ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン、ウィレム・デフォー、マーク・ラファロ、ラミー・ユセフ(マックス)、クリストファー・アボット(アルフィー・ブレシントン将軍)、マーガレット・クアリー(フェリシティ)、スージー・ベンバ(ベラの娼婦仲間・トワネット)、ヴィッキー・ペッパーダイン(家政婦ミセス・プリム)、キャサリン・ハンター(娼館のマダム・スワイニー)、ハンナ・シグラ(豪華客船の客・マーサ)、ジェロッド・カーマイケル(マーサの連れ・ハリー)ほか出演の『哀れなるものたち』。2023年作品。R18+。

 

原作はアラスター・グレイの同名小説。

 

第80回ヴェネツィア国際映画祭、金獅子賞(最高賞)受賞。

 

天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)によって蘇った若き女性ベラ(エマ・ストーン)は、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。(公式サイトより引用)

 

ネタバレがありますので、鑑賞後にお読みください。

 

女王陛下のお気に入り』のヨルゴス・ランティモス監督の最新作。

 

かなり以前にYouTubeで初めて予告篇を観た時、なんかフリーダ・カーロみたいな眉毛をした女の人が変な格好で出てる映画だなぁ、と思ってたらエマ・ストーンだった。ウィレム・デフォーは特殊メイクしてても彼だとわかるのがスゴいな。

 

それが『女王陛下のお気に入り』のランティモス監督とエマ・ストーンの再タッグ作品とわかって楽しみにしていました。

 

ところが、先行上映を観た人たちの感想の中で「ただ下品なだけ」という酷評をいくつか目にして、少々不安に。

 

でも、『女王陛下の~』のコンビが「ただ下品なだけの映画」をわざわざ作るか?と思ったから、予定通り劇場へ。

 

18禁にもかかわらず、場内はほぼ満席状態。

 

…で、観終わったあと、「面白かったー」という満足感に浸りました。

 

 

『女王陛下の~』も面白かったけど、少し疑問を感じたところもあったのが、今回は大満足。142分という上映時間の長さも気になりませんでした。

 

まぁ、ただ相変わらずクセが強い作風だし、エマちゃんやおっさんたちがモロ出しで「熱烈ジャンプ」状態なので、性的な描写に抵抗のあるかたは観るのを控えられた方がいいですね。

 

伊達にR18+ではない、ということで。

 

18歳以上鑑賞可、であるにもかかわらず、妙に上映館数が多いような気がするんですが。

 

イオンシネマとかでもやってる。子どもは観られないのに。明らかにミニシアター系の作品なのに(僕が観たのもミニシアター)、なぜだろう。

 

普通のシネコンで140分ある18禁映画にそんなに多くの人たちが詰めかけるとは思えないから、あっという間に上映回数が減って上映館も少なくなりそうな気がする。

 

それにしても、エマ・ストーンって、いつから「脱ぎオッケー」みたいになったんだっけ。あまり直接的に性描写は見せない人だと思ってたんだけど。

 

いや、大変結構なものを見せていただきましたが。

 

そういえば、彼女はサタデー・ナイト・ライヴ (SNL) でも素っ裸で熱唱する映像に出ていた。いや、さすがにこれはほんとに全裸で演じてたわけじゃないだろうけど(笑)

 

エマ・ストーンさんと踊ってるのはトレンディエンジェルの斎藤さんではありませんw

 

 

またこのあと触れますが、裸や下半身をネタにすることは人によっては不快感をもよおされるでしょうから下ネタが嫌いな人に無理にお薦めするつもりはありませんが、でも裸でアホっぽい格好して「悦び」を得られるキモチイイこと(性行為)をやりながら、人間はいろんなことにぶち当たりつつ生き続けてもきたわけで、そこにはとても深いものがあるように思うんです。

 

現在、性加害の問題がニュースになっているように、それはけっしてただ笑い話で済ませていいものでもないし、真剣に考えていくべきなんですが、この映画はそれをコメディタッチでエログロも大いに交えて行なっている。

 

たとえば、フェミニスティックな映画を意識的に作っているマーゴット・ロビーの場合(彼女の主演映画『バービー』は、しばしばこの映画と並べて語られている)、彼女は「性的に奔放」という設定の女性を演じる時にも、けっしてベッドシーンやヌードは見せないし、それはポリシーとしてあるんだろうと思う。

 

バビロン』なんて、マーゴット・ロビー演じるヒロインが脱いでてもおかしくないような映画だったけど、彼女は一切脱ぎませんからね。あの映画は日本では中途半端に15禁にしたせいで、酒池肉林の乱痴気騒ぎのシーンに無粋なボカシが入ってて興を削がれた。

 

女性のヌードやラヴシーンが女性の性の搾取、見世物として消費されることに繋がるのではないか、という懸念があって、だからこそマーゴット・ロビーはあえて「見せない」という選択肢を取っているんだろうと思うんですが、エマ・ストーンがそれとは異なるアプローチでやはりフェミニズムについて描いているのがとても興味深い。

 

僕はエロ親父だからエマ・ストーンさんが素っ裸で喘いだりする姿はとてもありがたいんですが、性加害についての映画もプロデュースしているマーゴット・ロビーさんの姿勢にもやっぱり敬意を表したいんですよね。いろんな方法論があっていい。

 

マーゴット・ロビーさんは、しばらく「俳優業を休業する」みたいなこと言ってるけど(プロデューサー業は続けるようだが)、このタイミングでエマ・ストーンさんが近いポジションに来たというのが面白い。

 

ちなみに、この『哀れなるものたち』ではエマ・ストーンがプロデューサーも務めている。自覚的にやってるんですよね。

 

僕は『哀れなるものたち』の原作小説は(いつもの通り)未読ですが、原作はメアリー・シェリーによる小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」のパロディとして書かれたのだそうで。

 

だから、主人公のベラは“フランケンシュタインの怪物”の女性版、もしくは「フランケンシュタインの花嫁」として描かれている。

 

ベラを「創った」医師ゴッドウィン・バクスターの名前は、メアリー・シェリーの父親で無政府主義(アナキズム)の先駆者、ウィリアム・ゴドウィンから取られている。

 

まるで網焼きステーキみたいな顔のゴッドウィン・バクスターは、やはり医者だった彼の父親に人体実験で使われて身体にさまざまな不具合を抱えている。

 

父親とゴッドウィンの関係は、ヴィクター・フランケンシュタイン博士と彼の創造物で名前もつけられずに見捨てられた“怪物”のそれとよく似ているし、ゴッドウィンも彼のことを「ゴッド」と呼ぶベラとの間に同じような関係を結ぶ。

 

 

 

また、ベラのヨーロッパを巡る数々の冒険は、メアリー・シェリーの母でフェミニズムの先駆者だったメアリー・ウルストンクラフトの人生をもとにしている。

 

以前『メアリーの総て』というメアリー・シェリーの伝記映画があってなかなかよかったですが、あの作品とこの『哀れなるものたち』を併せて観ると(作品の雰囲気はまったく異なりますが)、いろいろと繋がってくるものがあるんじゃないでしょうか。

 

メアリー・シェリーが妻子ある男性で詩人のパーシー・シェリーと行なったのも、「自由恋愛」という試みだった。

 

あの映画に感じた疑問は、そのまま『哀れなるものたち』の“ベラの冒険”に対しても向けられるでしょう。

 

先ほどこの映画のことを「下品なだけ」と評されていたかたは、きっとここで描かれるベラのフリーダム過ぎる性生活に抵抗を覚えられたんでしょうね。

 

 

 

 

だけど、同じようにいろんな逸脱を繰り返しながら“冒険”する男性を主人公にした物語は、これまでに数多く書かれてきたでしょう。女性が同じようなことをしたら、どうして叩かれるのか。

 

ベラは要するに人造人間みたいなキャラクター(“スーパーヒーロー”のような、と言い換えてもいい)なので、そういう一種の超人、もしくはモンスターである彼女が「人間」として生きていくことを学ぶ姿を通して、これは「私はモノではない」と言ってるんだよね。

 

時代は18世紀だか19世紀あたりっぽいんだけど、科学技術そのものは現実の歴史からはかけ離れたファンタジーの世界で、まるでスチームパンク映画。

 

ちょっと、ジャン=ピエール・ジュネ監督の『デリカテッセン』や『アメリ』を思わせもする。あれのもっと濃い目の奴w

 

 

 

 

 

ベラはポルトガルのリスボンやエジプトのアレクサンドリア、パリやロンドンと、さまざまな場所を旅するんだけど、それらは当然現実の都市とは異なっているので、ほぼSF映画と言ってもいいぐらい。

 

劇場で売ってたエッグタルト(もとはポルトガル産のスイーツ)食べました♪

 

フランケンシュタインの物語をやってるわけだから、空想科学的な世界が舞台であることに不思議はないんだけど。

 

映像を見ているだけでも退屈しないし、そこで繰り広げられる幾分コミカルなやりとりには笑ってしまう。

 

 

確かに「下品」であることに違いはないが、「下品なだけ」なんかではないと思いましたけどね、僕は。わりと評判いいですし、この映画。

 

僕の隣りの席で観ていたお兄さんが鑑賞中に何度もウケまくっていた。

 

自殺した若い妊婦の死体を手に入れたゴッドウィンは、まだ生きていた胎児の脳と亡くなったその女性の脳を入れ替えて、ベラを生み出したのだった。

 

「生まれたばかり」のベラは身体は美しいおとなの女性だが中身は赤ん坊なので歩き方もぎこちないし、気に入らない食べ物は吐き出す。おしっこしたくなったら、そこでする。

 

しかし、だんだん脳が成長していくにつれて学習していって、好奇心や興味の範囲も広がり、性にも目覚める。そのあたりの描写が笑えるんだけど、滑稽なようでいて、これは人間(女性)が幼児からおとなに向かってたどる人生をフルスピードで進んでいるわけで、その姿にどこか胸を打たれもする。

 

ほとんど幽閉されていた家から出て、枯葉が降り積もった森に寝そべって転がりながら喜ぶベラ。やがて、それは庇護者である「ゴッド」からの自立、冒険心の芽生えとなっていく。

 

 

 

ベラを父親代わりのゴッドウィンから引き離して冒険に連れ出すのは、マーク・ラファロ演じるダンカン。

 

この映画は、マーク・ラファロのコミカルな演技が最高でしたw

 

ダンカンはベラの美しい外見を気に入り、セックスに興味津々の彼女をベッドテクニックで夢中にさせる(さすが、マイティ・ソーに「忘れられない」と言わしめたほどの巨根のオーナー。いや、この映画でマーク・ラファロさんのブツは映されませんが)。

 

ベラと婚約していたマックス(ラミー・ユセフ)のように人間として彼女を「愛する」のではなく、自分の所有物のように見做している。

 

それでも、そんな彼がだんだんベラに入れ込んでいく様子が可笑しいんですよね。セックスを褒めてくれてるのに嬉しがるどころか屈辱を覚えて、ベラの前でどんどんみっともなくなっていくダンカン。

 

もともと自分よりも劣る者として見下していた者が、いつしかすべてにおいて自分を超えていく。

 

そのことに耐えられなくて怒りをぶつけても、成長した彼女は意にも介さず反論して、変われない男、成長しない男であるダンカンを捨てていく。

 

これ、身に覚えのある男性は多いでしょう。

 

ここでベラがかかわることになる「売春」の描写が賛否のあるところのようだけど、無論これは売春を推奨しているのではないし、娼館を舞台にして売春を描きながらも、男女の力関係だとか、「売春」というものを実地で体験することでベラが学んでいる姿を通して「自由意志」というものに触れている。

 

ベラも、それから同じ娼婦のトワネット(スージー・ベンバ)も、まるで大学生のように見える。彼女たちは日々学習して人間として成長し続けている。

 

トワネットと同性同士でも試してみる。男よりもイイかもしれないw

 

ベラは、娼館のマダム・スワイニー(キャサリン・ハンター)に、「男が女性を選ぶのではなくて、女性の方が相手を選んだらどうか」と提案する。

 

金払って女を買いにくる男たちにそんなやり方が通用するはずもないが、ここでも彼女は「自分の意志で決める」ことにこだわるんですよね。

 

そして、いろいろ興味深くはあったけど売春はもう飽きた、と言ってイギリスに帰っていく。

 

これはリアルな売春の現場を描いているというよりは、「女を買う」男たちの滑稽な様子(“三こすり”で果ててしまうバーコード長髪男やキモい動きをするジジイとか、イケメンでめっちゃ床上手な男性客が教会の神父だったり)とそれの相手をするベラのしらけた表情のギャップで笑わせながら、結局は自分の意志で相応しい相手をみつけるという、当たり前のことに行き着く姿を描いている。

 

彼女がからかっても怒らず冗談で返し、人間として尊重してくれるマックスを「可愛い人」と言って選ぶ。

 

ところが、マックスとの結婚式に現われたブレシントン将軍と名乗る男(クリストファー・アボット)が、君は私の妻だ、と言ってベラを連れていく。ベラに記憶はないが、彼女は母親の姿をしているので、ブレシントンは彼の妻だった女性・ヴィクトリアと同様にベラを自分のモノにしようとする。

 

ベラの母・ヴィクトリアはこのブレシントンにすべてを縛られ幽閉されるような生活を送る中で妊娠し、彼の子どもを産むことを拒否して橋から身を投げたのだった。

 

ベラが泣いている他人の赤ちゃんを殴ろうとしたり、彼女の母親が自分のおなかにいる赤ん坊のベラを愛せなかったように、果たして無条件に「母性」などというものが存在するのか疑問だし、ゴッドウィンが語っていた「父性が勝(まさ)った」という「父性」なんてものも、ほんとにあるのかどうか疑わしい。

 

そこには本人の「意志」が介在する。共感する力も。人の能力にも個人差がある。

 

ベラのあとに死体から創り出されたフェリシティはベラのように物覚えがよくなくて、ゴッドウィンはベラへの想いの強さからフェリシティをないがしろにするが、彼女には彼女としての成長過程があって、ベラとはまた異なる彼女なりの人生を送るのだ。科学者として客観的に平等に“研究材料”を扱おうとしたゴッドウィンにもまた、人を贔屓するような生身の人間としての隙があった。

 

フェリシティ役のマーガレット・クアリーは、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でマンソン・ファミリーの一人、“プッシーキャット”を演じていた人。アンディ・マクダウェルの娘でもある。

 

自らの出生の秘密を知ったベラは、父同様の「ゴッド」がやっていたのは「愛」と称しながらブレシントンと同じように幼い自分を家の中に閉じ込めることだった事実に気づいて怒りを覚えるが、父・ゴッドウィンのことも、父のもとで秘密を知りつつベラに内緒にしていたマックスのことも許す。

 

 

 

そして、ゴッドウィンのように医者になることを目指す。とりあえず、手始めに母を死に追いやったブレシントンの脳とヤギの脳を入れ替えてみるw

 

ブレシントンはベラの実の父親なのだが、そんなこたぁどうでもいい。人でなしなんだから。

 

「私の父はクソ野郎だった」と語っていたゴッドウィンが、やはり自分の父親のあとを継いだように、ベラは父の過ちを乗り越えていく。

 

この映画が面白かったのは、許されないことは許されないこととして批判しつつも、人間の持ついろんな面を肯定的に見ていこうとしているところでした。

 

ゴッドウィンがいたから、ベラはこの世に生を受けた。それは紛れもない事実。

 

男性の愚かさを代表するかのようなダンカンでさえも、どこか哀しくて可愛くもある。

 

ここではとても語り尽くせないほど、いろんな部分に見どころがある映画でした。

 

 

 

 

第96回アカデミー賞、主演女優賞、美術賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。

 

 

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