スティーヴン・スピルバーグ監督、ガブリエル・ラベル、ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、ジュリア・バターズ、キーリー・カーステン、セス・ローゲン、クロエ・イースト、サム・レヒナー、オークス・フェグリー、ジーニー・バーリン、ジャド・ハーシュほか出演の『フェイブルマンズ』。2022年作品。PG12。

 

初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になった少年サミー・フェイブルマンは、母親から8ミリカメラをプレゼントされる。家族や仲間たちと過ごす日々のなか、人生の一瞬一瞬を探求し、夢を追い求めていくサミー。母親はそんな彼の夢を支えてくれるが、父親はその夢を単なる趣味としか見なさない。サミーはそんな両親の間で葛藤しながら、さまざまな人々との出会いを通じて成長していく。(映画.comより転載)

 

ネタバレに気をつけなければならないタイプの映画ではないんですが、それでも知らずに観た方がいい箇所がいくつかあるので、鑑賞後に読まれることをお勧めします。

 

去年の『ウエスト・サイド・ストーリー』に続くスピルバーグ監督の最新作。

 

先日授賞式が行なわれた第95回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞、脚本賞、作曲賞にノミネートされましたが、惜しくも受賞はならず無冠に終わりました(オスカーの前哨戦である第80回ゴールデングローブ賞では作品賞と監督賞を受賞)。

 

残念ではあるんですが、ちょっと前に観た『エンドロールのつづき』あたりから続く「映画についての映画」の1本としてなかなか味わい深い作品だったし、それから「家族」を描いた作品ということでは今年のオスカーを席巻した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と共通するものがある。

 

また、その『エブエブ』で助演男優賞を獲得したキー・ホイ・クァンは子役時代にスピルバーグの『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』(1984) に出演もしていて、ゴールデングローブ賞の壇上で(彼は同賞でも助演男優賞を受賞)かつて自分を見出してくれたスピルバーグに感謝の言葉を述べていました。

 

アカデミー賞授賞式後には、その“恩人”から「キー、君はたった今アカデミー賞俳優になったんだ」という感動的な言葉ももらって(『魔宮の伝説』でキーと共演したスピルバーグの妻であるケイト・キャプショーも同席)、また作品賞の発表のプレゼンターとしてジョーンズ博士ことハリソン・フォードが登場、“ショーティ”と熱い抱擁を交わしていた。

 

 

 

 

リアルタイムの放送では観ていませんが、微笑ましい光景でしたね。

 

これで6月30日(金) 公開の「インディ・ジョーンズ」シリーズの最新作『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(監督はジェームズ・マンゴールド。スピルバーグは製作総指揮)にキー・ホイ・クァンがサプライズで出演してたら最高だったんだがなぁ。

 

『エブエブ』を僕は酷評してしまったし、その評価はオスカー受賞後も変わりませんが、感想の中でも少し触れたように、この『フェイブルマンズ』は同じく「家族」を描いてはいても『エブエブ』とは対照的な作りで、かつてのスピルバーグ映画、たとえば『E.T.』のようなファンタスティックな要素や「インディ・ジョーンズ」シリーズみたいなアクション的な要素のない、内容的にも比較的淡々とした日常描写が続く作品でした。

 

スピルバーグの自伝的映画で、だから途中でミシェル・ウィリアムズ演じる主人公の母親が車を運転してカミナリを見にいく『未知との遭遇』を思わせるような場面があったり、『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』の冒頭での少年時代のインディのボーイスカウト姿を思い出させるアリゾナの荒野での自主映画の撮影シーンなど、ところどころにその後のスピルバーグ作品を彷彿とさせる場面を散りばめつつも、超自然的な映像イメージは用いられておらず、あくまでもスピルバーグの人生をモデルにした少年とその家族たち、特に両親との関係を描いたものになっている。

 

 

 

だから、正直観ていて「結構地味めな映画だな」と思った。

 

でも、僕はまだこの映画を1度しか観ていないし、これは151分という微妙に長めの上映時間のせいもあるのか、それとも思ったほどお客さんが入ってないのかわからないけれど、公開開始からまだ2週経ったぐらいでもう上映回数もかなり減ってて、残念ながら2回目の鑑賞は難しいかもしれませんが、あれからジワジワと後味が利いてきてる感じで、できればもう一度観返したいぐらいなんですよね。

 

先ほど述べたように映像的にはファンタスティックな要素はほぼなくて、だから一見すると80年代ぐらいのスピルバーグ作品よりも、むしろここ最近彼が撮ってきた政治的な題材を扱った作品の方に近い。

 

だけど、この『フェイブルマンズ』に政治的な要素は全然なくて、舞台はスピルバーグが少年だった50~60年代だけど、時代の社会的な背景は(バックに流れる当時の音楽とかファッションなど以外は)ほとんど描かれないし、物語に影響も及ぼさない。

 

非常に個人的で狭い範囲のことを描いている。

 

それはスピルバーグの映画としてはかなり異色だと思うんですよね。他に似た作品が見当たらない。

 

この『フェイブルマンズ』に対しては絶賛している人たちもいる一方で「刺さらなかった」と言ってるかたがたも結構いて、「環境や才能に恵まれた主人公が親からも愛されて夢にむかって踏み出していく、というだけの話」というふうに、あるいはもっと辛辣な言葉で斬って捨てている感想も見受けられる。

 

で、確かに上記の感想はあらすじとして間違ってはいないんですが、「だけ」ではないと思うんですよ。

 

まず、主人公でスティーヴン・スピルバーグの分身であるユダヤ系の少年、サミュエル・“サミー”・フェイブルマン(幼少期:Mateo Zoryan 成長後:ガブリエル・ラベル)が母から父親の物である「8ミリキャメラ」をもらってそれで映画を作り始め、やがて完成した作品をお披露目したり、その8ミリキャメラが次第にヴァージョンアップしていったりする様子は同様に8ミリフィルムで自主映画を撮っていた人々にとっては本当に懐かしいだろうし、これはまさしく「映画についての映画」になっている。

 

『エンドロールのつづき』でも現在はデジタルに取って変わられた“映写フィルム”への愛着が描かれていましたが、こちらでも現像からあがってきたフィルムをスプライサーで切って、専用の接着剤でカットとカットを繋いで編集する工程が描かれていて、映画界のデジタル化以降もフィルムにこだわり続けるスピルバーグの強い想いが伝わる。

 

実際に直接手で触れて切り貼りして作る、というところ、それは機関車の模型を使ってクラッシュシーンを撮影するのと同じで、文字通り手作りの喜びに満ちているほんとに至福の時間。

 

少年期の原初的な喜びをスピルバーグはずっと持ち続けてきたんですね。

 

『エンドロール~』が映画を「映写」すること、それを「観る」ことの喜びを描いていて、またサム・メンデス監督、オリヴィア・コールマン主演の『エンパイア・オブ・ライト』が映画館についての映画だったのに続いて、この『フェイブルマンズ』には「映画を撮影すること、編集すること、完成作品を上映すること」すべてが描かれている。

 

そういうところだけでも僕なんかは観ていてとても心地よかったんだけど、この映画が「刺さらなかった」という人たちは、きっともっと劇的な内容を期待していたんでしょう。

 

苛酷な試練の中で努力を重ねて成功を掴み取っていく、映画大好き少年の「立身出世」の物語を、いろんな映画のオマージュを挟みながら描いていくのだろう、と(一応、“いろんな映画のオマージュ”はあるのですが)。

 

そしたら、主人公サミーは高校でイジメには遭うものの意外とそんなにツラい境遇ではなく、子どもの頃は高級そうな機関車の模型をどんどんプレゼントされてるし、頑張ってバイトして自力で8ミリキャメラやスプライサー、編集機を買おうとするのでもなくて、欲しい物はおとなたちから与えられる。

 

両親の微妙な関係は描かれるけれど、家庭環境に特別深刻な問題があったわけでもない。

 

だから、「意外と恵まれた家庭だったんじゃないか」と感じる人がいるのもわかる。

 

紛れもなく自分自身とその家族をモデルにしながらも、スピルバーグは主人公のことを「こんなに大変な目に遭って、こんなに苦労して頑張りました」というふうには描いていないんですよね。

 

本当はスピルバーグが受けたイジメは映画で描かれたものよりももっとずっと苛烈だったようで、彼は有名映画監督になってずいぶん経ってからも、当時自分を苛めた者たちを許していない、と語っていた。

 

『フェイブルマンズ』ではサミーのことをことさら特別な苦労人のようには描いていなくて、カノジョだってできるし、大勢を仕切って映画も撮るし、その辺の普通の少年として映し出している。

 

この映画に物足りなさを感じたという人たちが少なくないのは、サミーの描かれ方があっさりし過ぎていたからなのかな。

 

また、彼個人の成功譚を撮るつもりなら、それこそコッポラやルーカス、スコセッシたちとの出会いやその後の映画界での大成功をこそ描くはずだと思うけど、それ以前の時期の話だから。

 

僕はスピルバーグって、『E.T.』で描かれていたようにまだ幼い頃に両親が離婚して母子家庭で育ったんだとばかり思っていたんだけど、実際に彼の両親が離婚したのはスピルバーグが高校生の時だし『フェイブルマンズ』でもそう描かれている。

 

『E.T.』では父親は他に女性を作って家族を一方的に捨ててメキシコに行ってしまった、と語られていたけど、実はスピルバーグは両親の離婚後は父親と一緒に暮らしていたのだし、『フェイブルマンズ』で浮気、というかパートナーから離れるのは母親の方なんですよね。思ってたのと全然違うじゃん(;^_^Aと。

 

この『フェイブルマンズ』が語っているのって、「映画は嘘をつく」ってこと。

 

映画で描けば人々に嘘を信じ込ませることもできる。

 

さっき、この映画に政治的要素はない、と述べましたが、でもこれは映画が「プロパガンダ」をいかにして生み出すかということを、しかもそれを「魅力」として描いてもいる。

 

かつてアドルフ・ヒトラーは映画をプロパガンダに利用したけど、その彼率いるナチスが迫害したユダヤ系の両親を描いたこの映画で、スピルバーグは恐ろしい力を持つ映画=アーク(『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』ではナチスがアークを撮影しようとしていて、その直後に悲惨なことになる。『レイダース』のトラックでのチェイスシーンは、ジョン・フォード監督の『駅馬車』へのオマージュになっている)に魅せられて、その道に踏み込んでいく。

 

高校でサミーを苛めていたジョックスのローガン(サム・レヒナー)が、卒業前の「おさぼりデー」にみんなで行ったビーチでサミーが撮った映画の中で、まるで自分が生まれながらのヒーローのように映し出されているのを観て怒りながら泣く場面では、「映画」が持つ力の凄さと恐ろしさが同時に描かれている。

 

 

 

ローガンは、「俺がスポーツが得意なのは努力してきたからだ」とサミーに言う。だが、お前はそれをなかったかのように俺を撮った、と。現実には存在しない美神のように、生まれてきた時からすべてが備わっていたかのように。

 

自分を苛めた相手とスピルバーグとの間に本当にあのようなやりとりがあったのかどうか知りませんが、あまりによくでき過ぎた話でしょ。

 

あれは「映画」を使ってスピルバーグがかつて自分を苛めた相手に復讐したんじゃないだろうか。インディ・ジョーンズのように相手を殴ったり殺したりするのではなくて、別の方法で。現実にはあんな事実がなくても、「映画」で描けば人々がそれを信じ込むことを彼は知っているのだから。

 

「映画」を使ってスピルバーグはイジメっ子を泣かしてやったのだ。

 

おとなの態度なのか子どもっぽいんだか、ほんとにわかんないな(笑)

 

しかも、まるでジャイアンの後ろにくっついて威張ってるスネ夫みたいな奴・チャド(オークス・フェグリー)もまたサミーが駆使した映画のマジック=撮影と編集の詐術、によって道化として描かれ、みんなから笑い者にされた挙げ句、怒り狂ってサミーに殴りかかろうとして反対にローガンにぶん殴られてぶざまに退散する。

 

とてもこんな映画みたいなことが現実にあったとは思えないし、いかにも80年代頃にスピルバーグが製作総指揮を務めた『バック・トゥ・ザ・フューシャー』の一場面みたいで、ここでは幾層ものリアリティが重なり合って「映画とは嘘である」と告げている。そして、だからこそ面白いしエキサイティングで感動的でもあるのだ、と。

 

この『フェイブルマンズ』自体もまた、どこまで史実にもとづいていてどのあたりがフィクションなんだか、映画を観ているだけだとよくわからないんだよね。だから登場人物たちの名前は変えられているわけだし。主人公の家族の苗字“フェイブルマン”のフェイブル (fable) というのは「寓話」という意味。

 

逆に実名で出てくるのが映画監督のジョン・フォードだけど、まるで映画みたいな彼との出会いは史実ということだからなかなか人を食っているw

 

その辺の逸話も面白いんですが、トントン拍子に成功を掴んでいるように終盤のあたりはサラッと描かれてるけど、実はスピルバーグってかなりのやり手だったんですよね。

 

だいたい、大勢のボーイスカウトの仲間たちを使って映画を撮るのだって誰にでもたやすくできることではないし、この映画では描かれていないけど、その後は自分の才能をしっかりアピールしてお金出してもらって『アンブリン』という、のちに彼の会社名にする作品を撮ったり、ユニヴァーサルの撮影スタジオに潜り込んで若年にしてちゃっかり自分のオフィスを構えちゃったり、そんなのただ世間知らずでイノセントなだけの若者にできることじゃない。めっちゃアグレッシヴな人でしょう。

 

本来ならば、そういうハングリー精神旺盛で人間臭い部分こそが映画として見応えのあるドラマになりそうだし観客の共感も呼ぶんだけど、サミーが人一倍努力家だったり「やり手」の部分はこの映画ではほとんど見せないんですよね。あえて生々しいところは抑えて、純粋無垢な少年が夢をかなえていく「物語」として描いている。

 

俺はこんだけ頑張って成功したんだ、という成り上がりの出世モノになっていない。

 

僕はそこにこそスピルバーグの矜持を見たんですが、一方で『レディ・プレイヤー1』では映画界における自分のイメージを「ゲーム界のカリスマ」に臆面もなく重ねてみせたように、自分への外部からの視線に無頓着を装いつつも実は自己演出には抜かりがない。

 

スピルバーグの両親はいずれもユダヤ系だが、生まれも育ちもアメリカでホロコースト(ユダヤ人虐殺)を直接経験してはいない。父方の祖父はウクライナ出身だし、親族の中に犠牲者はいるかもしれませんが。

 

スピルバーグの両親、リアとアーノルドは離婚後もけっして険悪な関係ではなかったようだし(息子が映画監督として大成してから、彼とともに仲良く三人で写ってる映像もある)、晩年にはヨリを戻している。母リアは2017年に97歳で、父アーノルド(ちなみに『フェイブルマンズ』で主人公に付けられた“サミュエル”というのは、スピルバーグの父方の祖父の名前)は2020年に103歳で亡くなっていて、ふたりとも同世代の僕の祖父母よりよっぽど長生きしている。

 

ユダヤ系、という自らのアイデンティティについては少年時代にイジメに遭った経験からも思うところはあるだろうけど、彼自身の人生についてはその家庭環境も含めていろいろ“盛って”いるんですね。

 

父バート(ポール・ダノ)の仕事仲間のベニー(セス・ローゲン)と母ミッツィとの関係を示す証拠を自分が8ミリで撮影したフィルムの中からみつけてしまうくだりや、そのベニーが別れ際に高価なムーヴィーキャメラを餞別としてプレゼントしてくれる場面など、あの辺もどこまで史実なのだろう。

 

こんな場面あったっけ

 

そのような虚実皮膜を体現する存在としてサミーの大伯父ボリス(演じるのは『インデペンデンス・デイ』でジェフ・ゴールドブラムの父親役だったジャド・ハーシュ)が登場して、サミーを映画の世界にいざなう。

 

これもスピルバーグにほんとにあんな親戚のおじさんがいたのかどうかは知らないが、ボリスは元サーカス団員で、サイレント期のハリウッドで映画の仕事にたずさわっていた、と語る。

 

サミー、お前は俺やお前のお母さんのアーティストとしての血を引いているのだ、と。

 

あの場面では、ちょっと母方の祖父を思い出してグッときてしまった(いえ、僕は映画界とはなんの関係もないですが)。

 

どこか胡散臭さも漂わせているボリス大伯父は、サミー=スピルバーグを「映画史」に接続させる役割を果たしていて、これも今回のアカデミー賞で美術賞などにノミネートされながらも『フェイブルマンズ』同様に無冠に終わったデミアン・チャゼル監督の『バビロン』で描かれた時代と繋がっている。

 

『バビロン』についてはチャゼル監督の「ハリウッド映画史」への独りよがりな思い入れを冷笑する向きもあるけれど、でもそれぞれの映画制作の巧拙はあってもスピルバーグとデミアン・チャゼルとの間に映画との繋がりでいえば違いはないんですよね。

 

チャゼルが彼自身は体験しているはずもないサイレント期のハリウッドを描いたように、スピルバーグだって彼や両親が直接経験はしていないホロコーストを『シンドラーのリスト』の中で描いている(でも彼の父アーノルドはアメリカ軍兵士として太平洋戦線に参加しており、『プライベート・ライアン』で息子に協力している)。

 

『フェイブルマンズ』はスピルバーグの個人史をもとにしながらも、それを超えて「映画についての映画」になっているし、映画に出会って映画を愛するようになった少年が映画からも愛される姿を通して「映画を愛するすべての人々」に向けた作品になっている。その姿勢は、デミアン・チャゼルも変わらないんじゃないだろうか。

 

クエンティン・タランティーノ監督がハリウッドの負の歴史を描き換えた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に出演していたジュリア・バターズが、『フェイブルマンズ』ではサミーの眼鏡っ娘の妹を演じている。

 

自分も妹もしれっと美形化しちゃえるのも映画(^o^)

 

こうして別々のクリエイターたちが作った映画たちが結びついて「映画史」を形作っていく。

 

この映画を「イマイチ」だと感じた人の中には「母親のキャラクターが苦手」という意見がわりとあって、それは僕もちょっと思ったんだけど、でも劇中で妹が家族の離散を母のせいだとなじる場面はあるものの、サミーはどうしてもあの母を憎むことはできなくて、映画の中でもスピルバーグがなんとか母を悪者にしないように腐心しているのが伝わる。

 

 

 

なぜなら、あの母が持つ天真爛漫だったり芸術家肌な性質は自分も色濃く受け継いでいることを自覚しているから(スピルバーグもまた離婚経験がある)。

 

また、父親のことも同情的に描いていて、アーティストの母とエンジニアの父、両方の才能と困ったところも一緒に息子の自分の中にあるんですね。

 

この母と父から“スティーヴン・スピルバーグ”は出来上がったのだ、ということ。

 

これは映画讃歌であり、家族讃歌でもある。

 

 

 

家を出ていった母も、イジメっ子や母の浮気相手(ミッツィは「あなたが想像しているようなことはなかった」と語るが、結局はベニーと再婚する)も悪者にはせず、彼らにもそれぞれの人生があって善良だったり彼らなりの想いもあるのだ、というふうにまとめている。

 

ユニヴァーサルのスタジオで大監督ジョン・フォードと対面するラストでは、フォードはサミーに「地平線が下の画は面白い。上の画も面白い。真ん中だと死ぬほど退屈だ」と映画の極意を教える。

 

これも寓意に満ちた台詞でしたね。構図とかキャメラワークの話だけじゃなくて、どうやったら映画を「面白くできるか」。ものをどのように捉えてどんなふうに切り取るか。

 

そして、それは人生の捉え方にも繋がっている。自分の人生をどう「演出」して生きるか。

 

ジョン・フォード役の老俳優さんがなかなか味があって、誰だろう、デヴィッド・キャラダインに似てるけど彼はもう亡くなってるし…と思ってエンドクレジットで確認したら、なんとデヴィッド・リンチだった。

 

あぁぁ~(納得) どうりで声がデカかったわけだ(笑)

 

スピルバーグの映画の中にデヴィッド・リンチが闖入してくる奇妙さ、ラストショットのおかしみ。

 

この映画は何度も観るたびに新たに気づかされるものがありそうだし、語り尽くせぬ魅力が詰まった作品だと思います。

 

 

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