小中和哉監督、上村侑、高石あかり、福澤希空、桑山隆太、佐藤友祐、北岡龍貴、川久保拓司、有森也実ほか出演の『Single8』。

 

1978年、夏。高校生の広志(上村侑)は「スター・ウォーズ」に影響を受け、友人の喜男(福澤希空)と共に宇宙船のミニチュアを作って8ミリカメラで撮影することに。最初は宇宙船を撮ることしか考えていなかった広志だが、クラスで文化祭の出し物について話し合う際、勢いで映画制作を提案してしまう。思いを寄せる女の子・夏美(高石あかり)にヒロイン役を依頼するも断られ、彼女とクラスメイトたちを説得するため、喜男や映画マニアの佐々木(桑山隆太)も加わり脚本の執筆に取りかかるが──。(映画.comより転載)

 

あいにく僕が住んでる地域では一日に1回で、しかもわずか一週間の上映だったためにすでに終了していますが(全国順次公開ですので、地域によっては現在公開中だったり今後上映予定の映画館もあります)、公開初日に鑑賞。

 

上映後に小中和哉監督が舞台挨拶をされていました。

 

ツイートに監督から「いいね」いただきました(^o^)

 

 

 

 

監督のお話の中で手塚眞監督、黒沢清監督、利重剛監督など、同世代の監督たちのお名前がポンポン出てきて、小中監督もまた同様に70~80年代の日本映画史の一部なんだと実感する。

 

小中和哉監督の映画は、僕は80年代の終わり頃だったか90年代の初め頃に『四月怪談』(1988) をレンタルヴィデオで観ていて、あれ以来ちゃんと観返していないからもう内容は覚えていませんが、主演の中嶋朋子さんがとても可愛くて、共演のギバちゃん…柳葉敏郎さんも初々しかった。

 

エンディングの曲がとてもせつなくて、あの当時を思い浮かべるとふとそのメロディが頭の中で流れる。

 

あの作品もリヴァイヴァル上映してくれないかなぁ。

 

僕は長らく小中監督の作品は『四月怪談』しか観ていないと思い込んでいたんですが、今回あらためて確認してみたら、そういえば『くまちゃん』(1993) もやはりヴィデオで観ていたのでした。

 

くまのぬいぐるみが主人公の『テッド』を先取りしてたような映画(^o^)

 

…いや、『くまちゃん』の方はもっと可愛らしいファンタジー物だったと思いますが。

 

ただ、確かテッドはスター・ウォーズが好きだったと思うんだけど(いや、スター・トレックの方が好きっぽくはあったが)、『Single8』で描かれているように小中監督もSW直撃世代なんですよね。そこんとこで両者には共通点がある。

 

そーいや、小中監督が撮った『ウルトラマンゼアス2』(1997) はしっかり劇場公開時に映画館で観たんだった。今の今まで思いっきり忘れてましたが^_^; 当時、ちょうど「平成ガメラ」シリーズがやってたから怪獣物とか特撮物にちょっと期待していたんだな。

 

“郷秀樹”こと団時朗さん(ご冥福をお祈りいたします。23.3.22)も友情出演されていたんですね。あれから一度も観返していないので覚えていなくて本当にごめんなさい。

 

そうそう、小中和哉監督は「平成ウルトラマン」にずっとかかわっていらっしゃったのでした。

 

僕は平成ウルトラマンはほとんど観ていないし(昭和のウルトラ兄弟が登場するメビウスは観ていたが)、その劇場版も観たのは1本ぐらい(コスモスだったような記憶が)で、でも確かに小中和哉監督のお名前はスタッフロールでよく目にしていた。

 

『四月怪談』はファンタジー系の一種の青春映画だったから、なんとなくそういうジャンルの監督というイメージがあったんだけど、それ以前に特撮系の人だったんだよな。

 

ちょっと前にスピルバーグ監督の自伝的な映画『フェイブルマンズ』を観たばかりですが、8ミリ自主映画のくだりとかちょっとカブってて、自主映画の撮影で「カット」がかかっても主演の男子が向こうに歩き続ける場面なんて偶然の一致とはいえ面白いですよね。

 

 

 

スピルバーグといえば、彼と彼の映画にオマージュを捧げたJ・J・エイブラムス監督の『SUPER 8/スーパーエイト』があるけど、小中監督はあの映画を観て今回の企画を思いついたのだとか。やっぱり(^o^) あちらがスーパー8ならこっちはシングル8だ、と(スーパー8やシングル8というのは8ミリフィルムの種類。日本では富士フイルムが販売していたシングル8が広く使われていた)。

 

ジョージ・ルーカス(1944年生まれ)やスティーヴン・スピルバーグ(1946年生まれ)って僕の親の世代なんですが、小中和哉監督はあの2人と僕のちょうど中間あたりの世代で、70年代に10代の半ばで彼らの作品に出会って70年代の終わりや80年代の初め頃に自主映画で注目されてプロになっていった人なんですよね。僕にとっては、ちょっと年の離れたお兄さんとか若い教師みたいな感覚だった。

 

舞台挨拶で登壇された小中監督は見事に白髪頭で、僕の中ではなんとなくかつての青年っぽい若手監督の印象のままで止まってたものだから、あ、おじいちゃんになってる、と。

 

そりゃ還暦迎えられてるわけだし、かつて少年だった僕がおっさんになってるんだから80年代に20代だった監督さんが歳を取られているのも当然ですが。

 

でも、舞台挨拶はもう慣れてらっしゃるようで、一度も噛むことも言葉に迷うこともなく朗々と、少年時代のアマチュア自主映画のことなども本当に楽しげに語られていて、ご兄弟(お兄さんは脚本家の小中千昭氏)で自主映画を撮り始めた頃の喜びと衝動をそのまま今の歳まで保ち続けているのがうかがえました。

 

『Single8』はスポンサーがつくまではほぼ自主映画のような感じで撮影が進められていたそうで、美術も監督ご自身が担当されたんだとか。劇中で主人公・広志たちの自主映画の撮影に使われるスター・デストロイヤーちっくな宇宙船のミニチュアも監督のお手製。

 

 

 

個人的な企画だし製作費を調達するのが大変で、おまけにコロナ禍もあって完成までにとても時間がかかったようで、宣伝費の一部をクラウドファンディングで賄っている。エンドクレジットに「お名前掲載コース」を選ばれたかたたちの名前が出ていて、漫画家の永野のりこさんやオタキングなど有名人のかたがたもちらほら。

 

劇中の8ミリ映画は実際に8ミリフィルムで撮影されていて、シネカリ(シネカリグラフ。フィルムをじかに引っ掻いて、映写した時に模様に見えるようにする。かつての自主映画では光線や銃のマズルフラッシュなどを表現するためによく用いられていた技法)もほんとにやっているのだそう。

 

 

キャメラ内の多重露光(2枚目)はほんとにやったのか、それともデジタルで合成したのかどちらだろう

 

『フェイブルマンズ』でも主人公・サミーがフィルムに穴を開けてマズルフラッシュを作っていたけれど、あれは多分(確証はないけど)VFX使ってますよね。8ミリだったらあんなに綺麗には見えないんじゃないかなぁ。『フェイブルマンズ』のサミーはとてもいいキャメラを使ってたから、画質もよかったのかもしれないけど。

 

『Single8』では、その辺はリアルにやってましたねぇ(^o^) ただし、編集や音はデジタルでやったんだろうけど。8ミリフィルムに直接入れた音声(フィルムの左右に音声トラックがあって、映写機を使ってそこに録音する。撮影時に同時録音できるキャメラの機種もあったが、アマチュア自主映画の多くではアフレコが行なわれていた)はあんなにクリアじゃないから。

 

ちょっと不思議だった、というかわかんなかったのが、広志が撮ってる映画でキャメラを逆さに持って撮影したあと、フィルムの上下左右を反転させた状態で編集、見事に逆再生を実現するくだりがあるけれど、音声トラックはどうなってるんだろう。問題なく音を入れられたんだろうか。音声トラックが逆になっちゃわないのかな(このあたり、8ミリフィルムの構造をご存知ないかたにはなんのことやらでしょうが)。

 

↓この疑問に対してTwitterでお返事をいただきました。

 

 

映写機で映像を映しながらアフレコやったら映写機が廻るカタカタカタッていう音も一緒にマイクが拾っちゃうからどうするんだろ、と思ってたら、映写機にダンボールをかぶせて騒音を遮断するのねw 『バビロン』では似たようなことをもっと大掛かりな規模でやってましたが(あちらは同時録音の撮影現場でキャメラを密室に入れていたのだが)。

 

僕が8ミリで自主映画撮ってたのは90年代なので、一度映像を壁に映写してそれをヴィデオキャメラで撮ったあと、そのヴィデオにアフレコ機能使って台詞を吹き込んでたなぁ。8ミリフィルムとヴィデオでは微妙に再生スピードが異なるから、あとでフィルムの画とヴィデオの音声を合わせるのに苦労した。長い台詞が続いたりするとだんだん映像と音声がズレてくるんだよね。『雨に唄えば』みたいに(笑)

 

パソコンで映像も音も好きなように切り貼りできて、何もかもデジタルで処理できてしまう今と違ってすべてがアナログの手作業で、やり直しがきかない場合も多く、お金もかかった。

 

今回、8ミリでの撮影では1つのマガジンでわずか2~3分ほどのフィルムに8千円ぐらいかかるので(もちろん、それはフィルム代のみで、現像代は別。すでに富士フイルムは8ミリフィルムの製造・販売と現像を終了しているのでフィルムを調達したり現像するのも容易ではなく、現在8ミリで映画を撮ろうとすると昔よりもはるかに贅沢な趣味になってしまう)若手の出演者の皆さんは監督からそう言い含められてかなり緊張感をもって臨まれたようで。

 

監督の舞台挨拶では昔8ミリ小僧だったっぽいおじさんたちが何人か質問していて、「ZC1000」がどうとか「ZX500」がどうとか嬉しそうに語っていた。

 

ZC1000は僕もカメラ屋で見たことがあるけど、高価過ぎてとても手が出なかったなぁ。

 

そのあたりの描写も、主人公が高価な16ミリキャメラまで買い与えられていた『フェイブルマンズ』よりもこちらの方が身近に感じられたしリアリティがあった。

 

出演者の中に女の子が一人だけ、スタッフでさえも他に女子はいない、というのはいかにも「紅一点」を持て囃す男子目線でちょっとヤなんだけど、あの当時は自主映画制作に参加したり出演してくれる女の子自体が貴重だったので(映画評論家でイラストレーターの三留まゆみさんの証言)、あれがリアルな姿だったのかもしれないですね。

 

スタッフにも女性がいた方が出演者の女性も安心できるし、野郎ばっかの集団よりも女性が多い方がまわりの見る目も全然違ってくるんだけど。

 

本当は小中監督の映研での思い出(映画に詳しい佐々木君のモデルは利重剛さんなのだとか^o^)をこの映画では文化祭のクラスの出し物ということにして描いたそうだけど、でもそのわりには映画制作に参加してるのは広志とクラスメイトの合計4名とエキストラで出てくる3人ぐらいで、じゃあ、あとの奴らは何してたの?って感じなんですが。

 

他のみんなは文化祭当日に教室の飾り付けをしてくれた、ということらしいけど、飾り付けったってそんな大層なものではなかったから、そこは全員がどこかで映画の制作にかかわってる方がよかったんじゃないのか。みんなで作ってる感は希薄だったんだよなぁ。ジブリの宮崎吾朗監督似の担任の先生(川久保拓司)も、ほんとにあれでオッケーだったのかなぁ。

 

低予算映画だからでしょうが、文化祭も学校をあげての催しという賑やかさがあまりなかったし、そもそも画面に映ってる生徒の数が少ない。教室一つ分の生徒を揃えるのが精一杯だったのかな。

 

そこはこの作品自体も「自主映画」として見なきゃいけない、ってことでしょうね。

 

撮影場所も限られてるし、劇中で広志たちが撮影のあとに入るのはいつも同じカレー屋だし。

 

だけど文化祭なんだから、せっかくなら広志のお母さん(有森也実)や撮影で世話になったカメラ屋のアルバイト店員(佐藤友祐)たちも上映会場に顔を見せればよかったのに。なんだったらカレー屋の店長(北岡龍貴)も。70年代の高校の文化祭がどんなだったかは知らないし、学校にもよるんだろうけど、招待客だって入場できるはずでしょう。

 

息子たちが作っていたのはこういう作品だったのか、と母親が理解したり、高校生たちと協力し合えたことを喜ぶ大学の映研の先輩などを通して、1本の自主映画がより多くの人たちに共有されていく様子が描けたでしょうから。映画って「作る」だけじゃなくて人々に「観てもらう」喜びもあるわけだし、それを受け取った観客たちにもまたその作品にまつわる思い出が作られていくんだから。

 

少年たちの映画作りがその枠を超えて、いろんな人たちに楽しさが広がっていくまでを描いてほしかった。

 

広志のクラスメイトで文化祭の出し物はオバケ屋敷がいい、と主張する男子生徒を演じている役者さんの演技が昔の「中学生日記」の素人並みでとても2023年の映画とは思えないほど酷い代物だった。あれはあの役者さんが普通に大根なのか、それともわざとああいうド下手な芝居をさせたのかどちらなんだろう。

 

あの演技も大概だったけど、彼が喋る台詞がいかにも70~80年代ぐらいの自主映画とか当時の児童向けのTVドラマなんかで耳にしたようなものだったから、余計に安っぽく感じられてしまって。

 

まぁ、でも観てるうちに慣れてきて、最後のあたりではもう気にならなくなってましたが。

 

彼(役名がわからぬ)は広志が監督する自主映画『タイム・リバース』でスパゲティを口から“リヴァース”する役を仰せつかって演じるんだけど、逆再生させてみたり映像をあれこれイジることで「映画」の面白さに目覚めていく、というのは(同じことをめっちゃ金かけてやっていたクリストファー・ノーラン監督の『TENET テネット』も、つまりは“映画についての映画”でもあったし)先ほどの『フェイブルマンズ』とも通じるものがある。

 

この映画の脚本は小中監督自らが書いたものだけど、それ自体がどこか昔ながらの、というかだいぶ古めかしい内容だし、演出もまるで子ども向け作品のようなテイストなんだよな。

 

ちょっと前に『少女は卒業しない』の感想で、僕は監督の演出の手腕についてあーだこーだとケチつけてしまったんだけど、でもこの『Single8』のそれに比べればあちらは格段にこなれていた。

 

あの映画と『Single8』とではどちらも高校を舞台にしてはいても俳優たちの芝居の質感がまったく異なるから、単純にどちらが優れているとは言い切れないけれど。

 

途中から、これは昔の少年少女向けドラマを模した作品なのだ、と思いながら観ることにした。

 

この映画は高校生男子の視点で描かれたもので、だから主人公・広志が淡い恋心を抱く同級生の女子・夏美が魔性の女っぽく見えているのも小中監督は意識的だったようだけど(舞台挨拶でそう語られていたので)、2023年の今こういう映画を作るなら、むしろ男子からは「謎めいていた」憧れの女子の目線で撮ってほしかったところはある。

 

そういうところで今60代初めぐらいのオタク第一世代、もしくは1.5世代って、40~50年前の思春期から意識をアップデートできてないのね(エイブラムスの『スーパーエイト』だってエル・ファニング演じる紅一点ヒロイン像は似たような描かれ方だったから、日本の監督に限ったことではないが)。

 

「俺が好きだった女の子」像をずっと引きずったまま爺さんに突入している。

 

一緒にモノ創りして心が通い合ったような気がして、むこうもこちらに好意を持ってくれてるかも、という期待を思い切り裏切ってバンドマンの先輩の方に行っちゃった女子に呆気にとられて傷ついた中高時代の思い出は、僕にだって似たようなことは身に覚えがあるから気持ちはわかりますけどね。

 

でも、クラスの綺麗な女子を心のマドンナにして恋をして…ってのは、あくまでも男子側の君の思い出、思い入れに過ぎないわけで。

 

綺麗な女子に恋をする男子がいるなら、イケてる男子に恋する女子だっていて当たり前でしょ。

 

この映画をもしも夏美の視点で描いたら、また違った物語が出来上がると思う。

 

彼女は別に自主映画に出たかったわけじゃなくて、お願いされたから引き受けたんでしょう。

 

で、バンドやってる先輩にオリジナルの音楽を作ってくれるよう頼んだりもして、彼女は彼女なりに精一杯広志たちに協力したんだよね。

 

でも、夏美はそもそも広志個人にそんなに興味があったわけじゃなくて、最初からバンドマンに気があった。だから文化祭当日に上映会場にも現われず先輩のライヴの方に行ってしまった。

 

めっちゃ「あるある」だよね^_^; 広志が勝手に片想いして勝手に振られただけなんだよな。

 

私はあんたの「お人形さん」じゃないのだ。好き勝手操って自分の都合のいい相手扱いすんなよ、ということ。

 

夏美は広志が自分に好意を持っていることに以前から気づきつつも、彼を傷つけないように気を遣いながらサインを送っていたんだよね。「ごめんね」と。

 

特にあの年頃の女の子って好奇心旺盛だから、いろんな男子と交流を持って、その中から「私に相応しい相手」を選ぶんだよな。決めるのは「私」なのだ。それが自然界の理^_^;

 

夏美役の高石あかりさんは(彼女が主演している『ベイビーわるきゅーれ』は僕は現在公開中の2作目も前作も観ていませんが)、この『Single8』のシナリオを読んで一所懸命役作りして臨まれたそうなんだけど、小中監督はあくまでも男子から見た憧れの女子像にこだわったようで。

 

 

 

 

 

高石さんがどんな夏美像を思い描いてたのか気になる。彼女にとっては殺し屋女子の方がよっぽど共感できるキャラクターだったのかもね。

 

なんとなくダメ出しめいてきたのでフォローしますが(;^_^A それでも僕はこの映画に愛おしさを感じたし、このいささかストレート過ぎる青春グラフィティに共感も覚えました。

 

“青春グラフィティ”といえば、僕が大好きな『青春デンデケデケデケ』を思い出しますが、小中監督はあの映画でセカンドユニット監督を担当して冒頭の夢のシーンを撮影されていたんですね。

 

『Single8』は明らかに『青春デンデケデケデケ』の影響を受けている(大林宣彦監督もまた、8ミリ自主映画からプロになった人だった)。

 

8ミリどころか16ミリキャメラを複数台同時に廻して使えるショットを使う、という大変贅沢な現場だった『青春~』に対して『Single8』はもっとずっと小規模だったけれど、晩年の大林監督が低予算も厭わず映画を撮り続けられたように、そのあとに小中監督も続いてるんでしょう。

 

「映画を観ることよりも、映画を作る方が面白いと気づいた」という小中和哉監督は、紛れもなく「映画」に選ばれ、愛されている人なんだと思う。

 

 

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