エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督、ソフィア・オテロ(アイトール/ココ)、パトリシア・ロペス・アルナイス(母・アネ)、アネ・ガバライン(叔母・ルルデス)、イツィアル・ラスカノ(祖母・リタ)、マルチェロ・ルビオ(父・ゴルカ)、サラ・コサル(レイレ)、ウナス・シャイデン(兄・エネコ)、アンデレ・ガラビエタ(姉・ネレア)、ミゲル・ガルセス(レイレの夫・ジョン)ほか出演の『ミツバチと私』。2023年作品。

 

第73回ベルリン国際映画祭、銀熊賞(最優秀主演俳優賞)、ギルド映画賞受賞。

 

Gaua ルーデス・イリオンド

夏のバカンスでフランスからスペインにやってきたある家族。 母アネ(パトリシア・ロペス・アルナイス)の子どものココ(バスク地方では“坊や(坊主)”を意味する)(ソフィア・オテロ)は、男性的な名前“アイトール”と呼ばれることに抵抗感を示すなど、自身の性をめぐって周囲からの扱いに困惑し、悩み心を閉ざしていた。 叔母(アネ・ガバライン)が営む養蜂場でミツバチの生態を知ったココは、ハチやバスク地方の豊かな自然に触れることで心をほどいていく。 ある日、自分の信仰を貫いた聖ルチアのことを知り、ココもそのように生きたいという思いが強くなっていくのだが──。(公式サイトより引用)

 

映画館で予告篇を観て、持って生まれた性と自らが自覚する性との違いに悩む子どもの映画らしいということで興味を持ちました。

 

“ミツバチ”という邦題(原題:20.000 especies de abejas“20000種の蜂”)や少女が主人公でスペイン映画ということで、少し前に劇場で観たビクトル・エリセ監督、アナ・トレント主演の『ミツバチのささやき』(原題:El espiritu de la colmena“蜂の巣の精霊”)を思わせるところもあったから。

 

この『ミツバチと私』はスペインのバスク地方が舞台で、そこではミツバチは文化の一つで神聖な生き物とされているそうで、劇中でも「家族」の象徴として扱われている。

 

『ミツバチのささやき』の舞台はカスティーリャ地方だが、主人公・アナの父親は養蜂を営んでいる。そして劇中では蜂の生態についての言及がある。家の六角形の窓枠のデザインは蜂の巣のハニカムを思わせる。ここでもやはり蜂が「家族」を象徴しているのがわかる。

 

本作品の監督、エスティバリス・ウレソラ・ソラグレンさんもエリセ監督もバスクの出身とのこと。

 

 

 

バスク地方はフランス領とスペイン領に分かれていて、劇中ではフランス南西部の街・バイヨンヌに住む一家が主人公のアイトールの母・アネの故郷であるスペイン・バスク州にヴァカンスでやってくる。

 

父親は仕事の都合か一緒に来ず、母と長女、長男、末っ子の4人での旅となる。

 

 

 

 

母親のアネは電車の中では車掌にフランス語で答えているけれど、普段はスペイン語を話していて(もしかしたらバスク語で喋ってたのかもしれませんが、スペイン語とバスク語の違いがわからないのですみません)子どもたちが映画の中でフランス語を口にすることはない。

 

でも、フランス領バスクではフランス語が公用語ということだから、あの子どもたちもいつもは二か国語を使い分けているんだろうか。

 

アイトールは家族から“ココ”と呼ばれて、それを嫌がる。

 

説明がないので映画を観てるだけではその理由がわかりませんでしたが、あらすじにも書かれていたように「ココ」というのはバスクでは男の子に対して使われる呼び名だからなんですね。僕なんかはなんとなく、ココ・シャネルみたいに女性っぽいイメージがあるのだけれど。お国が変わると名前の印象も変わるんですね。

 

本名の“アイトール”もまた男性的な名前で、だから自分にとってしっくりくる名前がないために、“彼”は悩み、どこか憂鬱そうでちょっと苛立ってもいる。

 

家族たちは彼らなりにアイトールに気を遣っているし、けっして“彼”をないがしろにしているわけではないが、でもそんなどこか不安定な末っ子をどう扱っていいのかわからずにいる。

 

アネは美術の教師の職に就くのに必要な実習作品を作るために実家のなき父の工房で作業をする。そこでアイトールは母に勧められてプールに行くが、ガウンを脱ぐことができない。男の子なのに女性用の更衣室にいる、と女の子から言われてしまう。

 

アイトールは8歳で、まだそんな幼い時から性自認(自分の性をどう認識しているか、という概念。自分で自分のことを女性だと思っているのか、それとも男性だと思っているのか、あるいはそのどちらでもないのか、など)で悩まなければならないということに、当事者ではない僕などは戸惑いを覚えるんですが、現実にそういう人たちはいるということ。

 

以前、NHKのEテレで「ファースト・デイ わたしはハナ!」というドラマをやっていて(現在、ネット配信で観られます)、主人公は男性として生まれてきたけれど性自認は女性であるトランスジェンダーのローティーンという設定でしたが、演じているイーヴィー・マクドナルドさんご本人も実際にトランスジェンダーで、あの年齢でああいう選択肢がある、ということが驚きでもあったし、それが当事者によってドラマとして描かれるということにもカルチャーギャップがありました。

 

 

 

日本でもトランスジェンダーについてはいろいろと話題になってはいるけれど、僕なんかがSNSなどで目にするのは「公衆トイレ問題」ばかりで、果たして本質的なところを議論されているのかどうかはなはだ疑問。

 

『ミツバチと私』でも、排泄については描かれるし切実な問題として取り上げられてはいる。でも、重要なのはそこじゃない。

 

ちなみに、主人公のアイトールを演じているソフィア・オテロさんはベルリン国際映画祭で史上最年少(撮影時9歳)で最優秀主演俳優賞を獲得しているけれど、同映画祭では2020年から女優賞、男優賞を廃止して主演俳優賞と助演俳優賞になっています。

 

ソフィア・オテロさんご本人は男性なのか、それとも女性なのか、と気になるかたもいるかもしれないけれど、その疑問自体に、なぜそんなことが気になるのか、それを詮索する自分の価値観を問うてみてほしい、と劇場パンフレットのコラムに書いてあった。

 

また、監督は「この映画をLGBTQ+映画という枠組みに押し込めたくはなかった」と語っているように、トランスジェンダーとして描かれるアイトールの事情は物語の中で重要な要素ではあるけれど、一方で母・アネもまた主人公と言えて、彼女となき父の関係など、そしてそれがアネとアイトールの母子の関係とも繋がっていて、『ミツバチのささやき』がそうだったように「家族についての映画」になっている。

 

『ミツバチのささやき』が主演のアナ・トレントをそれこそまるで半分“妖精”のように描いていたのに対して、『ミツバチと私』のアイトールはさらに生身の肉体を持つ存在としてリアリティをもって描かれている。

 

「私とは何か」というアイデンティティを巡る問いと、そこから自ら何を選ぶのか、ということについて。

 

20000種の蜂、というのは、それだけの種類の蜂がいるということだし、つまり多種多様であるということ、それは「家族」というものがそれぞれ自分たちで見つけ出して作り上げていくものだということでもある。どれ一つとして同じ「家族」はいない。

 

「好きなものになれる」と言ってアイトールに理解を示していたつもりのアネは、しかし、本当にアイトールに正面から向き合っていただろうか。

 

彼女の母・リタ(イツィアル・ラスカノ)の昔ながらの価値観とぶつかり合いもする。「あなたの教育のせいでアイトールが混乱している」と言われて。

 

また、映画の終盤で妻の実家を訪れた父・ゴルカ(マルチェロ・ルビオ)はアイトールが女の子用のドレスを着ようとすると激昂する。家の中ではいいが、外ではダメだ、と。

 

誰かが悪者として描かれているのではなくて、現実に自分の子どもや孫、きょうだいがトランスジェンダー(この言葉は劇中で使われることはないが)だったら…やはりさまざまな意見が飛び交うだろうし、ぶつかり合いもあるだろう。

 

この映画は、トランスジェンダーの子を持つ家族会を通じて20世帯に取材して脚本作りやキャスティングなどのアドヴァイスを受けたそうだし、だからここで描かれているのは実際にある当事者の葛藤だったり、家族たちの学びと成長の記録でもあるんですね(本作品は、バスク地方でトランスジェンダーのティーンエイジャーが自殺した史実から着想を得てもいる)。

 

 

 

 

叔母のルルデス(アネ・ガバライン)は養蜂家で、アイトールは彼女とのふれあいの中で蜂の生態を知って興味を持ち、また彼女に促されて一緒に裸になって湖で水浴びする。

※映画の字幕でも劇場パンフでもルルデスは「叔母」と書かれているけれど、僕はアイトールにとっては「大叔母」じゃないのかと思ったんだけど。つまり母親・アネの叔母。年齢的にアイトールの祖母のリタに近そうだし。男の赤ちゃんのいるレイレ(サラ・コサル)はアネの従姉妹じゃないのかな(それとも姉妹?)。その辺、字幕を読み損ねたのか、ちょっとよくわかんなかったんですが。

 

ルルデスはアイトールにとってのメンター(師)のような役割を果たす。

 

水に浸かる、というのはキリスト教の洗礼を意味するし、だから、あの時、アイトールはルルデスから洗礼を受けたということではないだろうか。

 

洗礼とは、新しく生まれ変わるということでもある。

 

何に生まれ変わるのか。

 

祖母・リタとともに訪れた教会で、アイトールは彼女から聖ルチア(シラクサのルチア)の話を聞く。

 

聖ルチアは光を司る聖人。

 

アイトールは彼女の名前から取って自分の名前を「ルシア」とする。

 

私はルシア。そう呼ばれたい。

 

家族やまわりの人々とのかかわりの中で、アイトールは自分の意志でルシアに生まれ変わり、“彼女”になる(バスク語にはスペイン語やフランス語のような文法上の性がないそうなので、性別による呪縛から解放された、ということかもしれないが)。

 

アイトールの初めての友だちになったニコ(Julene Puente Nafarrate)は、裸になったアイトールの下半身を見て「クラスには女性器を持った男の子がいる」と言って彼と水着を交換する。誰もが偏見を持っているわけではない。

 

行方がわからなくなった“弟”に最初に「ルシア!」と呼びかけるのは、兄弟同士でいがみ合うこともあった兄のエネコ(ウナス・シャイデン)だ。

 

古い価値観も新しいそれも、いろんなものが交じり合って、時に反発し合いもして、さまざまな変化が起こる。

 

アネが取り組んでいた彫刻はエネコとアイトール兄弟の悪戯から起きた事故によって破壊されてしまうが、アネが囚われていた父との関係に変化をもたらす。

 

やがてそれは、アイトールとの関係を見直すきっかけとなる。

 

この映画は、簡単に何が正しくて何は間違っていると決めつけはしない。

 

でも、自分は何者なのだろうか、と悩み、結論を出していく我が子を否定するのではなく受け入れていくことの大切さを伝えている。

 

アネ役のパトリシア・ロペス・アルナイスさん、ルルデス役のアネ・ガバラインさんをはじめ、出演者たちの演技がほんとに素晴らしかった。

 

 

 

 

まるで本当の家族や親戚、昔からの知り合いたちのように見える。

 

この映画の自然な芝居は、何ヵ月も脚本にないシーンをリハーサルすることで生み出されたものだそうで、そうやって演技経験のない子役とプロの俳優たちの演技の質を統一していったんですね。監督の手腕に脱帽します。

 

主演のソフィア・オテロさんは、『ミツバチのささやき』では演技と現実の違いをまだ明確に理解していなかったアナ・トレントとは異なって、明らかに彼女は意識的に“演技”しているわけで、でもその演技に見えない演技は、なるほどベルリン映画祭で最優秀俳優賞を獲るだけのことはあると思いました。彼女もバスク地方の生まれなんですね。恐るべき大女優の誕生。

 

 

 

 

この映画、ちょっとセリーヌ・シアマ監督の『トムボーイ』と『秘密の森の、その向こう』を思い出しました。

 

エリセ監督やシアマ監督の映画よりも、さらに主人公や登場人物たちの近くで彼らに寄り添っているような感じがした。

 

そういえば、2月にはビクトル・エリセ監督の31年ぶり(!)の新作『瞳をとじて』も公開されますね。アナ・トレントさんも出演しているのだそうで。そちらも楽しみにしています。

 

※エンディング曲の動画を追加しました。

 

 

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