文中に映画の内容についての言及があります。まだご覧になっていないかたはご注意ください。

 

2本とも先月末に鑑賞。(MINAMATA―ミナマタ―』の感想へ

 

 

  『トムボーイ』

 

 

主人公の少女・ロールが引っ越し先のお隣りの女の子・リザに男の子と間違われたのをきっかけに自分を“ミカエル”という名の男の子だと偽ってリザや他の子たちと毎日遊ぶが…というもので、学校が始まる前の休みの期間の何日間かを描いた瑞々しくほんのちょっぴり苦く甘酸っぱくもある、思春期前の少女の小さな物語。

 

燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ監督による2011年の長篇2作目。PG12。

 

 

映画の中では説明されないけど、タイトルの“トムボーイ (Tomboy)”というのは「ボーイッシュ」とか「男装する女の子」のことで、国によっては女性の同性愛者を意味するのだそうで。

 

そういう題材は、やはり女性同士の愛について描いていた『燃ゆる女の肖像』とも共通する。

 

2011年の映画だけど、まるで80~90年代ぐらいに作られたような全篇どこか懐かしい感じがする作品で、主人公の父親がノートパソコンを使ってる以外は時代もハッキリしない(確かスマホやケータイを使っている場面もなかった)し、舞台となるのはほとんどが家の中か子どもたちが身体を動かして遊ぶ広場とか森などで、描かれる空間が非常に限定されている。

 

町なのか村なのかわからないけど、ロールの家の周辺の様子すらほとんど映し出されない。

 

映画館で予告篇を観た時、僕はてっきりロールを演じているのは男の子だと思ったんですよね。だって、当たり前のように胸をはだけてたから。そしたら演じているのは女の子だったんでちょっと驚いた。

 

いつの時代に撮ったのかわからない、と思ったのは、その辺の性的な描写がわりとさらっと描かれていたから。観ればわかるけど、胸どころじゃないところも普通に出してたので。

 

子役の親御さんは抵抗はなかったんだろうか。それよりも本人がよくオッケーしたな、と。

 

女の子が男の子のフリをして女の子とキスしたり「性」というものを意識する物語は、もしかしたら監督自身の少女時代の自伝的な要素もあるのかな、と思ったけど、劇場パンフのシアマ監督のインタヴュー記事では特にそのようなことは語っていなかった。

 

ロールを演じるゾエ・エランのちょっとはにかんだような表情は、『万引き家族』で安藤サクラとリリー・フランキーの“息子”を演じていた城桧吏をちょっと思わせる。彼も中性的な顔の少年だった。

 

 

 

 

世の中には男の子になりたい女の子や女の子になりたい男の子、両方でいたい人やどちらにもなりたくない人など、さまざまな人たちがいる。

 

この映画のロールは別に男の子になりたかったのでも、これまで男として振る舞ってきたわけでもないんだけど、たまたま出会ったばかりの女の子に男の子だと勘違いされた(日本語の字幕だとわからないけど、劇場パンフの解説によるとリズはロールに初めて会った時に彼女にむかって男性形の形容詞を使っているのだとか)のをきっかけに“ミカエル”になりすまそうとする。

 

それがいかなる目的でのことなのか、おそらくロール自身もわかっていない。

 

まだ性的に未分化で、男女の体力や運動能力も拮抗していて外見も区別がつけづらい、そんな限られた時期の、何か禁断の領域に踏み込んだような妙な倒錯感と背徳感。

 

ミカエル、って英語だとマイケルのことでなんの変哲もない名前に聴こえるけど、なんとなく天使を連想する。天使って中性的な存在でしょう。

 

髪を男の子のように短くしてボーイッシュな格好のロールは、映画の終盤では母親(ソフィー・カッターニ)に命じられて女の子用のワンピースを着るんだけど、どちらの格好も似合ってて可愛い。

 

では、ここでは男女の区別も差別もない子どもたちの天国が描かれているのかといえば、ロールが本当は自分が女の子であることを隠そうとするように、子どもたちの間にも男女の区別や差別は歴然とある。

 

リズ(ジャンヌ・ディソン)は「女の子だから」ということでサッカーに入れてもらえないし、「ウザいから」という理由でロールの幼い妹のジャンヌは年上の男の子から暴力を振るわれる。

 

ロールは“ミカエル”という名の男の子だから男子たちの仲間に入れてもらえる。

 

ぺったんこの胸を露わにして、水着も女の子用のものをわざわざハサミで切って男の子用っぽく細工する。股間にはおちんちんの代わりに粘土をあてがう(あとで記念にとっておくのが可笑しい)。

 

そうやって「男の子」を偽装することで、やっと彼女は男子たちの仲間として認められる。

 

だから、女の子だとわかると一気にロールは彼らのイジメの対象になる。

 

このあたり、子どもたちの姿を借りながら、世の中の女性の扱いについてのメタファーを描いているようにも思える。

 

男子たちはいつも下品な言葉を使い、気に食わなければ乱暴する。少年と少女の間にはハッキリとした溝がある。

 

「女同士でキスするなんて気持ち悪いだろ」と男子に言われたリズは、「気持ち悪い」と答える。

 

その前にロールの目を隠したまま彼女にキスしたのはリズの方だから、リズはロールのことをほんとの男子だと信じて異性のつもりでキスしたんだな。

 

 

 

それが、“ミカエル”は実は男じゃなくて女だったと知って、リズは憮然とした表情をする。

 

…だけど、あれぐらいの年頃の子たちって、むしろ異性よりも同性同士でキスする方が抵抗が薄かったりしないだろうか。

 

キスは男女がするもの、という刷り込みがあんなガキンチョたちにすらされているということ。

 

だって、キスした相手は変わらないのに、相手が異性か同性かで態度が一変するって滑稽じゃないですか?

 

『燃ゆる女の肖像』ではふたりの女性が愛し合うけれど、もはや彼女たちは自分たちが互いに同じ女性であることなど気にも留めない。大事なのはその先にあること。

 

けれど、“ミカエル”がほんとに男なのか、それとも女なのか確かめようとする男子を制して、リズは「私が確かめる」と言う。

 

ここで、僕はリズがロールに再び、今度はみんなの前でキスするんじゃないかと(そうすることで、ハッキリと自分はロールの味方なんだと宣言するのかと)思ったんだけど、リズは黙ってロールの下半身に手を伸ばして彼女が「女」であることを“確認”する。

 

これは残酷な場面なのか、それとも男の子たちに辱められるぐらいなら、とリズがロールに出した助け舟だったのか。

 

女の子が男の子になりすます、というと、ちょっとコメディっぽいたわいないお話のようにも思えるけれど、僕はあのロールの追いつめられて真剣に悩んだり傷ついたり、親に「別のところへ引っ越したい」と告げたりする姿にとても深刻なものを感じたんですよね。単に子ども時代の懐かしい思い出を描いたお話というよりは、ひとりの少女が世界の残酷さ、容赦なさ、無慈悲さを体験する、痛みを知る物語に思えた。

 

もちろん、ただ深刻なだけじゃなくて、たとえばロールの妹のジャンヌのちょっとおませなところのある屈託のない愛くるしさ、でもいざという時には姉のことをちゃんとフォローしてみんなの前では「兄のミカエル」だと言うところなど、その気の遣い方が大人顔負けでなんとも頼もしいし、彼女の存在がロールや両親、そして映画を観ている僕たちにホッと一息つかせてくれて、微笑ましい気持ちにさせてくれる。

 

 

 

 

ジャンヌ役のマロン・レヴァナはちょうど『gifted/ギフテッド』の時のマッケナ・グレイスのような芸達者ぶりで、ベッドで寝ているロールの横に自分も寝そべって姉の肩を抱く1ショットの芝居など、その表情も動きも本当に巧くて舌を巻く。

 

オーディションの時にロール役のゾエ・エランと本物の姉妹のように打ち解けていたのが起用の決め手だったんだとか。実際には2人とも一人っ子なのだそうで、そういう映画の裏側を知ると面白いですよね。子ども相手に撮影するのは大人の俳優とは全然違った苦労もあるようで、子役によってはやはり集中力を持続させるのがなかなか難しいらしい。

 

この映画は10年前の作品だから、映画の中で子どもだった彼らも今では10歳年を取ってるわけで、すでにゾエ・エランは20代初め、マロン・レヴァナは10代半ばのティーンに成長している。ふたりとも現在も俳優として活躍している模様。

 

劇中でロールと遊んだり彼女を苛めていた男子たちは実際にゾエ・エランの友だちだったんだそうで、だからみんなで遊んでるシーンも自然に見えたんですね。彼らも今では髭ヅラの若者になっているんだろう。

 

子ども時代というのは必ずしも楽しいことばかりあるわけじゃないけれど、それでもここではとても貴重な時間が切り取られている。

 

ロールの父親役のマチュー・ドゥミって、ジャック・ドゥミとアニエス・ヴァルダの息子さんなのね。いや、ジャック・ドゥミにもアニエス・ヴァルダにも全然詳しくないけど、知ってる名前だったから。

 

 

 

優しい父親の前で幼児返りしたように指しゃぶりするロールに、父は「私も大人になってから試してみたが、効果はなかった」とにこやかに話す。なんでも否定するのではなくてありのままを受け入れてくれることが子どもにとってどんなに安心感をもたらすか。

 

母親も、ロールが妹を苛めた男子と喧嘩して先方の親が悪ガキを連れて訪ねてくると謝って、翌日あらためてロールを連れて詫びを入れにいくような常識的な人で、ロールが性別を偽っていることを知ると、「“男の子ごっこ”だったら心配しない。だけどこれはダメ」と強く釘を刺し、女の子用の服に着替えさせる。

 

 

 

 

けっして無理解な母親ではなくて、学校が始まってからの娘の生活のことを心配しているのがわかるし、家でも常に2人の娘たちに声をかけて気を配ってもいる。

 

この辺の描写は、ロールが両親との間に何か問題があってあのような行動をしたわけではないことを表わしているようで。

 

女の子が違う性別を「演じること」は、別に特殊なことではない。

 

ところで話が飛びますが、ちょっと前に女優のエレン・ペイジが性転換して男性の「エリオット・ペイジ」になっていたことを知って結構びっくりしました。

 

いや、さっき述べたように、世の中には男性になりたい女性(あるいは、もともと自分は男性だったのだ、と信じている元女性)だっているのだから、エレン・ペイジが男性としての人生を歩む選択をしたのは“彼”の自由だし、そのことに文句をつけるつもりなどないんですが、これまでに「X-MEN」シリーズや『インセプション』、それ以外でも多くの映画に“女優”として出演してきた人でその印象が強いものだから、いきなり「“男優”になりました」と言われてもなかなかすぐには慣れない(;^_^A

 

僕は“女優”エレン・ペイジに魅力を感じていたので、その“彼女”はもはやこの世にはいないのだ、と思うと正直ショックだし寂しくもある。

 

ロールが男の子のフリをするのとは違って、エリオット・ペイジさんは身も心も「男性」になったのだから。

 

それは、過去の自分と決別したことになるのだし、どのような心境の変化があったのか知る由もないんだけど、エレン・ペイジは2014年に同性愛者であることをカミングアウトしていて、その“彼女”が性転換して男性になったということは、彼女→彼の性的指向はどうなっているのだろう、と困惑する。

 

俳優エリオット・ペイジの出演作品をまだ観たことはありませんが、もしも今後その機会があるならば、どのような気持ちで僕は彼の演技を見ることになるのだろう。

 

なりたい自分になることは、かくも複雑で周囲に(時に自分にも)混乱をもたらすものなのか、と考えさせられた。

 

ロールが“ミカエル”となって巻き起こした小さな騒動は、世の中の「ままならなさ」の反映にも思える。この程度のことで、女の子が(男の子も)悩み、みんなから問い詰められる。

 

女の子は男の子のようにおちんちんを出して立ちションはできない。今はまだ喧嘩に勝てても、やがて成長すると女性は男に腕力でかなわない。いろんな理不尽さがあって、納得いかないことがあって、諦めたり、それをなんとか克服しようとしたりする。

 

ロールは母に無理やり着せられたワンピースを脱ぎ捨てていく。それがロールの意思表示だったのだし、この一件は、これから自分がどう生きていくのか、考えるきっかけとなったかもしれない。

 

僕が住んでいるところではこの映画の上映期間はずいぶんと短くて、もうまもなく終了してしまいますが、ちょっともったいないなぁ。なかなかいい映画でしたよ。

 

去年の暮れから今年初めにかけて公開された『燃ゆる女の肖像』の評判がよかったので、同じ監督のこの過去作も公開されたんでしょうね。

 

もし、これからどこかで観る機会のあるかたはご覧になってみてはいかがでしょうか。

 

 

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  『MINAMATA―ミナマタ―』

 

 

アンドリュー・レヴィタス監督、ジョニー・デップ主演作品。

 

音楽は坂本龍一。

 

1970年代、熊本県水俣市の化学会社チッソが流した工業排水の中に大量に含まれていた有機水銀によって引き起こされた水俣病を取材して患者たちの姿や公害の被害の模様を撮影、世界に発表して大きな反響を呼んだ写真家W・ユージン・スミスを描く。

 

 

 

 

子どもの頃、昭和の歴史を写真でたどる何冊もの大型の冊子が実家にあって、水俣病を扱った記事と何点もの写真が載っていたんですが、この映画の中でも映し出される患者の子どもさんの顔を映したものとともに、ユージン・スミス氏の撮った「入浴する智子と母」もありました。

 

だから、あの写真に映画の中で描かれたようなエピソードがあったことを何十年越しかで知ることができたのはとてもよかった。

 

もっとも、僕はこれまで水俣病について特に関心があったわけではなく、有名な土本典昭監督のドキュメンタリー映画も観たことがなくて、ユージン・スミスさんのこともまったく知らず、結構前にこの映画『MINAMATA―ミナマタ―』の存在を知った時も、ジョニー・デップと水俣病、という組み合わせにピンとこなくて、なんだか日本の公害問題を題材にしてハリウッドが的外れな映画を作ろうとしてるんじゃないかと訝(いぶか)しんでいたのです。

 

映画を観終わった今は、そんなおのれの不明を恥じるばかりですが。

 

 

 

 

 

劇映画として構成するために史実から改変された部分はいくつかある(ユージンとのちに妻となるアイリーンの出会いから水俣行きへの過程やユージンがチッソ社員に暴行を受ける工場の場所、社長からの買収の持ちかけや現像所への放火など)ものの、多くは事実に基づいていて、水俣でユージンが出会う人々も実在の人物がモデルになっている。

 

だから、僕のように水俣病についての知識がまったくない人にとってはその入り口になってくれる作品といえるのではないでしょうか。企業による重大な過失と、それと闘った人々の存在を知ること。

 

この映画はかつてあった公害を扱っているけれど、描かれていることは「今」に繋がっていて、けっして「過去」の「もう終わったこと」じゃないんですね。

 

そのことこそを強く訴えかけている作品だと思う。

 

公害のおおもとである化学会社チッソは、その後患者さんたちへの賠償を約束するが、症状を訴える人々が増えていくにつれて国が厳しい制限を設けて、いまだに「患者」として認定されていない人々が数多くいる。

 

患者さんたちは差別され、置き去りにされてもきた。

 

水俣はチッソの「企業城下町」でチッソで働く人たちが大勢いたし、だからその企業に対して賠償・補償を訴える、その罪を糾弾する行為は、自分たちの食い扶持を失うことを恐れる内部の人々の反発も生み、患者同士の間でも意見の対立や諍いが起こった。

 

この映画の中で真田広之演じるミツオ(川本輝夫さんがモデルと思われる)たち患者住民の抱えた困難は、病気の苦しみだけではなくて人と人との間の多くのしがらみからくる「わかり合えなさ」でもあったのかもしれない。

 

 

 

 

カメラで水俣の現状を捉え続けていたユージンが何人もの男たちに酷い暴行を受けて重い後遺症が残る大怪我を負う場面で、僕はてっきりこんなことをするのは企業に雇われた暴力団関係者か何かだと思っていたんだけど、劇場パンフレットでもWikipediaでも犯人は「チッソ社員」と書かれていて、それがわかっていながら容疑者は不起訴となった、というのがまったくもって理解できなかった。

 

そういう暴力がまだちまたで珍しくなかった時代だったのか、それとも何か他の理由で揉み消されたのか。あるいは、“容疑者”の境遇、心情を慮ってユージンさんがあえて訴えなかったのか。

 

ユージン・スミスさんは太平洋戦争時に戦場カメラマンとして行った沖縄で上顎や身体に重傷を負っていて、日本という国には忌まわしい記憶があっただろうし、映画の中でも最初は日本行きには消極的だったのに結局は水俣へ向かったのは、写真家としてどうしても無視することができないものを感じたからなのだろうか。

 

結果的に彼の寿命を縮めたかもしれないあの暴行のあとにも「闘い」をやめなかった彼の不屈の精神に感服するとともに、本当に申し訳なさでいっぱいになる。

 

先日、早朝にTVで観た番組で、この映画でもお茶碗にごはんをよそう姿などが映し出されていた当時中学生だった患者の女性の現在の様子が映し出されていて(ユージンの元妻アイリーン・美緒子・スミスさんも出ていらっしゃいました)、水俣病による障碍を持つがゆえに受けてきた差別にも負けず、運動に参加してきたことや、60代となった今、水俣病の後遺症もあって身体が弱りつつあることなどが語られていました。

 

それでもけっして負けないのだ、と言い切るその姿がとても印象的だった。

 

また、両親やきょうだいを水俣病で失った男性が、自身も症状に苦しんでいるにもかかわらず、国が彼を患者と認めず「ニセ患者」扱いすることへの憤りを語られていました。

 

苦しみも闘いも終わっていない。

 

映画『MINAMATA―ミナマタ―』で描かれ語られていたのは、声を上げ続けることの大切さでした。

 

劇中でミツオが言っていたように、私たちが声を上げ続けることで企業や行政もそれを無視できなくなる。

 

水俣の実態が世の中に知られるようになったのも、企業の責任が問われたのも、圧力にも負けず声を上げ訴え続けた人々がいたからだ。水俣病についての記憶が世間で風化しつつある今だからこそ、今一度歴史を振り返り、逆境の中でたくましく生きる人たちの姿を見つめ直すことは大事。

 

ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの写真集に記されている言葉。

 

過去の誤りをもって未来に絶望しない人びとに捧げる。

 

『MINAMATA―ミナマタ―』は、「日本政府もチッソも責任を果たしていない。」という言葉で結ばれています。

 

それは水俣病だけに限らず、多くの事柄について言えることだ。

 

人の苦しみへの共感を忘れた時、個人も組織も国も冷酷になって相手をいとも簡単に切り捨てる。

 

捨てられてたまるか。そして、捨てない社会の実現を。

 

 

 

 

※坂本龍一さんのご冥福をお祈りいたします。23.3.28

 

 

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