今月劇場で観た新作映画は5本、旧作が6本でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧作

ジュラシック・パーク(午前十時の映画祭13)

 

ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク(午前十時の映画祭13)

 

ジュラシック・パークIII(午前十時の映画祭13)

 

花とアリス

 

四月物語

 

 

 

マイ・フェア・レディ(午前十時の映画祭13)

 

 

バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」をミュージカル化した舞台作品の映画版ですが、実は僕は劇場で観るのも、ちゃんと最初から全部通して観るのも今回が初めて。何しろ上映時間は堂々の173分(途中休憩あり)。下手すりゃインドのミュージカル映画よりも長い。

 

主人公・イライザが唄う「I Could Have Danced All Night」は僕でもメロディを知ってたほど有名ですが、でもこの場面でのイライザの歌声は吹き替えで、オードリー・ヘプバーン本人のものではないんですよね(歌:マーニ・ニクソン)。

 

 

 

別の歌でオードリー自身が唄っているところもあるから、声の違いで別人であることがわかる。

 

この映画はアカデミー賞の作品賞をはじめ、共演のレックス・ハリソンは主演男優賞を獲ったし(全8部門受賞)、オードリー・ヘプバーンもとても素晴らしい演技を見せていたにもかかわらず、彼女が主演女優賞を獲得できなかった、どころかノミネートすらもされなかったのは、劇中でのその歌声の多くが吹き替えだったからだろうか。

 

 

 

もともと舞台ではジュリー・アンドリュースの当たり役だったとはいえ、この映画のオードリーは本当にキュートだったし、映画の大成功も彼女の存在によるところが大きいと思いますけどね。

 

この映画が作られた当時の通例として吹き替えは当たり前だったのかもしれないけれど、個人的にはオードリー・ヘプバーンご本人の声で聴きたかったなぁ。その道のプロやミュージカル通の人たちの評価はどうなのかわからないけど、オードリー・ヘプバーンのあの独特の声は彼女にしか出せないのだから。

 

イライザに恋する若き貴族のフレディを演じているのは、のちに「シャーロック・ホームズの冒険」でホームズ役として世界的に有名になるジェレミー・ブレットですが、この映画での彼はほんとに若々しい美青年。

 

フレディはイライザを礼賛するものの、レックス・ハリソン演じるヒギンズ教授からは無能扱いされて、結局はイライザとヒギンズの関係を引き立たせる役割を担わされるだけで退場となるのが残念。

 

ハッキリ言ってひねこびたマザコンおやじなんかよりもフレディの方がよっぽど魅力的だし、最後はイライザとフレディが結ばれるのが順当だと思うんですが、そこはおっさんがほんとは彼女のことを愛していることに気づいて…そして彼女も…という結末で映画は幕を閉じる。

 

名作として知られていて今なお人気が高い映画でもありますが、正直、僕はあのラストには納得いかなかったなぁ。

 

あそこは、ヒギンズおじさんは若いふたりのために静かに身を引くべきだったんじゃないのか。

 

コックニー訛りの田舎娘を“レディ”に仕込む、という最初から鼻持ちならない態度だった男尊女卑の権化みたいな男がいつしかその元・田舎娘に人間として追い越されていく、そこでようやくイライザが味わった屈辱は晴らされるのだろうから。

 

ジュディ・ガーランドとフレッド・アステアが共演した『イースター・パレード』を観た時にも感じた疑問なんだけど、どこかで相手の女性を上から目線で見下してる(ヒギンズの場合はあからさまにだが)男が、いつしか彼女のことを憎からず感じるようになって、ヒロインの方もまた…というお話は昔から作られてきたし、そしてその後の『プリティ・ウーマン』みたいないくつものヴァリエーションがあるけれど、さすがに現在では男性である僕の目から見ても『マイ・フェア・レディ』は完全にアウトだと思う。

 

去年、やはり「午前十時の映画祭」で観たオードリー主演の『いつも2人で』でもアルバート・フィニー演じる夫の、オードリー演じる妻に対する態度がそうだったように、尊大で女性を見下す言動が多いが、いざという時には支えになってくれて乱暴な言葉遣いとは裏腹に深く愛してくれる男性に次第に惹かれて…みたいな男側に都合がいい(そして女性側は都合が悪い、見たくない部分には目をつぶった状態の)「恋愛」って、僕は観ていて不快ですらあるんですが。

 

 

もともと自尊心はしっかり持っていたイライザは、口が達者なヒギンズに言いくるめられて彼の命じるままに教育されてレディとなるが、やがて自分自身の言葉を手に入れて彼のもとから立ち去る。

 

そこで今度はヒギンズこそが変わり、成長しなきゃいけないはずでしょう。これは本当は田舎娘が成長する話じゃなくて、女性を男性よりも劣る存在として見做していた男が、そうではなかったことを思い知る、って話じゃないのか。

 

なのに、男たちは(劇中でヒギンズは、ピカリング大佐やピアスさん、ヒギンズの母親からイライザをモノ扱いしていることをたしなめられはするものの)反省することもなく、相手の女性に詫びることもなく最後には許されてしまう。それどころか“彼女”の愛まで獲得する。ズル過ぎやしないか。

 

だから、この物語はやっぱり純粋にイライザを追い求めるフレディと彼女が結ばれる、あるいはその可能性を示唆して終わるべきだったと思うんですよ。ヒギンズは自身の不明に恥じ入って立ち去るべきだったんだよな。

 

まぁ、演じたレックス・ハリソンも相当のモテ男だったそうだし、ヒギンズのような自信満々な男に惹かれる女性がけっして少なくないのもまた現実ですが。

 

ミュージカル映画としては、イライザが唄う華やかな場面もあるけれど、でもおっさんや爺さんたちばっか(ジェレミー・ブレットを除いて)唄ってるよなぁ、とも。3時間近くある映画なのにやたらとおっさんばかり出てくる。もうちょっと若さ溢れるキャスティングにできなかったんだろうか。

 

おやじどもが若い娘を自分の望むように育てて喜んでる、そんでその“生徒”である女性と恋に落ちて…って相当薄気味悪い世界でしょ。

 

今だったら、そういう身勝手な「おっさんドリーム」はむしろ徹底的に批判されなきゃダメだろって。

 

この映画を観ていて思ったのは、ヒギンズみたいに自分の女性差別的で思い上がった考えや態度にまったく疑問を持たず、悪気もなくそのように振る舞う男はかつて普通に存在していただろうし、今でもけっして絶滅してはいないのだろうな、ってことでした。

 

いろいろ考えさせられはするし、オードリー・ヘプバーンの代表作の1本を劇場で観られてよかったですが、物語の内容については大いに腑に落ちないところがあったし、3時間近くもかけて描くようなものだっただろうか、という疑問も。

 

わめいたり泣き顔を見せたり唄ったり、かと思えば人が変わったように“レディ”として凛とした物腰で人々の注目の的となるイライザを魅力たっぷりに演じたオードリーのおかげと、なんだかんだ言ってヒギンズ役のレックス・ハリソンもユーモラスなところがあって、彼の“高飛車おじキャラ”のユニークさで最後まで観ちゃうんですが。

 

人気作とあって客席は混んでましたし。

 

今年はオードリー・ヘプバーンさんの没後30周年ですが、これ以外にも彼女の映画をぜひまた映画館で観たいです。

 

 

先月末から桜の満開で今月の頭頃は「新しい年度の初めに気持ちいいなぁ」と思っていたんですが、その後は身のまわりであれこれとしんどいことが立て続けに起こって、結果的には消耗しきった感がありました。

 

だから余計に『ザ・ホエール』は沁みました。ツラい内容ではあったけれど、あれも「救い」についての映画だったから。

 

映画はすがるものではないし、創作物であって宗教でもなんでもないですが、でも僕は日々「映画」に救われているし、励まされてもいる。そのことに恥も虚しさも感じるつもりはない。

 

まぁ、たまには映画もお休みして美術展に行ったり読書するのもいいかな、などとも思ってますが。

 

 

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