちゃ”で、また当初は引っ込み思案なところもある「可愛くない女の子」として設定されていた。

ところが、『千と千尋~』をちゃんと観ればわかるが、千尋は結局のところワガママも言わず何事にも懸命に頑張るしっかり者の女の子、すなわち立派な宮崎ヒロインとして描かれていた。

おそらくそうした変更が、千尋という等身大の少女キャラに思い入れもひとしおであっただろう安藤雅司さんにとって大いなる不満であったことは想像に難くない。

僕には今回の杏奈の人物造形は、作り手たちの『千尋』の宮崎監督へのリヴェンジにも思えたのです。

そうしたら、ジブリ生え抜きのアニメーター(『千尋』におけるカオナシのモデルでもある)米林監督が本作品で宮崎監督に生意気にもほどがある挑戦状を叩きつけた理由とも繋がる気がして。

まさしくこの作品は、米林宏昌と安藤雅司にとっての「父殺し」の物語でもあったのだ。

実の息子・宮崎吾朗だけでなく米林宏昌や安藤雅司と、巨人・宮崎駿は幾人もの“息子たち”に命を狙われなければならないほどの業の深い人間ということですね。

米林宏昌と安藤雅司にしてみれば、この映画で描かれる主人公・杏奈は「絶対に宮崎駿には描けないヒロイン」でなければならなかった。

この映画には杏奈と知り合って友だちになる女の子がマーニー以外にもう一人いて、それはかつてマーニーが住んでいた屋敷に新しく引っ越してきた彩香(さやか)。

この子がまた、まるで宮崎監督ご本人と『トトロ』のメイちゃんを合体させたようなご面相のオーナーなのだ。

 


彼女のキャラクターデザインや性格付けはもしかしたら米林監督やスタッフのイタズラ、ちょっとした茶目っ気だったのかもしれないが、皮肉にも僕にはこの彩香ちゃんが映画の中で一番輝いて見えたし、むしろ彼女が主役のアニメーションを見たいと思ったほど。

声を演じている杉咲花の好演もあって(ハッキリ言って演技力では主演の高月彩良や有村架純よりも上)、とても印象に残る。

彼女とお兄ちゃんのエピソードとかもっと見たかったし、杏奈とのカラみももっとあった方が絶対によかった。

まぁでも、こまっしゃくれててキュートな彩香はキャラとしてすでに完成されていて、それは未熟な少女としての杏奈とは対照的だからこそ光ったともいえるので、彼女のような女の子をあえて脇に配置したのは正解だったかもしれない。

これもまた、宮崎監督に対する「あなたならこういう明朗快活な少女をヒロインにしただろうけど、私たちは違います」「やろうと思えば宮崎ヒロインのパスティーシュだってやれないことはないけれど、自分たちがやりたいのはそういうことではないので」という意思表明のようにも受け取れる。

そういう意味で、このヒロインの描き分けはとても興味深かったです。

そろそろストーリーに関して述べていきたいと思うんですが、あらためて要約すると、これは「自分は誰にも愛されていない」という孤独感を抱えていた少女が、療養先で金髪の少女マーニーと出会い友情を育むが、一見何不自由ない暮らしをしているようなマーニーもまた孤独に苛まれていて、そんな彼女とのふれあいの中で他者の痛みや苦しみを我が事のように感じその人のために怒り、そして励ましの言葉を送れる人間に成長していく話、ということでしょう。

何についての映画なのかは至極明瞭だ。

あとは、その「描き方」が妥当なものなのかどうか、観ていて普通に受け入れられるものなのか、ということだけ。

結論からいえば、中盤まではなんとかついていくことができたけど、終盤の「解決篇」で心が離れちゃった。

マーニーと別れたのちに、杏奈は彩香がお屋敷でみつけた「マーニーの日記」とマーニーとは幼馴染であった久子(黒木瞳)という名の老婦人の説明によって、実はマーニーが自分の祖母だったことを知る。

これは、男女の恋愛という違いはあるがクリストファー・リーヴ主演の『ある日どこかで』や仲里依紗主演の2010年版『時をかける少女』に通じる、「現実にはありえない時空を越えた愛の物語」といえる。

そういう話にはとても惹かれるし、祖母と孫娘の絆を描いて主人公のルーツを辿る話でもあるので、これは人のアイデンティティに関わる普遍的な主題でもある。

原作でもマーニーとアンナは祖母と孫の関係だそうだから、原作通りにやった、ってことなんだろうけど、ただし僕はそれについては映画ではうまくいってなかったと思います。

何よりも主人公が出会った不思議な少女を金髪碧眼の白人にしたことで、「おばあちゃんの思い出」というのが実感しづらくなってしまっている。

後半で久子さんの口から延々説明されるマーニーの生い立ちに、僕はまるで興味が持てなくて退屈してしまったのでした。

マーニーの夫や杏奈の両親と、人がやたらと死にすぎ、ってのもある。

それも後半の矢継ぎ早の「答え合わせ」に退屈してしまった理由の一つ。

井戸端会議でどっかの誰かのプライヴェートな不幸話をされたって、女子みたいに共感能力の高くない男子の僕には「それは大変でしたね」という当たり障りのない返答以外に何も出てこない。しかも単なるフィクションですしね。

原作が書かれた1960年代末は世界的に女性の権利について主張されるようになったりもして、そういう時代が舞台のイギリスの女の子たちのお話には、きっとまた日本とは違うリアリティがあったんだろうと思う。

でもそれはこの映画版『マーニー』で描かれていないし、なんだかいかにも日本人がモヤッとしたイメージだけで思い描いたような金髪の少女マーニーとその家族は、僕の目には古色蒼然とした「昔から日本人が憧れるガイジン像」にしか映りませんでした。

実写でやったら、TVのヴァラエティ番組に出てくる仕出しのガイジン・エキストラが演じてそうな感じ。

そんなんだったら、むしろ戦争の時代に華族の令嬢として育った日本人女性の一代記、といった話の方がよっぽどリアリティがありませんか?

僕は、マーニーは杏奈の空想上の存在のままで構わなかったんじゃないかと思うのです。杏奈の祖母とマーニーが同一人物である必要はない。

幼い頃に杏奈が抱いていた金髪の西洋人形、そして祖母が子守唄代わりに話してくれた遠い異国の女の子の物語がいつしか混然となって杏奈の中でかけがえのない思い出として甦ってくる…そんなお話で十分だったのではないかと。


また、この映画を観ていて幾度となく違和感を覚えたのが、杏奈が世話になる初老の大岩夫妻。

 


この人たち、一見善良そうだがあまりに杏奈を放置しすぎでしょう。喘息という持病があることは知ってるんだし、素行にも不安があるんだから普通だったら外出時にはそれなりに気にかけるはずで、まともな人間ならば12歳の少女の帰りが遅かったら心配して行方を捜したりもするだろう。

でも彼らは自分たちで一度たりとも杏奈を捜しにもいかなくて、倒れている杏奈をみつけて保護したり家に連れて帰るのはいつも通りがかりの村の人や彩香とその兄だったりする。

いい加減、夫婦揃ってドツいてやりたくもなる。

この大岩夫妻の杏奈への無頓着さ、不始末ぶりは、「田舎だから」とか「おおらかさ」などというものを通り越して「監督不行き届き」、もっといえば「育児放棄=ネグレクト」ともいえるものだ。

たまたま杏奈は彼らに悪印象を持たなかったし最悪の事態にもならなかったからいいものの、杏奈の養母・頼子が信頼して一時我が子を託すような責任感のある人々にはとても見えない。

これは明らかに演出ミスで、作り手はこの夫妻を「いい人たち」として描こうとしているし、実際恰幅のいいおばさんのセツさん(根岸季衣)は、杏奈が初めて頼子のもとへ来た時のエピソードを話したり一緒に料理をすることで、杏奈の頼子へのわだかまりを軽減させる役割を果たしてもいる。

観客に、このおばさんと旦那(寺島進)を「無責任」「ダメな大人」と誤解させてしまいかねないのは完璧に失敗だったと思います。

これも穿った見方をすれば『トトロ』で幼いメイちゃんの心配をして捜索していたお婆ちゃんや村の人々への意地悪な返歌とも取れるが。

ここしばらく続いている少女の拉致や監禁、暴行や惨殺事件を思い浮かべてしまった。

僕以外でも、この映画の子どもたちや大人たちの姿と一連の事件を重ねあわせた人たちはいるんじゃないだろうか。

ほっとけば子どもは育つ、なんてのは大昔の話。もちろん、だからといって過保護や過干渉がいいわけではないが。

大人だっていろんな人がいる。複雑なはずだ。

でもこの映画の大人は、杏奈から距離を置かれてつねに沈痛な面持ちの頼子と、一方で預けられた親戚の少女をほったらかしのままで平気な大岩夫妻のように単純に二分化されている。




会ったばかりの杏奈にずけずけとものを言って、その結果「ふとっちょブタ」というなかなか破壊力のある罵声を浴びせられる信子や、そのあと大岩家に怒鳴り込んでくる彼女の母親(この母親も非常に類型的)なんかも、大岩夫妻の同類と見ていいだろう。

さらにもう一つのパターンは、久子や老マーニー(森山良子)のように痩せぎすで銀髪の、存在自体が薄ボンヤリとした寂しげなまなざしの優しい老婦人。

 


これぐらいしかヴァリエーションがない。ってゆーか、すでにキャラがカブってる人が何人もいるのがわかるだろう。

これらのダブりキャラたちを統合してそれぞれ一つのキャラにすれば、登場人物がずいぶんとスッキリするはずだ。

絵を描いている老婦人・久子は老マーニーと一緒に一つのキャラにすればよい(実はこの二人は同一人物なのでは?と言ってる人もいるが、そうするといろいろ矛盾が出てくる)。

ふとっちょのセツさんと信子はどっちかを別のデザインにすべきだ。

また、原作ではアンナと交流を深めるらしい、映画では皆から十一(トイチ)と呼ばれる無口な中年男性は、なんのために出てきたのかすらよくわからない。声をアテているのは安田顕だけど、『アリエッティ』の時の藤原竜也以上に喋らないので誰でも構わないような役である。

 


十一さんに関しては、マーニーが外国人風の容貌をしているせいもあって僕はてっきり外国人男性かと思っていたんだけど(腕の太さとか毛深さとか、顔の作りなんか見てもいかにも白人男性っぽいし)、どうも日本人らしい。なんの説明もないんで勝手にそう思ってますが。それとも彼だけ原作のキャラに準じて外見をデザインしたのだろうか。

この辺も非常にノイズになっている。特に意味がないんなら出さなくていい。

マーニーにツラくあたる婆や(吉行和子)や未成年の杏奈にワインを飲ませるマーニーの父親(これも意味がわからなくて気持ち悪い)、顔すらさだかでない召使いたちも、出番は極端に少なくまるで蜃気楼のようにおぼろげな印象しか残さない(まぁ、彼らはよーするに幽霊のような存在なわけですが)。

 


七夕祭りの場面に出てきて杏奈が走り去る時にぶつかりそうになる男の子って、彩香のお兄ちゃんに似てたけど別人だよな。ちょっと紛らわしい。

なんか人物整理ができてないのね。誰が重要な人物で誰がモブなのかも途中までハッキリしないんでけっこうイライラする。

ディズニーにしろピクサーにしろ、また宮崎駿やその父親的存在でもある手塚治虫が描くキャラクターたちがどれも結局は“記号”の集合体であったように、アニメーションのキャラクターというのは基本的に単純化されたもので、それらをいかに配置し動かすか、そのアンサンブルの妙で作品の良し悪しが決まる。

独創的でアヴァンギャルド、理解したり共感できる人を極端に限定するキャラクターなど、商業アニメにはたいして必要ない。

杏奈だって、別に今まで誰も見たことがないような特殊な人ではないし。ありがちっちゃありがちなヤンデレ・キャラでしょ。ジブリでは比較的珍しかったというだけで。

かつての「冒険活劇」やトトロみたいな牧歌的アニメーションとは異なる作風を目指す、ジブリの若手の作品はすでにけっこう袋小路にきていると思う。

彼らが興味を示し描きたがっているらしい題材は、どれもあえてアニメーションで描く必然性のないものばかりだ。そんなに「リアル」な人間が描きたきゃ、実写で撮ればいいじゃん、と。

では実写でやったら巧くいくかといったら、人間観察が浅いというか、描かれてる人々があまりに薄っぺらいんでムリでしょう。たとえば高畑勲が描くキャラクターたちと比べてみたらその違いがよくわかる。

かつての「世界名作劇場」がド派手なアクションなどなくても楽しめたのは登場人物たちの生活描写を細かく丁寧にやっていたからだけど、ジブリの若手監督さんたちはその辺が皆ずいぶんとおざなりなんですよね。


声の演技については「主演の二人が大根」という酷評もあるけれど、僕は杏奈役の高月彩良さんについては、彼女はとても繊細な声の演技をしていたと思います。

マーニー役の有村架純は「あまちゃん」でのブレイク以降、映画にドラマにCMに引っ張りだこの人気若手女優だけど、正直今回はちょっと棒な台詞廻しがところどころあって、苦戦したのかな、なんて。

マーニーというキャラクター自体がボンヤリしてるから、ぎり誤魔化せた感はあるが。

それ以外の人たちには特に違和感はありませんでした。

『アリエッティ』の時にはあった、キャラクターよりも声を演じてる俳優さんの顔が先に浮かんでくるようなこともなかった(映画を観てからキャストを確認しました)。

さっきも言ったけど、彩香役の杉咲花は特に巧かった。こういうのって、年齢とかキャリアとか関係なくほんとに力の差がハッキリわかるから面白い。

それにしても、公式サイトにもWikipediaにも、わずかワンシーンしか出てこない毎度ジブリのおまけキャラ的な大泉洋の名前はしっかりクレジットされてんのに、それ以上に出番のある「ふとっちょブタ!」少女・信子やその母親とかを演じている声優さんたちがまったく表記されてないのはどういうことかね(※その後、Wikipediaには追記された模様)。

おかげでキャラクター名や声優さんが確認できなくて難儀してますよ!


ところで、「ふとっちょブタ」の一件については、そのような人の心を傷つける言葉を相手に投げかけた杏奈に対する批判(心の中で思うのと実際に口や態度に出すのとは違うので、僕も杏奈に対しては同情心は湧かない)と、一方で「内側の人間」である信子の悪意がない上から目線に対する杏奈の反応への擁護というふうに2つに意見が分かれているようですが、僕が引っかかったのは、劣等感を持っていていつも人の輪に入れず自分を嫌っている杏奈は、このアニメではまぎれもなく“美少女”として描かれていて、その相手である信子は誰がどう見ても肥満体のブサイクちゃんに描かれているということ。




これがもし、杏奈と信子の外見が逆だったら、僕は杏奈の「ふとっちょブタ」発言にはちょっと共感したかもしれないんだけど。

いや、ふとっちょ、ってそれじゃ自分のこと言ってることになるじゃねーか、というのは措いといて。

まぁ、さすがにヒロインの片割れがマツコ・デラックスみたいな顔と体型だったら誰も観に来ないだろうし、予告篇の段階では「百合映画?」と一部の好き者をときめかせたように、美少女二人が戯れてる映画には客が見込めると踏んだのかもしれないですが。

でも美少女がブサイクちゃんを罵ってる構図には、この映画の描き手たちの偏見が見えてしまってまったく杏奈に共感できないのです。

杏奈が悪いんじゃなくて、これは映画を作ったおっさんたちが悪いんだよ。

ヒロインを可愛く描かないと映画として成立しない、という商業アニメのお約束はわかるけどさ、でもこういう話をちゃんとリアルに描きたいのなら、杏奈のキャラクターデザインは『千と千尋~』の千尋をもっと可愛くなくしたような微妙な顔にすべきでしょう。だって世の中のほとんどの女の子はそういう顔なんだから。

そうでないと、やっぱりこれは美少女がワガママ言って勝手に悩んでる話にしか思えない。

杏奈みたいな美少女がこれまたマーニーみたいな金髪碧眼の美少女と「あなたが好き!」とかやってるのが絵になるのはわかりますよ。

映画とかアニメーションというのは観客の「うぬぼれ鏡」であって、そこに登場するキャラクターたちは僕たち観客を美化した姿なのだから、現実には絶対にイジめられたり孤独に苛まれたりしないような美少女が涙を流して痛みを負ったヒロインを演じるのだって、それはそれでアリだとは思う。

でも、そんな美少女にブサイク少女を罵らせたって、そこにはなんの説得力もないのは客観的に見て明らかだろう。

なぜ信子を必要以上に巨漢少女にしたのか僕にはよくわからない。「ふとっちょブタ」なんだから太ってないと、と思ったんだろうか。

ほんのちょっとポッチャリ、ってぐらいにしといたら、かえって杏奈の残酷さが浮き彫りになってよかったかもしれないのにね。

僕はやっぱりこの映画の作り手は、本当に痛みを感じてる者の気持ちがわかってないんじゃないかと思う。

それとも、“醜い”自分をよくわかってて、その劣等感の反転としてあえて主人公を美形にデザインしたのかな。

金髪美少女のマーニーの孫娘なんだから、杏奈だって外見が美しいのは当たり前、ということかもね。

この映画に感動して涙を流したという人たちは、きっとあの美少女、杏奈に自分を仮託することができたんだろう。それが悪いとは言いません。

でもね、僕はやっぱりそこに今の日本のアニメの限界や未熟さを見ました。

劣等感や孤独に苛まれている美少女ではないヒロインが、やがてみずからの殻を打ち破って「ありのままの」自分を受け入れ愛せるようになる姿を描いてこそ、本当に作り手が杏奈に寄り添ったことになるんじゃないだろうか。

夢に見た美少女マーニーと自分との間に落差があるからこそ、杏奈には彼女がより輝いて見えるのだろうし。

でも「あなただったらよかったのに」と言って憧れたマーニーにも自分以上の苦しみや痛みがあったことを知って、杏奈は成長するんでしょう。

こういうふうに、どうも巧くいっていないというか間違ってるところがけっこうあるので、やはりこの映画を手放しで褒めるわけにはいかないのです。

信子があそこまで極端なブサイクちゃんでなければ、ここまでダメ出ししてないんだけどな。


あとね、彩香の一家があの大きなお屋敷に住むことになるというのも、全然現実味がなくて。イギリスでは普通なのかもしれないけど、あんなだだっ広い屋敷に4人家族で住むとか、どこのカリスマ社長の一家だよ、と。その辺の普通の家に引っ越してきたことにすればよかったのに。

さっきも書いたように、彩香はもっと出番多くてもよかった気がするなぁ。

後半、久子さんの話を聞いて泣いてるだけ、というのももったいなくて。

泣くのは観客の役割だからさ。映画の中の登場人物が泣くのなら、それは何か動的な出来事があってツラかったり何か行動したあとで感極まっての涙であってほしい。

彩香は自分から行動するタイプの女の子だと思うんで。

この映画は『アナと雪の女王』と同様にダブル・ヒロイン物だしテーマが共通しているところもあるので、合わせて観るといろいろ考えさせられるかも。

同じようにアニメでも映画としてはまったくタイプが違うし、好みは激しく分かれるでしょうが。


ちなみに、杏奈は映画の中盤でマーニーにボートの漕ぎ方を教わるが、その前に最初に「湿っ地屋敷」を訪れる時には思いっきり巧みにオールを操っている。

あそこもなんで杏奈が急にオールの使い方がヘタになったのかわかんなくて、観ていて軽い混乱をきたした。

特に杏奈がマーニーと出会う場面は、完全に何か変な薬物でもヤって悪い夢でも見ているような心持ちでした。

杏奈とマーニーの最初の接触から打ち解けて「親友」になるまでが急すぎて、頭がついていかないのだ。

誰も住んでいないはずの洋館に明かりが灯って、どこからともなく現われた西洋人たちが豪勢なパーティをやっている。

それは杏奈が見た夢以外に考えられないのだが、しょっちゅう大岩夫妻の家を抜け出して徘徊する杏奈にとっては現実にしか思えない。

そうやってマーニーの存在は杏奈にとっては実在の人物との違いが不明瞭になっていく。

壊れかけたサイロでの杏奈とマーニーのやりとりもなかなか狂っていて、どういうことなのかちゃんと理解しようとするのを途中で放棄した。

マーニーはやがて結婚したが死別することになる男性と杏奈を混同して泣いたりする。

それぞれ哀しみを負っていることを知り、互いをかけがえのない存在として「逢瀬」を重ねる杏奈とマーニー。

この辺り、実は僕はよく覚えていなくて、杏奈がマーニーに「どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」と叫ぶ場面でも、どういうことなのかちょっとわかんなかったりした(老マーニーが杏奈を残して先に死んでしまったことを意味してるんだろうけど、それは事後的にわかることで)。

マーニーが何したんだっけ?


マーニーと杏奈はいきなり仲良くなって「二人の秘密だよ」みたいなこと言いだすけど、マーニーが詳しいキノコのこととかエピソードを積み重ねられそうな断片はあるのに基本舟を漕いでるだけなんで、彼女たちのふれあいの過程をもっと観たかったな。

どうも二人の接近が性急すぎるんですよね。「ハイジ」のハイジとクララみたいに徐々に打ち解けていく過程が描かれないから、話が飛び飛びな印象で(原作のエピソードを端折ったり順序を逆にしたりしてるらしいが)。

原作での展開がどうなのかは知りませんが、僕は杏奈がマーニーに執着していくのは、ちょっと逆なんじゃないかと思ったんですが。

杏奈がマーニーを追い求めるよりも、むしろマーニーが次第に彩香と仲良くなっていく杏奈に嫉妬して「どうして私を置いていってしまったの?」と責めたてるほうがしっくりくる。

両親から顧みられずいつも華やかなパーティを心に描いて寂しさを紛らわしていたマーニーは、やがてその両親から捨てられてしまう。

その哀しみは幼い杏奈が抱いていた西洋人形に宿っている。

こうして杏奈とマーニーが重なり合う。

他者を思いやることができるようになった杏奈のもとからマーニーは去っていく。

マーニーの幻を見ることはもうできないかもしれないが、でも彩香がみつけたあの日記を読めば、いつでもまたマーニーに会えるだろう。

杏奈は迎えにきた頼子と和解し、信子にも「ふとっちょブタ」の件を謝って家に帰る。

この辺りも「とってつけたようだ」「時間がきたから強引に終わらせた感じ」といった批判がある。

さっきも書いたように、久子のマーニーの人生についての説明の場面は僕はとても退屈だったし、言葉で説明して終わり、というのは映画としてはまったくもって巧くない。

何度もクドいですが、けっしてよくできた作品ではないと思う。シナリオや演出が明らかに間違ってるところもけっこうある。

想いが先走って技術が追いついてないような。

原作のファンのかたが「原作の良い部分を全部捨ててしまっている」と非常に厳しく批判してもいた。

ただ、夏のある時期に過ごした場所で空想に耽ったり新しい出会いがあったりというのは僕にも身に覚えがあるし、マーニーとの出会いと別れが杏奈にとってひと夏のかけがえのない思い出となったことはとてもよく伝わった。

ともかく、ジブリのファンの皆さんは観ておいていいのではないでしょうか。

そして不満も含めて感じたことを誰かと語らってみては。




この映画の公開後、ネットで「ジブリ解散」の噂が流れて、先日ジブリの鈴木敏夫プロデューサーの「ジブリの制作部門の解体」発言が報じられました。この『思い出のマーニー』のあとしばらく長篇の新作は制作しない、とのこと。

僕はその報道を知ってから『マーニー』を観たので、これが最後のジブリ映画なんだ、と勝手に感傷に浸って観終ってからも頭の中をいろんな想いが駆け巡っていました。

鈴木さんはその後、TV番組で「ジブリ解散」は否定しているし宮崎監督の短篇での復帰も示唆しているので、まだこの『思い出のマーニー』が「ジブリ最後の作品」というわけではなさそうですが。

鈴木Pの「ジブリこれで終わりかも詐欺」にまんまとノせられたということか^_^;

まぁでも、とりあえずの区切りとして、「思い出のジブリ」についてはいずれまた書きたいと思います。



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