スティーヴン・スピルバーグ監督、メリル・ストリープ、トム・ハンクス、ボブ・オデンカーク、マシュー・リス、サラ・ポールソン、ジェシー・プレモンス、ブラッドリー・ウィットフォード、キャリー・クーン、マイケル・スタールバーグ、ブルース・グリーンウッド出演の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』。2017年作品。
1971年。かつてランド研究所に勤務していたダニエル・エルズバーグ(マシュー・リス)は、自らも執筆に加わったアメリカのヴェトナム戦争における勝利を疑問視する非公開の政府報告書「ペンタゴン・ペーパーズ(国防総省機密文書)」を密かにコピーしてその一部をニューヨーク・タイムズ紙のニール・シーハン記者(ジャスティン・スウェイン)に送り、ただちに新聞で報道される。リチャード・ニクソン大統領は情報漏洩で訴訟を起こす。タイムズ紙のライヴァル紙であるワシントン・ポスト紙の編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、ポスト紙の存続や関係者への影響を懸念する発行人のキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)に憲法修正第1条で保障される「報道の自由」を守るためにも「ペンタゴン・ペーパーズ」の掲載に踏み切ることを主張する。
史実に基づき、スピルバーグがトランプ政権に向けて作った映画。
映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いて興味を持ちました。アカデミー賞の作品賞と主演女優賞にノミネートされたのも記憶に新しいところ。
負ける確率がきわめて高いヴェトナム戦争を続行し多くの若者たちを戦場に送った政府の嘘が暴かれる過程、それを阻止しようと圧力をかけるニクソン。
どうしたってこれは現在のアメリカ、そして僕たちが住むこの日本の姿を重ねずにはいられない。
正直なところ、不勉強もいいところの僕(恥ずかしながら『大統領の陰謀』も未見)はこの映画が始まってしばらくは内容についていけず、トム・ハンクス演じるベン・ブラッドリーとメリル・ストリープ演じるキャサリン・グラハムの会話も一体何を話しているのかよく理解できなくて頭の中がグルグルしていた。
加えてスピルバーグがしばしば作品の中で用いるヤヌス・カミンスキーの撮影による色褪せた映像が僕は苦手で、視覚的にも見づらいうえに内容が頭に入ってこないからかなり苦痛で。
それでもしばらく我慢しながら観続けていると、バカなりになんとなく話が見えてきました。
ハリー・トルーマンの時代から30年に渡って政府が国民に対してつき続けていた嘘、それを隠蔽しようとメディアに圧力をかけている現職大統領。
ここでワシントン・ポストの社主であるキャサリンや彼女の下で働く新聞記者たちは、選択を迫られる。
国家権力の名の下に行なわれる“検閲”に屈するのか、それとも逮捕や新聞社の存続の危機というリスクを負って真実を白日の下に晒して闘うか。
それはまさに今メディアに問われていることだし、僕たち国民一人ひとりへのメッセージでもある。
私たちは何を信じるべきか。そして何を貫くべきなのか。
「国民は大統領個人が国を統治することを望んでいない」という劇中の台詞は、“大統領”を“首相”に替えればそのまま日本のことになる。
国は大統領や首相の所有物ではないし、国民は政府のために存在しているのでもない。
また、新聞記者やマスメディアが仕えるのは国民であって、政府や権力者ではない。
当たり前のことだが、それがなおざりにされて忘れられている。
中には本気で国民は政府や首相に無条件に従うのが当然だと信じている奴隷根性丸出しの人間たちもいるようで。そういう輩こそ「民主主義」というものについて1からしっかりと学び直すべきだ。
そして、その民主主義の基礎となるものが「憲法」だということ。
『リンカーン』や『ブリッジ・オブ・スパイ』でもそうだったように、スピルバーグは映画の中で憲法の重要さを説く。この『ペンタゴン・ペーパーズ』では憲法修正第1条の「報道の自由」をめぐる闘いを描いている。
『ブリッジ~』の感想にも書いたように、憲法がないがしろにされれば、国民の権利も、国民であることさえもが危うくなる。だから守らなければならない。為政者にたやすく変えさせたり、そこに記された国民の権利を侵害させてはならない。
日本では何やら勘違いしている人間たちがいるようだが、デモをすることも国民の権利だ。その権利を政府が暴力で押さえ込もうとするのは「独裁」である。
新聞に不都合なことを書かれたから圧力をかけるのも、TV局に自分たちに都合のいいニュースだけ流させるのも法律に反している。もちろん三権分立を無視して司法に口を出し、首相や政府の「意向」をゴリ押しするのも違法。
しかし、そのような常識、守られるべき法律が今どんどん権力者たちによって破られている。民主主義が脅かされている。
公文書の改竄(ざん)とその隠蔽。
まさしくこの映画で描かれているようなことが今、日本でも次々と明るみに出てきている。
「もっと強気で行け PM(※Prime Minister:首相の意)より。」というメモ。「首相案件」発言。
これらが事実であれば、かつての日本だったら政権が吹っ飛んでもおかしくないはずだが…。
『ペンタゴン・ペーパーズ』では司法が大統領側からの圧力に屈せずまっとうな判決を下し、またのちの「ウォーターゲート事件」によって大統領は辞任に追い込まれたが、今の日本でそのようなことは可能だろうか。果たして三権分立は正常に機能しているといえるのか。
今、日本を覆っている問題は、僕たちに「民主主義」というものの本質を真っ向から問いかけている。
とても重要なことを描いているし、特にポスト紙の記者ベン・バグディキアン(ボブ・オデンカーク)が元同僚のダニエル・エルズバーグにコンタクトを取って「ペンタゴン・ペーパーズ」のコピーを入手するあたりからどんどん引き込まれていく見応えのある映画でしたが、主要登場人物の一人であるキャサリン・グラハムについて詳しくは描かれないので(娘とのやりとりとかマクナマラとの交友関係などで説明はされるが)、彼女の人物像がどこかボンヤリしているために、最終的に「ペンタゴン・ペーパーズ」の掲載を決断する時の心境の変化がちょっと読み取りにくいところはある。
グラハムの自伝に書かれているという自己顕示欲の強い母親や浮気して鬱病で自殺した夫との関係などが描かれていれば、より彼女の気持ちを理解しやすかったんじゃないかと。
ただ、この映画ではどちらかといえばキャサリン・グラハムよりも彼女の下で働くベン・ブラッドリーの立場から物語が進んでいくので、そういう意味では描くべきところをうまいこと取捨選択していたかもしれないですが。
またスピルバーグは史実を描きつつ、彼が考える「こうあってほしいアメリカの姿」を描いているのだ、ともいえる。
現実の厳しさ、汚さを扱いながらも理想も捨てない。けっして絶望では終わらない。それがスピルバーグの一貫した姿勢なのだ。
僕が苦手なザラついた映像も含めて、70年代に作られた映画のルックを模したような撮影、長めのモミアゲや薄毛の長髪の男性みたいな当時の髪型、服装、美男美女ではない普通の顔立ちの登場人物たちなど、1970年代の再現ぶりが楽しい。
まぁ、メリル・ストリープとトム・ハンクスだけは時代を超越してますがw
地味な外見の人ばかりが出てきたり派手な大立ち回りなどない、これまた抑え目の映像が続くんだけど、新聞記者たちが奮起して原稿をまとめ上げ、朱(修正)が入ってそれが写植に回されて輪転機が稼動して新聞が刷り上っていく工程の描写はエキサイティングで燃える。
この描写一つとっても、スピルバーグが新聞というものを“希望”として捉えているのがよくわかる。
記者や各新聞社の代表者たちも実に頼もしい。
もっとも、あるかたの感想に「メディアもまた権力になり得ることを忘れてはならない」というようなことが書かれていて、それはその通りだなぁ、と思いました。
この映画の中では新聞記者たちは自由を抑圧する政府に対して国民の側に立って闘うが、かつての日本で新聞がこぞって軍部を後押しするようにして国を戦争に駆り立てていったことを思うと、マスメディアもまた人々を戦場に送ったり無実の者に犯罪者の汚名を着せて誤った断罪を行なう危険もあるのだということを肝に銘じておきたい。
僕たち国民は政府や為政者と同様に、マスメディアに対しても監視していかなくてはならない。
国民が権力によって監視されるのではなく、国民が権力を監視していく社会。
そこでは一人ひとりの判断に責任が伴う。政治を政治家に丸投げしとけばよいのではなくて、その政治家たちが正しい政治を行なっているのかどうか、僕たちがこの目で見極めなければならない。
政治家が国民をバカと見做して人々の生活をないがしろにするようなデタラメな行政をしているのなら、僕たちはそいつらを引きずり降ろして他の相応しい人間を選ばなければならない。それが僕たちの果たすべき役割だ。
さて、『ペンタゴン・ペーパーズ』を観ていて僕はちょっと別の映画を思い出していました。
それは1994年(日本公開1995年)のロバート・ゼメキス監督による『フォレスト・ガンプ/一期一会』。主人公のフォレスト・ガンプを演じていたのはトム・ハンクス。
『フォレスト・ガンプ』 出演:ロビン・ライト サリー・フィールド ゲイリー・シニーズ マイケルティ・ウィリアムソン
『フォレスト・ガンプ』はアメリカ南部育ちでママとアップルパイと子どもの頃に出会った女の子ジェニーを愛する主人公フォレストがたどるアメリカの歴史を描いたファンタスティックな“ほら話”系の映画でした。
この映画でフォレストはヴェトナム戦争に従軍し、そこで立てた軍功によってリンドン・ジョンソン大統領から勲章を授与される。
この場面は実際の映像とフォレストが合成されて、トム・ハンクスはジョンソンと“共演”している。
『ペンタゴン・ペーパーズ』の冒頭でヴェトナム戦争の戦場を視察したダニエル・エルズバーグはマクナマラ国防長官(ブルース・グリーンウッド)に芳しくない戦況を報告するが、アメリカに不利な事実は伏せられ、ジョンソン大統領はマクナマラの進言に耳を貸さずに戦争は泥沼化していく。
そしてニクソンが大統領の時にニューヨーク・タイムズによって機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」がすっぱ抜かれるわけだが、そこでワシントン・ポスト紙の編集主幹ベン・ブラッドリーを演じて他の新聞社たちとともに政府の嘘を暴きたてているのが、かつてジョンソン大統領に勲章をもらっていたフォレスト・ガンプ役のトム・ハンクス、というのが、何かもう狙ってるかのようで可笑しい。
またフォレスト・ガンプはニクソンとも“共演”している。中国との“卓球外交”を評価されてのこと。
そのニクソンが『ペンタゴン・ペーパーズ』では悪の親玉として後ろ姿で登場。劇中でニクソンの肉声らしき音声も流れる。
『フォレスト・ガンプ』では、ニクソンの手配によって「ウォーターゲート・ホテル」に泊まっていたフォレストは、夜に「隣のビルの懐中電灯の光が眩しい」とフロントに電話する。その窓の外の光景が『ペンタゴン・ペーパーズ』のラストそのまんま。
『フォレスト・ガンプ』の監督のロバート・ゼメキスは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でもそうだったように1950年代をアメリカの理想的な時代と考えているようで、50年代に少年期を過ごしたフォレスト・ガンプをピュアでイノセントな「聖なる愚者」として描く一方で、彼が愛するジェニーを60~70年代に公民権運動やヴェトナム反戦運動に揺れる「病めるアメリカ」の象徴のように描いている。
放蕩生活に疲れたジェニーは故郷のアラバマに帰り、フォレストの子どもを宿して姿を消し、やがて再び彼に逢うと病気のため息を引き取る。
フォレストの愛した南部では黒人差別もなく、すべてが健全で美しく懐かしい。
しかし、スピルバーグが撮ったこの『ペンタゴン・ペーパーズ』では、フォレスト・ガンプが象徴する「古きよきアメリカ」が嘘で固められたまやかしであったことが暴露される。
ロバート・ゼメキスが愛する50年代には、すでにアメリカ政府は国民に多くの嘘をついていた。
スピルバーグは80年代にゼメキスと組んで何本もの映画を作ってきたし、その関係は今でも切れてはいないのだろうけれど、両者のアメリカの歴史を見つめる目はずいぶんと異なるようだ。
また、トム・ハンクスも最近はスピルバーグと組んでかつて『フォレスト・ガンプ』で演じた聖なる愚者フォレストとは違う、むしろアンチ・フォレスト・ガンプ的なキャラクターを演じている。
言われるままにヴェトナム戦争に参加して勲章をもらい、言われるままに中国で卓球したり、自分の政治的信条は一切口にせず、アメリカの白人たちにとってひたすら都合のよい「無害」な聖者のような存在として描かれていたフォレスト・ガンプと違って、『ブリッジ・オブ・スパイ』の主人公も『ペンタゴン・ペーパーズ』の主人公も、自分の頭でものを考えて自己主張し、抑圧的な体制に対して国民の権利を守るために闘いを挑む。
トム・ハンクス本人は、自分がかつてフォレスト・ガンプというキャラクターを演じたことについてどう思っているのか、ちょっと気になる。
『フォレスト・ガンプ』の中でフォレストはしばしば人々から「お前はバカなのか?」と尋ねられて、そのたびに「バカをする者がバカです」と答える。
僕は、現実を見ようとせずに過ちを繰り返す者のことをバカというんだと思います。
国民にバカであり続けるように求める狂った政府を野放しにして黙ってその尻拭いをさせられるか、それとも異議を唱えて間違いを正すか。選択の日は近づいている。
『大統領の陰謀』も観たいなぁ(追記:観ました)。
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