セリーヌ・シアマ監督、ノエミ・メルラン、アデル・エネル、ルアナ・バイラミ、ヴァレリア・ゴリノほか出演の『燃ゆる女の肖像』。2019年作品。PG12。
第72回カンヌ国際映画祭脚本賞、クィア・パルム賞受賞。
1770年。フランス・ブルターニュの孤島にある館の伯爵夫人(ヴァレリア・ゴリノ)の娘エロイーズ(アデル・エネル)の肖像画を描くために雇われた画家のマリアンヌ(ノエミ・メルラン)。だが、エロイーズの本当の姿を捉えかねて一度は描き上げた絵を消してしまう。島での滞在を延ばして、伯爵夫人が本土に出かけている数日間にエロイーズと召使いのソフィ(ルアナ・バイラミ)の三人で過ごしながら、マリアンヌは絵を完成させるために筆を走らせ続ける。
あけましておめでとうございます。
新春第1弾で、1月1日に観てまいりました。
この映画は昨年12月の公開以来とても評判が良くて、中には「今年一番の作品」というかたもいらっしゃるほどだったので興味を持っていましたが、一方で「静かな映画」とのことで、観る前はかなり不安でもあった。
今、僕は「静かな映画」を観てたら映画館で寝落ちする可能性がきわめて高いので^_^;
それと、多くの人たちに高く評価されている作品を自分が必ずしも面白いと感じられるとは限らないことを去年は(それ以前からも薄々気づいてはいたが)痛感してもいたから、どうしても観たい、という欲求が起こらなくて。
それに、そんなに素晴らしい作品ならば年末の忙しい時期に慌ただしく観にいくのではなくて、年が明けてからあらためてゆっくり鑑賞しようと思ったから。
それで、まだ街なかも人がまばらな元日に単館系のミニシアターに足を運んだのですが。
普通のシネコンのように小さな子ども連れの家族客は一切いないので“密”にもなりにくいだろうと思ったし、“ミニシアター”といってもそんな小さな劇場ではなくてスクリーンもそれなりに大きいところなんですが、意外とお客さんの数は多かったです。
僕のような「元日から映画館」派の人ってわりといるのね。カップルも何組もいたし。
すぐ隣の席に別のお客さんに座られてちょっと緊張したけど。近ぇな、と。フィジカル・ディスタンス、お願いしますよ!
で、僕は事前にどんな内容なのかまったく知らず、また予告篇も観ていなかったので、これがフランス語の映画であることすら観始めて初めて気づいたぐらいだったんですが(監督のセリーヌ・シアマはストップモーション・アニメ映画『ぼくの名前はズッキーニ』の脚本を担当していたのだとか)、この映画、音楽がほとんどなくて、劇中でわずか2曲ほどしか使われていない。それ以外にBGMがなくて、あとは波や風の音、それから室内の空気の音だけ。
しかも、登場人物たちが黙っている場面も長いので、あぁ、しまった、これは俺は苦手なタイプの映画だ、と。
もう、観ている自分の息遣いが聴こえるような状態がしばらく続いて、だから息を詰めて観てるとどんどん呼吸が苦しくなってきて、さらに僕はおなかが鳴りやすい体質なものだから(緊張すればするほど余計鳴る)、鑑賞中に2~3回ぐらいグルグルグルゥ~って盛大に鳴ってとても恥ずかしかった。
場内は微妙に暑くて、それも気分が悪くなる理由の一つだった。途中であまりに息苦しいんで、していたマスクを発作的に外したくなったほど(我慢しましたが)。マスクしながらの映画鑑賞には以前よりもだいぶ慣れてきてるはずなのに。もう額や腋が汗ばんできて、俺はなんで金払って元旦からこんな苦痛を味わっているのだろう、と非常に残念な気分に。もう居眠りどころの話ではない。
内容は…あぁ、なるほど、いかにもカンヌで賞獲りそうな感じだなぁ、と。
多くのかたが「1ショット1ショットがまるで絵画みたい」と評しているように作品そのものがアーティスティックで、「性」や「愛」について描いている。目で見てわかるものもあれば、“感じる”必要があるものも。
舞台となる場所は限られていて、ラストを除くとあとは主人公が訪れた孤島の館の中と外の浜辺付近、それから中盤での「お祭り」(夜間だからまわりはよく見えないし)だけ。
冒頭と最後のあたり以外では男性の登場人物も出てこない。
館の全景が映し出されることもないので、まるで舞台劇を観ているようでもあった。俳優の演技は誇張されたものではなくてリアリズムの芝居で、顔の表情などはむしろ抑制されている。
ストーリーの面白さで見せる映画でもない。
ひたすら限定された登場人物たちのその顔の表情のかすかな変化を見つめながら、彼女たちの言葉に聞き耳を立てるような、そしてその関係に思いを巡らし「愛」というものについて考える、そんな作品だった。
息を潜めて芸術作品を「鑑賞」するような状態が2時間ずっと続く。
これ、画家がモデルからめっちゃダメ出し食らい続けてどんどん絵が変わっていく話、とかいうのだったら不条理劇とかコメディにもなりそうだけど、物凄い「どシリアス」なお話なので息が詰まりそうになる。ってゆーか詰まった。
伯爵夫人の説明からエロイーズは自分の顔を描かれることを嫌がっていると思い込んでいたマリアンヌがエロイーズの横顔をじっと見つめていて、エロイーズが気づいてマリアンヌの方を見ると彼女が慌てて顔の向きを変える、という、「それ、バレバレやがな」という動きが何度か繰り返される場面は、もしかしたら“おフランス流”の高尚な笑いの演出だったのかもしれないが。
結果的には観てよかったと思っていますが、正直なところまるで苦行のような時間でした。
こういう映画は一人っきりで観たいなぁ。でも映像の美しさは劇場で観てこそ、なのでなかなか悩めるところ。
それでは、以降は物語のネタバレがありますので、これから鑑賞する予定のかたはご注意ください。
マリアンヌが描く肖像画のモデルである令嬢のエロイーズはほどなくイタリアのミラノの家に嫁ぐことになっていたが、実はそれは彼女の姉の代わりに急遽決まったことであった。
エロイーズの姉は自分で崖から身を躍らせて死んだのだ、と召使いのソフィはマリアンヌに教える。
修道院から最近帰ってきたエロイーズもまた姉と同様、まるで軟禁されているような不自由な生活を送っていた。
描かれた肖像画は花嫁よりも先に夫のもとへ送られる予定だった。エロイーズの母である伯爵夫人もまた、かつてはそのようなしきたりに従ってこの家に嫁いできたのだった。
ところが、エロイーズは結婚を望まず肖像画を描くための協力を拒んで顔を隠したままでいたので、前任者の画家は絵を完成できずに島を去っていた。
そこで、新しく呼ばれたマリアンヌは散歩の相手のふりをしながらエロイーズの顔を盗み見し続けて(全然“盗み見”になってなくて思いっきり“ガン見”してたが)、なんとか絵は完成するが、それをエロイーズから「この絵は私に似ていないし、あなた自身が込められてもいない」と言われてしまう。
これまで何を問われても「…ええ、画家ですから」と澄まして答えていたマリアンヌの顔色が変わり、屈辱を感じて思わず完成していたはずの絵の中のエロイーズの顔を擦って消してしまう。
それを見た伯爵夫人は激怒してマリアンヌをクビにしようとするが、エロイーズは今度は意外にも自ら絵のモデルとなることを申し出る。
一方的にモデルを観察してその特徴を捉えていたと思っていたマリアンヌが、自分もまたモデルであるエロイーズから観察されていたことを知る。
初めて会った時からエロイーズに距離を置いていたマリアンヌは、ここでエロイーズからの思わぬ接近によってためらいながらもこの若い女性のことをよりよく知ることができるようになる。やがてそれは単なる画家とモデルの関係を超えるものになっていく。
そこに召使いのソフィも加わることで、令嬢と画家、召使い、という外側の役割を越えた関係、繋がりが生まれる。わずかな期間ではあったが、その交流の中で彼女たちは互いに影響を与え合っていく。
物語自体は別に難解ではないし、何が描かれているのか頭で理解はできるんですが、問題はそれを“感じ取れる”かどうか。
見つめていた者が、ある時見つめ返される。そのかすかな間の交感。二度とは戻らない時間。誰かを本気で愛し、誰かと愛し合ったことがある者でなければ、この映画に真に震えることは難しいのではないか。
あるいは、頭が柔らかくて想像力があって、たとえ自分が経験していないことでも感情移入できたり、心を揺さぶられるような“感性”や“感受性”があれば、この映画は「今年観た中で最高の作品だった」と評価されているかたがたのように受け取れるのだろうと思う。
“感性”とか“感受性”といった言葉はあまり得意ではない、というか、そういう「賢いふり、私は特別、みたいに主張してるような言葉」は自分を追い込むことになるので使いたくないんですが、僕はそういうものが自分には決定的に欠けている、と常々感じていて、だからこういう映画を観るとヘコむんですよね。
めんどくさいな、と思ってしまって。
だって、「恋愛」ってめんどくさいことにのめり込むことですから。
作品に「自分を込める」とはそういうめんどくさい作業であり、また別れの時にマリアンヌが自分を引き止めないことにエロイーズが腹を立てるように、それは「気持ち」を伴うもの。
人はモノとは違う。かかわり合えばそこに感情が生じる。人の感情を無視したりないがしろにすることは相手の心を踏みにじる行為でもある。
僕がこの映画を「苦手」と感じたのも、これが人と人との濃密な関係性を描いたものだったからなのかもしれない。
一組のカップルの出会いから別れまでがマリアンヌのこの島でのわずかな滞在の間のエロイーズとの関係で表現される。それを間近でず~っと観察しているような映画だった。召使いのソフィの存在はまるで観客の視点を代弁しているようでもある。彼女もただそこにいるだけではなくて、「中絶」という女性の行為を映画の中で示してみせる重要な役割を担っているのだが。
マリアンヌもまた中絶の経験があると語っていたことからも、ソフィがマリアンヌのある部分を代わりに演じているともいえる。
監督のセリーヌ・シアマは実際にエロイーズ役のアデル・エネルと恋人だったそうだから、これは非常に個人的なことを描いた映画で、監督自身が元恋人をキャスティングしてまさしく「自分を込めた」作品なんですね。
個人的なことだからこそ、ふたりの関係にリアリティを感じ共感を覚える人も多いのでしょう。
女性同士の愛、というと、以前観た『お嬢さん』を思い出すんですが、あの映画が男性監督によるポルノグラフィの面を強調した作品だったのに対して(女性の観客でもあの作品を支持するかたは少なくないようですが)、この『燃ゆる女』の方はポルノチックな“エロ”の要素はきわめて希薄で、マリアンヌとエロイーズが互いにどのようにして惹かれ合っていくのか、その過程を彼女たちが交わす言葉や顔の表情の微妙な変化の積み重ねで描いている。
ベッドの上で無造作に露出されたマリアンヌの下半身やエロイーズの腋に生い茂る豊かな腋毛など、即物的なエロさよりも人間のたくましさや生命力を感じさせる。
ソフィが堕胎のために行なっているのだろう、彼女が天井の何かにぶら下がる場面では説明が一切ないので、一体何をやってるのかわからない。
三人がどうやら「空を飛べる」らしい薬草を摘んできて、それをすったものをエロイーズが自分の腋毛に塗りつけるところなど、「それは気持ちいいの?」ととても気になったw
マリアンヌがそのエロイーズの腋に指を差し入れるショットは、寄りの画だったこともあって一瞬「…お尻!?」と勘違いしそうに^_^;
まぁ、性行為を暗示したショットだとは思うんだけど、女性たちが集まる「お祭り」のシーンもそうだったように、この映画ではところどころまったく説明もなく映像だけが提示されるので、「これはどういう意味なのか」観る側が考えないといけなかったりもする。
あの女性たちのコーラスはこの映画のために創られたのだそうだけど、マリアンヌがチェンバロで奏で、ラストの歌劇場で鳴り続けるヴィヴァルディの「四季」の「夏」とともにとても耳に残った。
見つめる者が見つめ返されて、両者が交じり合い、やがて再び見つめる者と見つめられる者へと還っていく。そして二度とその関係はもとに戻ることはない。
マリアンヌとエロイーズの別れはギリシャ神話のオルフェ(オルフェウス)とその妻との別れに重ねられる。
死んでしまった妻を冥府から連れ帰る途中、もう少しで出口というところでオルフェは禁じられていたにもかかわらず後ろに従う妻を振り返ってしまい、愛する妻はそのまま冥界へ引き戻されてしまう。
マリアンヌが本でその伝説を読んで聞かせると、ソフィは「自分勝手過ぎます」とオルフェに憤る。
それに対して、エロイーズは「妻は夫が振り返ることを望んだのかも」と言う。
愚かな行為に思われたオルフェのあの選択に、エロイーズによって別の意味が与えられる。それはもちろん、その後の彼女とマリアンヌとの別れの伏線になっている。
『お嬢さん』ではふたりの女性は手を取り合って男たちから逃亡したが、エロイーズとマリアンヌにはそれは不可能だった。
だからこそ、エロイーズは「振り返ったオルフェ」に意味を持たせる。彼女はマリアンヌに「振り返って」と言う。私は愛しているからこそ、あなたに振り返ることを求めた。あの時エロイーズは、私は自分の意思で冥界へ戻っていくことを選んだのだ、と自分に言い聞かせたのだろうか。
18世紀当時、伯爵家の娘は名家に嫁がなければ生きていくのが難しかったし、女性の画家はまだその存在を世間で認められておらず、マリアンヌも父親の名前で描かなければならなかった。
歴史の中で自分の名前を残すことが叶わず、その存在を消されていった女性の画家たちが数多くいたという。
シアマ監督が自分自身とともに歴史上の多くの女性たちをマリアンヌとエロイーズに重ねているのだろうことが想像できる。
あの島ではなぜか男性の姿がなくて、前にも述べた通り、男性は最初と最後の方にしか出てこない。
オルフェは最期は首を斬られて、その首が流れ着いたのがレスヴォス島。女性の同性愛者を意味する“レスビアン”という言葉の語源とされる。だから、マリアンヌがエロイーズとともに過ごしたあの島にはそういう意味合いもある。
恋愛も創造行為も共同作業で、ただ一方が相手に何かを与えたり何かを求めるものではなく、また画家はモデルを表面的にキャンヴァスに写すだけではない。
人と人がかかわり合うというのはそういうこと。
これは2019年の作品だけど、ここで描かれるマリアンヌとエロイーズの濃密な時間、その身体のふれあいはコロナ禍の現在では難しくなっているからこそ、とても尊く大切なものに感じられてならない。
キスした互いの唇から伸びる唾液も、エロティックでもありながら、僕にはそれはまるで別れを惜しむ涙のようにも思えたのでした。
祭りの夜、焚き火の炎が服に燃え移っても微動だにせず立ち尽くしていたエロイーズ。
それが「燃ゆる女の肖像」。
どこかエマ・ワトソンを思わせる顔立ちのマリアンヌ役のノエミ・メルラン、エロイーズ役のアデル・エネル、ソフィ役のルアナ・バイラミ。そして伯爵夫人役のヴァレリア・ゴリノ。
ヴァレリア・ゴリノは80~90年代に『レインマン』や「ホット・ショット」シリーズなどのハリウッド映画の出演作を観たけれど、僕はほんとに久しぶり。この人、語学に堪能でフランス語もできたんだな(本作品では母国語のイタリア語も披露)。美しさの中に没落しつつある貴族の疲れを感じさせる演技(ずっと下がり眉のままだし)でした。出番は多くはないものの、登場人物自体が限られているのでその存在感が際立つ。
この映画では誰も大仰な演技はしない。
ソフィ役のルアナ・バイラミなんてほんとに表情の変化が少ないんだけど、三人がトランプで遊ぶ場面では笑顔を見せる。バイラミの顔はあの当時の絵画の中の女性のようだ。
やはり笑うことはあまりないエロイーズ、そしてマリアンヌも、だからこそ彼女たちが時折見せる笑顔にはホッとさせられる。
画家は芸術に殉ずることを選んだ。「燃ゆる女」はミラノに嫁ぐ。
ラストの長廻しで、歌劇場でけっしてマリアンヌの方を向かないエロイーズにキャメラが寄っていくと、彼女はやがて微笑んでみせる。その瞳は涙で潤んでいる。
マリアンヌに「後悔するのではなくて、思い出して」という言葉を残した彼女は、もはや画家の方を向くことはない。
哀しみと美しさがない混ぜになった感情が湧き上がる。
芸術家が最後に振り返って見たあの姿。それはその後も脳裏に焼きついているだろう。
忘れられぬ人との想い出は、人生において慰めともなれば時に苦しみを与えもするだろう。
けれども、「愛」が凝縮されたようなあの数日間は、芸術家の作品と人の心の中に「永遠のモティーフ」として生き続けるのだ。それはやはり得がたい恵みなのだと思う。
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