ビクトル・エリセ監督、マノロ・ソロ(ミゲル)、ホセ・コロナド(フリオ)、アナ・トレント、ペトラ・マルティネス(シスター・コンスエロ)、マリア・レオン(ベレン)、マリオ・パルド(マックス)、エレナ・ミケル(マルタ)、ホセ・マリア・ポウ(レヴィ)、ソレダ・ビジャミル(ロラ)、ベネシア・フランスコ(チャオ・シュー)、ダニー・テレス(トニ)、ロシオ・モリーナ(テレサ)、カオ・チェン=ミン(リン・ユー)ほか出演の『瞳をとじて』。2023年作品。

 

映画監督ミゲル(マノロ・ソロ)がメガホンをとる映画「別れのまなざし」の撮影中に、主演俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が突然の失踪を遂げた。それから22年が過ぎたある日、ミゲルのもとに、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした青春時代や自らの半生を追想していく。(映画.comより転載)

 

内容やラストについて触れますので、ご注意ください。

 

ミツバチのささやき』(1973年作品。日本公開1985年)のビクトル・エリセ監督の、前作『マルメロの陽光』(1992年作品。日本公開1993年)から31年ぶりの最新作。

 

 

50年の監督生活の中で撮った長篇映画がこの最新作を含めてわずか4本という超寡作な作家だけど、名匠として世界中でリスペクトされている。

 

僕はエリセ監督の映画は90年代に観たので(『マルメロ~』のみ劇場で鑑賞)、この最新作のことを知った時に当時のことをふと思い出して、とても懐かしい気持ちになった。

 

『ミツバチ~』は現在開催中の「午前十時の映画祭13」で去年の夏に上映されたので、そこで初めて映画館で観たんですが、この最新作の上映に合わせて『ミツバチ~』と第2作目の『エル・スール』(1983年作品。日本公開1985年)が上映されているので、せっかくだから『ミツバチ~』も『瞳をとじて』と同じ日に観ることにしました。

 

 

 

『瞳をとじて』には『ミツバチのささやき』の主演のアナ・トレントが50年ぶりにエリセ監督の長篇に出演しているので、2本の映画を続けて観ると50年の歳月を一気にさかのぼるような感覚で(『瞳と~』→『ミツバチ~』の順番で鑑賞)、まるで映画館がタイムマシンになったみたいでした。

 

 

口を開けて笑うと歯茎がむき出しになるとこも変わってなかった(^o^)

 

そして、この『瞳をとじて』という映画の内容そのものが映画史をたどる側面もあったから、今回のこれら2本続けての映画鑑賞はそれで一つの作品を観たような「映画体験」になりました。

 

もしも、『瞳をとじて』をこれから鑑賞する予定で、まだ『ミツバチのささやき』をご覧になったことがないかたは、ぜひ前もって観ておかれることをお勧めします。

 

『ミツバチ~』を連想させる場面や台詞がいくつも出てくるし、僕は『エル・スール』はもう30年ぐらい観ていないので内容を覚えていないけれど、あの映画からもいろいろと引用されているんでしょう。『エル・スール』もできればこの機会に観たいと思っています。

 

さて、楽しみにしていたと言いつつも、エリセ監督の映画はいわゆるエンタメ作品とは異なるし、事前に上映時間を確認したら169分あるということだったのでわりと身構えていたんですよね。

 

それでも、週末だしなんとなくこれは上映会場が混雑しそうだな、と予想して夕方の回のチケットが取れないと困るから(予約ということをしない男w)、あえて午前9時30分からの最初の回を選択。

 

これが正解でした。朝イチから満席で、もしも昼頃に『ミツバチ~』のあとに観ようとしてたら席がなかったかも。

 

たとえば、これが娯楽性豊かなエマ・ストーン主演の『哀れなるものたち』(なんで急にこの映画を例に挙げるかというと、フランケンシュタイン繋がりで)だったら混むのもわかるんだけど、ビクトル・エリセの映画に今観客が詰めかけることなんてあるのかな、と不思議な気分に。いや、だからいっぱいお越しになられてましたけど。

 

皆さん、やはり『ミツバチ~』や『エル・スール』に強い思い入れのあるかたがたや、アート系の作品を好まれる人たちなんでしょうか。

 

観る前にちょっとだけTVで作品紹介されていたのを観て、何やら「失われた映画」についての物語っぽかったので、興味をそそられました。

 

ミステリっぽい内容だったら、170分近い上映時間でも楽しめるかも、と。

 

まぁ、実際は僕が想像していたようなストーリーテリングで引っ張っていく作品ではまったくなかったですが。

 

なので、エリセ監督作品がもともとお好きなかたはぜひご覧になっていただきたいですが、有名な映画監督の31年ぶりの最新作、ということで気になられている人は、それなりに長さを感じさせる作品であることは前もってある程度覚悟したうえで臨まれる方がいいと思います。余計なお世話ですみません。

 

でも、最初からそこんところを意識してトイレもしっかり済ませて気合い入れて観たおかげで、僕はわりとグッときたんですよね。途中で眠くなることもなかったし。『ミツバチのささやき』が好きだから、それに接続される作品として堪能した。

 

今回も“アナ”役のアナ・トレントさん以外、出演者の皆さんは僕が存じ上げない俳優さんばかりだったけれど(ミゲルの元妻・ロラ役のソレダ・ビジャミルさんは後述する『瞳の奥の秘密』に出演していたことを鑑賞後に知った)、スペイン映画の俳優さんたち、とても素晴らしい演技ですね。

 

エリセ監督の作品は場面やショットを「物語」の効率のために利用しないので、作品が一体何を描こうとしているのか理解するまで結構時間がかかったんだけど、でも、その時間を「冗長」ととるのではなくて豊かな映画体験、として味わうことが大事。

 

「ドライヤー以降、映画で奇跡は起こっていない」という台詞をミゲルだったか、ミゲルの友人で映画編集者のマックス(マリオ・パルド)だったかが言うんだけど、恥ずかしながら僕はカール・ドライヤー監督の映画は昔『裁かるるジャンヌ』(1928年作品。日本公開1929年)をヴィデオで観たきりなので、どこがどのように奇跡的なのかわからないんですが。

 

めっちゃ付き合いのいいマックス (右) の可愛いおじいちゃんぶりが(^o^)

 

ほかにもパラパラ漫画でリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年作品)が再現されていたり、終盤で未完に終わったミゲルの映画のワンシーンを上映する閉館になった映画館で、代々館主を務めてきた男性が、かつてはイタリアから撮影隊がマカロニ・ウエスタンを撮りにやってきたこと(そういえば、スペインもマカロニ・ウエスタンが数多く撮影された国でした)、そのラッシュをこの映画館の映写機で観たことなどを語る。そして父親がやっていたという移動映画のことも。

 

その元館主の風貌は、『ミツバチのささやき』の冒頭で『フランケンシュタイン』(監督:ジェームズ・ホエール。1931年作品。日本公開1932年)を「面白い映画だよ」と村の人々に宣伝していた移動映画の興行主とよく似ている。

 

 

 

フランケンシュタインの怪物は『ミツバチのささやき』においては重要なキャラクターだし、長篇第1作目からして“映画史”を意識した作品だったんですね。

 

僕はてっきり『ミツバチ~』でボリス・カーロフ風の特殊メイクをしたフランケンシュタインの怪物を演じているのはアナの父親・フェルナンド役のフェルナンド・フェルナン・ゴメスかと思っていたんだけど、どうやら別人のようで。

 

だけど、あの怪物の顔とフェルナンド・フェルナン・ゴメスさんってよく似てらっしゃいますよね(笑)

 

いろんな解釈が可能だと思いますが、アナにとって、あの怪物には父親の面影もどこかにあったんじゃないだろうか。映画『フランケンシュタイン』の劇中では、水面に浮かぶ花びらのように少女も浮かせようと思って死なせてしまうような愚かで哀れな怪物なんだけど、その怪物と『ミツバチ~』のアナは「お話」しようとする。殺されてしまったあの逃亡兵と怪物を重ねていたように。

 

最後には、アナの失踪の一件が父や母もかすかに変える。互いに気持ちを寄せ合うようになる。

 

『瞳をとじて』は「映画についての映画」であると同時に、「父と子」の物語でもある。

 

主人公・ミゲル(マノロ・ソロ)は息子を若くして事故で失っている。

 

劇中映画『別れのまなざし』で、古い館の主・レヴィ(ホセ・マリア・ポウ)は上海にいるという娘のチャオ・シュー(ベネシア・フランスコ)の捜索を俳優のフリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が演じる元・反フランコ政権の闘士だった男性に依頼する。

 

中国人の女性、というのも、戦前のハリウッドの中国系女優アンナ・メイ・ウォンをイメージしているのだろうか。また、劇中には中国人の召使い(カオ・チェン=ミン)も登場する。

 

そのフリオを父に持つアナ・アレナス(アナ・トレント)は、終盤で今では記憶を失って介護施設に入っている彼に会う。

 

そこで彼女が父に向かって言うのが「私はアナよ」という言葉。そして“目を閉じる”アナ。

 

「目を閉じて」という言葉は『ミツバチのささやき』で姉・イサベルが妹のアナに言っていた。それが今回の新作のタイトルになっている。

 

ミゲルが監督第2作として撮影していた『別れのまなざし』は、主要登場人物を演じていたフリオの失踪によって中止され、未完成のまま22年の月日が経った。

 

どうやら、これはエリセ監督の長篇2作目の『エル・スール』が未完のままになったことを重ねているようですが、先ほど述べたように僕は『エル・スール』の内容を覚えていないので、今回のリヴァイヴァル上映で観て確かめたい。

 

実際にはアナの父親・フリオ/ガルデル役のホセ・コロナドさんは現在66歳だし、この映画の主人公で映画監督のミゲル役のマノロ・ソロさんは1964年生まれなので、アナ役のアナ・トレントさん(1966年生まれ)とは親子というよりもほとんど同世代。

 

だからそのあたりは映画のウソなんだけど、でもそこは役者の実年齢を無視してでもアナ・トレントがあの役を演じなければならなかったんですね、エリセ監督としては。それから観客にとっても。

 

映画の時代設定も、確か2012年頃じゃなかったっけ。なぜなのかわかりませんでしたが。

 

 

 

真ん中はエリセ監督。

 

アナ・トレントを演出するエリセ監督。

 

フリオがミゲルの想像の中でサッカーゴールのようにも見える枠の前で両手を広げるシーンは、まるで映画の「フレーム」を示しているようでもあった。またそれはどこか『ミツバチのささやき』のラストショットでの窓の前に立つアナの姿を思わせもする。

 

 

 

アナ・トレントさんご本人は、ご自身が『ミツバチのささやき』で映画史に残るあの少女として記憶され続けること(もちろん、他にも出演作はありますが)にどのような思いを抱いているんだろうか。

 

 

 

今回、去年の夏に続いて『ミツバチのささやき』を観て、実はあの有名な「Soy Ana.(私はアナよ)」という台詞は、劇中では主人公・アナを演じているアナ・トレントは一度も言っていないことに気づいたんですよね。あれ?って。

 

映画の中ではアナの姉・イサベル(イサベル・テリェリア)が精霊(フランケンシュタインの怪物)との交流の方法を教えて「私はアナです」「私はアナよ」と繰り返し唱えてみせる。

 

ラストシーンでも、アナは少し目をつぶるだけで言葉は発しない。その姿のバックに以前のイサベルの言葉がリフレインされる。

 

だから、『瞳をとじて』でアナ・トレントさんが“父親”に向かって「私はアナよ」と呟くのは、『ミツバチのささやき』の再演ではなくて、ようやくここで彼女はほんとに“精霊”と「お話した」ことになるんですね。50年の時を経て物語が閉じられたのだ。

 

まるで父親のようなまなざしでビクトル・エリセはアナ・トレントを見つめてきたのだろう。

 

そして、『ミツバチのささやき』が映画史の中にしっかりと刻まれていることにも自覚的なのだと思う。

 

あの場面を「あざとい」と感じるか、それとも映画史に接触する奇跡的な一瞬ととらえるかは観る人によって異なるでしょうが、僕は静かな感動を覚えました。

 

未完に終わった映画の断片、しかし重要なあの場面をスクリーンの中に観たフリオは、果たして失った記憶を取り戻したのだろうか。

 

それはわからないけれど、僕はあれはエリセ監督が「映画の奇跡を信じたい」と思って作ったラストシーンなのだろうと思います。

 

この映画で「アナ」という名前が重要だったように、これは「名前」についての映画でもあるし、「記憶」についての映画でもある。

 

一見すると、この映画に必要だったのだろうか、と思ってしまいそうな、海辺近くのミゲルの家の近所に住んでいるトニ(ダニー・テレス)とテレサ(ロシオ・モリーナ)の若い夫婦は、彼らの生まれてくる赤ちゃんの名前のことでやりとりがあるし、ミゲルの元妻のロラ役のソレダ・ビジャミルは歌手でもあって、1stアルバムがカルロス・ガルデル賞を受賞したのだそうで(僕は劇場パンフを買ってなくて、このあたりはネットで検索して得た知識なので間違っていたらごめんなさい。お詳しいかたがいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです)。

 

 

 

 

「ガルデル」というのは『瞳をとじて』でフリオがよく唄っている歌から付けられたあだ名で、タンゴ歌手のカルロス・ガルデルに由来する。だからソレダ・ビジャミルさんの出演だったということでしょうか。

 

彼女はアルゼンチン映画『瞳の奥の秘密』にも出ていた。奇しくも“瞳”繋がりですが。

 

だから、「目をとじて」や「まぶたをとじて」じゃなくて、邦題を『瞳をとじて』にしたのかな?(^o^)

 

31年ぶりの新作、という、何かそれだけで特別なイヴェント感のある映画でした。

 

エリセ監督の次回作は果たしてあるんだろうか。

 

 

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