スティーヴン・スピルバーグ監督、トム・ハンクスマーク・ライランススコット・シェパードエイミー・ライアンオースティン・ストウェルウィル・ロジャース出演の『ブリッジ・オブ・スパイ』。2015年作品。

脚本はマット・シャルマンとジョエル&イーサンのコーエン兄弟



米ソ冷戦下の1957年、ソヴィエト連邦のスパイ、ルドルフ・アベル(マーク・ライランス)がFBIに逮捕される。保険担当の弁護士ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)はアベルの弁護を依頼される。敵国のスパイを弁護するドノヴァンは一部の人々から非難され家族の身にも危険が及ぶが、信念に従い憲法に基づいて民主主義を守るべく奮闘する。


前作『リンカーン』から3年ぶりのスピルバーグの最新作。

実話を基にした物語。

予告篇を観るとずいぶんと地味めな作品だったのと、正直なところあまり政治的な映画はシンドそうなので最初は観る気が起こらなかったんですが、ちまたでの評判がいいので(人の評価に弱い^_^;)観てきました。

確かに画的にはかなり地味な話でしたが、とても見応えのある作品でした。

そしてこれは今こそ作る意味、観る意義のある映画だと思った。

現実の世界の実在したスパイが描かれている、ということではちょうど『裏切りのサーカス』みたいなリアリティがあるのだけれど、この映画はあれよりもっと地味で、派手な銃撃戦や爆発はもちろんのこと拷問シーンもない。ロングショットで人が銃で撃たれる場面が一ヵ所あるだけ。

この映画と007映画を続けて観ると、現実のスパイとフィクションの中のスパイアクションの違いが実感できて面白いんじゃないでしょうかw

といっても、トム・ハンクス演じる主人公のドノヴァンはスパイではなく、アメリカとソ連でそれぞれ捕らえられたスパイたちを交換する任務に着く民間(第二次大戦中には諜報部にいた)の弁護士。

彼が複雑な理由からアメリカが表立って行なえない交渉にあたる。

しかし、ことはアメリカとソ連の二国間の話かと思えば、そこにさらに「東ドイツ」という存在が関わってくる。

僕は歴史、それも近現代史には全然詳しくなくて、たとえばかつてあった東ドイツが当時アメリカから主権国家として認められていなかったことも恥ずかしながらこの映画で初めて知りました。

まぁ、同じく分断国家である北朝鮮を思い浮かべれば理解はできるんですが。

1957年といえばソ連が世界初の人工衛星を打ち上げた年。アニメーション映画『アイアン・ジャイアント』の舞台となった年でもある。

また、この映画で描かれる「U-2撃墜事件」(1960)、“ベルリンの壁”の建設(1961)などは、以前NHKの番組でその顛末について語られたり実際の映像が流されていた。

東西ドイツの境界線の東ドイツの建物の窓から西ドイツ側に向けて女性が飛び降りて下にいる人々が受け止めたり、鉄柵を越えて西ドイツに逃れようとする人々の映像が映画の中で再現されている。

その後、90年代に米ソの冷戦は終結したが、国境を越えて亡命しようとする人々の姿にさまざまなことを連想するように、これは単に過去の歴史のお話ではなくて現在の世界の状況に重なる事柄なんですよね。

観客のほとんどは中高年の人たちだったし、確かに若いカップルがデートで観にくるタイプの映画ではないですが、「なんかよーわからん難しい映画」ではなくて、今こそ観ておくべきものなのではないかと。

とても大切なことを訴えかけているから。

歴史のお勉強というだけでなく、トム・ハンクスの静かな熱演、そしてさらなる円熟味を増したスピルバーグの映画監督としての手腕を堪能できるでしょう。

史実だしネタバレしたら楽しめない作品というわけではないですが、一応サスペンス物でもあるので未見のかたはこれ以降はご注意ください。



トム・ハンクスの単独主演映画を観るのは2013年の『キャプテン・フィリップス』以来。その後、ウォルト・ディズニー役でエマ・トンプソンと共演した『ウォルト・ディズニーの約束』を観てますが。

この映画は作品賞を始め今年度アカデミー賞の5部門にノミネートされていて、出演者ではソ連のスパイ、アベル役のマーク・ライランスが助演男優賞にノミネートされている。

このマーク・ライランスさん、結構いいお年に見えるけど1960年生まれの55歳で実はトム・ハンクス(56年生まれ)よりも若い。

 




背はそんなに高くないし髪も薄くて眼鏡かけると一見普通のおじいちゃんなんだけど、よく見ると目元の涼しいイケメン(ちょっとミッキー・カーチス似)なんだよね。

アベルは映画の中ではほんとにどこにでもいそうな初老の男で、人混みにまぎれるとまわりに溶け込んでしまってFBIの捜査官でも見失ってしまうぐらい目立たない。

でもスパイ。

むしろ目立たないからこそスパイとしての活動が可能になる(目立ちまくりなタキシード姿のどっかのスーパースパイとは大違いw)。

絵描きを装いながら硬貨の中に隠されたソ連からのメッセージを読んだり、FBIに部屋に踏み込まれてさりげなくその証拠を隠滅したり、捕まってもけっして自分をスパイと認めず、祖国に不利になるような証言もしない。

僕は予告篇を観た時点では、てっきりこの映画は敵国のスパイでも一人の人間として扱うか否か、というような問題を扱った作品かと思っていたんですよね。それだけで全篇引っぱるのかと。

だから、ちょっと重そうだな、と感じて当初あまり興味をそそられなかったんだけど、実際に観てみるとルドルフ・アベルの裁判が描かれるのは前半で、後半ドノヴァンは東ドイツに飛んで、ソ連に捕らえられたアメリカ人のパイロットのフランシス・ゲイリー・パワーズ(オースティン・ストウェル)と東ドイツに捕らわれた学生フレデリック・プライヤー(ウィル・ロジャース)をいかに救出するか、という話に変わる。

だからドノヴァンがCIA捜査官のホフマン(スコット・シェパード)らとともに東ドイツに渡ってから終盤までは、アベルは時折挟まれる刑務所の場面を除いてほとんど出てこなくなる。

アメリカ政府はアベルとアメリカの偵察機U-2のパイロットとの交換、というソ連からの非公式の申し出に乗ろうとする。しかし、同じ東側陣営の東ドイツには無実の罪で投獄されたプライヤーがいる。

東ドイツはアベルとプライヤーを人質交換することで、ソ連に対して自らの力を示したい。アメリカが交渉に応じなければ学生は処刑される恐れがある。

機密を知るパイロットと一介の学生の命が天秤にかけられる。

要するに、この映画は人の命の尊厳について描いている。

どんな人間でも容易く見捨てられるべきではない、ということ。

CIAのホフマンは東ドイツでスパイ容疑によって捕まったプライヤーのことを「東ドイツで共産主義について学ぶなんて捕まっても自業自得だ」と事も無げに言うが、でもソ連同様に社会主義国である東ドイツで共産主義を学び論文を書くことになんの問題があるのか。

おかしな話だ。

つまり、東ドイツ当局にとっては別に国民に共産主義について学んでほしくなどないのだ。

大衆は政府の指導者たちの命令に従っていればそれでいい。いろいろ考えて体制の矛盾や弱点に気づかれて批判されては困る。

東ドイツもまた正式名称の「ドイツ民主共和国」などとは名ばかりの(映画評論家の町山智浩さんのご指摘通り、本当に民主主義の国家はわざわざ国名に「民主」とか「民主主義」などと入れたりはしない)言論の自由もない全体主義の国だった。




正式名称といえば、ドノヴァンが何度も「ソヴィエト社会主義共和国連邦」という名前が長過ぎる、と文句を言うのが可笑しいが、この「繰り返し」は劇中に頻出する。

ドノヴァンに「不安じゃないのか?」と尋ねられて、アベルは「それが役に立つか?」と答える。このやりとりはクドいぐらい何度も繰り返される。

アベルは祖国のために死ぬことを怖れていない。

彼は自分を守るために虚偽の証言や誰かに責任を押しつけるような卑怯なことはしなかった(スパイであることを偽っている時点でアメリカには重大な嘘をついているわけだが)。

アメリカに対してスパイ行為を働いた敵ながら、アベルのその揺るぎなさ、祖国への忠誠心にドノヴァンはどこか共感と敬意すらおぼえている。

ドノヴァンのおかげでアメリカでの処刑を免れたアベルはお礼に油絵で恩人ドノヴァンの似顔絵を描き、ドノヴァンは奔走して無事アベルと2人のアメリカ人との交換を成功させる。

実在のドノヴァンとアベルの間にこのような友情めいた心の交流があったのかどうかは知らないが、アベルは多くの人々を敵に回してまで彼の弁護に励むドノヴァンのことをかつて子どもの頃に見た殴られても殴られても立ち上がる「不屈の男(Standing Man)」になぞらえる。

敵のために骨身を削ったドノヴァン、けっして祖国を裏切らなかったアベル。

彼らの姿に、スピルバーグの考える「真のヒーロー像」を見るようでもある。

ちなみに、グリーニッケ橋の人質交換の現場でアベルはドノヴァンに「私を抱きしめるか、ただ黙って車の後部座席に座らせるかでその後の処遇がわかる」というようなことを言っていて、確かKGBの書記官はアベルをハグしなかったんでてっきり僕は彼はその後は不遇な人生を送ったのかと思っていたんだけど、アベルはソ連に帰ったあと本物の妻と娘と再会してスパイ養成の仕事に就いたらしい。

しかし、彼のスパイとしての活動の全容については、いまだに謎のままである。


先ほど述べたようにこの映画は2つのパートに分かれていて、前半は国民や仕事仲間たちからも反発を喰らいながら法廷でアベルを弁護するドノヴァン、そして後半は人質交換でけっして民間人を見捨てずに最後まで粘り強く交渉する彼の姿が描かれる。

 


前半、冷戦時における核攻撃に対する恐怖心によって、アメリカ人たちの敵への憎悪が集団ヒステリーの様相を呈していく。

核攻撃されたら目と耳をふさいで床に伏せましょう、みたいな、被爆国である日本人の僕らからすればお笑い草なアメリカのニュースフィルム(亀が自分の甲羅で「核爆発の光」を防ぐアニメ)を観たことがあるけど、同じく核爆発が起これば水が出なくなるからバスタブに水を張っておく、といった無意味な行為が学校で大真面目に教えられてドノヴァンの息子が家で実践する。

教室で胸に手を当ててアメリカに忠誠を誓う子どもたち。幼い者たちにも植え付けられる愛国心。

これらの描写がのちのちに効いてくる。

敵に攻撃される前にこちらから先にヤラなければ!という強迫観念。

だからこそ、核施設に関するスパイ容疑で捕まったアベルへのアメリカ人たちの憎しみは計り知れない。

そして、そんな敵のスパイを弁護するドノヴァンへの風当たりも強い。

法廷に立つアベルに向かって「処刑しろ!」と叫ぶ者もいる。ドノヴァンの家に銃弾を撃ち込む者まで出てくる。

被害者であるドノヴァンに、彼を守るはずの警官が「俺はノルマンディ上陸で国のために戦った」「アメリカの敵を弁護するなんて正気か?」と詰め寄る。

通勤途中の電車の車内では、ドノヴァンを見つめる人々の視線は冷たく、完全に犯罪者を見る目である(大手事務所の弁護士のドノヴァンがなぜ自家用車を持たずに電車通勤なのかよくわからないのだが)。

この群集心理の恐怖は他人事ではない。

自分は愛国者だから、国を裏切るような行為をする者は許さない、という一見真っ当な主張にも思えるあの警官の罵声は、この映画を観る者に内省を促す。

あなたの考えや言ってることは、本当に正しいですか?と。

映画のラストでは、かつてあれほど蔑みの目でドノヴァンを見ていた電車の中の人々の表情が英雄を見るような柔和なものに変わって、それは一見ハッピーエンドなのだが、僕にはむしろ人々の目がいかにメディアの影響を受けやすく移ろいやすくてあてにならないか、大衆の思い込みや偏見の恐ろしさの方が強く印象に残ったのだった。

ってか、最初にドノヴァンを睨んでたあのババア超ムカつくんだけど!(-_-;)

スピルバーグの映画にはひと頃のウディ・アレン作品と同じく群衆によって追いつめられる者の恐怖がどこかにあって(二人ともユダヤ系で、そのためにスピルバーグには少年時代に凄惨な苛めに遭った苦い経験がある。ちなみにコーエン兄弟もユダヤ系)、この映画では明らかにそれが人々のドノヴァンに対する非難、という形で描かれている。

ここで強調されているのは、ただやみくもに「正義」や「愛国」を主張してヒステリックにわめくことが“正しさ”ではなく、それは守るべき法を守ってこそ得られるものだ、ということだ。

肌の色が何色だろうが、先祖がどこの国の出身だろうが、いかなる宗教や思想を信奉していようが、我々を「アメリカ人」と規定しているのは法律、すなわち“憲法”なんだ、ということ。

憲法がないがしろにされれば、彼らは「アメリカ人」である権利や根拠を失うのだ。

だからドノヴァンはこの映画の中でハッキリ言う。「すべてが憲法に則って行なわれるべきだ」と。

この「憲法」へのこだわりは、スピルバーグの前作『リンカーン』と繋がっている。

そして、ドノヴァンの主張は日本に住む僕たちにも深く関わりのあることだ。

ここでの「アメリカ」は主人公ドノヴァンにとって窓から射す温かい陽光の中で誰に命を狙われることもなくゆっくり眠れる「自由」の象徴として描かれているが、もちろんこれはただ「アメリカ=善、ソ連&東ドイツ=悪」といった単純な図式を意味しているのではない。

アメリカで収監されたアベルは痛めつけられることはなかったが、グアンタナモの収容所で行なわれた捕虜に対する虐待を思いだすまでもなく、これまでアメリカが世界中でやってきた数々の残虐行為を考えれば、この映画が単にアメリカを「理想の国」のように描くことを目的としているわけではないことがわかる。

ドノヴァンと彼の家族が人々から受けた非難や嫌がらせを思い起こせば、平穏だった生活がいつ何時何を理由に急転するかわからない。僕たちの日常は実はとても危ういバランスで成り立っているのではないか。

この映画は、人々が「権利」や「自由」について今一度じっくりと考えを巡らす機会を与えてくれている。

それはアメリカという具体的な国を越えて、ドノヴァンを通して“あるべき国の形”として描かれている。

町の塀や柵を乗り越えたって撃ち殺されたりしない世界。自由に自分の考えを発言できる世界。家族で笑いあえる世界。

国民一人ひとりがけっして国から見捨てられない世界。

だからここでのアメリカを、たとえば日本に置き換えたっていい。

僕たちが真に守るべきものはなんなのか、ということを問うているのだから。


ホフマンの口走った「自業自得」という言葉は現在の日本ではずいぶん不快な言葉になってしまったが、国家が国民に対して「自業自得」などという言葉を平然と使いだすようになったら危ない。

その言葉さえ使えばいくらでも自国の人々を見捨てられるから。

ドノヴァンはU-2パイロットのパワーズさえ戻れば学生などどうでもいいと考えるホフマンに対して、頑なにアベルとはパワーズとプライヤーの2人一緒に交換することを主張する。

ここでも弁護士としての彼の経験がものを言っている。

食い下がるべき時にはとことん食い下がる。それでダメなら私の負けだ、と。


中盤で人質交換のための交渉で東ドイツに渡ったドノヴァンが交渉相手の“フォーゲル”(セバスチャン・コッホ)という人物に会おうとしてなかなか会えないくだりは、まるで不条理劇のようでブキミかつ笑える。いや、笑えない可笑しさというか…。

 


東ドイツの兵士たちがまるでソ連やナチスの兵士のように見える。

 


ソ連大使館で、アベルの家族だと称する人々のわざとらしい猿芝居(立ち去る時の事務的な表情とか)のあとにトム・ハンクスがあの特徴的な戸惑い気味の笑顔のままKGBの書記官に「混乱してしまって…」と呟く場面など、客席から軽い笑いがこぼれていた。

これは脚本のコーエン兄弟のテイストなんだろうけど、演出したスピルバーグも実に巧い。

このあたりを「地味過ぎて退屈」と感じたかたもいらっしゃるようですが、むしろここは中盤の見せ場ともいえる。


ラストで救出されたパワーズに対する帰りのアメリカ軍兵士たちの態度があからさまに冷淡で、人質になってから何年越しかでようやく帰還したのにあんまりだと思った。まるで「なぜ死ななかった」と責めているようで。




当初は学生のプライヤーよりも救出を優先されたパワーズでさえも、その命はけっして国には重きを置かれていなかった。

そもそも、捕まりそうになったら死ね、と言われていたのだから。

アメリカにとって大事なのは人の命よりもあくまでも情報の方だった。

パワーズは味方であるはずの自国の兵士たちの無言の重圧に堪えかねて、ドノヴァンに「ソ連には何も喋っていない」と話しかける(スパイ行為の事実についてはソ連側に自白している)。

ドノヴァンは微笑んで「自分が正しいと思えばそれでいい」と答える。

ここでも、本当に大切なものはなんなのかが描かれている。

アメリカとかソ連とか東ドイツといった「国」が大事なのではない。それを構成している人々、一人ひとりこそが大事なのだ。

そんな当然のことを、台詞や説教ではなく「描写」によって語っている。

これまでスピルバーグの映画には感動の押しつけっぽい場面や音楽の使い方などがまま見られて、それがせっかく重厚に作り上げた作品そのものをやや薄っぺらくしてしまいがちだったんだけど、最近の彼の映画にはどこかイーストウッドの映画を思わせるような、極端に走らない人間描写や「寓意」を感じるんですよね。

それでもスピルバーグ作品からは、人の「善意」や「良心」を信じたい、という素朴で力強い想いが感じられる。

だからこの映画は後味が悪くない。希望を持とう、という気持ちになる。

僕はまだ一度しか観ていませんが、これは繰り返し観れば観るほど味わいが増してくる映画だと思います。


映画の中でも名前が出てくるライプツィヒではやがて民主化を求めるデモが起こり、ベルリンの壁崩壊東西ドイツ統一へと繋がっていく。

ソヴィエトも消滅して冷戦は終わったが、真の平和はまだ訪れていない。

むしろ新たな問題が山積している。

東ベルリンでドノヴァンが目撃した恐ろしい光景と同じことが今も世界中で行なわれている。

それでも諦めずに立ち上がり続けること、それが今を生きる僕たちの務めなのでしょう。



追記:

マーク・ライランスが第88回アカデミー賞助演男優賞を受賞。


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