スティーヴン・スピルバーグ監督、タイ・シェリダン、オリヴィア・クック、リナ・ウェイス、森崎ウィン、フィリップ・ツァオ、T・J・ミラー、ハナ・ジョン=カーメン、サイモン・ペグ、ベン・メンデルソーン、マーク・ライランス出演の『レディ・プレイヤー1』。

 

原作はアーネスト・クラインの小説「ゲームウォーズ」。

 

音楽はアラン・シルヴェストリ。

 

 

Van Halen - Jump

2045年。苛酷な現実を忘れるために人々はVR空間「オアシス」にアヴァターとなって集い、中にはそこが現実の世界以上となっている者もいた。オアシスの創造者ジェームズ・ハリデー(マーク・ライランス)は亡くなる際に、ゲームの中に紛れ込ませた“イースターエッグ”を見つけ出した者に自ら作り上げたオアシスの相続権を譲る、という遺言を残す。スラムの集合住宅に住むウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)は、オアシスでアヴァター「パーシヴァル」を操って世界中の参加者“ガンター”たちとのイースターエッグの争奪戦に挑む。一方、巨大企業IOIの社長ソレント(ベン・メンデルソーン)はオアシスを手に入れるために大量の職員を動員して、ウェイドたちを追う。

 

スピルバーグが『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』と同時進行で作り上げたVFX超大作。

 

2016年の『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』以来のスピルバーグのファンタジー系映画ということで気になってました。

 

ただ、僕は予告篇を観ても意外にピンとこなかったんですよね。そもそもゲームというものを一切やらないのでそういう世界を描いた作品にさほどそそられないのと、またあとで述べますがここで描かれている未来の世界に目新しさを感じなかったから。ガンダムが映ってたりするけど、そういうアニメなどの日本のサブカルチャーについてのくすぐりにも若干警戒していた。

 

 

 

 

こういうの出せば喜ぶんだろ、っていう観客への媚びだったらイヤだなぁ、と。

 

それでもすでに観た人たちはこぞって褒めちぎってるし、スピルバーグの映画だからいずれにしろ観るつもりでしたが。

 

で、ようやく鑑賞。4DX日本語吹替版。

 

これまで4DXで映画を何本か観てるけど、いきなり4DXからというのは今回が初めて(※追記:すみません、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の時に最初から4DXで観てたの忘れてました^_^;)。

 

先週IMAXで観た『パシフィック・リム:アップライジング』や次に鑑賞する予定のマーヴェル・ヒーロー映画『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』などここんとこ立て続けに話題の大作が公開されていて何度も観る時間的金銭的余裕がないので、4DXで観るならこの作品が一番相応しいだろうと思ったから。

 

4DXは映像に合わせて座席が揺れたりミスト(霧)やスモーク、フラッシュ、香りの噴出などのエフェクトが加わるアトラクション仕様の上映形態で、僕が観るのはこれで6本目。

 

去年の正月に観た『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』以来1年ぶりで、場所も離れてて時間とお金もかかるからなかなか観る機会がなくて毎回貴重な体験なんですが、料金がまた値上がりしていた(3D眼鏡代込みで¥3,250)^_^; …勘弁してほしいなぁ。まぁ、たまの遊園地気分なんで奮発しましたが。

 

結果的には4DXで観てよかったですけどね。というか、4DXで観てこその作品だとも思った。『レディ・プレイヤー1』の内容そのものがヴァーチャル・リアリティを描いたものだから。

 

大きなスクリーンで観るべき映画なのは間違いない。

 

親をなくし、同居するおばから邪険に扱われて居場所のない少年が充実感を得られるのは仮想現実「オアシス」の中だけ。そこで繰り広げられる冒険を通してやがて本当の自分の居場所を見つけ、仲間や大切な人との出会いを経験していく。そういう物語には共感を覚えるし、スピルバーグはこれまでにも孤独な少年を描いてきた人だから、きっと評判通りの素晴らしいファンタジー映画なのだろうと期待していました。

 

そして、僕がもし小中学生ぐらいだったらきっとこの映画は大好きな「想い出の作品」になっただろうと思う。

 

だって自分が知ってるいろんな映画やアメコミヒーロー、アニメ、ゲームのキャラクターたちが大挙して登場して主人公とともに戦うなんて、そりゃ興奮するだろうから。

 

最高のゴールデンウィーク映画になったんじゃないだろうか。

 

なので、この映画を愛してやまない人たちがいるのはわかります。『アップライジング』がそうだったように、あるいはおそらく『インフィニティ・ウォー』と同様に、映画が特別な“イヴェント”だった頃のワクワク感を思い出させてくれる。

 

音楽はてっきりジョン・ウィリアムズかと思っていたら、途中で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の曲も流れたりしていて、エンドクレジット確認したらアラン・シルヴェストリでした。わざわざジョン・ウィリアムズっぽい曲作ったんだな。巧いw

 

で、観終わってその映画館のあるアミューズメントパークをあとにしながら、待ちに待ったイヴェントを終えた疲労感はあったけど、ほんとに満足できたのかといったらなんとなく虚しさも感じていたんですよね。期待していたほどエモーショナルに心を揺さぶられたり感激して涙ぐんだりするようなことはなかった。わりと冷静な自分がいたのです。

 

かつてパシフィック・リム』の1作目や『ゼロ・グラビティ』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観終わった時のような「うわぁ~(´;ω;`)ブワッ」っていう高揚感はなかった。

 

なので、以降もテンションは低めというか、むしろ批判的に書いていくので人によってはイラッとする文章が続くかもしれません。ご了承ください。

 

それからネタバレについては知らずに観た方がより楽しめるでしょうから、これからご覧になるかたは映画の鑑賞後にお読みになられた方がいいと思います。

 

 

何か最初から「イマイチだった」みたいな書き方で恐縮ですが、僕が酷評した『パシフィック・リム:アップライジング』と同じように映像的な見どころはたくさんあって「面白かった!」と褒めてる人たちは多いので、あくまでもこれは僕個人の意見です。

 

物心ついた子どもの時からずっと作品を観続けてきたあのスピルバーグだからこそ、期待のハードルが他の監督たちよりもさらに上がってしまうんだけど、この映画で語られるストーリーそのものは先ほどあらすじを述べたように非常にシンプルで、ぶっちゃけよくあるっちゃよくある話。

 

ただそれがスピルバーグの手によって映像化されることでさらに大きな意味を持つ。この映画の存在価値は作品の出来以上に、監督がスピルバーグだから、というところに多くを負っていると思います。

 

ではこの映画の中に目を見張るような新しい未来観や映像表現があったかというと、僕はそうは感じませんでした。予告篇の時点で、ずいぶんと古めかしい未来だなぁ、と思ったほどで。

 

 

 

 

スピルバーグが映画の中で描く未来って、『A.I.』や『マイノリティ・リポート』の頃からテクノロジーやその未来像がさほど進歩してるように感じられないんですよね。そしてそれは僕にはあまり魅力的には見えないのです。

 

この『レディ・プレイヤー1』は1980~90年代のサブカルのアイコンをたくさん登場させているから作品世界そのものがどこか懐かしい雰囲気を“敢えて”とっているのはわかるんだけど、ウェイドやサマンサたちがいる現実の2045年の世界の表現ももうだいぶ昔の「未来のイメージ」っぽくて、驚きも新鮮さもない。

 

ウェイドやサマンサたちが操るアヴァターのデザインが、『シュガー・ラッシュ』のようにアニメ的な可愛くデフォルメされたキャラにも写実的で本物の人間のような造形にも振り切れてなくて、どっちつかずなために愛着が湧きづらい、というのもある(ひと頃ロバート・ゼメキスが撮っていたCG製のモーションキャプチャー映画を思わせる)。

 

 

 

 

三船敏郎の顔をしたサムライ「ダイトウ」はなんかかっこよかったし、彼らアヴァターの“気持ち悪さ”は映画を観てるうちに慣れてはくるけど、本当にそこに存在しているような実在感はなくて全部「絵」なのがわかるので、映画の半分はアニメを観ている感覚で。

 

これも現実の世界とオアシスの内部の表現に映像的な差をつけることで両者を視覚的に区別してるんでしょうが、くどいけど世界中の人々が夢中になるほどの没入感を覚えることはなかった。

 

まぁ、『ブレードランナー』ばりのこれまで映像化されていなかった新しい未来像やその発展系でもある『マトリックス』のVFXの見せ方のような、その後の映画に大きな影響を与えたり表現のあり方を変えてしまった作品の数はある程度限られるから、この映画にそこまで期待するのはかなり無理な要求ではありますが。

 

その役割を担うべきなのは、もっと若い監督たちのはずだし。

 

この映画の中でのハリデーというのは世界中の人々から神格化された、要するに神のような存在だから、これはそんな神様のような人物から見た世界が描かれている。

 

もちろん、ゲームやヴァーチャル世界のカリスマであるハリデーが映画界の巨匠“スティーヴン・スピルバーグ”その人をイメージして創られていることは言うまでもない。

 

 

 

そこは非常に感動的でありながらも、僕がどこかこの映画にのめり込めずに冷静な目で観てしまったのは、そういう「神の視点」で描かれた「おたく」たちの姿に深く感情移入するまでに至らなかったからかもしれない。

 

主人公や仲間たちもティーンエイジャーではあるけれど、映画自体は老人の視点から孫ぐらいの子どもたちを描いているような感じがするんですよね。

 

ということで、これはかつて『ジュラシック・パーク』で実際に映画の進化の歴史を変えてしまった、映画界を牽引していた頃のスピルバーグではなくて、この映画の中でマーク・ライランスが演じたハリデーのような伝説的な人物としてスピルバーグが若者たちに残した「おじいちゃんの知恵袋」みたいな作品なのだな、と。

 

おじいちゃんが自分が若かった頃をちょっと思い出しながら、若者たちに「ゲームもいいけど、一週間に2日は休んでリアルに人と会ったりゆったりとした時間を過ごしなさい」とアドヴァイスしてる映画なんだな、これは。

 

だからどうしたってそれはちょうど山田洋次が描く若者みたいにリアリティが希薄な、おじいちゃんが考えた若者像として映る。

 

E.T.』ではスピルバーグは主人公の少年エリオットの視点で映画を撮っていた。だから観客もエリオットの身になって父親のいない生活やE.T.との出会いと別れを体験できたんだよね。

 

そういう生身の感覚が『レディ・プレイヤー1』では弱くて(一応、ウェイドのツラい境遇は描かれてはいるが)、だから少年の成長物語として我が事のように胸に迫ってこないのだ。

 

リアルタイムで『E.T.』を観た時から僕自身が歳を重ねて変化しているから、この『レディ・プレイヤー1』を子どもの頃に観ていたらどう感じたのかはわからないけれど。

 

人によっては子どもたちを見守る親御さんや祖父母の立場からこの映画を観るかたもいらっしゃるかもしれませんね。そこにはまた別のリアリティがあるのかもしれない。

 

でも単純に、「オアシス」の内部での描写がアヴァターたちも含めていかにもCGで描かれたように僕には見えるので、ずっと観てると飽きちゃうんです。

 

キングコングやティラノサウルスに追っかけられるくだりとか迫力あったし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムマシン“デロリアン”の雄姿にグッときたり、アイアン・ジャイアントの活躍に胸が熱くもなりましたが。

 

 

 

 

 

 

だけど、この世界にずっと浸っていたいとは思わなかった。ゲームの画面を見ているようで。いや、ゲームなんだけども。世界中の人々が夢中になってオアシスに入り浸っている、という設定に説得力を感じられなかった。

 

たとえば、かつてジェームズ・キャメロン監督の『アバター』(もう10年近く前になるんだなぁ)が公開された時に、嘘かほんとか知らないけれど、劇中の衛星パンドラの風景があまりに本物のようで魅惑的だったので現実の世界に帰りたくなくなる人々が続出した「アバター鬱(うつ)」がニュースになったけど、そういう中毒になるほどのリアリティはオアシスにはなかったと思う。

 

そこはやはり、かつて『ジュラパ』でまるで本当に生きた恐竜がスクリーンの中にいるように錯覚させてくれたスピルバーグに映像の力で圧倒させてほしかった。

 

そのように観客を熱狂させてこそ、それでもVRよりもリアルな世界は大切なんだ、という最後のハリデーの言葉が僕たちの胸に刺さり、生きている実感を得ることの素晴らしさにあらためて気づかされるのだろうから。

 

子どもの頃、大好きなアニメが終わってしまうのが悲しくてしかたがなかったように、オアシスから現実に戻る時の、あれは「幻」なんだという切なさみたいなものが感じられたらよかったなぁ。

 

アヴァター「アルテミス」を操るサマンサは顔に痣があって、ウェイドと現実で初めて会った時に彼は「それぐらいで僕が気にすると思う?」みたいなこと言うんだけど、サマンサを演じるオリヴィア・クックはどう見たって美人で彼女のアヴァターよりもよっぽど魅力的だから、そりゃこんな子に出会えれば“ジャンプ”もしようと思えるよね、と。

 

もしも彼女が不美人の巨漢だったら、それでもウェイドは彼女のことを好きになってキスしたか?と疑問に思うんですよ。

 

 

 

 

そういうところにこそ、この手の物語の真の残酷さがあるんじゃないのかな。

 

自分の容姿に自信がない、という描写にまったく説得力がないんだよね。ウェイドだって普通にイケメンだし。オアシスの中で「現実の世界で会いたい」と言うウェイドにサマンサが「本当の私を知らないくせに」と答えるけれど、あのやりとりの痛みが伝わらないんですよ。会ったってなんの問題もないでしょ、と。

 

ウェイドは最初から充分現実でも生きていけるたくましさを持っているし、だから彼らがオアシスに逃げ込まなければならない切迫感もあまり感じられないんですね。

 

確かにウェイドは孤独で居場所がなく身近に友人もいないし、サマンサは荒廃した世界を変えるためにオアシスに潜っている、という設定ではあるんだけれど、そこに「あぁ、これって俺のことだ」という親近感やそれゆえの苦さみたいなものはないから、なんとなくすべてが予定調和に感じられてしまう。

 

オアシスでは仲が良くて頼れる友人だがリアルで会ったことがない「エイチ」が実はアフリカ系の女性(リナ・ウェイス)だった、というあたりはインターネット上での知り合いに初めて会った時みたいだし、日系や中国系の仲間たちの存在にもスピルバーグはちゃんと意味を持たせている。

 

 

 

 

 

だから現実の世界を描いたシーンすべてにリアリティがない、と言ってるわけじゃないですけどね。ちょっと『グーニーズ』みたいな80年代っぽいノリで懐かしかったし。

 

ソレントがおたく社員からイヤホンでジョン・ヒューズの映画についての知識をカンニングしてウェイドに同好の士だと思わせようとするが彼がそれを見破るシーンは、知識の有無によって仲間か否かを判断する「おたく」の生態が描かれていて、いかにもって感じだった。

 

サマンサとウェイドがオアシスの中で『バカルー・バンザイ』のコスチュームのことで盛り上がってましたが、おたく同士が趣味が合うかどうかを確かめ合うのはわかるんだけど、一方で僕は知識量で互いにマウンティングし合うような行為が嫌いなので、この映画の中でしばしば行なわれるおたくたちの内輪ウケっぽい薀蓄の垂れ合いにちょっとイライラしたりした。

 

映画が好きかどうかは知識の量とは関係がないと思うから。

 

僕は原作小説を読んでいないので映画版がどこまでそれに忠実でどのあたりを改変しているのか知りませんが、おそらく原作の方がさらにマニアックなんでしょう。おたくたちが喜ぶアイテムがもっと出てくるんだろうと思う。

 

そういう「わかる奴だけわかればいい」「わからない奴は置いてけぼり」っていう姿勢が嫌なんだよな。

 

スピルバーグはそういうおたくのダメなところをダダ洩れにはしない人だから、だいぶセーヴしたんだろう。時々丁寧に説明が入るし。

 

一方でオアシスとはまさしく僕たちが今もこうやってログインして繋がっているインターネットの世界の比喩でもあって、だからリアルな世界とオアシスが僕たちの中でこれからも共存していくんだ、というこの映画のラストには、スピルバーグからの「今」を力強く肯定していく明るさと未来への信頼も感じられて、あとからじわじわくるものもある。

 

この映画は何度も繰り返し観て、その細かい描き込みやそこに込められた作り手の想いに気づいていく映画なのかもしれません。

 

原作者のアーネスト・クラインは1972年生まれで、きっと『インディ・ジョーンズ』や『ジュラシック・パーク』あたりを夢中になって観ていたんだろうし、ガンダムやメカゴジラもスピルバーグというよりも原作者のこだわりなんだろうと思う。ほんとはウルトラマンも出したかったそうだから(「ダイトウ」が“変身”できるのが3分間、というのはその名残り)。

 

なので、別に日本人の観客を喜ばすために出したんじゃなくて、ほんとに好きだから描いたのだろうことはわかりました。

 

“ガンダム対メカゴジラ”の戦いをハリウッド映画で観られるなんて、好きな人にとっては夢のような時間だろうし。

 

ガンダムとメカゴジラの身長差をちゃんと描き分けていたのはなかなかよかったですね。

 

 

 

でもまぁ、さらに憎まれ口を叩くと、ハリウッドの最新VFXで描いた映像がこれか…という正直ちょっとしたガッカリ感があったことも否定できませんが。

 

だってやっぱりいかにもCGにしか見えないんだもんなぁ^_^;

 

以前見た実物大のお台場ガンダムの方が僕は感動しましたよ。せめてカップヌードルのCMぐらいの本物っぽさを見せてもらいたかった。なんとも贅沢な望みですが。

 

 

 

でもなんだかんだ言ってメカ同士の戦いは燃えたけどね。ビームサーベル振り回してて。最後は時間切れで萎んでた。

 

メカゴジラのデザインがどーのこーのと文句垂れてる人もいるけど、メカゴジラを完全な悪役として描いていたことに僕は好感を持ちましたね。昭和のゴジラ世代なんで。

 

アイアン・ジャイアントは最後に『ターミネーター2』のシュワちゃんみたいに親指立てて溶岩の中に消えてくところがなかなか泣けましたな。

 

観る前に『gifted/ギフテッド』で数学の天才少女を演じていた子役のマッケナ・グレイスちゃんが出演すると知って、てっきり『宇宙戦争』のダコタ・ファニングみたいに主要キャラだとばかり思ってたら、冒頭の場面でハリデーの死を知って泣いている子の役で一瞬だけの出演でした。今後に期待!

 

宇宙人ポール』でスピルバーグ本人とニアミスしていたサイモン・ペグが、この映画ではスピルバーグの分身といえるハリデーの友人で仕事仲間だったオグデン・モロー役で出演(吹き替えは山寺宏一)。

 

 

 

 

この人はほんとにいつもおいしいところ持っていくよねw

 

IOI社長ソレント役のベン・メンデルソーンは、『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』では英国王を演じていたのにまたしても悪役に逆戻り。

 

 

ソレントのアヴァターは、悪いクラーク・ケント

 

『ローグ・ワン』ではベイダー卿に首絞められてましたが、今回はなんかあの時と同じような溶岩が流れるお城みたいなとこにいた。

 

この人の悪役演技はほんとに安定感があっていいですね。上からのプレッシャーに苦しむ中間管理職がよく似合うw 今回は社長役だけどラスボスじゃなくて、ソレントがあれほど必死になってウェイドたちを追うのは、役員たちの前での様子を見てもわかるようにしくじればすぐに自分のクビが飛ぶからだろう。

 

僕は日本語吹替版を観たんですが、『ローグ・ワン』でダース・ベイダーの声をアテていた楠大典さんがこの『レディプレ』ではソレントの声をアテていて、「一人スター・ウォーズ」みたいな感じで可笑しかったです。

 

ベン・メンデルソーンってちょっと顔がサム・ロックウェルに似てる気がするんですよね。同じ系統の顔というか。さらにそこにゲイリー・オールドマンを加えると3人兄弟の役ができそう。

 

ソレントはウェイドを亡き者にしようとして結果的にウェイドのおばさん(スーザン・リンチ)とそのろくでなしの恋人(『ウィッチ』のラルフ・アイネソン。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』繋がりで吹き替えを玄田哲章が担当。出番は短い)を殺すことに。でも最後にソレントは退治されて殺されるのではなくて、部下のフナーレ(ハナ・ジョン=カーメン)とともに警察に逮捕されるだけ、というのも、やはり悪役が最後に死ななかった『BFG』を思い出させる。

 

子どもの観客を意識してのことだろうけど、このあたりもなんかおじいちゃんっぽい。

 

スピルバーグはハリソン・フォードと一緒にインディ・ジョーンズの第5弾を作る予定だそうだから、そこでは思いっきり残酷描写をやっていただきたいですが(でも4作目のことを考えるとあまりそのへんは期待できないか)。

 

ちなみに、『BFG』でも主役を演じて『ブリッジ・オブ・スパイ』からスピルバーグ作品は3度目の出演になるマーク・ライランスは目許が優しいおじいちゃんみたいな俳優さんだけど、意外と若くてまだ50代。スピルバーグの方が10歳以上年上。

 

ライランスのあの好々爺っぽい雰囲気にスピルバーグが自分のイメージを重ねているようで、ちょっと面白い。

 

なるほど、スピルバーグは自分が人々からこういうふうに見られている、と考えているのか、あるいはこのように見られたいと思っているのだろうか、と。

 

もっとも死ぬまで独り身だったハリデーと違って、スピルバーグはこれまでに2回結婚しているし子どももいるんだけど。

 

…とりとめなさ過ぎてだんだん収拾がつかなくなってきたのでそろそろ終わりにしますが、この映画を観終わって、いつかはスピルバーグがいなくなる世界が来るんだ、ということをふと考えたりしました。

 

この映画は、僕たちにスピルバーグが残した遺言なのかもしれないな、って。

 

今月初めには高畑勲監督が亡くなられたし、ずっとその作品に触れてきたクリエイターがいずれは必ず僕たちの前から立ち去っていくのだということ(その前に俺が先にくたばる可能性もあるが…)を意識した。

 

だからいつかそういう日が来て再びこの映画を観たら、僕は胸が詰まって泣くかもしれない。

 

 

なるほどー、と思った論考

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